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韓国と中国に対する「思いやり歴史観」と決別せよ 偏狭なナショナリズムを煽らせないために

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韓国と中国に対する思いやり歴史観と決別せよ 偏狭なナショナリズムを煽らせないために・・・
JBpress2012.09.08(土)川嶋 諭

 歴史とはつまり勝者の歴史である。敗者の立場で書かれた歴史はほとんどの場合、書き残すことが認められてこなかった。また、歴史はたいていの場合、男の歴史でもあった。
■弱者、敗者が語る歴史には要注意
  もう38年も前のことだから記憶は定かではないが、大学入試に失敗して駿台予備校に通っていたとき、上智大学の講師による「女が作った歴史」という授業を受けて、とにかく感銘を受けたのを覚えている。
  受験用の覚える歴史とは全く違って生々しいだけでなく、見る位置を変えると歴史はこんなに違って見えてくるものだと、目から鱗が落ちる思いだった。
  大学、大学院と理系に進んだが、父親や大学の指導教授などの大反対を押し切って出版社に入社したのは、あの歴史の講義が相当影響していたのではないか、と思うときがある。
  さて、竹島や尖閣諸島の問題がこのところ喧しい。なぜいまなのか。
  日本と韓国、中国のパワーバランスが崩れてきたためだろう。韓国の李明博大統領の日本を見下した発言がまさにそれを象徴している。
  強い者が書いた歴史は確かに正しいとは限らない。しかし、弱い者が語る歴史も事実と反している場合がある。
  いやむしろ、事実が捻じ曲げられている度合いはその方が高いと言える。加えて陰険で執拗な場合が多い。
  迫害を受けた側はヒステリックになりがちなのはやむを得ない。そして、条件が整い公にしても構わないとなれば、事実以上の迫害を受けたように喧伝したがるものだ。
  実は最近、日本人が主人公のそんな例を示唆されて非常に深く考えさせられたことがあった。場所は米国のワシントン州シアトルである。
 シアトルはいま、米国の大都市の中では最も便利な街の1つかもしれない。シアトル・タコマ空港と市内を結ぶライトレールが2009年に完成、空港からわずか200円、40分ほどで市内に到着する。この7月からは全日空が成田から直行便を飛ばしている。
  最も安いバスを使っても運賃が約1000円に必ず要求されるチップ、様々な停留所で客を拾いいちいちチケットのチェックを行って、1時間半から2時間はかかるニューヨークとは快適さが比べ物にならない。
■シアトルから始まった日本人の米国移民
 港町であるシアトルは、市内から歩いてすぐのところに波止場がある。ここで対岸にあるベインブリッジ・アイランド行きのフェリーに乗る。フェリー代は1人約600円。帰りは無料である。
 1時間弱の船旅を終えてベインブリッジ・アイランドに着くと、すぐに目抜き通りがある。女性に人気のカリフォルニア州カーメル(あるいはロスガトス)を少し(だいぶ)鄙びさせた風情だ。
 目的地はもちろんそんな観光地ではない。米国の連邦政府が資金を出して作っている記念公園。何の記念かと言えば、第2次世界大戦中に日系移民を強制収容所へ送ってしまった記念だ。
 日系の米国人だけを差別的に収容所へ送ったことに対する米国政府の悔悟の意が込められた公園である。収容所へ送られた人々の名前が彫られ、また日本語と英語で「もう二度とないように」との看板が到る所に掲げられている。
 ベインブリッジ・アイランドには戦前、世界最大の製材所があり、ここに日本から大量の移民がやって来た。四国から来た人が多かったという。米国への本格的移民はここから始まったと言われている。
 また、第2次世界大戦が始まると、ここに住んでいた日系人が真っ先に収容所へ送られた。そうしたことから、ベインブリッジ・アイランドに記念公園が作られたのである。
 ただ、この公園は古いものではなく、最近作られた。案内をしてくれた竹村義明さんによるとまだ完全には出来上がっていないという。竹村さんは、1956年に西本願寺が布教のためにシアトルに派遣された「開教師」。
 いまは布教活動から離れ、ベインブリッジ・アイランドに住んで日系移民の歴史を研究、様々な資料を集めて資料館を運営している。
 その竹村さんと2人で記念公園を歩いていたら、突然、「これをどう思うか」と聞かれた。日系移民を収容所へ送った経緯が書かれた掲示の前でである。
 「日系人は米国の軍人に銃を突きつけられ脅されて収容所へと送られたとある。でもこれは事実とは違うよ」■パールハーバーの衝撃を日本人も察しろと言う老人
 竹村さんが何を言おうとしているのか、咄嗟には分からなかった。恐らくこちらが狼狽することは分かって言っていたのだろう。「考えておいて」と言ったまま話さなくなった。
 そうしたら、ほとんど人気(ひとけ)のない公園に若い白人の米国人女性たちが歩いてきた。なぜこんなところに。せっかくだから理由を聞いてみた。しかし、残念ながら期待は裏切られた。
 「大学の夏休みで実家に帰ってきたんだけど、こんな公園ができているというので来てみたの。米国と日本にはこんな歴史があったのね・・・」
 彼女たちと別れ、駐車場へ向かって歩いていたら突然、向こうから80がらみの白人男性がやって来た。お年寄りとは思えない迫力がある。
 私たちの前まで来て目を丸く見開いて言うのだった。
 「孫が何を言ったか知らん。しかしな、私の考えを聞いてもらいたい。パールハーバーを日本軍が奇襲したときのことだ。わしはまだ4つの子供だった」
 「あのとき、子供心にも衝撃が走ったもんだ。わしの母親は本当に腰が抜けて立ち上がれなくなってしまったのを覚えている。我々アメリカの庶民はみんなびっくりしたんだ」
 「確かに、日系のアメリカ人だけをキャンプに送ったのはアメリカの恥だ。してはいけないことをしてしまった。日系人には本当に申し訳なく思う」
 「しかしな、君たちには分かるまいが、アメリカが攻撃されたという事実は衝撃だった。ハワイの次は本土が攻撃されるかもしれないと皆本気でそう思った」
 「日系人には悪いことをした。けれど、パールハーバーに攻撃を受けたアメリカの庶民がどんな思いだったか、それを日本人もしっかり考えるべきだと思う。言いたいのはそれだけだ」
 目を充血させながらそう言い切ると自分の車へと帰っていった。しばらくして竹村さんが「さっきの話だけど・・・」と口を開いた。
■日系人が事実を曲げて書くことの恥
 「さっき、ここに書いてあることは事実と違うと言ったよね。軍隊に銃で脅されて収容所へ連行されたと。実は、調べてみると日系移民のリーダーが米国の軍隊に頼んでいるんだよ」
 「何をかって? 日系人の安全を守ってほしいと」
 「つまり、軍隊に銃で脅されて連行されたのではなくて、日系人の方から軍隊に頼んでいるというのが事実なんだ」
 「日本人を殺せなどと平気で言うアメリカ人がいっぱいいたらしい。そういう輩から身を守るために軍隊に頼んだという資料がきちんと残っている」
 「それなのに、米国の軍隊に脅されて収容所へ連行されたという表記はいかがなものかと私は思う。それをさっき川嶋さんに聞きたかったのさ」
 これは・・・。
 ベインブリッジ・アイランドにはネイティブ・アメリカンの居住地区がいくつもある。シアトルの名前の由来になった酋長のお墓も残っている。その居住地では例外的にカジノが認められていて、ネイティブ・アメリカンの大切な収入となっている。
 米国人はネイティブ・アメリカンを迫害し続けた歴史があり、それを悔いて様々な優遇政策を採ってきた。その1つがカジノの許可だった。
 ネイティブ・アメリカンの居住地域に入ると、住民たちの雰囲気が大きく異なっているのを肌で感じ取ることができる。それは生活スタイルの違いから来ることもあるが、それとは別に覇気の差みたいなものを感じる。
■河野談話の見直しは間違いか?
 米国の歴史の汚点を取り返すべく実施した優遇政策がネイティブ・アメリカンの生活力を奪ってしまっているのはよく言われることである。
 自分たちのしでかしてしまったことを悔い改めることは民主国家にあっては必要である。しかし、それがある一線を超えてくると良い結果をもたらさない。
 9月7日付の朝日新聞は「安倍元首相、思慮に欠ける歴史発言」と題する社説を掲げている。新生・自民党として、河野(洋平)談話と村山(富一)談話に代わる談話を閣議決定すべきだとの安倍発言に強く反発しているのだ。
 そしてこう結んでいる。「偏狭なナショナリズムの応酬がエスカレートする恐れさえある」。果たしてそうだろうか。逆にいまの日韓関係は少々度が過ぎた悔悟の念が招いたのではないのか。
 「対中韓戦略:軍事強国日本の強国ゆえのジレンマ」の記事で作家の佐藤優氏は次のように語っている。
 「韓国について日本で言われていることには間違いが多すぎます。例えば李明博大統領の最近の動きは、任期切れを前に自己保身を図っているのだと言われますが、全然違う」
 「自伝を読めば分かりますが、彼はもっと腹の据わった男です。その行動の背景には韓国を立て直したいという思いがある。過度の競争にさらされて不適応症を起こす子どもたくさんいることなどは象徴的ですが、韓国は今、構造的な危機に直面しているんです」
 「李明博大統領が歴代大統領で初めて竹島に上陸したのは、いわばプチ帝国主義宣言です」
 「国際情勢はここに来て帝国主義の時代になりつつありますが、今の韓国に帝国主義を実践するまでの力はない。でも歴史問題のカードを切れば、日本に対してなら韓国の言い分をすべて通せる、ということでしょう」
 米国では韓国系米国人が慰安婦問題を取り上げて日本を激しく罵っている。英語での発信という強い影響力で日本を傷つけようとの意図が見える。南京事件の中国と同じ手口だ。その批判の多くは強烈な被害者意識から出ていて信憑性が乏しい。
 私たちは歴史の持つ意味と力を十分に認識して行動しなければならない。譲り過ぎれば偏狭なナショナリズムをエスカレートさせるだけである。
<筆者プロフィール>
川嶋 諭 Satoshi Kawashima
 早稲田大学理工学部卒、同大学院修了。日経マグロウヒル社(現日経BP社)入社。1988年に「日経ビジネス」に異動後20年間在籍した。副編集長、米シリコンバレー支局長、編集部長、日経ビジネスオンライン編集長、発行人を務めた後、2008年に日本ビジネスプレス設立。
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〈来栖の独白2012/9/8 Sat.〉
 日常、数冊並行して本を読んでいる。このところは、日高義樹氏の『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』などである。長くNHKの特派員として、またワシントン、ニューヨーク局長としてアメリカを見、知り尽くした人ならではのことが書かれていて、非常に興味深く面白いし、私のようなものには啓蒙の書でもある。
 ところで、上のコラム冒頭に次のような文脈があり、私は泣いた。全くまったく同感である。
>歴史とはつまり勝者の歴史である。敗者の立場で書かれた歴史はほとんどの場合、書き残すことが認められてこなかった。また、歴史はたいていの場合、男の歴史でもあった。
 先の戦争も、それに伴う東京裁判も、果ては「南京大虐殺」「従軍慰安婦」に至るまで、「勝者」の言い分に「敗者」であるわが国は唯々諾々と従わされた。広島・長崎への原爆投下について、今日までにアメリカは謝ったか。否、である。多くの市民(非戦闘員)を原爆の人体実験として殺戮しながら、一度も謝っていない。のみならず、その残虐性から目を逸らすため、「南京大虐殺」「従軍慰安婦」でっち上げに加担した。
 日高義樹氏の『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』に以下の記述がある。 

         

p73〜
  ゴッドフレー・ホジソンがその著『ザ・カーネル』の中で指摘しているように、山本五十六司令官の率いる日本帝国連合艦隊の真珠湾攻撃は、戦術的には大成功だったが、戦略的にはむしろ失敗だった。その証拠にルーズベルトは奇襲以前から原爆をつくり、日本を原爆で攻撃しようとしていた。つまり戦略という大きな枠の中では、山本五十六司令官は敵の罠にはまったと言っても言い過ぎではないだろう。
p74〜
  「アメリカは、日本海軍が真珠湾を奇襲攻撃する能力があるとは思っていなかった」
  アメリカの多くの政治家や軍事専門家はこう考えているが、ルーズベルトは、「騙し討ち」だと宣言し、報復として原爆を投下することを決めた。アメリカは原爆投下の正当化のためには、南京事件すら利用したが、「勝てば官軍」という言葉のとおり、敗れた日本は完全に悪者にされ、原爆投下についても問答無用の立場に置かれてしまった。
  エドワード・テラー博士をはじめアメリカの学者たちが指摘しているように、広島と長崎に対する原爆投下が本当に必要だったのか、アメリカにおいてすら再検証が続いているが、日本ではこれまでと同じように、二度と原爆の悲劇が起こらないように祈っているだけである。
p93〜
 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」
 原爆慰霊碑に刻まれたこの碑文の前で、日本人は60年あまり祈り続けてきた。被害者の霊を悼み祈るのは正しいことである。だが祈るのなら、この「過ち」とはいったい何だったのかを明確にし、祈ることによってそれが正されたかどうかを確かめるべきではないだろうか。
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『日本人の誇り』藤原正彦著(文春新書)
p58〜
  「明治・大正・昭和戦前は、帝国主義、軍国主義、植民地主義をひた走り、アジア各国を侵略した恥ずべき国。江戸時代は士農工商の身分制度、男尊女卑、自由も平等も民主主義もなく、庶民が虐げられていた恥ずかしい国。その前はもっと恥ずかしい国、その前はもっともっと・・・」
  占領後、アメリカは米軍による日本国憲法制定を手始めに、言論統制、「罪意識扶植計画」等により、日本をアメリカに都合の好い属国に造り替えてゆく。
 p63〜
  GHQすなわちアメリカはまず新憲法を作り上げました。GHQ民生局が集まり1週間の突貫工事で作ったのです。憲法の専門家はいませんでした。まず前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と書きました。アメリカは他国の憲法を自分達が勝手に作るというハーグ条約違反、そしてそれ以上に恐るべき不遜、をひた隠しにしましたが、この文章を見ただけで英語からの翻訳であることは明らかです。「決意した」などという言葉が我が国の条文の末尾に来ることはまずありえないし、「われら」などという言葉が混入することもないからです。いかにも日本国民の自発的意志により作られたかのように見せるため、姑息な姑息な偽装を施したのですが、文体を見れば誰の文章かは明らかです。そのうえ、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」と美しく飾ってみても、残念なことに「国益のみを愛する諸国民の権謀術数と卑劣に警戒して」が、現実なのです。
  ともあれこの前文により、日本国の生存は他国に委ねられたのです。
  第9条の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」は前文の具体的内容です。自国を自分で守らないのですから、どこかの国に安全保障を依頼する以外に国家が生き延びる術はありません。そして安全保障を依頼できる国としてアメリカ以外にないことは自明でした。すなわち、日本はこの前文と第9条の作られたこの時点でアメリカの属国となることがほぼ決定されたのです。この憲法が存在する限り真の独立国家ではありません。中国に「アメリカの妾国」と馬鹿にされても仕方ないのです。(〜p64)
 p104〜
  南京大虐殺の不思議
  「南京大虐殺」も実に不思議な事件でした。1937年12月13日に南京を陥落させた日本軍が、その後6週間にわたり大規模な虐殺行為を行ったというものです。
  1997年にアメリカで出版された五十万部を超えるベストセラーとなった、中国系アメリカ人アイリス・チャンによる『ザ・レイプ・オブ・南京』によりますと、「ヒットラーは6百万人のユダヤ人を殺し、スターリンは4千万以上のロシア人を殺したが、これらは数年をかけて行われたものだ。レイプ・オブ・南京ではたったの数週間で市民30万人を殺し、2万人から8万人の女性を老若かまわず強姦し豚のように殺した、という点で史上最悪のものだ。天皇を中心にした日本政府がこれを仕組んだ」という内容のものです。「日本兵は女性の腹を裂き、胸を切り刻み、生きたまま壁に釘づけにした。舌を鉄の鉤に吊るしたり、埋めてセパードに食い散らかせた」などとも書いてあります。
  私達の父や祖父達がこんなことを組織的にしていたとしたら、私たち日本人は百年は立ち上がれないでしょう。祖国愛や誇りを持つなどということもあり得ないことです。
  そのためにも事実を明らかにし、東京裁判史観に染まった国民にどうしても真実を知ってもらう必要があります。
  1937年12月、南京攻略を決めた松井石根大将はとても神経質になっていました。日露戦争に従軍したことのある松井大将は、かつて世界1規律正しいと絶賛された軍隊でロシアと戦ったことを誇りに思っていました。
  そこで攻勢前に兵士たちに、「首都南京を攻めるからには、世界中が見ているから決して悪事を働いてはならぬ」という趣旨の「南京攻略要綱」をわざわざ兵士に配り、厳正な規律を徹底させました。これ自体が稀な行為です。そのうえ、還暦を目前に控えた松井大将は、陸軍大学校を首席で卒業した秀才ですが、若い頃からアジアの団結を唱える大アジア主義に傾倒していて根っからの親中派でした。孫文の革命を支援したばかりか、若き蒋介石が日本の陸軍士官学校に留学した時は親身で面倒まで見てやった人です。運命のいたずらで愛弟子と戦わざるを得なくなり、せめて規律だけは保たせようと思ったのでしょう。そして、攻略を始める前日の12月9日、南京包囲を終えた松井大将は中国軍に対し、民間人の犠牲を避けるため10日正午までに南京を解放するよう勧告しました。蒋介石をはじめ政府と軍の首脳はすでに7日に首都を放棄していました。続いて役人、警察官、郵便局員と姿を消したため、水道は止まり電気も消え、無政府状態となりました。
 p106〜
  ほとんどの戦争では、中国でもヨーロッパでも、市民を巻き添えにしないため軍隊は市内から出るものです。第2次大戦でパリはドイツに占領され、後に連合軍に占領されましたが、どちらの場合も軍隊は市街を出たので美しい町が保たれたのです。北京や武漢でも中国兵は町から出たので市民巻き添えという混乱はありませんでした。
  南京守備軍の唐生智司令官はこれを無視しました。「首都と運命を共にする」と広言していた彼は、日本軍の猛攻を受け陥落寸前というときに撤退命令を出すや、逃げ出してしまいました。指揮系統はすでに失われていたので数万の兵に撤退命令は伝わりませんでした。大混乱の最大原因です。降伏命令だったら何も起きなかったからです。
  『「南京事件」の総括』(田中正明著、小学館文庫)に、軍服を脱ぎ捨てた数千の中国兵が安全区に入ってきてからの混乱が詳述されています。南京市は首都といっても面積は世田谷区の3分の2ほどの狭さです。日本軍の攻撃の迫った12月1日、南京市長は全市民に対し、安全区、すなわち国際委員会が管理する地区に避難するよう命令します。安全区は、狭い南京の一角に作られた2千?四方程度の最小の地区です。日本軍が攻略を始めた12月10日には、すでに揚子江上流に避難した中上流階級の人々を除く、全市民がここ安全区に集まっていました。 資料により異なりますが、この段階における安全区人口は12万から20万の間です。「惨劇」があったとしたら、すし詰めとなったこの安全区で起きたはずなのです。
  ところが不思議なことに、南京に入城した幾万の日本兵も、共に入城した百数十名の日本人新聞記者やカメラマンンも誰一人そんな惨劇を見ていないのです。皆が一糸乱れぬ口裏を合わせているのでしょうか。こんな狭い所で大虐殺が行われたというのに、そこに住んでいた国際委員会の外国人や外国人記者も目撃していません。
  日本軍が入城した12月13日から翌年2月9日までに、国際委員会は日米英の大使館に61通の文書を提出しており、そこには殺人49件、傷害44件、強姦361件(うち被害者多数3件、被害者数名6件)などがありますが、大虐殺と呼べるものはありません。この数字自身も、国際委員会書記スマイス教授が認めたように、検証されたものではなく中国人からの伝聞によるものでした。また国府軍側の何應欽将軍が直後の1938年春に提出した大部の報告書にも、南京での虐殺を匂わせるものはいっさいありません。無論、市民虐殺を示唆する日本軍の作戦命令も存在しません。
  当時、中国に関して最も権威ある情報源とされていた「チャイニーズ・イヤーブック」と呼ばれる年鑑がありました。上海で英国系新聞が出版していたものです。これにも虐待の影はありません。
  一口で言うと、虐殺を示す第一次資料は何一つないということです。(〜p108)
 p110〜
  東京裁判で再登場した
  「南京大虐殺」が再登場したのは、南京戦後8年半もたった1946年、東京裁判においてです。証人となった中国人が次々に大虐殺を「証言」しました。日本兵は集団をなし、人を見れば射殺、女を見れば強姦、手当たり次第の放火と掠奪、屍体はいたる所に山をなし、血は河をなす、という地獄さながらの描写ばかりでした。
  この裁判は、通常の裁判とはまったく異なり、証人宣誓が求められず証拠検証もされませんでしたから、言いたい放題だったのです。殺害者数30万人という証言に疑念を抱いたロヴィン弁護人が「私の承知している限りでは南京の人口は20万ですが」と質問すると、ウェッブ裁判長は「今はそれを持ち出すときではありません」と慌ててこの発言をさえぎりました。
  中国人だけでなく金陵大学(のちの南京大学)のベイツ教授など数人の欧米人も証人として出廷しました。ベイツ教授は事件時に南京にいて国際委員会のメンバーであり、「戦争とは何か」を書いたティンパーリに、書簡で事件を教えた人です。「1万2千人の市民を含む非武装の4万人近い人間が南京城内や城壁の近くで殺されたことを埋葬記録は示している」という趣旨の証言をしましたが、やはり中国人からの伝聞のみです。
  埋葬死体が戦死者のものかどうかも確認していません。実はベイツ教授は、やはり国際委員会に属する金陵大学のスマイス教授と、1938年の3月から4月にかけて、多数の学生を動員して南京市民の被害状況を調査していました。スマイス教授は社会学が専門なのでこの種の調査には慣れていて、50戸に1戸を無差別抽出して、2人1組の学生がそこを訪れ質問調査するという方法でした。
  この日時をかけた調査結果は、日本兵の暴行による被害者は、殺された者2400人、負傷した者3050人でした。(「南京地区における戦争被害調査」)。ただし、調査は被害者救済のためのもので、誰も住んでいない家は調査対象となっていませんから、家族全員が犠牲になった家などは統計に入っていません。また死亡者の中に、南京に自宅のある兵で便衣兵(軍服を脱いで一般市民に混じった中国兵)として処刑された者もかなり混じっているはずです。この人たちは市民でもあります。というわけで実数はある程度上下するはずです。しかしこの調査はほとんど唯一の第1次資料と言えるものです。
  ベイツ教授はこの調査を知っていながら、東京裁判では大いに水増ししました。そればかりか、
  「日本軍侵入後何日もの間、私の家の近所の路に、射殺された民間人の屍体がゴロゴロしておりました。スマイス教授と私は調査をした結果、城内で1万2千人の男女及び子供が殺されたと結論しました」
  と述べたのです。一方のスマイス教授の東京裁判への出廷は、弁護側が要求したにもかかわらず認められませんでした。ベイツ教授は1938年と1946年に蒋介石より勲章をもらっていました。
  またマギー牧師は法廷で延々と日本軍による殺人や強姦の事例を証言しましたが、ブルックス弁護人に「実際に自分で見たのはそのうちの何件か」と問われ、「実際に見たのは1件だけ」と白状しました。しかもそれは、日本軍歩哨に誰何され逃げ出した中国人青年が射殺された件でした。当時、中国にいた宣教師たちが国民党におもねっていたことは、アメリカの上海副領事をしていたラルフ・タウンゼントが1933年に出版した『暗黒大陸中国の真実』(芙蓉書房出版)などに記されています。
 p120〜
  私は大虐殺の決定的証拠が1つでも出てくる日までは、大虐殺は原爆投下を正当化したいというアメリカの絶望的動機が創作し、利益のためなら何でも主張するという中国の慣習が存続させている、悪質かつ卑劣な作り話であり、実際は通常の攻略と掃討作戦が行われただけと信ずることにしています。さらに事を複雑にしているのは日本国内に、大虐殺を唱え続けることこそが良心と平和希求の証し、という妄想にとらわれた不思議な勢力があることです。「南京大虐殺」は歴史的事実ではなく政治的事実ということです。事実であるという決定的証拠が1つでも出るはるか前に、「カチンの森」が事件発生50年後のソ連崩壊時に告白されたごとく、「南京大虐殺」の真実が、アメリカの情報公開で明るみに出るか、中国の一党独裁崩壊後に告白されるのではないかと考えています。
  ただし、アメリカは時が来れば何でも情報公開する公平でオープンな国のように見えますが、肝心のものは公開しません。真珠湾攻撃前1週間の暗号解読資料とかケネディ大統領暗殺犯などについては、今もすべてを出そうとしません。南京事件が原爆投下と関係しているとしたら容易には出さないでしょう。
  南京の話が長くなったのは、これが未だに日本人を委縮させているからです。中国に対して言うべきことも言えないでいる理由だからです。尖閣諸島が中国のものと言っても、自分から体当たりしてきて謝罪と賠償を高らかに唱えても、怒鳴りつけることもできず、下を向いたまま「領土問題は存在しません」とつぶやくだけの国となっているからです。
  20年以上にわたり毎年10%以上も軍事費を増加させるという中国の異常な軍備拡大に抗議するどころか、すでに6兆円を超すともいわれる巨額のODAを与え、さらに援助し続けるのも、自らの対中防衛力を高める努力もしないでハラハラしているだけなのも、中国の不当な為替操作を非難しないのも、「南京で大虐殺をしましたよね」の声が耳にこだまするからです。中国の対日外交における最大の切り札になっているのです。 (〜p121)
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石原慎太郎著『新・堕落論』新潮選書2011/7/20発行
p29〜
  さらにその結果、あの戦争を起こした日本だけを一方的に悪人とした、いわゆる東京裁判史観が、戦後において日本の近代史、現代史を考える基準にされてしまったのです。
  東京裁判でも外国人を含めて一部の弁護人が、あの戦争の中でアメリカが行った戦争における非道、つまり戦争の在り方を既定したジュネーブ条約違反を列挙してみせたが(〜p29)相手にはされなかった。
 p30〜
  ジュネーブ条約では戦闘によって意識的に非戦闘員を殺してはならぬとありますが、アメリカの原爆投下は一瞬にして20万人を超す日本人を殺戮してしまった。
  その他の例としても(中略)制空権を失っていた首都東京に、アメリカの空軍司令官のルメイは、それまで高射砲の届かぬ亜成層圏を飛んでいたB29を超低空の2、3百?を飛ばせ、焼夷弾による絨毯爆撃をさせ一晩で十万人を超す都民を殺戮してしまった。
  これは相手側の記録にもあるが、その計画に一部のスタッフはこれはあきらかにジュネーブ条約違反だと反対したが、ルメイは「日本は薄汚い国だから、焼いて綺麗にするのだ」と公言しことを行ってしまったのです。その相手に日本は戦後、航空自衛隊の創立に功あったとして勲章を贈ったのだから馬鹿みたいに人のいい話だ。
  日本及び日本人が真に自立するために絶対に必要な精神的要件とは、連合軍が勝利者(〜p30)として一方的に行った東京裁判の歴史観を払拭することです。
p31〜
  そのための格好のよすががあります。敗戦後日本を統治君臨したマッカーサー元帥は、帰国後アメリカ議会で、日本が引き金を引いた太平洋戦争は、歴史的に、あくまで自衛の戦争だったということがわかった、と証言しているのです。その訳は、その頃になって、日本を開戦に追い込んだ悪名高いハル・ノートは国務長官だったコーデル・ハルが書いたものではなく、実は彼のスタッフだったホワイトという男がものしたということがわかり、さらにマッカーシー上院議員による赤狩りの中でホワイトがなんとコミンテルンの隠れたメンバーだったことが露見しホワイトは自殺に追い込まれた。
  モスクワの密命を受けたスパイが、ソヴィエトの南進の野心を遂げさせるために日本を戦争に追い込み、実際にソヴィエトは敗戦のどさくさに南下して日本の北方領土をかすめとってしまったのです。
  ハル・ノートとは、日本が近代化以来行った戦争、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦での勝利の結果獲得した海外領土と種々権益を一切放棄して返さぬ限り、アメリカ、イギリス、フランスの国々は一切の物資の供給を停止するという過酷なものでした。戦争に反対し続けていた昭和天皇もそれを見て、ここまでいわれるのなら覚悟せざるを(〜p31)得まいと決心をされたのです。
 p32〜
  アメリカ議会における、かつて占領時代の統治者マッカーサー元帥の重要な証言は、東京裁判を行わしめた当事者としての画期的な認識を示したものなのに、なぜか日本の政府、特に文部省はその重要な史実を教科書に載せることは禁止してきました。これは敗者の卑屈とか弱腰などというよりもまさに売国的な指導でしかありはしない。
  日本は売られた喧嘩をやむなく買ったのに、有色人種ゆえに野放図な侵略者として位置づけられ、それを一方的に断定した東京裁判のトラウマから未だに抜けきれずにいるのです。自らのことながら、情けないというより哀れといわざるを得ない。
p66〜
   「核の傘」という幻
  アメリカによる日本統治は実に巧みに、実に効果的に運ばれてきたものだとつくづく思います。
  その象徴的な証左は広島の原爆死没者慰霊碑に記された「過ちは繰返しませぬから」という自虐的な文言です。これでは主語は我々日本人ということになる。過ちを犯したのは、彼らアメリカ人ではないか。 (略)
  人類にとっての原爆の悲劇性について実は1番肝に銘じていたのは、原爆の被害者たちの他には、原爆を造った当人のオッペンハイマーだったと思います。
 p67〜
  彼の伝説を読めば彼が逡巡しながらものした原爆の絶大な効果に彼自身が強い衝撃を受け、人間としての良心から原爆につづいての水爆製造に携わることを拒否し、非米活動委員会で非国民として糾弾されたことでもわかります。(略)
  慰霊碑に記されている「過ちは繰返しませぬから」という自虐的言葉の呪縛は、日本が持てる技術力によって核兵器を製造保有することをタブーにしてしまいました。
  世界で初めての原爆投下で、瞬時にして20万余の非戦闘員を殺してしまったのはアメリカ人であって他の誰でもありはしない。あの強力な破壊兵器の使用について、それを過ちとして反省すべきはアメリカ人であって、その相手の殺された日本人であるはずがない。記念碑の文言の主語があきらかに違っています。
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