ニュースの匠:私情が一番コワい=鳥越俊太郎
私が小沢一郎氏を当コラムで取り上げると、いわゆるジャーナリストと称する方々が次々と私の実名をあげて批判を展開する。よほど痛いところを突いてしまったのかもしれない。朝日社説子しかり。今回は私の大先輩、岩見隆夫氏(「サンデー毎日」1月30日号「サンデー時評」)です。
私もそのコラムの見出しにならって「岩見隆夫さんは間違っている」というタイトルで反論してみます。岩見さんの論点は「『不起訴=虚構』はとんでもない短絡」という批判です。その論拠として検察内部に処分を巡って対立があったことや起訴論が検察内部にあったことを挙げる。しかし、内部に何があろうと<不起訴>という現実が法と証拠に基づく司法の最終結論であり、結論までのプロセスでいろいろ議論があったらしいという推論で小沢氏を黒く見せようとする立論は、私の恐れるファシズムへの道であります。
岩見氏は戦争の体験をどう総括されているのか。<アカ>という言葉ですべての戦争反対論者を葬り去り、国民を戦争賛美者に駆り立てていった苦い経験。私たちメディアで働く者は、分かりやすい言葉で国民を雪だるまが坂道を転がり落ちるような状態にしてしまわないように心すべきである。私はいま、「政治とカネ」の言葉が国民を思考停止状態に陥らせていると判断するのであえて「言葉のファシズム」という表現を取らせていただいたのです。
岩見さんは、鳥越の主張は「検察不信」が小沢擁護に直結しているという。私はそんな感情論からスタートしているのではない。「検察の現実」からスタートしているのです。
あえて言わせてもらうと、岩見さんは「長年、政治記者として小沢という人物を観察してきた確信である」といい、法と証拠で論ずべきところに自分の“長年の確信”という私情をはさんできた。<オレの見てきた小沢なら今度も有罪に違いない>。こうした思い込みがコワいのです。毎日新聞2011年2月7日東京朝刊
<岩見隆夫氏のコラム>サンデー時評:鳥越俊太郎さんは間違っている(サンデー毎日 2011年1月30日号掲載) <議論の元になったコラム>ニュースの匠:「政治とカネ」の問題点は…=鳥越俊太郎(1月10日掲載)
1月10日 「政治とカネ」の問題点は…=鳥越俊太郎 12月6日 告発者が上等兵とは=鳥越俊太郎 11月8日 正義を捨てた組織=鳥越俊太郎 10月4日 「市民の力」は正しいか=鳥越俊太郎
◆サンデー時評:鳥越俊太郎さんは間違っている
ディベート(討論)能力が著しく衰えていることを、最近強く感じる。相手の主張を十分ソシャクしたうえで、自分の説を組み立てる、という当然のことができない。
討論の主戦場である国会でも、同じ傾向が顕著だ。双方、自説を繰り返すばかりで噛み合わず、ついには不規則発言が飛び出して、閣僚更迭などという騒動にまで発展する。
言論界も例外でない。テレビでおなじみの鳥越俊太郎さんは、古くからの友人ではあるが、先日、民主党の小沢一郎元代表の〈政治とカネ〉をめぐる批判に対して、
〈きちんとした検証抜きのレッテル貼りは、言葉のファシズムではないのでしょうか〉
と書いているのを見て、唖然とした。鳥越さんが『毎日新聞』に連載している〈ニュースの匠〉というコラム(一月十日付)のなかである。
ファシズムとは極めつきのレッテル貼りではないか。私のように、新聞、雑誌、テレビで小沢さんの批判を続けてきた者にとっては、突然、ファシスト呼ばわりされたような気分で、驚き入るばかりだ。ここは一言しないわけにはいかない。
鳥越さんはベテランのジャーナリストでありながら、ディベートの原則を踏みはずしている。小沢批判側の主張をまったくソシャクしていない。〈言葉のファシズム〉と結論づける前提として、鳥越さんは、
〈私自身は二つの事件(西松建設違法献金事件と資金管理団体「陸山会」の政治資金規正法違反事件)を巡る東京地検特捜部の動きとマスコミの連動を当初から検証していますが、特捜部が見立てをし、その通り捜査を行ったものの、結局はその見立ては何ら証明されず、最後は不起訴に終わった、いわば“巨大な虚構”に過ぎませんでした〉
と決めつけた。虚構とは実体がないことである。それを根拠に騒ぎ立てるのはファシズム、というのが鳥越さんの立論だ。実際に虚構なら、そういう主張もありうるのかもしれないが、果たして虚構だろうか。さらに、こう続けている。
〈“虚構”は転がる過程でマスコミを通じて大音響のこだまを生じさせ、首相から大阪のおばちゃんまで、何かといえば「政治とカネ」というようになりました。小沢氏のどこが、なぜ問題なのか?〉
私は一ジャーナリストとして、言葉のファシズム、などという恐ろしい表現は一生に一度使うことがあるかどうかと思っているが、こういう鳥越流の、検察捜査の失敗→虚構→マスコミの過熱→ファシズム、という論の組み立て方には、すかすかのスイカを外見上、おいしいスイカに見せるような危うさがある。いかにも短絡的なのだ。
◇不起訴イコール虚構とはとんでもない短絡である
まず、虚構論である。小沢さんは、西松事件では、
「一点のやましさもない」
と繰り返し、陸山会事件では、
「信頼する秘書にすべて任せてきた」
と述べているが、鳥越さんはそれを信じているらしい。私は信じていない。長年、政治記者として小沢という人物を観察してきた確信である。
鳥越さんは不起訴イコール虚構と断じた。とんでもない短絡だ。これまで検察が狙いをつけ追及したが、起訴に至らなかった大物政治家は何人もいる。ほとんどは小沢さんと同様、嫌疑不十分によるものだった。潔白ではなく、虚構でもない。
小沢さんの不起訴処分が決定した日、東京地検の特捜部長は、
「検事の数ほど意見があった」
と言い、処分をめぐって内部に対立があったことをほのめかした。虚構でないことの重要な裏づけだ。
次に、鳥越さんの主張は、検察不信が小沢擁護に直結しているように読み取れる。それは明らかにおかしい。〈特捜部の見立ては何ら証明されず……〉と鳥越さんは言うが、〈何ら〉は間違いだ。疑いはいろいろあったが、起訴に至らなかった、検察内部には起訴論もあった、というのが真相である。不起訴処分の背景は、検察の捜査能力の不足によるのか、首脳陣の政治判断か、あるいは実際に違法性が乏しかったのか、ヤブのなかだ。
鳥越さんが検察不信のわりには、小沢さんの不起訴を頭から信じているのは解せない。不起訴に疑問を持ったから、検察審査会は二度も〈起訴相当〉を議決したのであって、検察不信なら検審に共感を示すほうが筋が通るのではないか。
だが、そんなことよりも、鳥越さんにぜひソシャクしていただきたいのは、いわゆる小沢問題の問題性である。〈政治とカネ〉は象徴的な断面でしかない。
小沢さんの政治感覚は古すぎる。いにしえの専制的なボス支配に近い。それを議会制民主政治に当てはめるには、(1)権力闘争に勝って、支配権を握る(2)そのために、選挙戦を制して多数派を確保しなければならない(3)選挙に勝ち抜くには、大量の資金調達が必要である─という三段論法的な政治手法を取る以外にない、と小沢さんは信念的に考えているようだ。
この手法はほかの政治リーダーにとっても避けて通れない道のりである。だが、ほかのリーダーとの違いは、小沢さんは手段を選ばないような強引さで突っ走ってきた点だ。その一つの表れが〈政治とカネ〉の疑惑にみられる突出した金権体質であり、剛腕といわれるゆえんだ。
四十年近く前、〈田中支配〉が騒がれ、田中角栄元首相の失脚につながっていったが、それをしのぐ〈小沢支配〉を危惧する空気が、政界の内外に広がったのは当然で、戦後政治の学習効果である。私も危惧する一人だ。
虚構を転がす、というような見当はずれの呑気な話ではない。鳥越さんは〈大阪のおばちゃん〉を持ち出し、庶民レベルにも批判の目を向けているが、庶民はしばしば敏感だ。八割が小沢さんに不信の目を向けている。それはファシズムなんかであるはずがなく、素朴な不安だ。(サンデー毎日 2011年1月30日号)2011年1月19日
岩見 隆夫(いわみ・たかお)
毎日新聞客員編集委員。1935年旧満州大連に生まれる。58年京都大学法学部卒業後、毎日新聞社に入社。論説委員、サンデー毎日編集長、編集局次長を歴任。
◆政治資金規正法を皆さん勘違い。小沢さんがいなくなることはプロの政治家がいなくなること=安田弁護士
7/19緊急シンポジウム!! ''ニッポン''は何を守ろうとしているのか!H.22-06-08
「唯一はっきりしている条文があるんです。政治資金規正法で処罰されるのは、会計責任者だけなんです。政治家は処罰されないんです。政治家は処罰の対象から外れているんです。始めから、そういう法律なんです。そもそも法律の目的というのは、会計責任者が責任を持って会計の結果について報告する、ということが義務付けられているんです。ところが皆さん、勘違いしている。小沢さんが秘書と一蓮托生で処罰されるべきだと。これほど法律違反、法律の主旨に反することは、ないんです。つまり、どこかで法律が歪められて、トリッキー歪められて、つまり、政治資金規正法は政治家取締法なんだというふうに完全に勘違いしている。この勘違い、実は検察審査会も、まったく同じ評決をしているわけですね。小沢さんは、これだけ権力を持っている人間が、小沢さんの指示なしに物事が行われるはずがない、と。しかし法律の枠組みは、およそそんなことは無いんです。もし小沢さんが有罪になるとすればですね、責任者との共犯なんです、あくまでも。単に、知っていたとか、報告受けていたとか、そんなことでは共犯になるはずありませんね。これは、税理士さんが「これで申告しますよ」と言って「ああ、はい、どうぞ」って言ったら共犯になるか、といえば、そんなことはないわけなんです。ですからもし小沢さんが共犯になるとすれば「おい、石川、こうやれ」という形ですね。「こうやらんと許さんぞ」と、指示・命令、絶対的に服従させたと、そういう場合に初めて共犯として存在する。それを皆さん、完全に誤解している。大変な誤解(笑)。それで、皆さん、恐らくテレビなどで論評していらっしゃる。
次の問題です。政治資金規正法の中に、何を記載せよとか、どのような会計原則に則れとか、何一つ書いてないんです。ですからたとえば、ちょっとお金を借りましたとか、立て替えて貰いましたとか、或いは、今日帳簿に載せるよりは来年のほうに載せとこうか、というような話は、本当に虚偽記載になるのかどうか、或いはそれを載せなければならないのかどうか、それさえもあの法律の中には書いてないんですよ。つまり、虚偽を記載してはいかん、という話だけなんですよ。何が虚偽なのか、さえ書いていない。しかしそれを検察が勝手に解釈してですね、例えば今回の場合の、今年載せずに来年載せたということが犯罪だと、虚偽だと、やったわけです。或いはAという政治団体からお金貰った、それを実はこうだった、違う人だった、と言って、それは虚偽だというわけですね。しかしAという政治団体を通して貰ったんだから、それを記載するのは当たり前の話でして、それを虚偽といえるかどうか、それこそ大変大きな問題なわけです。ですから小沢さんの一昨年の問題、或いは今年の問題、いずれも法律の解釈を彼らがやって初めて有罪に出来るだけの話でして。ですから立法者の条文とは違うんですね。
ですからこの間(かん)も法律が守られずにどんどんどんどんきている。今回典型的なことはですね、石川さんが逮捕されました。しかしその2日後、3日後ですかね、3日後には国会が開かれるわけです。国会が開かれた場合、国会議員を逮捕するためには国会の議員の議決の承諾がないといけないわけなんです。それを抜き打ち的に、先達する形で石川さんを逮捕する。これは立法権に対する侵害じゃないですか。つまり憲法違反の事を彼ら、やっているわけです。つまり憲法に違反している行為に対する批判がどこにもない。これは、私ももう、大変びっくりしたわけです。
検察はしっかりしと政治をやっている、というふうに私は理解しているんです。例えば今回、石川さんの弁護をやっていて3日目か4日目ですかね、あ、検察はこれを狙っているな、というのは大体、私も、石川さんが検察にどういうことを言われているかというのを聞いて分かるんです。
つまり検察は小沢さんを逮捕することは恐らく不可能だろうと最初から思った。しかし検察審査会で勝負をかける、ということを彼らは考えている。彼らのやり方はこうだな、と。検察審査会で起訴相当を取ることによって小沢さんの政治生命を奪う、と。そのシナリオ通りに見事に小沢さんの政治生命はなくなってしまった。ま、これが今回のシナリオでですね。小沢さんを直接起訴すれば当然全面戦争になってしまうわけでして。むしろ国民を総動員して、或いは市民という名を、怒れる11人の市民を使って小沢さんの政治生命を奪うという戦術に彼ら、でてきた。
で検察審査会も、トリック、ま、検察審査会には助言者といってですね、弁護士がその場に同席していろんな助言をするわけです。法律の解釈とかそういうものを。恐らくその助言者がとんでもない助言をしたんだろうと思うんです。どういうことかというと、政治資金規正法は政治家の犯罪、取締法なんだという解説をしたんだと思うんです。
ですからとんでもない、検察でさえ起訴しなかったものを検察審査会が起訴相当という結論をだしたんだろうと、そしてそのことを検察は最初から予想、予定していたんだろうと、そう思うわけです。
先に、情緒的な風潮の中で有罪無罪が決まっていくと、そういう話がありましたけど、私は思うんですね。弁護士は弁護士として、政治家は政治家として、メディアの人間はメディアの人間として、それぞれの人間がプロ的な精神を持ってそれぞれの職責を全面的に発揮すれば、おそらくこんな体たらくな状態にはならんだろうと思うんです。法廷でも、捜査段階から弁護士が弁護人として責任をしっかりと果たせば、恐らく情緒的な社会の動きに対してたえることが出来る、或いは十分に弁護して勝つことが出来るだろうと思うんですね。
プロ性がどんどん抜けていく、今回の政権交代でも、ま、アマチュアの集団というか、益々プロがなくなる。小沢さんがいなくなることは、プロがいなくなる、そういうことだろうな、と。崩壊の社会が来たな、と。プロが居なくなるということは、結局情緒的なものに流されるし、或いは、世間の風潮に流される、とこういう時代に益々突入したな、と思っているんです。 *強調(太字)は来栖
◆人民裁判と暗黒日本「たった1人」に殺された小沢一郎/?推定有罪?で政治家を「私刑」にする検察審査会2010-10-13 | 政治/検察/メディア/小沢一郎
◆来年民主党大会前日(2011/01/12)小沢氏起訴との情報(=官邸の党大会対策) 平成ファシズム2010-12-17
「小沢問題」にみる「平成のメディア・ファシズム」Infoseek 内憂外患 2010年12月17日 13時00分 平野貞夫
わが国で、深刻なファシズムが始まっていることに気がついている人は何人いるだろうか。「平成ファシズム」といってもよいし、実体から言えば「メディア・ファシズム」ともいえる。
「小沢問題」とは、昨年3月の西松事件から始まり、陸山会事件などについて、「小沢氏は国会で説明責任を果たしていない」との野党要求に対し、与党民主党執行部が最初は国会対策として、その後は菅政権の延命策として、小沢氏をまずは政治倫理審査会等の場に引っ張り出そうとして、民主党内が混乱している問題である。
「小沢問題」は政治倫理審査会で審査できる問題ではない。マスメディアが言論の暴力で、小沢排除の先頭に立ち、民主政治を崩しているのが問題である。
・ファシズムとメディア
「ファシズム」をひと言で定義するのは難しい。平凡社の世界大百科事典を要約すれば「資本主義の全般的危機の産物であり、崩壊しそうな資本主義を守るため、権力が市民の民主主義的諸権利を踏みにじり、議会の機能を麻痺させ暴力的支配をおこなう」となる。現代のファシズムを論じるとき、何が「暴力的支配」に当たるかが問題となる。
「自衛隊は暴力装置だ」と国会で場違いの発言をして問責決議案が可決され、居座りを続けている大臣がいる。参考になる話だ。現代社会の「暴力装置」は、『巨大マスメディア』といえる。「馬鹿なことを言うな」と、「社会心理的暴力装置」の代表者ナベツネさんたちは怒ると思うが、心理的には間違いなく「暴力装置」だといえる。
現代の情報社会では、マスメディアは完全に立法・行政・司法に次ぐ第四権力である。前者三権は憲法で規制されているが、マスメディアは野放し状態である。実体として立法・行政・司法の三権は、マスメディアがコントロールする世論によって影響を受け支配されているのだ。・・・
私が小沢一郎氏を当コラムで取り上げると、いわゆるジャーナリストと称する方々が次々と私の実名をあげて批判を展開する。よほど痛いところを突いてしまったのかもしれない。朝日社説子しかり。今回は私の大先輩、岩見隆夫氏(「サンデー毎日」1月30日号「サンデー時評」)です。
私もそのコラムの見出しにならって「岩見隆夫さんは間違っている」というタイトルで反論してみます。岩見さんの論点は「『不起訴=虚構』はとんでもない短絡」という批判です。その論拠として検察内部に処分を巡って対立があったことや起訴論が検察内部にあったことを挙げる。しかし、内部に何があろうと<不起訴>という現実が法と証拠に基づく司法の最終結論であり、結論までのプロセスでいろいろ議論があったらしいという推論で小沢氏を黒く見せようとする立論は、私の恐れるファシズムへの道であります。
岩見氏は戦争の体験をどう総括されているのか。<アカ>という言葉ですべての戦争反対論者を葬り去り、国民を戦争賛美者に駆り立てていった苦い経験。私たちメディアで働く者は、分かりやすい言葉で国民を雪だるまが坂道を転がり落ちるような状態にしてしまわないように心すべきである。私はいま、「政治とカネ」の言葉が国民を思考停止状態に陥らせていると判断するのであえて「言葉のファシズム」という表現を取らせていただいたのです。
岩見さんは、鳥越の主張は「検察不信」が小沢擁護に直結しているという。私はそんな感情論からスタートしているのではない。「検察の現実」からスタートしているのです。
あえて言わせてもらうと、岩見さんは「長年、政治記者として小沢という人物を観察してきた確信である」といい、法と証拠で論ずべきところに自分の“長年の確信”という私情をはさんできた。<オレの見てきた小沢なら今度も有罪に違いない>。こうした思い込みがコワいのです。毎日新聞2011年2月7日東京朝刊
<岩見隆夫氏のコラム>サンデー時評:鳥越俊太郎さんは間違っている(サンデー毎日 2011年1月30日号掲載) <議論の元になったコラム>ニュースの匠:「政治とカネ」の問題点は…=鳥越俊太郎(1月10日掲載)
1月10日 「政治とカネ」の問題点は…=鳥越俊太郎 12月6日 告発者が上等兵とは=鳥越俊太郎 11月8日 正義を捨てた組織=鳥越俊太郎 10月4日 「市民の力」は正しいか=鳥越俊太郎
◆サンデー時評:鳥越俊太郎さんは間違っている
ディベート(討論)能力が著しく衰えていることを、最近強く感じる。相手の主張を十分ソシャクしたうえで、自分の説を組み立てる、という当然のことができない。
討論の主戦場である国会でも、同じ傾向が顕著だ。双方、自説を繰り返すばかりで噛み合わず、ついには不規則発言が飛び出して、閣僚更迭などという騒動にまで発展する。
言論界も例外でない。テレビでおなじみの鳥越俊太郎さんは、古くからの友人ではあるが、先日、民主党の小沢一郎元代表の〈政治とカネ〉をめぐる批判に対して、
〈きちんとした検証抜きのレッテル貼りは、言葉のファシズムではないのでしょうか〉
と書いているのを見て、唖然とした。鳥越さんが『毎日新聞』に連載している〈ニュースの匠〉というコラム(一月十日付)のなかである。
ファシズムとは極めつきのレッテル貼りではないか。私のように、新聞、雑誌、テレビで小沢さんの批判を続けてきた者にとっては、突然、ファシスト呼ばわりされたような気分で、驚き入るばかりだ。ここは一言しないわけにはいかない。
鳥越さんはベテランのジャーナリストでありながら、ディベートの原則を踏みはずしている。小沢批判側の主張をまったくソシャクしていない。〈言葉のファシズム〉と結論づける前提として、鳥越さんは、
〈私自身は二つの事件(西松建設違法献金事件と資金管理団体「陸山会」の政治資金規正法違反事件)を巡る東京地検特捜部の動きとマスコミの連動を当初から検証していますが、特捜部が見立てをし、その通り捜査を行ったものの、結局はその見立ては何ら証明されず、最後は不起訴に終わった、いわば“巨大な虚構”に過ぎませんでした〉
と決めつけた。虚構とは実体がないことである。それを根拠に騒ぎ立てるのはファシズム、というのが鳥越さんの立論だ。実際に虚構なら、そういう主張もありうるのかもしれないが、果たして虚構だろうか。さらに、こう続けている。
〈“虚構”は転がる過程でマスコミを通じて大音響のこだまを生じさせ、首相から大阪のおばちゃんまで、何かといえば「政治とカネ」というようになりました。小沢氏のどこが、なぜ問題なのか?〉
私は一ジャーナリストとして、言葉のファシズム、などという恐ろしい表現は一生に一度使うことがあるかどうかと思っているが、こういう鳥越流の、検察捜査の失敗→虚構→マスコミの過熱→ファシズム、という論の組み立て方には、すかすかのスイカを外見上、おいしいスイカに見せるような危うさがある。いかにも短絡的なのだ。
◇不起訴イコール虚構とはとんでもない短絡である
まず、虚構論である。小沢さんは、西松事件では、
「一点のやましさもない」
と繰り返し、陸山会事件では、
「信頼する秘書にすべて任せてきた」
と述べているが、鳥越さんはそれを信じているらしい。私は信じていない。長年、政治記者として小沢という人物を観察してきた確信である。
鳥越さんは不起訴イコール虚構と断じた。とんでもない短絡だ。これまで検察が狙いをつけ追及したが、起訴に至らなかった大物政治家は何人もいる。ほとんどは小沢さんと同様、嫌疑不十分によるものだった。潔白ではなく、虚構でもない。
小沢さんの不起訴処分が決定した日、東京地検の特捜部長は、
「検事の数ほど意見があった」
と言い、処分をめぐって内部に対立があったことをほのめかした。虚構でないことの重要な裏づけだ。
次に、鳥越さんの主張は、検察不信が小沢擁護に直結しているように読み取れる。それは明らかにおかしい。〈特捜部の見立ては何ら証明されず……〉と鳥越さんは言うが、〈何ら〉は間違いだ。疑いはいろいろあったが、起訴に至らなかった、検察内部には起訴論もあった、というのが真相である。不起訴処分の背景は、検察の捜査能力の不足によるのか、首脳陣の政治判断か、あるいは実際に違法性が乏しかったのか、ヤブのなかだ。
鳥越さんが検察不信のわりには、小沢さんの不起訴を頭から信じているのは解せない。不起訴に疑問を持ったから、検察審査会は二度も〈起訴相当〉を議決したのであって、検察不信なら検審に共感を示すほうが筋が通るのではないか。
だが、そんなことよりも、鳥越さんにぜひソシャクしていただきたいのは、いわゆる小沢問題の問題性である。〈政治とカネ〉は象徴的な断面でしかない。
小沢さんの政治感覚は古すぎる。いにしえの専制的なボス支配に近い。それを議会制民主政治に当てはめるには、(1)権力闘争に勝って、支配権を握る(2)そのために、選挙戦を制して多数派を確保しなければならない(3)選挙に勝ち抜くには、大量の資金調達が必要である─という三段論法的な政治手法を取る以外にない、と小沢さんは信念的に考えているようだ。
この手法はほかの政治リーダーにとっても避けて通れない道のりである。だが、ほかのリーダーとの違いは、小沢さんは手段を選ばないような強引さで突っ走ってきた点だ。その一つの表れが〈政治とカネ〉の疑惑にみられる突出した金権体質であり、剛腕といわれるゆえんだ。
四十年近く前、〈田中支配〉が騒がれ、田中角栄元首相の失脚につながっていったが、それをしのぐ〈小沢支配〉を危惧する空気が、政界の内外に広がったのは当然で、戦後政治の学習効果である。私も危惧する一人だ。
虚構を転がす、というような見当はずれの呑気な話ではない。鳥越さんは〈大阪のおばちゃん〉を持ち出し、庶民レベルにも批判の目を向けているが、庶民はしばしば敏感だ。八割が小沢さんに不信の目を向けている。それはファシズムなんかであるはずがなく、素朴な不安だ。(サンデー毎日 2011年1月30日号)2011年1月19日
岩見 隆夫(いわみ・たかお)
毎日新聞客員編集委員。1935年旧満州大連に生まれる。58年京都大学法学部卒業後、毎日新聞社に入社。論説委員、サンデー毎日編集長、編集局次長を歴任。
◆政治資金規正法を皆さん勘違い。小沢さんがいなくなることはプロの政治家がいなくなること=安田弁護士
7/19緊急シンポジウム!! ''ニッポン''は何を守ろうとしているのか!H.22-06-08
「唯一はっきりしている条文があるんです。政治資金規正法で処罰されるのは、会計責任者だけなんです。政治家は処罰されないんです。政治家は処罰の対象から外れているんです。始めから、そういう法律なんです。そもそも法律の目的というのは、会計責任者が責任を持って会計の結果について報告する、ということが義務付けられているんです。ところが皆さん、勘違いしている。小沢さんが秘書と一蓮托生で処罰されるべきだと。これほど法律違反、法律の主旨に反することは、ないんです。つまり、どこかで法律が歪められて、トリッキー歪められて、つまり、政治資金規正法は政治家取締法なんだというふうに完全に勘違いしている。この勘違い、実は検察審査会も、まったく同じ評決をしているわけですね。小沢さんは、これだけ権力を持っている人間が、小沢さんの指示なしに物事が行われるはずがない、と。しかし法律の枠組みは、およそそんなことは無いんです。もし小沢さんが有罪になるとすればですね、責任者との共犯なんです、あくまでも。単に、知っていたとか、報告受けていたとか、そんなことでは共犯になるはずありませんね。これは、税理士さんが「これで申告しますよ」と言って「ああ、はい、どうぞ」って言ったら共犯になるか、といえば、そんなことはないわけなんです。ですからもし小沢さんが共犯になるとすれば「おい、石川、こうやれ」という形ですね。「こうやらんと許さんぞ」と、指示・命令、絶対的に服従させたと、そういう場合に初めて共犯として存在する。それを皆さん、完全に誤解している。大変な誤解(笑)。それで、皆さん、恐らくテレビなどで論評していらっしゃる。
次の問題です。政治資金規正法の中に、何を記載せよとか、どのような会計原則に則れとか、何一つ書いてないんです。ですからたとえば、ちょっとお金を借りましたとか、立て替えて貰いましたとか、或いは、今日帳簿に載せるよりは来年のほうに載せとこうか、というような話は、本当に虚偽記載になるのかどうか、或いはそれを載せなければならないのかどうか、それさえもあの法律の中には書いてないんですよ。つまり、虚偽を記載してはいかん、という話だけなんですよ。何が虚偽なのか、さえ書いていない。しかしそれを検察が勝手に解釈してですね、例えば今回の場合の、今年載せずに来年載せたということが犯罪だと、虚偽だと、やったわけです。或いはAという政治団体からお金貰った、それを実はこうだった、違う人だった、と言って、それは虚偽だというわけですね。しかしAという政治団体を通して貰ったんだから、それを記載するのは当たり前の話でして、それを虚偽といえるかどうか、それこそ大変大きな問題なわけです。ですから小沢さんの一昨年の問題、或いは今年の問題、いずれも法律の解釈を彼らがやって初めて有罪に出来るだけの話でして。ですから立法者の条文とは違うんですね。
ですからこの間(かん)も法律が守られずにどんどんどんどんきている。今回典型的なことはですね、石川さんが逮捕されました。しかしその2日後、3日後ですかね、3日後には国会が開かれるわけです。国会が開かれた場合、国会議員を逮捕するためには国会の議員の議決の承諾がないといけないわけなんです。それを抜き打ち的に、先達する形で石川さんを逮捕する。これは立法権に対する侵害じゃないですか。つまり憲法違反の事を彼ら、やっているわけです。つまり憲法に違反している行為に対する批判がどこにもない。これは、私ももう、大変びっくりしたわけです。
検察はしっかりしと政治をやっている、というふうに私は理解しているんです。例えば今回、石川さんの弁護をやっていて3日目か4日目ですかね、あ、検察はこれを狙っているな、というのは大体、私も、石川さんが検察にどういうことを言われているかというのを聞いて分かるんです。
つまり検察は小沢さんを逮捕することは恐らく不可能だろうと最初から思った。しかし検察審査会で勝負をかける、ということを彼らは考えている。彼らのやり方はこうだな、と。検察審査会で起訴相当を取ることによって小沢さんの政治生命を奪う、と。そのシナリオ通りに見事に小沢さんの政治生命はなくなってしまった。ま、これが今回のシナリオでですね。小沢さんを直接起訴すれば当然全面戦争になってしまうわけでして。むしろ国民を総動員して、或いは市民という名を、怒れる11人の市民を使って小沢さんの政治生命を奪うという戦術に彼ら、でてきた。
で検察審査会も、トリック、ま、検察審査会には助言者といってですね、弁護士がその場に同席していろんな助言をするわけです。法律の解釈とかそういうものを。恐らくその助言者がとんでもない助言をしたんだろうと思うんです。どういうことかというと、政治資金規正法は政治家の犯罪、取締法なんだという解説をしたんだと思うんです。
ですからとんでもない、検察でさえ起訴しなかったものを検察審査会が起訴相当という結論をだしたんだろうと、そしてそのことを検察は最初から予想、予定していたんだろうと、そう思うわけです。
先に、情緒的な風潮の中で有罪無罪が決まっていくと、そういう話がありましたけど、私は思うんですね。弁護士は弁護士として、政治家は政治家として、メディアの人間はメディアの人間として、それぞれの人間がプロ的な精神を持ってそれぞれの職責を全面的に発揮すれば、おそらくこんな体たらくな状態にはならんだろうと思うんです。法廷でも、捜査段階から弁護士が弁護人として責任をしっかりと果たせば、恐らく情緒的な社会の動きに対してたえることが出来る、或いは十分に弁護して勝つことが出来るだろうと思うんですね。
プロ性がどんどん抜けていく、今回の政権交代でも、ま、アマチュアの集団というか、益々プロがなくなる。小沢さんがいなくなることは、プロがいなくなる、そういうことだろうな、と。崩壊の社会が来たな、と。プロが居なくなるということは、結局情緒的なものに流されるし、或いは、世間の風潮に流される、とこういう時代に益々突入したな、と思っているんです。 *強調(太字)は来栖
◆人民裁判と暗黒日本「たった1人」に殺された小沢一郎/?推定有罪?で政治家を「私刑」にする検察審査会2010-10-13 | 政治/検察/メディア/小沢一郎
◆来年民主党大会前日(2011/01/12)小沢氏起訴との情報(=官邸の党大会対策) 平成ファシズム2010-12-17
「小沢問題」にみる「平成のメディア・ファシズム」Infoseek 内憂外患 2010年12月17日 13時00分 平野貞夫
わが国で、深刻なファシズムが始まっていることに気がついている人は何人いるだろうか。「平成ファシズム」といってもよいし、実体から言えば「メディア・ファシズム」ともいえる。
「小沢問題」とは、昨年3月の西松事件から始まり、陸山会事件などについて、「小沢氏は国会で説明責任を果たしていない」との野党要求に対し、与党民主党執行部が最初は国会対策として、その後は菅政権の延命策として、小沢氏をまずは政治倫理審査会等の場に引っ張り出そうとして、民主党内が混乱している問題である。
「小沢問題」は政治倫理審査会で審査できる問題ではない。マスメディアが言論の暴力で、小沢排除の先頭に立ち、民主政治を崩しているのが問題である。
・ファシズムとメディア
「ファシズム」をひと言で定義するのは難しい。平凡社の世界大百科事典を要約すれば「資本主義の全般的危機の産物であり、崩壊しそうな資本主義を守るため、権力が市民の民主主義的諸権利を踏みにじり、議会の機能を麻痺させ暴力的支配をおこなう」となる。現代のファシズムを論じるとき、何が「暴力的支配」に当たるかが問題となる。
「自衛隊は暴力装置だ」と国会で場違いの発言をして問責決議案が可決され、居座りを続けている大臣がいる。参考になる話だ。現代社会の「暴力装置」は、『巨大マスメディア』といえる。「馬鹿なことを言うな」と、「社会心理的暴力装置」の代表者ナベツネさんたちは怒ると思うが、心理的には間違いなく「暴力装置」だといえる。
現代の情報社会では、マスメディアは完全に立法・行政・司法に次ぐ第四権力である。前者三権は憲法で規制されているが、マスメディアは野放し状態である。実体として立法・行政・司法の三権は、マスメディアがコントロールする世論によって影響を受け支配されているのだ。・・・