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小沢一郎「妻からの「離縁状」全文 週刊文春6月21日号

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小沢一郎「妻からの「離縁状」全文公開 週刊文春6月21日号
「愛人」「隠し子」も綴られた便箋11枚の衝撃 (ジャーナリスト松田賢弥+本誌取材班)

        
 政局が俄かに緊迫してきた---。野田首相が政治生命を懸ける消費増税法案の採決が迫り、小沢グループの動向が最大の焦点となっている。そんな中、小誌は政治姿勢に決定的な疑問符を突きつける文書を入手した。和子夫人が支援者に宛てた悲痛な手紙を公開する!

 まだ強い余震がある中、お変わりございませんか。
 この度の大震災ではさぞご苦労があったと思います。ご家族・ご親類はご無事でいらっしゃったでしょうか。何のお手伝いもできず申し訳ありません。被害の余りの大きさに胸がつぶれる思いです。長年お世話になった方々のご不幸を知り、何もできない自分を情けなく思っています。
 このような未曾有の大災害にあって本来、政治家が真っ先に立ち上がらなければならない筈ですが、実は小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました。岩手で長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました。お礼の手紙にこのようなことを申し上げるのは大変申し訳なくショックを受けられると思いますが、いずれお話しなければと思っていましたのでこの手紙を差し上げました。お聞き苦しいと思いますが今迄のことを申し上げます。
 八年前小沢の隠し子の存在が明らかになりました。●●●●●といい、もう二十才をすぎました。三年つきあった女性との間の子で、その人が別の人と結婚するから引きとれといわれたそうです。それで私との結婚前からつき合っていた●●●●という女性に一生毎月金銭を払う約束で養子にさせたということです。小沢が言うには、この●●●●という人と結婚するつもりだったが水商売の女は選挙に向かないと反対され、誰でもいいから金のある女と結婚することにしたところが、たまたま田中角栄先生が紹介したから私と結婚したというのです。そして「どうせ、お前も地位が欲しかっただけだろう」と言い、謝るどころか「お前に選挙を手つだってもらった覚えはない。何もしていないのにうぬぼれるな」と言われました。あげく「あいつ(●●●●)とは別れられないが、お前となら別れられるからいつでも離婚してやる」とまで言われました。
 その言葉で、三十年間皆様に支えられ頑張ってきたという自負心が粉々になり、一時は自殺まで考えました。息子達に支えられ何とか現在やってきましたが、今でも、悔しさと空しさに心が乱れることがあります。
 お世話になった方々に申し訳なく、又、説明もできず、もしお会いしてやさしい言葉をかけていたゞいたら、自分が抑えられず涙が止まらなくなるのがわかり岩手に帰れなくなりました。選挙の時には、皆さんがご苦労されているのに、どうしても「小沢をお願いします」とは言えず、申し訳なさに歯をくいしばって耐えていました。
 隠し子がわかって以来、別棟を建てて別居しています。SPさんや秘書の手前、料理や洗濯は変わらずやっていました。用事の時は、小沢は私に直接言わず、秘書が出入りしていました。
 それでも離婚しなかったのは、小沢が政治家としていざという時には、郷里と日本の為に役立つかもしれないのに、私が水をさすようなことをしていいのかという思いがあり、私自身が我慢すればと、ずっと耐えてきました。
「なんですぐ岩手に帰らないのか!」
 ところが三月十一日、大震災の後、小沢の行動を見て岩手、国の為になるどころか害になることがはっきりわかりました。
 三月十一日、あの大震災の中で、お世話になった方々の無事もわからず、岩手にいたら何かできることがあったのではと何一つできない自分が情けなく仕方がありませんでした。
 そんな中、三月十六日の朝、北上出身の第一秘書の川辺が私の所へ来て、「内々の放射能の情報を得たので、先生の命令で秘書たちを逃がしました。私の家族も既に大阪に逃がしました」と胸をはって言うのです。
 あげく、「先生も逃げますので、奥さんも息子さん達もどこか逃げる所を考えてください」と言うのです。
 福島ですら原発周辺のみの避難勧告しかでていないのに、政治家が東京から真っ先に逃げるというのです。私は仰天して「国会議員が真っ先に逃げてどうするの!なんですぐ岩手に帰らないのか!内々の情報があるならなぜ国民に知らせないか」と聞きました。
 川辺が言うには、岩手に行かないのは知事から来るなと言われてからで、国民に知らせないのは大混乱を起こすからだというのです。
 国民の生命を守る筈の国会議員が国民を見捨てて放射能怖さに逃げるというのです。何十年もお世話になっている地元を見捨てて逃げるというのです。
 私は激怒して「私は逃げません。政治家が真っ先に逃げ出すとは何事ですか」と怒鳴りました。川辺はあわてて男達は逃げませんと言いつくろい、小沢に報告に行きました。
 小沢は「じゃあしょうがない。食糧の備蓄はあるから、塩を買い占めるように」と言って書生に買いに行かせました。その後は家に鍵をかけて閉じこもり全く外に出なくなりました。復興法案の審議にも出ていません。女性秘書達と川辺の家族は一ヶ月余り戻ってきませんでした。二日遅れで届いた岩手日日には三月十五日国会議員六人が県庁に行き、知事と会談したとありました。
 彼らに一緒に岩手に行こうと誘われても党員資格停止処分を理由に断っていたこともわかりました。知事に止められたのではなく放射能がこわくて行かなかったのです。
 三月二十一日「東京の水道は汚染されているので料理は買った水でやって下さい」と書生が言いに来ました。しかしそのような情報は一切発表されていませんでしたので、私が「他の人と同じ様に水道水を使います」と言いましたら、それなら先生のご飯は僕達で作りますと断ってきました。
 それ以来、書生達が料理をし、洗濯まで買った水でやろうとしていました。東京都が乳幼児にはなるべく水道水を避けるようにと指示したのはその二日後です。すぐにそれは解除になりました。
 三月二十五日になってついに小沢は耐えられなくなったようで旅行カバンを持ってどこかに逃げだしました。去年、京都の土地を探していたようですのでそこに逃げたのかもしれません。
 その直後、テレビやマスコミが小沢はどこに行った?こんな時に何をしているかと騒ぎだし、自宅前にテレビカメラが三、四台置かれ、二十人位のマスコミが押しかけました。それで、あわてて避難先から三月二十八日に岩手県庁に行ったのです。ご存知のように被災地には行ってません。四月に入ってからも家に閉じこもり連日、夜岩手議員を集めて酒を飲みながら菅内閣打倒計画をたて始めました。菅さんが放射能の情報を隠していると思ったらしく相談を始めました。自衛隊幹部や文科省の役人に情報収集をしたようですが、発表以外の事実は得られず、それなら菅内閣を倒し、誰でもいいから首相にすえて情報を入手しようと考えたようです。この結果、不信任決議がだされ政治が停滞したことはご存知と思います。
 この大震災の中にあって何ら復興の手助けもせず、放射能の情報だけが欲しいというのです。
 本当に情けなく強い憤りを感じておりました。実は小沢は、数年前から京都から出馬したいと言い出しており後援会にまで相談していました。
 もう岩手のことは頭になかったのでしょう。
放射能をおそれて魚や野菜を捨てた
 こんな人間を後援会の皆さんにお願いしていたのかと思うと申し訳なく恥づかしく思っています。
 更に五月には長野の別荘地に土地を買い設計図を書いています。
 多くの方々が大切なご家族を失い何もかも流され仮設住宅すら充分でなく不自由な避難生活を送られている時に、何ら痛痒を感じず、自分の為の避難場所の設計をしています。●●●という建設会社の話ではオフィス0という会社名義で土地を買い、秘書の仲里が担当しているということでした。
 天皇・皇后両陛下が岩手に入られた日には、千葉に風評被害の視察と称し釣りに出かけました。
 千葉の漁協で風評がひどいと陳情を受けると「放射能はどんどんひどくなる」と発言し、釣りを中止し、漁協からもらった魚も捨てさせたそうです。風評で苦しむ産地から届いた野菜も放射能をおそれて鳥の餌にする他は捨てたそうです。
 かつてない国難の中で放射能が怖いと逃げたあげく、お世話になった方々のご不幸を悼む気も、郷土の復興を手助けする気もなく、自分の保身の為に国政を動かそうとするこんな男を国政に送る手伝いをしてきたことを深く恥じています。
 長い間お世話になった皆さんにご恩返しができないかと考えています。せめて離婚の慰謝料を受け取ったら岩手に義捐金として送るつもりです。今岩手で頑張っている方々がすばらしい岩手を作ってくれることを信じています。
 ご一家には、本当に長い間お励ましお支えを頂きましたこと心から感謝しております。ありがとうございました。
 七月には別のところに住所を移しました。
 ご一家のご多幸を心より祈り上げております。
     小澤和子
  (注・受取人が特定される記述は一部省略。伏せ字は原文では実名である)

 和子夫人の手紙を支援者はどう読んだか 松田賢弥 
 「この手紙が表に出たら、小沢一郎はもう終わりだ」
 この五月、私は「和子の手紙」を求めて、数週間、小沢の地元・水沢(現岩手県奥州市)を歩き続けた。
 年初から永田町では、「小沢一郎がすでに離婚したらしい」とか、「奥さんが離婚したと手紙にしたため、後援会幹部らに送ったらしい」などと囁かれていた。だがいずれも真偽不明の断片的な情報だった。私も一月以降、手紙を求めて取材を始めたが、多くの支援者や後援会関係者は、「そんなものはもらっていない」と頑なに否定するばかりで、真相はわからなかった。
 そもそも、二人の結婚は、小沢の師・田中角栄が仲介したものだ。角栄の後援会「越山会」の大幹部だった新潟の建設会社「福田組」の社長・福田正(故人)の長女・和子を角栄が秘蔵っ子に娶らせた、いわば政略結婚である。しかも二人の間には三十代の三人の息子がいて、積み重ねた四十年近くの歳月がある。七十歳の小沢と六十七歳の和子が今さら離婚するなど、にわかには信じ難い話だった。
 一方で、今年三月に新たな事実も明らかになった。私は本誌三月二十九日号で、「小沢一郎『完全別居』次男と暮らす和子夫人を直撃!」と題した記事を寄稿した。和子は小沢邸から徒歩三分ほどの秘書寮に次男と暮らし、自分宛の宅配便や手紙も、すべて秘書寮に届くように手配していた。その光景は、夫婦間に大きな異変が起きた事を物語っていた。
 そしてこの五月、「この人なら手紙を受け取っているのではないか」と思われる長年の支援者らを、再び私は訪ね始めたのだった。
 ある三十年来の支援者の家を訪ねたときのことだ。
 玄関口で訝しげな顔をする支援者に、私が三月に小沢夫妻の別居を報じたこと、四月末には本誌(五月三日・十日号)で「小沢一郎に隠し子がいた!」と題し、今や二十一歳になる小沢の隠し子について報じたことなどを告げると、こう語りだした。
 「あぁ、あの記事は読んだ。間違ったごどは書いてないよな」
 そう言い、私を居間に招き入れた。率直に「和子さんからの手紙は来てないですか」と尋ねる私に、その人はこちらの目を見据えながら、間を置いてポツリポツリと語るのだった。
和子に泣きながら電話した
 「来たよ。去年の十一月だ。長い手紙でなぁ。小沢が被災地に行かないごとに和子さんが怒ったとか、小沢が放射能を怖れて『東京から逃げろ』『水飲むな』と言ったことが情けないと思った、ど書いであっだ」
 さらに、こう続けた。
 「私は手紙の内容に仰天して、和子さんに泣きながら電話したんだ。『一郎でない。和子さんがいるがらごそ、(小沢の支援を)やってきたんだ』と伝えだんだ。和子さんは『息子たちは私についているから。息子たちが、別居したら、と言ってくれたの』と話していだ。
 和子さんは昔から演説がヘタでなぁ。いつもまわりから怒鳴られでいだ。それでも一生懸命だった。演説の帰りに、『息子たちが楽しみにしているから』と三人分の線香花火を買っていった姿が忘れられねぇ・・・」
 やはり手紙は実在したのだ。私は驚愕し、何度も「手紙を見せてほしい」と頼んだ。だがその人は、現物を見せる事を頑なに拒んだ。その理由として、冒頭の台詞を語ったのだった。
 別の支援者を夜遅くに訪ねると、その人は門扉の前で言葉少なにこう語った。
 「和子さんからの手紙は確かに来ました。小沢が被災地へ行かないことへの不満の他に、『離婚』と書いてあった。手紙を読んで、和子さんと電話で話をしました。『水沢に来たら』声をかけたけど、『ありがとう』としか言わなかった。一郎が和子さんを、これほど苦しめていたとはな・・・。私はもう、一郎からは離れました」
 私はさらに別の支援者を何度も訪ねた。何度目の訪問だったか、早朝に訪ねると、その支援者は意を決したのか淡々と語りだした。
 「和子さんの手紙は去年の十一月の初め頃に来た。『離婚しました』とあった。原因は、あなたが隠し子の記事で書かれていた通り、小沢の女性問題だ。小沢がそこまで和子さんをないがしろにしたとあっては、もう許せない。小沢は次の選挙に出られない。もし出たとしても落選だろう」
 その後も取材を重ね、和子の手紙は去年の十一月頃、十名近くの支援者に送られていたことがわかった。ただ、彼らは取材に応じてくれたとはいえ、手紙の提供は拒み続けた。
 協力者を守るために詳細は伏せるが、私は手を尽くして手紙のコピーをようやく二通入手することができた。そのうちの一通が全文公開したものだ。もう一通も筆跡は同じで、冒頭と末尾に、その支援者や家族を気遣う文言などが書かれている以外は、内容もほぼ同一といっていい。念のため元秘書らに筆跡を確認してもらったが、間違いなく和子のものである。
 いうまでもなく、これは「小澤和子」が支援者に送った私信である。和子には手紙で再三取材を申し入れたが未だ果たせていない。私信を公開することに逡巡がなかったわけではない。
 だがこれは単なる私信ではない。大げさに言えば、後に平成の政治を振り返る上でも、極めて重要な意味を持つ一級の資料である。
 私が本格的に小沢を取材し始めたのは、平成元年。この年の八月に小沢は弱冠四十七歳で自民党幹事長となった。以降の平成政治史において、時に政権与党の影の支配者、時に大野党のリーダーとして、今日に至るまで政局の中心に座り続けてきた。それは消費増税をめぐる目下の政局で野田政権を揺さぶり続けていることでも明らかだろう。
 その小沢一郎が、未曾有の大震災に際していかなる行動を取ったのか。その実像を、最も近くにいた人物が書き記した、極めて公共性の高い文書だと考え、公開に踏み切った。
 また、これだけ多くの人に手紙を出し、隠し子の実名まで記した十一枚の便箋を、何通も書き上げた和子の心情を思った。小沢の真の姿を支援者のみんなに広く知って欲しい。そうした和子の思いが行間から滲み出ているように感じられたことも、公開を後押しした。
隠し子を養子にした愛人
 いくつか、手紙の文面だけではわかりにくい箇所を補足したい。一つ目は「隠し子」についてである。
 〈八年前小沢の隠し子の存在が明らかになりました。●●●●●といい、もう二十才をすぎました〉とある。
 これがまさに私が「健太君」という仮名で四月末に報じた男の子のことだ。
 実はもう一通の手紙には、〈九年前〉とあった。これが書かれたのが二〇一一年十一月だとすれば、二〇〇二年から〇三年にかけてのどこかの時点で、和子は隠し子の存在を知ったことになる。
 奇しくも私は、前述した別居報道(三月二十九日号)でこう書いていた。
 「私には、和子が自身の名義で小沢邸敷地内に別棟を建てた〇二年頃を境に、小沢と和子が後戻りのできないほど、冷え切った関係になったように見える。和子が水沢に姿を一切見せなくなるのもこの頃からだ」
 東京地裁は昨年九月、小沢の元秘書三人に政治資金規正法違反で有罪判決を下した。その公判で、安田信託銀行(現・みずほ信託銀行)の元女性嘱託職員が検察側証人として出廷したことがあった。その証言によれば〇二年三月、和子から電話でこう言われたという。
 「現金を払い戻しするから、(深沢の)自宅に来て。私と息子の名義の預金を解約し、六千万円を払い戻してもらいたい」
 この時、用途について別棟の建設費用だと和子は言っている。手紙を読んだ今思えば、隠し子の存在を知った和子が、小沢のカネに頼るのではなく、自分と息子のカネで自分たちだけの城を作ろうとしたのではなかったか。登記簿によれば、その「城」が完成したのは〇二年十二月のことだ。
 また、小沢の隠し子を養子として預かった愛人についても説明しておきたい。この女性は、有名料亭の若女将だった裕子(仮名)で、これまで私は、幾度も彼女について言及してきた。
 例えば、九二年九月。金丸信元自民党副総裁の東京佐川急便ヤミ献金事件の処理に関する責任を取って、小沢が経世会会長代行の辞表を出した頃のことだ。東京地検特捜部の捜査の手が、小沢にまで伸びるのではなかと言われていた頃のある出来事を、元側近が私にこう明かした。
 「小沢先生に言われて、資料類を段ボール箱四〜五箱に詰めて、裕子さんの住むマンションに運びました」
 二人の関係は続いている。陸山会事件が起こってから、小沢支持者らが開いている勉強会がある。そこではごく少人数で、陸山会事件について様々な角度から話し合われているのだが、熱心にメモを取る裕子の姿が目撃されている。
 和子との結婚前から四十年以上も続く異様な関係は知悉したつもりでいたが、その背後に〈一生毎月金銭を払う約束〉があったとは驚きである。現在二十一歳の健太君を二歳半から裕子は預かっている。この約十九年間で一体どれだけのカネが裕子に渡されたのか。
 次に放射能を恐れる小沢の言動にも触れておきたい。
 大震災以降、小沢がことあるごとに原発について言及してきたのは周知の事実だ。例えば昨年三月二十八日、達増拓也岩手県知事との会談後に小沢は、「原子炉の制御不能状態が2週間以上放置されるのは世界で例がない。最悪の事態を招けば日本沈没の話になる」などと語っている(「岩手日報」三月二十九日付)。このような言動に違和感を持った人は少なからずいた。当時、ある岩手県議は私にこう不満を露わにしていた。
 「小沢さんは被災地が逼迫した状態にあるのに、現地に行こうともせず、なんであんなに原発事故のことばかり語るのか」
 昨年五月、私が陸前高田や大船渡などの被災地を訪ねた時の悲惨な光景が蘇ってきた。ある地元民が目に涙を浮かべてこう語ったのだ。
 「いまでも、田園の中がら泥だらけの遺体があがってくる。いちばん政治の力が欲しい時に小沢さんは何もしてくれながった。オラたちはよう、見捨てられたのがぁ・・・」
 結局、小沢がはじめて岩手の被災地に足を運んだのは、今年一月のことだった。
長野の別荘と小沢側近の会社
 なお、手紙に書かれている出来事の時系列はいずれも正確だ。例えば手紙には、昨年三月二十一日に、「東京の水道は汚染されているので料理は買った水でやってください」と書生が言いに来て、その二日後に、東京都が乳幼児にはなるべく水道水を避けるように指示した、と書かれている。
 事実、三月二十三日に東京都は、「金町浄水場の水道水から一キロ当たり二百十ベクレルの放射性ヨウ素を検出」と発表している。日記などを付けていたのか、他の諸々の記述も日時などが正確に記されている。
 長野の別荘についても補足しよう。
 取材班は、長野県蓼科の別荘地を訪れた。地元不動産業者に聞くと、
 「去年の震災以降、別荘を新築しようという方は割りと多いんです。東京や名古屋などから。放射能の関係もあるでしょうし、地震の際の避難場所としてですね」
 そこで長野県諏訪地方事務所を訪ね、昨年以降提出された建築計画概要書を閲覧すると、建築主がオフィスゼロ(0)という物件がひとつ見つかった。同社を調査すると、実質的には川島智太郎衆院議員の会社であることがわかった。小沢の元秘書で、今も側近の一人として数えられる人物だ。
 川島氏に聞いた。
 「あれは私の別荘にするんです。小沢さんがあの近辺で土地を探していると聞いたので、私も近くに別荘が建てられたらいいなと思って契約しました。仲里(貴行)秘書はその辺のことは詳しいので、色々アドバイスをもらいました。小沢さんはまだあの界隈で土地を探していると思いますよ」
 一方、小沢事務所は、
 「(別荘の件は)小沢とは全く無関係です。離婚の事実も慰謝料を払った事実もありません。(川邊嗣治秘書は)大阪での法事の為に家族を帰らせたことがありますが、周囲に避難を勧めたことはなく、京都からの出馬を検討したこともありません」と回答した。
 長年小沢に仕え「懐刀」と呼ばれながら、〇三年に小沢と袂を分かった元大物秘書高橋嘉信は和子の手紙を読み、こう語った。
 「私がなぜ小沢と決別し、闘うことになったのか。この手紙を読めば岩手の方々にも分かっていただけるのではないでしょうか。小沢には政治家以前に人間として問題があります。政治を志す若い人たちの魂を食い殺すなど、なんとも思っていない人間なんです。ましてや、岩手のことなど小沢の胸中にありません」
 小沢は当選三回(七六年)頃から、ほとんど地元に帰らなくなった。高橋は、和子とともに水沢の地盤固めをし、支え合った時代を振り返り、こう述懐した。
 「小沢は蕗の薹を生のまま刻んで味噌汁に入れたのが大好物なんです。私と奥さんは北上川の土手まで行って、頭を出したばかりの蕗の薹を摘み、袋に詰めて奥さんは東京へ持って行ったものです。そうやって必死であの人の為に働いてきた。でも、小沢には結局何も通じなかった」
 小沢からは高橋のような秘書が離れ、数々の側近と呼ばれた議員が離れ、そして今、地元後援者も、三人の息子と妻さえも離れた。
 和子の手紙を読めば、その理由は痛いほどわかる。小沢一郎は政治家としての終わりを迎えたのではないだろうか。(文中敬称略)
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〈来栖の独白2012/6/15 Fri. 〉
 一読し、不審な個所は多くある。「せめて離婚の慰謝料を受け取ったら岩手に義捐金として送るつもりです。」などは、違和感が強い。信じがたい。が、小「澤」和子と署名された手紙の写真の真偽のほど、考え込まざるをえない。消費税増税修正協議の期限を控え政局のヤマ場のこの時にこのような記事が出たタイミングにも、考え込まされる。
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小沢氏の地元・奥州で30年間選挙支援 「水和会」解散へ 2012-04-17 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア 
 河北新報ニュース2012年04月17日火曜日
 民主党の小沢一郎元代表の地元・奥州市で、小沢氏の選挙を長年支援してきた女性組織「水和会」が、活動目的が薄れてきたとして、解散する方針を決めたことが16日、分かった。
 水和会によると、会は小沢氏の妻和子さん(67)を支えようと、約30年前に結成した。市町村合併前の旧水沢市の「水」と和子夫人の「和」にちなんで名付けた。
 会員は、小沢氏が立候補する衆院選のほか、各種選挙に備えて活動を展開。和子さんとともに地元を精力的に回り、女性を中心に支持者を拡大し、強力な地盤をつくり上げた。
 この十数年は、和子さんが地元に入ることがなくなったという。水和会幹部は和子さんが地元に来なければ、活動を続けられないと判断。及川幸子会長(岩手県議)によると、和子さんに電話で確認したところ「もう地元に行くことはないです」との返事があり、解散の了承が得られたという。
 メンバーは解散しても、小沢氏を後援会内で支える方針。及川会長は「メンバーも高齢化が進み、当時の勢いはなくなっていた。(選挙全体の)態勢には全く影響はない」と強調している。
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◆ 小沢氏、初の沿岸被災地入り 岩手で民主県連役員会出席
 民主党の小沢一郎元代表は3日、岩手県陸前高田市で開かれた党岩手県連の役員会に出席し、「東日本大震災が発生した非常事態の中でも旧態依然の中央集権支配が続き、地方への予算配分も十分でない」と政府の震災対応を批判した。小沢氏が震災後、岩手県の沿岸被災地に入ったのは初めて。
 小沢氏は役員会後、記者団の取材に応じ、昨年末に消費税増税の「政府案」が決まったことについて「自分の主張は変わらない」と述べ、消費税引き上げに反対する立場をあらためて強調した。
 役員会では約80人を前に「皆さんの生活を一日も早く取り戻さないといけない。被災地の要望に応えられるよう努力したい」とあいさつした。
 小沢氏は陸前高田市のほか、久慈、宮古、釜石、大船渡各市で開かれた党県連役員会にも出席。首長らから復興に関する要望書を受け取った。陸前高田市では仮設住宅を訪れて被災者を激励した。
河北新報2012年01月04日水曜日
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小沢・民主元代表:東日本大震災後、初の沿岸訪問 「頼もしい」「今更」 住民、期待や不満 /岩手
 震災後初となった小沢一郎・民主党元代表の3日の沿岸訪問。被災地の住人からは「頼もしい」といった期待や、「今更来ても遅い」といった不満が入り交じる声が上がった。
 小沢元代表はこの日、達増拓也知事や県選出の国会議員らと共に、久慈から陸前高田まで沿岸5市で開かれた同党県連の緊急役員会に出席。宮古市では「私たちの主張した地域主権が(政権交代から)2年余たっても、まだ緒にも就いていない」と持論を展開。「皆さんの抱えた課題を解決するには、本来我々の掲げた政策理念を実行しなければいけない」と訴えた。
 夫婦で参加していた、宮古市大通の無職、伊藤隆さん(75)は「小沢さんのように力のある政治家がいて頼もしい。予算を確保して、復興が進むよう国に働きかけてほしい」と期待を込めた。
 小沢元代表は夕方には、陸前高田市竹駒町の仮設住宅を訪問。集会場に集まった約30人の住人を前に「皆さんの生活を一日でも早く元に戻せるよう全力で頑張っていく」と力を込めると、記念写真を求められるなど歓迎を受けた。
 一方で、住人の女性(58)は「今更来ても遅い。震災直後の惨状を見れば、党内で足の引っ張り合いをしてる場合じゃないと気づいてもらえたはず」と不満を漏らした。【宮崎隆】
毎日新聞 2012年1月4日 地方版
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『誰が小沢一郎を殺すのか?』の著者カレル・ヴァン・ウォルフレン氏と小沢一郎氏が対談〈全文書き起こし〉2011-07-30 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア より抜粋
■お悔みを申し上げるのが政治家の仕事なのか?
上杉: まずは「3.11」の震災について、その震災後のことについてお話を頂ければと思う。今ウォルフレンさんからお話いただいたので、小沢さんの方から。「3.11」の国を揺るがすような大震災以降、どうも既存メディアでは小沢さんの影が見えなかったのでは、何もしていないのではないか、という声もあった。果たして小沢さんはどのような活動をされていたのか。「3.11」の発災以降のことも含めて、お話をいただければと思う。
小沢一郎衆院議員(以下、小沢) : 今度のいまだかつて経験したことのないような大災害、私も被災県の岩手県の出身だけれども、特に福島県の原発の損壊と放射能汚染の問題、それが非常に深刻な事態だと、私は当初から機会ある度に訴えてきた。このような時にあたって、今ウォルフレンさんが指摘されたが、世界でも非常に評価されるような日本人の長所が発揮されていると同時に、日本人の欠点も露呈されているというのが、正直なところではないかと思っている。長所というのは、それは一般的に言われているように、こんな大災害にもかかわらず、みんな一生懸命力を合わせて復興のために頑張っていること。その忍耐と努力と、そして能力というのは、当然日本人として誇っていいことだと思っている。
 ただ、放射能汚染といういまだかつて(ない)、ある意味においてはチェルノブイリやスリーマイル以上に、非常に大きな危険性を秘めているこの原発の事故と放射能汚染の拡大――。これほどの大きな深刻なことになると、単なる個人的な力の発揮ということ以上に、本来もっと国家として前面に立って、そして英知を集めて思い切って対策を講じていく仕組みと姿勢が必要だと思う。けれども、どうもその意味において、政治の面だけではなくて、一般の国民の中からもそういった強い要求というか、動きというものがなかなか出てこない。まさに非常に日本的な現象だと思っている。ほかの国ならば、こんなに黙って現状を見過ごしているような国民は多分ないだろうと思う。大きな大きな国民運動にまで広がりかねないと思うが、そういう(大きな運動にならない)ところがちょっと日本の国民性というか不思議なところであって、「まあまあ」という中で個人が一生懸命頑張っている。
 上杉さんがマスコミの話をしたけれども、マスコミ自体も、政治が何をすべきか、政治家が何をすべきか と(報じない)。お見舞いに現地を歩くのが政治家の仕事なのか? お悔やみを申し上げるのが政治家の仕事なのか? というふうに私はあえて憎まれ口をきくけれど、やはり政治の役割というのは、そういうことではないと思う。このような深刻な事態をどのようにして克服していくか、そのためには政治の体制はどうあるべきなのか、政治家はどうあるべきなのかと考えるのが、本当に国民のための政治家のあり方だと私は思っている。そういう意味で、今後もいろいろとご批判は頂きながらも、私の信念は変わらないので、その方向で頑張りたいと思う。
■財源があろうがなかろうが、放射能を封じ込めろ
上杉: 引き続いて、お二方に質問を。自由報道協会の面々は発災直後から現地に入り、取材活動をずっと行ってきた。その取材の中で相対的に、結果としていま現在、県単位で見ると岩手県の復興が意外と進んでいるという報告が上がってきている。おべんちゃらではなく。(小沢氏の)お膝元の岩手県の復興が進んだという見方もできるが、一方で岩手県だけがそういう形で支援が進めばいいのかという疑問もある。そこで、これはウォルフレンさんと小沢さんお二方に伺いたい。仮に現在の菅政権ではなく、小沢一郎政権だったらどのような形で国を復興させたのか。また、もし小沢一郎総理だったら、具体的な方法としてどのような形で今回の震災に対応したのか。ご自身のことでお答えにくいかもしれないが、まず小沢さんから。
小沢: 岩手県の震災復興の進捗具合が大変良いとお褒めいただいているが、別にこれは私が岩手県にだけ特別何かしているということではない。ただ、それぞれの国民あるいは県民の努力と同時に、地域社会を預かっている知事はじめ、それぞれの任務にある人たち、トップが先頭に立って、そしてその下で皆があらゆる分野の活動で一生懸命やっている。岩手県が他の県に比べて良いとすれば、そういう体制がきちんとされているので、復興の進捗状況が良いと言われている理由ではないかと思っている。
 私の場合は、かてて加えて原子力ということ、放射能汚染ということを強く主張している。これはもちろん東京電力が第一義的に責任を持っていることは間違いのないことだけれども、日本が政府として国家として、原子力発電を推進してきたことも事実だし、原発の設置運転等については許認可を与えている。そういう意味から言っても、また今日の放射能汚染が依然として続いているという非常に深刻な事態を考えると、東京電力が第一義的責任者だといって済む状況ではないのでは。東京電力にやらせておいて、政府はその後押しをしますよ、支援しますよというシステムでは、本当に国民・県民の生活を守っていくことはできないのではないか。
 やはり政府、国家が前面にその責任をもって、最も有効と思われる対策を大胆に(行う)。これはお金がいくらかかる、かからないの問題ではない。メディアも含めてすぐ財源がどうだなんていう話が、また一般(財源)の時と同じような繰り返しの話ばかりしているが、そんな問題ではない。極端な言い方をすれば、財源があろうがなかろうが、放射能汚染は何としても封じ込めなければいけない話で、それは国家が政府が、前面に立って全責任でやる。私はそういうシステムを、仕組みをもっともっと早く、今でも遅くないから構築すべきだと思っている。今なお、東京電力が第一義的責任というやり方をしていたのでは、多分解決しないのではないかと思っている。
■菅さんは一人で何でもできると思い込んでいる
上杉: ウォルフレンさん、同じ質問だが、もし菅総理ではなくて小沢一郎総理だったら、この震災に対してはどうなっていたか。
ウォルフレン: いろいろな面があると思うが、まず3月11日にあの災害が起きた当時、私は阪神・淡路大震災の時と比べて政府の対応はどうだったかと、直感的に思った。当時の政府の対応と比べて、今回はずっと早く迅速に動いたという気がした。私はそのストーリーを書き、世界中に報道された。その時に私が言ったことは、「半世紀続いた一党体制が崩れて、新しい民主党という政党のもとに政権が建った。その政権は本当に国民のことを、人のことを大事に考えて中心に置いている」という書き方をした。ところが、せっかくの初動後の時間が経過するに従って、壮大な画期的な改革をする機会が与えられたにも関わらず――それはキャリア官僚の体制の上に政治的なコントロールを敷くということだったが――そこに至らないでズルズル時間が経ってしまった感じがする。
 なぜ、そうなってしまったのかを考えたわけだが、1993年という年以降、政治の改革をしようと集まった政治家たちが、新しい民主党という党をつくった。そして官僚体制に対して、政治がきちんとコントロールしよう、今までなかった真摯な政府をつくろうという人たちだったのに、どうなってしまったのかと思った。何が起きてしまったのか、正直いって私自身は分からない。ただ、ひとつ考えられるのは、首相が一人で何でもできると思ってしまっているのではないか、ということ。数日前に日本に来て、その間多くの方々といろいろ話をして感じたのは、どうも菅さんは、時々いいアイデアもあるのかもしれないが、それを自分一人でやるだけの政治力があると思い込んでしまっているのではないか、ということだ。
 菅さんにしても、誰であっても、一人ではとてもできないことではないか。災害に対処しながら、また原発事故に対処しながら、今までの官僚体制に政治がコントロールしていく――それを同時にやるのは大変なことだ。細かいことは存じ上げないが、原発事故が起きたということは、多くの人たちが新しいところで生活を始めなければならない。再定着が必要になってくるわけだから、政治家一人ではとても負えるものではない。民主党をつくった人たちが、官僚制度の上に政治的なコントロールを敷こうと、そして本当に政府をつくろうと、同じ志を持った民主党の政治家たちがお互いに、一緒に協力をしていかなければできないことなのだ。
 災害が起きる前年、去年の秋だったけれど、少なくとも三人(小沢氏、鳩山由紀夫氏、菅直人氏)のトロイカ体制という話を聞いた時に、ある意味では当たり前だが、私はすごく良いアイデアだと思った。明治維新ひとつをとってみても、一人で誰がやったというわけではない。志を同じくした人たちが、一緒にやったことだった。戦後の復興にしても同じ。皆で一緒にやって初めてできたこと。半世紀に渡って一党支配の体制を崩した新しい政党が、新しいシステムをつくる。それにはトロイカであれ、グループであたっていかなければならないと、私は去年思ったものだ。
 小沢政権ができた場合に、この災害にあたってどう対応されたかのは分からない。けれども、私は小沢さんは「官僚を制する」というよりは、「官僚と一緒に仕事をする」能力がある方だと思っているし、権限の委譲もできるし、官僚の下に置かれることは絶対にない方だと思っている。小沢政権ができた場合には、きちんと然るべき人たちと協調体制のとれた対応をとっていかれるのではないかと思う。
■現状を維持しようとする日本の免疫システム
<以下略> *強調(太字、着色)・リンクは来栖


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