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両陛下と東日本大震災 「国民とともに歩む」皇室

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【祈り 両陛下と東日本大震災】
(上)お見舞い「1人でも多く」 前に進む勇気、お与えに
産経ニュース2011.4.27 21:20
 3月11日午後2時46分。皇居がある東京都千代田区は震度5強を観測した。天皇、皇后両陛下は、宮殿にいらっしゃった。
 陛下は揺れに驚きながらもすぐテレビをつけ、状況を確認しながら国民を心配された。被害が明らかになるにつれ、短時間業務を離れても支障がない災害の専門家らを人選し、皇居に呼んで話を聞かれてきた。
 宮内庁によると、両陛下は当初から「一日も早く東北地方に入りたい」という意向を持たれていた。被災地に負担にならない時期を考えながら、3月30日に東京都内、今月8日に埼玉県加須市の避難所を訪問された。震災1カ月の節目が過ぎた14日には、被災地では初めてとなる千葉県旭市へ。22日も茨城県北茨城市を見舞っており、27日の宮城県訪問で、5週連続で避難所や被災地に足を運ばれたことになる。
 「震災、津波に遭った人たち、原発におびえる人たちを思いやり、頭がいっぱいになって、たいへん気が張っていらっしゃる。この国の人たちの幸せも不幸もわがこととして受け止めて、実践していかれる姿が現れていると思います」
 宮内庁の羽毛田信吾長官は、ハイペースで被災地訪問を続けられている陛下の様子をこう説明している。
 27日に両陛下が訪問された、宮城県南三陸町の歌津中学校体育館。いつものように両ひざを床につけ、一人一人に言葉をかけた両陛下が立ち去られる際、手を振る両陛下に「ありがとうございました」とあちこちから自然に声が上がった。声は広がり、最後は大きな拍手となって両陛下を送った。
 佐藤仁町長は「感激ですね。一人一人に声をかけることはなかなかできない。前に進まなければいけないと、自分も改めて感じた」とし、こう付け加えた。
 「被災者のああいう笑顔を見られたのは初めてです」

 皇居では東日本大震災によって、祭祀を司る宮中三殿でも、耐震補強していない場所で一部、柱がずれるなどの被害が出た。
 震災発生から10日後、3月21日の春分の日に行われた祭祀(さいし)「春季皇霊祭・春季神殿祭の儀」。余震が続いていたことから、宮内庁内では「今回は天皇陛下ではなく、儀式を司る掌典の代拝にすべきではないか」という声が出た。
 だが、両陛下の希望があり、結局陛下はモーニング、皇后さまは洋装で祭祀に臨まれた。通常は着物で臨むが、万一緊急に避難する必要性が出た場合のことを考え、殿上には昇らずに拝礼される「異例の措置」(宮内庁)が取られた。「普段から祭祀にはご熱心だが、震災のこともあるので、ご自身で拝礼されたい思いが特に強かったのではないか」と祭祀関係者は語る。
 宮中祭祀は主なものだけで年間20回余り。通常、祭祀の関係者以外はその場におらず、撮影された写真や映像が国民の目に触れることはない。両陛下は皇居の森の中で、ただ静かに祈られている。

 平成3年7月10日。両陛下は雲仙・普賢岳噴火の被災地見舞いに、長崎・島原を訪問された。両陛下にとり即位後、初めてとなる災害被災地への訪問だった。
 島原の最高気温は33・2度。過去の被災地訪問で両陛下に同行した宮内庁関係者は、厳しい条件の中で行われた、両陛下の被災地訪問の「原点」を語る。
通常、両陛下が地方を視察される前には、宮内庁職員が綿密な下見や打ち合わせを行うが、この時は被災地の負担を増やすことを懸念した両陛下のご意向を受け、「特別な対応はしないで、そのままにしてほしい」と県に伝えていた。避難所での予定は「ここから入り、ここから出る」程度のぶっつけ本番。「入り口に入り乱れて置かれた靴の中から、陛下の靴を探して出口に持っていくのも苦労した」という。
 「平成の天皇陛下を象徴するスタイル」といわれる、ひざをついて被災者と懇談される姿は、このとき初めてみられた。この元側近は「びっくりした。立って、座っての繰り返しは、お体にこたえるはず」。
 長崎空港では、飛び乗るように帰りの民間機へ。元側近は「乗り込む際、皇后さまの首筋は日に焼け、真っ赤に腫れていらした。女官長が、冷たいタオルを首に巻いていた」と振り返る。そして、今回もすべて日帰り訪問を続けられている陛下と皇后さまをこう案じた。
 「雲仙を見舞われた当時でさえ、お疲れになったのではないかと心配した。両陛下は『一人でも多くの人に』という思いでお見舞いされる。無理をなさらないように。本当に心配しています」。雲仙への見舞いから20年。陛下は77歳、皇后さまは76歳になられている。

 各地の避難所、被災地への「祈りの旅」を続けられている両陛下。災害のたびに国民の精神的支柱となってきた皇室の歴史や、側近らのエピソードを交え、そのお姿を伝えたい。

(中)「自分で厳しく律する」国民に模範
「食事は、簡単なものでいいから」
 東日本大震災後、天皇、皇后両陛下は食事を担当する職員にこのように指示される場面があったという。東京電力の計画停電で「第1グループ」に分類された地域の停電予定に合わせ、1回約2時間、暖房や電灯など電気の使用を控える「自主停電」をされているためだ。
 「停電中だと、調理に支障がでるだろうというご配慮だったのではないか」と側近は振り返る。
 那須御用邸の職員用風呂の開放、御料牧場で取れた卵、缶詰などの提供…。両陛下が地震後に意向を示された前例のない取り組みの中でも、自主停電は特徴的だ。
 自主停電は「国民と困難を分かち合いたい」として3月15日に始められた。皇居がある東京都千代田区は計画停電の対象になっていないことについて、陛下は「ノルマがないからこそ、自分で厳しく律さないといけない」と話されたという。
寒さは厚着で
 自主停電中、両陛下は夜間にろうそくや懐中電灯で灯りをとり、寒さはセーターなどの厚着でおしのぎになった。側近によると、皇后さまは東日本大震災発生後まもなく、職員とともに御所で保管しているろうそくを集めるとともに、懐中電灯が点灯するか自ら確認をされたという。
 自主停電の時間によっては、ろうそくの明かりのもとで夕食を取られることもあった。その際には、余震で倒れる可能性を考え、低い位置まで水を入れた水槽の中に、火をつけたろうそくを立てられていたという。
 陛下のご公務にも変更が生じた。「電力消費の大きい宮殿の使用は必要最小限に」という両陛下のご意向で、宮内庁は3月14日以降、宮殿の使用を、閣僚などの認証官任命式と、新しい駐日外国大使を迎えて行う信任状捧呈(ほうてい)式に限定。ほかの宮殿行事はお住まいの御所で実施している。
 3月31日、陛下が離任する駐日トルコ大使を御所で引見されたときには、ちょうど自主停電の時間にあたった。
 「照明も暖房もない応接間で行われた。幸い天気が良く、障子ごしに差し込む陽光で十分明るかったのではないか」と宮内庁幹部。皇室の国際親善を担当する式部職が、事前に両陛下の自主停電のお取り組みについて説明したところ、トルコ大使は深く納得した様子だったという。
 「御所はプライベートな空間で、本来、外国人であれば王族など親しい方しか入れない。洋風な宮殿と違い、日本的な渡り廊下や障子があり、トルコ大使は御所での手厚い対応を喜んでいた」そうだ。
 今月21日にオーストラリアのギラード首相を引見された時間も、自主停電の時間にあたった。宮内庁幹部は「何ら支障はなかった」と話す。
「不実施」でも継続
 両陛下は皇太子時代から節電を心がけてこられた。第1次オイルショックが起きた昭和48年、陛下が40歳を迎えた誕生日の記事には、電気スタンドをつけず、薄暗い部屋で読書されることがある、と報じられている。
 両陛下は、今回の自主停電では、ブレーカーを全部落とされているわけでない。御所には配電盤がいくつもあり、防犯や防災など安全に関わる部分や両陛下の医薬品を管理する冷蔵庫の電源は、自主停電の間も電力を切ることはなかったそうだ。「不必要な部分を徹底的に洗い出し、節電するのが両陛下のなさりよう」と側近は話す。
 東京電力では、「電気の需給バランスが著しく改善した」として、計画停電を8日から「原則不実施」としたが、実は両陛下は自主停電をその後も毎日続けられている。計画停電が終わっても、東電では「やむを得ず計画停電を実施する場合」のスケジュールを発表し続けており、両陛下はこれを利用されているようだ。
 夏場に打ち水をするなど、節電のため日頃から工夫している両陛下は、今月末で自主停電に区切りをつけ、通常の節電生活に戻られる。
 夏の電力不足は不可避といわれ、都心部でも不安が広がる。こうした中、身の回りのことに目を向け、黙々と行動する両陛下のご姿勢は示唆に富む。側近は「両陛下は、苦境の中で『国民に模範を示せれば』というお考えもあるのではないか」と話す。

(下)復興へ、ともに歩まれて
2011.4.29 22:43
 平成7年の阪神大震災のお見舞いで、皇后さまが被災した少女を抱き締める場面があった。両手の拳を握るしぐさをされたこともある。今回の訪問でも、天皇、皇后両陛下が被災者の手を握ったり、移動のバスの中で立ったまま沿道の歓迎の列に手を振り続けたりして、臨機応変に行動される姿が目立っている。
 側近は「両陛下はその場に行ってから、一番いいと思う行動を取られる。いつでも“真剣勝負”で向き合われるから」と話す。そうした姿が、各地に癒やしを与えられている。27日の仙台市ご訪問の際、皇后さまから手を握られた被災者の女性は「手を出してはいけないと思っていたけれど、感極まってしまった。優しい感触でした」と感激した。
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 「両陛下のご訪問は、被災者にとって何よりの薬。行政が(村民が避難生活を送った)4年5カ月かけて一生懸命がんばっても、両陛下の一言にはかなわない」。12年に島が噴火して被災した東京都三宅村の平野祐康村長は、ご訪問が被災地に与える「効果」を、最大限の言葉で表現する。
 帰島後の復興視察も含め、両陛下は公式に6回、三宅島民がいる避難所などを訪問された。村によると、非公式にも数回あり、皇后さまが御料牧場のアイスクリームを届けられたこともあった。
 13年8月、両陛下が静岡・下田に避難している三宅村の漁業者を慰問された際には、小さい子供が皇后さまに「おばあちゃん、うちにも遊びにきてね」と話しかけた。皇后さまは翌朝、その子が住んでいるアパートの玄関先にいらっしゃったという。「子供の約束まで果たしてくださった。それほどまで、被災者の気持ちをくんでくださっている」と平野村長。
 一方、阪神大震災のご訪問の際、避難所にいた男性は「励ましよりもお金がほしい」と避難所で大声で話していた別の被災男性が、陛下から声をかけられると、せきを切ったように大声で泣き出した光景が忘れられないと話す。
 ほかの被災地の町の幹部も「政治家は体育館の壇上から『がんばれ』と一言いって帰るだけ。両陛下のなさりようは全然違う」。
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 今回の震災ではこれまで、両陛下のほかにも、皇太子ご夫妻、秋篠宮ご夫妻、常陸宮ご夫妻が避難所を訪問されている。訪問先は重なられていない。宮内庁の羽毛田信吾長官は「役割分担という考え方は取っておられない」とするものの、皇室全体のお取り組みになっている一面もある。
 皇室による「お見舞い」には長い歴史がある。励ましのお言葉やお金を受けた国民は、いつの時代も復興の意欲を新たにしてきた。
 近現代の皇室について研究している静岡福祉大の小田部雄次教授によると、明治時代には自然災害に対し、天皇、皇后から賜金が出されていた。明治26年に福島県の吾妻山が噴火した際には、「予知はできないのか」と侍従を現地に派遣した記録もあるという。
 大正12年の関東大震災では、皇太子だった昭和天皇や皇族が、直接現地に入って慰問された。昭和天皇は馬で東京の惨状も視察されたという。御殿を避難者らに開放した皇族もいた。
 小田部氏は「慈愛、恩恵を国民が直接感じることができたし、賜金はほかの援助を得る機会になったといえる。皇室は、困難な状況におかれた人々の精神的な支えになってきたのではないか」と話す。
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 三宅村の平野村長は「両陛下は復興を成し遂げる最後まで、被災地を見届けてくださる。そのお姿にエネルギーをいっぱいいただいた」と語る。両陛下の被災地へのご配慮は「その場限り」で終わらないところに特徴があり、それを受け止めた各地でもさまざまな形で記憶、記録されている。
 阪神大震災直後に両陛下は、火災で壊滅した神戸市長田区に足を運ばれ、皇后さまはその日の朝に皇居で摘んだ17本のスイセンを手向けられた。地元住民の提案でスイセンはドライフラワーとなり、市内で展示されている。地元関係者は「みんながいただいたもの。復興のシンボルとして長く展示したい」。
 今回も「国民とともに歩む」皇室を体現している両陛下は、5月上旬までに、被害が大きかった東北3県すべてに足を踏み入れられる予定だ。復興の長い道のりを見届けられる「祈りの旅」は、まだまだ続きそうだ。

 連載は芦川雄大、篠原那美が担当しました。


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