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死刑判断 心に重く 裁判員3年

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死刑判断 心に重く 裁判員3年
東京新聞2012年5月19日 朝刊
 人の命の与奪に向き合うことさえある裁判員としての経験は、その人自身や社会にどのような影響を与えているのか−。市民が刑事裁判に参加する裁判員制度は二十一日にスタートして三年を迎え、見直しのための検証期間に入る。
    ◇
 「自分たちがこの被告を殺してしまうのか」。遺族のすすり泣きと死刑判決の理由を読み上げる裁判長の声が響く。昨年六月、横浜地裁の法廷。二十代の男子大学生は法壇の裁判員席で、極刑を下すことの重みをかみしめていた。
 被告の男は川崎市のアパートで住人ら三人を刺殺したとして、殺人罪に問われた。七回の公判を経て、判決を決める評議では議論を尽くし、自分なりに納得して答えを出したつもりだ。
 弁護側は判決後、いったん控訴したが、被告自らが取り下げて死刑が確定した。「刑の執行の日まで事件に向き合って反省してほしい」。男性はそう願い、心に区切りをつけたはずだった。
 それなのに今も被告の姿が頭から離れない。半袖シャツからのぞく入れ墨、死刑判決にも表情一つ変えずうつむいたままの顔。裁判員裁判の報道に接するたびに法廷の光景を思い出してしまう。
 「被告に死刑を言い渡したことの罪悪感や加害者意識のようなものを引きずっているのかな」。深いため息とともに口にした。「つらいんです」
    ■
 裁判員裁判の導入から三年。検察は十八人に死刑を求刑し、十四人に死刑が言い渡された。日弁連は「死刑判決は全員一致にするべきだ」との法改正を提言している。死刑の慎重な適用や裁判員の負担を軽くすることが目的だ。
 評議の内容は秘密にされているため、多数決で死刑が決まった例があるのかどうかは明らかではない。仮に全員一致を死刑の条件にしても、必ずしも裁判員の負担が軽くなるとは限らない。
 米国の陪審制度に詳しい上智大の岩田太教授によると、多くの州で死刑は陪審員の全員一致を原則にする。ある強盗殺人事件の裁判で、「被告は更生の可能性がある」として終身刑を訴えた女性陪審員が、死刑支持の陪審員から責められ、最終的に同意したことで、不眠やうつなどの症状に悩まされた例があるという。
 裁判員を経験した人の中には「死刑が求刑されそうな事件は負担が大きく、裁判員裁判の対象から外すべきだ」との声も出る。だが、裁判員経験者ネットワークの運営に携わる牧野茂弁護士は「裁判官任せではなく、私たち市民が関与すれば死刑は人ごとではなくなる。死刑制度の是非についての議論がもっと深まるはずだ」と訴える。
    ■
 長野市の会社経営者ら一家三人が殺害され、死刑が言い渡された事件。昨年十一、十二月に行われた裁判で、裁判員を務めた会社員養田学さん(39)は死刑制度に賛成だった。だが、当時三十五歳だった被告を目の前にし、「自分より若い人の命を奪ってしまっていいのか」と自問自答した。
 「いつか社会に出てくる懲役刑と、命を奪う死刑の差はあまりに大きすぎる。いざ自分が判断を下す側に立つと本当に悩んだ。死刑制度は必要だという考えは最終的には変わらなかったけれども…」と打ち明けた。
<裁判員制度> 事件ごとに、有権者から無作為に選ばれた裁判員6人とプロの裁判官3人の計9人が、刑罰が死刑または無期懲役か、故意に被害者を死亡させた事件について、無罪か有罪かを判断し、有罪の場合は刑罰も決める。裁判員は裁判官と同じ権限で意見を述べ、法廷で被告や証人に直接質問できる。日当は1日上限1万円。2009年5月21日に裁判員法が施行され、同年8月3日に東京地裁で初めて実施された。裁判員法は「施行後3年の経過時に検討を加え、必要があれば所要の措置を講じる」と規定している。
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裁判員制度 成熟へ点検
中日新聞   核心  2012//05/19Sat.
 国民の司法参加を目的に二〇〇九年五月から始まった裁判員制度は、二十一日で丸三年が経過、制度の検証期間に入る。私たちが裁判員として参加したり、被告として法廷に立つ可能性もある裁判を、より良くするためには何が必要か。見直し議論の主なポイントを整理した。(東京社会部・小川慎一、横井武昭)
▼裁判員制度の見直し議論の主なポイント
 *死刑の判断を全員一致にするべきか
 *被告が否認する場合、裁判員裁判を選択できるようにするべきか
 *覚醒剤密輸や性犯罪、少年事件を対象から外すべきか
 *裁判員の守秘義務の緩和
 *長期間の審理への対応
 *検察側による証拠の全面的な開示
 *公判前に争点を整理する手続きの期間の短縮
▼対象拡大 痴漢事件も審理を
 裁判員裁判で審理されるのは「刑罰が死刑か無期懲役」「故意に人を死なせた」とされる重大事件に限定している。
 日弁連は、被告が起訴内容を否認して、裁判員裁判を希望するケースに広げるよう提言する方針だ。例えば痴漢事件。無期懲役になるほどの重大性はないが、冤罪が問題となっており、市民の目で審理して欲しいとの理由だ。
 裁判員制度導入に携わった国学院大法科大学院の四宮啓教授(司法制度)は「無罪を主張する人を刑罰の対象にするかどうかは重大問題。だからこそ『主権者である国民が参加すべきだ』という発想が必要」と話す。
 ただ、検察は裁判員の負担が増すとして、対象を広げることには慎重姿勢。覚醒剤密輸事件についても、「市民にとって身近ではなく、判断してもらうのに適さない」として、対象から外すよう求める検察幹部は多い。
 覚醒剤密輸事件は物的証拠に乏しく、立証が難しい典型的な事件。実際、裁判員裁判で過去十七件あった無罪判決のうち七件を占める。
 しかし、元刑事裁判官で駿河台大法科大学院の青木孝之教授は「無罪判決が出るから外してと言っているようなもの。年間一千万人以上が海外に行く時代で、『知人から預かっただけ』と被告が弁解するような密輸事件は、裁判員の判断に委ねるのにむしろ適している」とみる。
▼審理期間 長期ほど辞退者
 裁判員の在任期間でこれまでの最長は百日間。首都圏連続不審死事件で殺人罪などに問われ、さいたま地裁で死刑判決を受けた木嶋佳苗被告(37)の裁判だった。途中で辞退者が出るのではという懸念があった、結局一人も辞めなかった。
 選任手続きでは、呼び出しを受けた候補者の七割以上の事前辞退が認められた。辞退率は平均四割で長期審理への参加を拒む傾向が明確に表れた。
 裁判員の負担軽減のためには「区分整理」という方法がある。被告が複数の事件で、起訴された場合、事件ごとに分けて裁判員を選んで審理し、最後の事件の裁判員がどんな刑罰にするかを判断する。
 区分審理には慎重な意見が目立つ。日弁連裁判員本部副本部長の前田裕司弁護士は「裁判員と、すべても事件を審理する裁判官とでは情報の格差が出る。一括して判断すべきだ」。青木教授は「裁判は死刑になるかもしれない被告のために開かれる。裁判員に負担を受け入れてもらうしかない」と話す。長期審理の負担をどう減らすか。議論が求められている。
▼守秘義務 緩和の必要性 指摘
 裁判員には評議の中身を他言してはいけない義務がある。違反すると、六ヶ月以下の懲役か五十万円以下の罰金が科せられる場合も。だが、何を話していけないか、という明確な基準はない。経験者は「裁判で抱えてしまった悩みを誰にも打ち明けられない」と話すなど、精神的負担にもつながっている。
 四宮教授は「主催者としての権限行使なのだから、経験を社会に伝えてよいのが原則のはずだ」と強調。その上で守秘義務の対象を、事件関係者のプライバシーや評議で誰が何を言ったかなどに絞るべきだと主張する。
 評議で裁判官の誘導がなかったかなどの検証は必要で、東京経済大の大出良知教授(刑事訴訟法)は、守秘義務を緩和した上で「第三者機関が検証できるようにすべきだ」と述べる。
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男性2人を殺害「電動のこぎり切断事件」池田容之被告、弁護人控訴(東京高裁)を取下げ 死刑が確定 2011-06-17 | 被害者参加/裁判員裁判/市民参加 
 裁判員裁判初の死刑確定=被告が控訴取り下げ−2人殺害切断・東京高裁
 マージャン店経営者ら男性2人を殺害し遺体を切断、遺棄したなどとして、強盗殺人などの罪に問われ、一審横浜地裁の裁判員裁判で死刑とされた無職池田容之被告(33)が17日までに、弁護人による東京高裁への控訴を取り下げた。死刑が確定した。裁判員裁判による死刑判決の確定は初めて。取り下げは16日付。
 横浜地裁は昨年11月、被害者の1人に対し生きたまま首を切断した殺害方法を、「およそ想像できる殺害方法のうちでも最も残虐だ」と非難。「酌むべき事情を最大限考慮しても、極刑を回避する事情は見いだせなかった」と述べ、裁判員裁判で初の死刑判決を言い渡した。
 判決言い渡し後、朝山芳史裁判長は「控訴することを勧めます」と異例の付言をしていた。裁判員経験者も判決後の記者会見で、「控訴してください」と被告に呼び掛けていた。(時事通信2011/06/17-16:55)
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〈来栖の独白2011/06/17〉
 「控訴してください」などと、実に情けない愚かな一審裁判官、裁判員だ。被告本人は上訴しないのでは、との危惧が私にあった。裁判所も裁判官(員)も独立した存在のはずだ。上の裁判所を当てにして判決を下すなど、言語道断。
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裁判員裁判初の死刑判決「電動のこぎり切断事件」 池田容之被告の弁護団、東京高裁に控訴2010-11-30 | 被害者参加・裁判員裁判 / 検察審査会 
〈来栖の独白2010-11-30
 報道によれば、強盗殺人などの罪に問われ、裁判員裁判初の死刑を横浜地裁で言い渡された無職池田容之被告(32)の弁護団が、判決を不服として東京高裁に控訴した、ということである。控訴は29日付。池田被告自身は22日に弁護団と接見した際、「控訴は(遺族を)傷つけることにつながる恐れがある」として、控訴しない意向を示していた。
 被告人は弁護団の控訴を取り下げないで戴きたい。1審で判決を下した裁判長が上訴を勧めるなど、言語道断。それほどに脆弱な、心もとない判決だった。自分の下す判断に確信を持たずして、人の命を奪う。呆れた話だ。三審制(控訴審がある)とはいえ、裁判官の独立も判決の重みも、皆目、分かっておられない。言い訳と控訴審への甘えばかりが窺われる。こんな杜撰な「いのち」の扱い方(殺し方)をしておいて「良い経験だった」と感想を述べる裁判員。
 人の生死(命)を決めるに、多数決による、というのも無茶な話だ。
 目を転じてみる。死刑執行に手を下す刑務官は、この人殺しという職務を上から命令され、遂行する。三審制によって(たてまえは)厳正に定められた(はずの)刑を、法務大臣が執行を命令し、行政が遂行する。執行する刑務官の胸は、いかばかりだろう。死刑とは何か、執行に携わる人の涙も知らず、いい加減な、子どもみたいな気持ちで判決を出してもらっては困る。
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刑事司法(理性・法・人が人として評価される場)に逆行する裁判員裁判=のこぎり切断事件に死刑判決2010-11-17 | 被害者参加/裁判員裁判/市民参加 
裁判員裁判で初の死刑判決/2人殺害.生きたまま電動のこぎりで切断/横浜地裁
裁判員裁判で2例目の死刑求刑 2人殺害/生きたまま電動のこぎりで切断/横浜地裁 
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プロの裁判官のみに裁かれたかった=審理不十分な裁判員裁判 2010-04-13 | 被害者参加/裁判員裁判/市民参加 
 裁判員裁判の被告「審理尽くされたか疑問」 記者に手紙
 佐賀県唐津市の養鶏場で2009年7月に起きた殺人事件で、強盗殺人罪に問われ、佐賀地裁の裁判員裁判で求刑通り無期懲役の判決を受けた住所不定、元養鶏場従業員の小野毅被告(45)=福岡高裁に控訴=が、面会や手紙で朝日新聞の取材に応じた。裁判員が公判後の会見で「評議時間が短かった」と発言したことに、「審理を尽くさず、審理時間の短縮こそが目的なら残念」との考えを示した。裁判員と被告という違う立場の両者から、審理のあり方への疑問が出た格好となった。
 一審では殺人は認め、罪名の「強盗殺人」ではなく、「殺人」と「窃盗」と主張したものの、判決では退けられた。だが、裁判を終えた小野被告には、「審理は尽くされたのか」との疑問がぬぐえない。複数の裁判員から公判後の会見で、「評議の時間がもう少し長かったら良かった」「評議の間、考える時間が短いと感じた」などと発言があったことに、「審理が不十分で疑問点が未解決なのに、審理時間の短縮こそが目的であったのなら、残念と言わざるを得ない」と手紙につづった。
 公判では、被告側が争った罪名について、裁判員から直接の質問があったのは1回だけ。会見で裁判員が、「証言を聞いてすぐの質問では頭が回らなかった」「休憩を挟めば、質問できたかもしれない」と発言したことに、小野被告は「納得がいく審理ができないと感じたのなら、途中でも裁判員を辞退すべきで、そのために補充裁判員がいるのではないか」と疑問を示した。
 「裁判員は国民の義務との意見があるみたいだが、人が人を裁く責任も生じている。時間的、精神的問題で不十分と感じるなら、判決を下すことは必ずしも義務ではない。責任を放棄しては義務を果たしたことにはならない」とした。
 小野被告は、審理日程の短縮を目的に、裁判員裁判の導入を機に始まった、公判前に争点を絞るやり方にも不満を持ったという。「(養鶏場であった別の盗難事件について)異常な状態が事件の背景にあったことなど被害者が不利になる事柄まで、公判前整理手続きの名の下に除外されたという見方もできる。今までの裁判ではあり得なかったことではないか」との感想を話した。また、「プロの資質を備えた裁判官のみに裁かれたかったという思いはあります」とも語った。
 一方、控訴した理由には、そうした裁判員制度への不満はなく、遺族への反省の気持ちがあることを前提に、あくまで「(強盗殺人は成立しないという)主張が認められなかったから」としている。 asahi.com2010年4月12日10時39分(小川直樹)
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〈来栖の独白 2010/4/10 〉
 記事を読み進む私に、涙が滲む。

>遺族への反省の気持ちがあることを前提に
 ----小野毅被告は先ずご自分を客観的に表出し、その上で意見を言っておられる。意見は、正当である。彼の自己客観と意見の正当性は、賑やかな生活(勾留生活)からは生まれない。それ相応の内省を経て培われたものではないか、そんな気がしてならない。裁判員のほうが軽々に映るほどだ。
>控訴した理由には、・・・あくまで「(強盗殺人は成立しないという)主張が認められなかったから」としている
 ----自分に有利不利を問わず事件の真実を認定してほしい、という切なる願いだ。
 愚弟勝田清孝も控訴趣意書の末尾で次のように嘆願している。大罪を犯した自分であるという自覚の故に社会への最大限の遠慮の中から、しかし、懇願している。
《 やはり事実は事実として誤りを正し、公正な裁きは事実のみを以って臨むべきだと気づいたのです。真実のみしか語ることを許されない私には、事実に反した内容の調書のままで今後の裁判が進められるのだと思うだけで、とても耐えられなかったのです。それで「実は、こういう訳で迎合したのです」と、初公判までに検事に具申したとおりのことを法廷で発言するつもりだったところが、満廷の異様な雰囲気にすっかり呑まれてしまい、自分が何を言っているのかまったく話の辻褄が判らなくなったばかりか、裁判長に発言を制されるといった自ら墓穴を掘る格好になってしまったのです。
 兵庫労金や松坂屋事件のように、自分にとって真相が極めて不利であっても真実は真実、意識して引き金を引いたものであれば「引いたのです」と、ありのまま正直に申し上げてきた私です。
 だが一審では、「撃鉄を起こし引き金に人差し指を掛けたままの状態で右拳銃でクッションを払い除ければ、指の僅かの力が引き金に作用して銃弾が発射され、同人が死亡するに至るかも知れないことを認識しながら・・・」と、「認識していた」という断を下されていますが、わずかな時間の推移の中での一連動作で、そのような意識を抱くことは到底不可能なことだったのです。
 私の「クッションを払い除けようとして、あっと思った時は、もう遅かったのです。『ボーン』という大きな音と共に、弾はすでに出てしまっていたのです」とお話したことが紛れもない事実なのです。
 クッションを払い除ける際に殺意があって引き金を引いたものであれば、兵庫労金や松坂屋事件のように私は素直に認めます。絶対に迎合するな、と検事に言われていながら迎合したのですから、その責任はやはり私にありましたので、とにかく迎合した経緯を検事に具申してから初公判に出廷した訳なのです。
 本当に罪深いことをした許されない私ですが、逮捕された直後には良心の呵責に苦しみはじめ、永年私の中にわだかまった悪という鱗を一つずつ自分の手で取り除きながら、贖罪が責務と自覚して一切を告白したのです。よって、
一、確定裁判前の中村博子さんをはじめ他の女性の殺めはもとより、兵庫労金及び松坂屋事件はすべて問罪されて告白したものではなく、
二、確定裁判後の養老事件(神山事件)も前述のとおり検事に迎合したのであって、殺意はなく、
 はばかりながら以上の二点は、法の適用の誤り及び事実誤認でありますので、右控訴の理由を提出致します。 》

 いま一つ、私の心に強く響いてきたものは、以下の小野被告の感想である。
>「プロの資質を備えた裁判官のみに裁かれたかったという思いはあります」
 ---- 被害者・裁判員参加裁判=何ら資格を有しない、クジに中っただけの人から裁かれたくはない
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被害者・裁判員参加裁判=何ら資格を有しない、クジに中っただけの人から裁かれたくはない 2009-08-13 | 被害者参加/裁判員裁判/市民参加 

                         

  裁判員裁判について考える時、ほとんどの人は「もし私が裁判員に選ばれたら」との想定の上に考えるだろう。それが普通一般の姿である。殆どの人は重大事件の被告人になど、ならないものだ。だから、これから記述する事柄は、来栖固有の戯言として聞き流して戴きたい。「裁判員に選ばれたら」ではなく、「裁判員に裁かれるとしたら」という想定である。
 先週帰省し、母を老人ホームから自宅(私には実家)へ外出させた。寝たきりとか車椅子の生活とかでなく、自分で歩ける母なので、私は帰省のたびに母を自宅へ帰らせ、一緒に食事をする。母の、それが最大の楽しみである。
 お茶を淹れ、お寿司など母の好きなメニューを並べて、テレビのスウィッチを入れた。折りしも裁判員裁判の報道をしていた。
 候補に挙げられたが最終的には裁判員に選ばれなかった青年のインタビュー。カジュアルな服装、普通の物言いの若者が「選ばれなくて、ホッとしました」などと言っている。母は静かに聞いていた。
 「被害者」ほどではないが、「裁判員」という言葉に心波立つ私である。
 「ね、お母さん。こんな兄ちゃん(インタビューに応じる青年)に裁かれるなんて、清孝が存命だったら、収まらないだろうね。『この兄ちゃん、何の資格があるんや。何の資格もない一般の市民、国民が、俺を裁く。こんな兄ちゃんに裁かれて死ぬ(死刑)なんて、俺、死んでも死にきれんで』って、清孝は怒りまくると思うよ。どれほどの屈辱と感じるか」。
 母は、清孝という名前を耳にしただけで、早くも眼が潤んでいる。私は、続けた。
「郵政民営化と騒がれたときも、私は嫌でならなかった。国(裁判所)が下した宣告(判決)が、国の機関(郵政省)によって特別送達される。なのに、民営化となれば、民間会社の社員が届ける。国の権威が死を宣告し、国の機関が書面を特別送達するから、それなりに屈服する。なのに、こんな自由な(服装の)何の資格もないお兄ちゃんが宣告し、民間会社が書面を届けてくるなんて、『情けない』って清孝は嘆くだろうね」。
 勝田事件は、確かに清孝に全面的に非がある。しかし、生い立ちに始まって事件に至るまでの人間関係は複雑である。一人の人間が、人との関わりの中で破綻し歪んでいった。誤ってしまった。疎外感、人間不信に悩まされた。そうして、終(つい)に、道を踏み外し、人として生きることができなくなった。
 こんな闇に潜んだ魂は、そこらの兄ちゃんから「死刑」だなんて言い渡されたくはないのである。裁判が終わったときの感想として(記者会見で)、「いい経験をさせてもらった」「充実していました」などと、何ら迷いのない態の裁判員。何も気付いていない。人間の何者であるか、何も分かっていない。嘆きの何であるか、何も分かっていない。こんな人たちに、断じて裁かれたくない。
 頷きながら聞いていた母が、言った。
「あんたのお陰で、私は拘置所へ行った。勝田に、あの子に会った。ガラスの向こうで、きれいな顔をしていた。人間の顔だった」
「お母さんが養子にしてくれたからよ」
「私は、あんたを尊敬していた。信じていたんだ。わが子の、あんたのすることに間違いはない、その気持は、今も変わらない。それでなくて、どうして、見たことも会ったこともない人間をわが子に迎えられるだろう。全部、ぜ〜んぶ、あんたを信じて、あんたが愛おしかったから、勝田をだいじにしたかったんだ」
 過去ことを少しく書いておきたい。
 実は、確定(最高裁判決)が近づいた頃、清孝が「言えないことがある。どうしても、言えないことがあるんや」と言った。養子縁組を考えていた時期であったので、「言えないこと」とは何だろうと様々に私は思いめぐらし、勝田が京都の人であったので、もしかしたら部落の出身なのだろうか、などと詮索した。それで、残酷だと承知の上で京都のシスターに勝田の出自を調べてもらった。彼女は、部落の出身であった。「勝田さん、部落やないよ」、答えはすぐに返ってきた。
 縁組の後だいぶ時間が経って、母に「もし、清孝が部落の出身だったら、お母さんは、養子に迎えたかな?」と聞いてみた。「迎えた。部落の人間でも、迎えた。もう、部落とか何とか、そんなことを言うのが嫌になっていた。飽きたんだ。そういう世の中に」。即答であった。
 私は少なからず驚いた。それというのも、長い教師生活の中で「民主教育」を標榜する母の正体が、極めて強い差別意識に彩られていたことを私は知っていたからである。部落・朝鮮人・女性という3つの差別を母は濃く帯びて、しかし表面は民主教育を率先垂範する人間であった。この母の生きざまが、幼い頃から私の社会観、人間観を形作った。人の心と言葉と行いがそれぞれ違うということ、センセイと呼ばれる人の偽善性・・・。そのように観る私を、母は息苦しく感じていただろう。
 いま母は認知症、介護認定1である。が、新聞を毎日読む。記憶には、ムラがある。びっくりするような些細なことを覚えているかと思えば、とても印象的なことでさえ忘れていたりする。
 この前のゴールデンウィークであるが、オランダから張勇夫妻と娘3人そして日本在の張平さん(張勇の妹)がホームへ母に会いにやってきた。母は日中友好とかいって、数え切れないくらい中国を訪れ、中国や台湾に知人友人が多かった。張勇さんは中国人(黒龍江省出身)で、母が保証人となって日本の大学へ留学した。母のことを「日本のお母さん」と呼ぶ中国青年の一人であった。やがてオランダの女性と結婚、居もオランダへ移した。
 その張勇さんが家族で訪ねてくれたのに、母はそのことを忘れていた。記念の写真を見せても、「忘れた」と言う。
 そのような母である。たったひとりの母。清孝を受け入れてくれ、会いに拘置所へ行ってくれた。清孝という孤独な魂を、あたためてくれた。あの日を思うと、私は涙が滲む。
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裁判員制度のウソ、ムリ、拙速」大久保太郎(元東京高裁部統括判事)
 さだまさし氏は「信号も守れない人に裁かれたくない」と題する文章(高山俊吉著『裁判員制度はいらない』中の特別寄稿)の中で、「もうひとついいたいこと。たとえ兇悪犯人であっても、人としての尊厳は守られるべきです。素人判断を押しつけ、被告人を不安の淵に追い込んでもよいという理屈はないはずです」と言っている。これは千金の値のある言葉だ。本来ならば司法の指導的立場にある人が言わなければならない言葉であろう。それが民間の識者の口から出ざるを得ないところに、この制度の問題性が端的に現れていよう。
 最高裁、法務省、日弁連は、もしどうしても裁判員法を施行するというのならば、以上に指摘した問題点について、国民にきちんと説明すべきであり、説明できないならば施行を断念すべきである。これが国民に対する誠実な態度であろう。今や司法は、その誠実性が問われているのだ。
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死刑とは何か〜刑場の周縁から 来栖宥子(2009/03/12Thu.)


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