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わが国は軍制上の特殊国家をやめ、不埒者国家にも対処可能な普通の国になるべきだ/中国機 尖閣領空侵犯

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防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛 「国防軍」で北への備えも強まる
産経新聞2012.12.13 03:20[正論]
 北朝鮮はやはり撃った。実質は軍事用の長距離ミサイルを「人工衛星」と美化して、しかも、お得意の、隣人たちすべての裏をかくやり方で。遺憾だが、これが国際政治の現実だ。時あたかも終盤戦にあるわが国の衆院選では、それに見合うリアリズムで国防・安保の問題が論じられているか。
 衆院選での獲得議席につき報道界の調査による予想が民主党激減という線で一致すると、野田佳彦首相が案の定、焦りから安保論戦に出た。攻撃目標は自民党が掲げる「改憲で自衛隊を国防軍として位置づける」。改憲では言葉を濁し、国防軍案には反対、「ICBM(大陸間弾道ミサイル)でも撃つ組織にするつもりか」と罵倒。 ≪野田首相の“変節”惜しむ≫
 3年半前、民主党は上昇気流の中にいた。有望株の一人だった野田氏の処女著作『民主の敵』はそのころ出版され、憲法と防衛に関しては今日の自民党とも十分折り合える考えが読めた。今日、自党が下降気流に揉まれる中、当時の主張を苦しみから放棄したのなら、好漢・野田氏のため惜しむ。
 私自身は自民党の憲法草案発表以前から、「改憲して国防軍を」と主張していた。だから、首相就任後ほどなく野田氏が、自民党の石破茂氏による「国防の基本方針」関連国会質問に答えて、一発回答でその見直し議論を避けない旨を述べたとき、それを評価した。議論は当然、憲法、国防に及ぶはずだった。が、今は空しい。
 岸内閣の閣議決定になる「国防の基本方針」と野田氏は昭和32年5月20日生まれの55歳。岸氏が締結した現行の日米安保条約の3年前だ。それは、わが国の防衛政策に関して格式上は最重要文書である。今日まで一字一句の変更もない。日米旧安保条約下の文書なのに、野田内閣も含め、よくも呑気(のんき)に改訂をサボってきたものだ。
 ≪自衛隊を軍とせぬ矛盾随所に≫
 わが国の防衛・安全保障の議論では、本質の直視が乏しい半面、用語への情緒的反応が大き過ぎる。「自衛隊」ならOK、「国防軍」ではイヤ、がその好例だ。
 無論、用語は精選を要する。ただ、国内で偏愛される用語への固執は国際舞台で不可解行動を生みやすい。国連PKO(平和維持活動)で他国軍と肩を並べる「自衛隊」が、僚軍による警護は受けるが、僚軍への「駆けつけ警護はしない」のがその一例。「自衛」だから日本領土、領海を飛び越すミサイルは撃破しないのも同類だ。
 国内法で自衛隊を軍隊と位置づけないので、自衛官は内外で不本意な使い分けに追われる。国内では軍人を名乗れず、海外では軍人を名乗らなければ理解されない。好例は日本だけの「防衛駐在官(ディフェンスアタッシェ)」。相手側が首を傾げると、つまりは国際基準の「駐在武官(ミリタリーアタッシェ)」のことですと言い訳する。
 ことを本質に沿って呼ばないため、国内でも妙な事例が目立つ。自衛隊なる呼称も変だ。実体的にそれは紛れもなく国家防衛(ナショナルディフェンス)のための武力組織である。が、自衛とは必ずしも武力的概念ではない。厳冬に備えての自衛は非武力的行為だ。また、「隊」なる用語が本来的に「武」と結びつく概念ではないのも、漢和辞典に明瞭である。楽隊、キャラバン隊を見よ。
 だから自衛隊を英語でSelf Defense Forceと説明するのは変だ。Forceとは力、武力のことなのだから。ただし、この場合、おかしいのは英語ではなく、日本語の方だ。もとが自衛軍ならまだ救われただろうに。とにかく、国家の武力集団を作ろうというのに、過去には本質隠しがかくも過ぎていた。
 ≪言い訳不要の世界標準組織に≫
 世界諸国の軍隊は、歴史的背景や国家形態のゆえに必ずしも国防軍と名(ナショナル・ディフェンス・フォース)乗っているわけではない。が、国防任務を免れている軍はない。国際環境の好転で相対的にその比重が減った場合でも、国防は一丁目一番地なのだ。国際社会が依然として分権的システムである以上、それは国家の武力装置の定めである。わが国もまたそのことを承服して、自国の軍事組織を国際社会で最も理解されやすい国防軍と改称すべきである。
 改憲のうえで自衛隊を国防軍と改称することを復古だとか、戦前の軍国主義復活の序曲だと呼ぶ声が内外にある。冗談だろう。歴史上、日本の軍隊が国防軍を名乗ったことはない。戦前の軍は「大日本帝国陸海軍」であり、新聞、ラジオはそれを「皇軍」と呼んだ。つまり、「天皇の軍隊」だった。
 誕生すべき国防軍は復古物ではない。また内でも外でも言い訳、つまりは政府の晦渋(かいじゅう)な憲法解釈なしでは理解困難だった自衛隊でもないだろう。私は生涯の26年間を自衛隊の一隅で過ごした人間として、自衛隊自体が風雪に耐え、国民に愛される存在となったことを心底から喜ぶ。だが−−。
 戦後やがて70年。わが国は軍制上の特殊国家をやめ、北朝鮮のような不埒(ふらち)者国家の脅威にも適切に対処可能な「普通の国」になるべきだ。それにはわが国の軍事組織を、言い訳を必要とした自衛隊から、国際的標準である国防軍へと脱皮させることが必要である。(させ まさもり)
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『憲法が日本を亡ぼす』古森義久著 海竜社 2012年11月15日 第1刷発行

       

 はじめに 国家が国民を守れない半国家
p1〜
○世界でも異端な日本憲法
 「日本は国際社会のモンスターというわけですか。危険なイヌはいつまでも鎖につないでおけ、というのに等しいですね」
 アメリカ人の中堅学者ベン・セルフ氏のこんな発言に、思わず、うなずかされた。日本は世界でも他に例のない現憲法を保持しつづけねばならないという主張に対して、セルフ氏が反論したのだった。
p2〜
 だがその改憲、護憲いずれの立場にも共通していたのは、日本の憲法が自国の防衛や安全保障をがんじがらめに縛りつけている点で、世界でも異端だという認識だった。
p3〜
 事実、日本国憲法は「国権の発動としての戦争」はもちろんのこと、「戦力」も「交戦権」も、「集団的自衛権」もみずからに禁じている。憲法第9条を文字どおりに読めば、自国の防衛も、自国民の生命や財産の防衛も、同盟国アメリカとの共同の防衛も、国連平和維持のための防衛活動も、軍事力を使うことはなにもかもできないという解釈になる。日本には自衛のためでも、世界平和のためでも、「軍」はあってはならないのだ。
○日本は「危険な」イヌなのか?
 現実には日本はその普通の解釈の網目をぬう形で自衛隊の存在を「純粋な自衛なら可能」という概念をどうにか認めているだけである。だが、イラクに駐留した自衛隊がいかなる戦闘も許されず、バングラデシュの軍隊に守ってもらわねばならなかったという異様な状況こそが、日本国憲法の本来の姿なのだ。
 自縄自縛とはこのことだろう。いまの世界ではどの主権国家にとっても自国の領土や自国民の生命を守るために防衛行動、軍事行動を取るという権利は自明とされる。いや、自国や自国民を守る意思や能力や権利があってこそ、国家が国家たりうる要件だろう。国民にとっての国家の責務でもある。
 だが日本にはその権利がない。その点では日本は半国家である。ハンディキャップ国家とも評される。国際的にみて明らかに異常なこんな状態がなぜ日本だけで続くのか。
 「いまの日本は古代ギリシャの猛将ユリシーズが柱に縛られた状態ともいえるでしょう」
p4〜
 「アメリカも日本が憲法を改正して集団的自衛権を行使できるようにすることを求めると、やがて後悔するかもしれません。悪魔がいったんビンから出ると、もう元には戻らないというたとえがあります」
 日本を悪魔にまでたとえる、こうした趣旨の発言が続いたところで、冒頭に紹介したセルフ氏の言葉が出たのだった。
 彼は次のようにも述べていた。
 「全世界の主権国家がみな保有している権利を日本だけに許してはならないというのは、日本国民を先天的に危険な民族と暗に断じて信頼しないという偏見であり、差別ですね」
p5〜
○アメリカによる押しつけ憲法
 本書で詳述するように、日本国憲法は完全なアメリカ製である。しかも日本がアメリカの占領下にある時期にアメリカ側によって書かれ、押しつけられた。米側としては憲法での最大の目的は日本を二度と軍事強国にしないことだった。そのためには主権国家としての最低要件となる自衛の権利までをも奪おうとしていた。
p6〜
 あの激しい日米間の戦争を考えれば、まったく理不尽な目的だったともいえないだろう。
 しかし、日本側でも憲法は長年、国民多数派の支持を得てきた。とくに日本を世界の異端児とする憲法9条への支持が強かった。(略)
 アメリカの政策や日米同盟に反対し、ソ連や共産主義に傾く左翼勢力がとくに現憲法の堅持を強く叫んだ。日本国憲法を「平和憲法」と呼び、それに反対したり、留保をつける側はあたかも平和を嫌う勢力であるかのように描いて見せるレトリック戦術も、左翼が真っ先に推し進めた。
 アメリカがつくった憲法を反米勢力が最も強く守ろうとしたことは皮肉だった。だがこの憲法の半国家性をみれば、現体制下での国家の力を弱めておくことが反体制派の政治目的に会うことは明白だった。
p70〜
第3章 外敵には服従の「8月の平和論」
1 日本の「平和主義」と世界の現実
○内向きで自虐の「8月の平和論」
 日本とアメリカはいうまでもなく同盟国同士である。だが、そもそも同盟国とはなんなのか。
 同名パートナーとは、まず第1に安全保障面でおたがいに助け合う共同防衛の誓約を交し合った相手である。なにか危険が起きれば、いっしょに守りましょう、という約束が土台となる。
p72〜
 日本では毎年、8月になると、「平和」が熱っぽく語られる。その平和論は「戦争の絶対否定」という前提と一体になっている。
 8月の広島と長崎への原爆投下の犠牲者の追悼の日、さらには終戦記念日へと続く期間、平和の絶対視、そして戦争の絶対否定が強調されるわけだ。(略)
 日本の「8月の平和」は、いつも内向きの悔悟にまず彩られる。戦争の惨状への自責や自戒が主体となる。とにかく悪かったのは、わが日本だというのである。「日本人が間違いや罪を犯したからこそ、戦争という災禍をもたらした」という自責が顕著である。
 その自責は、ときには自虐にまで走っていく。(略)そして、いかなる武力の行使をも否定する。
p73〜
 8月の平和の祈念は、戦争犠牲者の霊への祈りとも一体となっているのだ。戦争の悲惨と平和の恩恵をとにかく理屈抜きに訴えることは、それなりに意義はあるといえよう。
○「奴隷の平和」でもよいのか
 だが、この内省に徹する平和の考え方を日本の安全保障の観点からみると、重大な欠落が浮かび上がる。国際的にみても異端である。
 日本の「8月の平和論」は平和の内容を論じず、単に平和を戦争や軍事衝突のない状態としかみていないのだ。その点が重大な欠落であり、国際的にも、アメリカとくらべても、異端なのである。
 日本での大多数の平和への希求は、戦争のない状態を保つことへの絶対性を叫ぶだけに終わっている。守るべき平和の内容がまったく語られない点が特徴である。
 「平和というのは単に軍事衝突がないという状態ではありません。あらゆる個人の固有の権利と尊厳に基づく平和こそ正しい平和なのです」
 この言葉はアメリカのオバマ大統領の言明である。2009年12月10日、ノーベル平和賞の受賞の際の演説だった。
p74〜
 平和が単に戦争のない状態を指すならば、「奴隷の平和」もある。国民が外国の支配者の隷属の下にある、あるいは自国でも絶対専制の独裁者の弾圧の下にある。でも、平和ではある。
 あるいは「自由なき平和」もあり得る。戦争はないが、国民は自由を与えられていない。国家としての自由もない。「腐敗の平和」ならば、統治の側が徹底して腐敗しているが、平和は保たれている。
 さらに「不平等の平和」「貧困の平和」といえば、一般国民が経済的にひどく搾取されて、貧しさをきわめるが、戦争だけはない、ということだろう。
 日本の「8月の平和論」では、こうした平和の質は一切問われない。とにかく戦争さえなければよい、という大前提なのだ。
 その背後には軍事力さえなくせば、戦争はなく、平和が守られるというような情緒的な志向がちらつく。
 2010年の8月6日の広島での原爆被災の式典で、秋葉忠利市長(当時)が日本の安全保障の枢要な柱の「核のカサ」、つまり核抑止を一方的に放棄することを求めたのも、その範疇だといえる。
 自分たちが軍備を放棄すれば他の諸国も同様に応じ、戦争や侵略は起きない、という非武装の発想の発露だろう。
p75〜
○オバマ大統領の求める「平和」との違い
 平和を守るための、絶対に確実な方法というのが1つある。それは、いかなる相手の武力の威嚇や行使にも一切、抵抗せず、相手の命令や要求に従うことである。
 そもそも戦争や軍事力の行使は、それ自体が目的ではない。あくまでも手段である。国家は戦争以外の何らかの目的があってこそ、戦争という手段に走るのだ。
 戦争によって自国の領土を守る。あるいは自国領を拡大する。経済利益を増す。政治的な要求を貫く。
 こうした多様な目標の達成のために、国家は多様な手段を試みる。そして平和的な方法ではどうにも不可能と判断されたときに、最後の手段として戦争、つまり軍事力の行使にいたるのである。それが戦争の構造だといえる。
 だから攻撃を受ける側が相手の要求にすべて素直に応じれば、戦争は絶対に起きない。要求を受け入れる側の国家や国民にとっては服従や被支配となるが、戦争だけは起きない、という意味での「平和」は守られる。
 日本の「8月の平和論」はこの範疇の非武装、無抵抗、服従の平和とみなさざるを得ない。なぜなら、オバマ大統領のように、あるいは他の諸国のように、平和に一定の条件をつけ、その条件が守られないときは、一時、平和を犠牲にして戦うこともある、という姿勢はまったくないからだ。
 オバマ大統領は前記のノーベル賞受賞演説で、戦争についても語った。「正義の戦争」という概念だった。
 「正義の戦争というのは存在します。国家間の紛争があらゆる手段での解決が試みられて成功しない場合、武力で解決するというケースは歴史的にも受け入れられてきました。武力の行使が単に必要というだけでなく、道義的にも正当化されるという実例は多々あります。第2次世界大戦でアメリカをはじめとする連合国側がナチスの第3帝国を(戦争で)打ち破ったのは、その(戦争の)正当性を立証する最も顕著な例でしょう」
 オバマ大統領はこうした趣旨を述べて、アメリカが続けるアフガニスタンでの戦争も、アメリカに対する9・11同時テロの実行犯グループへの対処として、必要な戦争なのだと強調するのだった。
 これが国際的な現実なのである。決してアメリカだけではない。どの国家も自国を守るため、あるいは自国の致命的な利益を守るためには、最悪の場合、武力という手段にも頼る、という基本姿勢を揺るがせにしていない。それが国家の国民に対する責務とさえみなされているのだ。
p77〜
 だから「8月の平和論」も、この世界の現実を考えるべきだろう。その現実から頭をもたげてくる疑問の1つは、「では、もし日本が侵略を受けそうな場合、どうするのか」である。
 日本の領土の一部を求めて、特定の外国が武力の威嚇をかけてきた場合、「8月の平和論」に従えば、一切の武力での対応も、その意図の表明もしてはならないことになる。
 だが、現実には威嚇を実際の侵略へとつなげないためには、断固たる抑止が有効である。相手がもし反撃してくれば、こちらも反撃をして、手痛い損害を与える。その構えが相手に侵略を思い留まらせる。戦争を防ぐ。それが抑止の論理であり、現実なのである。
 この理論にも、現実にも、一切背を向けているのが、日本の「8月の平和論」のようにみえるのだ。そしてそのことがアメリカとの同盟関係の運営でも、折に触れて障害となるのである。
古森 義久 Yoshihisa Komori
 産経新聞ワシントン駐在編集特別委員・論説委員。
 1963年慶應義塾大学経済学部卒業後、毎日新聞入社。
 72年から南ベトナムのサイゴン特派員。75年サイゴン支局長。76年ワシントン特派員。
 81年米国カーネギー財団国際平和研究所上級研究員。
 83年毎日新聞東京本社政治部編集委員。
 87年毎日新聞を退社して産経新聞に入社。ロンドン支局長、ワシントン支局長、中国総局長などを経て、2001年から現職。
 2010年より国際教養大学客員教授を兼務。
 『日中再考』『オバマ大統領と日本沈没』『アメリカはなぜ日本を助けるのか』『「中国の正体」を暴く』など著書多数。
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『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』日高義樹著《ハドソン研究所首席研究員》 2012年07月25日1刷発行 PHP研究所
p1〜
  まえがき
 日本の人々が、半世紀以上にわたって広島と長崎で毎年、「二度と原爆の過ちは犯しません」と、祈りを捧げている間に世界では、核兵器を持つ国が増えつづけている。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国に加えて、イスラエル、パキスタン、インドの3ヵ国がすでに核兵器を持ち、北朝鮮とイランが核兵器保有国家の仲間入りをしようとしている。
 日本周辺の国々では核兵器だけでなく、原子力発電所も大幅に増設されようとしている。中国は原子力発電所を100近く建設する計画をすでに作り上げた。韓国、台湾、ベトナムも原子力発電所を増設しようとしているが、「核兵器をつくることも考えている」とアメリカの専門家は見ている。
 このように核をめぐる世界情勢が大きく変わっているなかで日本だけは、平和憲法を維持し核兵器を持たないと決め、民主党政権は原子力発電もやめようとしている。
 核兵器を含めて武力を持たず平和主義を標榜する日本の姿勢は、第2次大戦後、アメリカの強大な力のもとでアジアが安定していた時代には、世界の国々から認められてきた。だがアメリカがこれまでの絶対的な力を失い、中国をはじめ各国が核兵器を保有し、独自の軍事力をもちはじめるや、日本だけが大きな流れのなかに取り残された孤島になっている。
 ハドソン研究所で日本の平和憲法9条が話題になったときに、ワシントン代表だったトーマス・デュースターバーグ博士が「日本の平和憲法はどういう規定になっているか」と私に尋ねた。
「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」
 私がこう憲法9条を読み上げると、全員が顔を見合わせて黙ってしまった。一息おいてデュースターバーグ博士が、こういった。
「おやおや、それでは日本は国家ではないということだ」
 これは非公式な場の会話だが、客観的に見ればこれこそ日本が、戦後の半世紀以上にわたって自らとってきた立場なのである。
 このところ日本に帰ると、若い人々が口々に「理由のはっきりしない閉塞感に苛立っている」と私に言う。私には彼らの苛立ちが、日本が他の国々とあまりに違っているので、日本が果たして国家なのか確信が持てないことから来ているように思われる。世界的な経済学者が集まる会議でも、日本が取り上げられることはめったにない。日本は世界の国々から無視されることが多くなっている。
 日本はなぜこのような国になってしまったのか。なぜ世界から孤立しているのか。このような状況から抜け出すためには、どうするべきか。 *強調(太字・着色)は来栖
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自衛権の解釈要す憲法は異常だ
産経ニュース2012.11.5 03:17 [正論]防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛
 外国が日本を侵略したら自衛隊が出動してわが国と国民を守る。国民の圧倒的多数がそれを当然視している。自衛隊のこの行動を何と呼ぶかとの質問には、その名のごとく自衛の行動だと答えるだろう。その行動は正当かと重ねて問われれば、正当と答えるはずだ。
■9条の読み方の違い
 ところが、では憲法の9条との関係でそれは正当な行動と呼べるかとなると、驚くほど多くの国民がしどろもどろだろう。無理もない。何せ憲法制定国会問答で吉田茂首相が「戦争の放棄」を謳(うた)うこの憲法の下、「自衛権の発動としての戦争」も放棄したかのごとき答弁を残したほどなのだから。
 だから、自衛隊の前々身の警察予備隊が発足した昭和25年以降、万年野党ながら国会第二党だった日本社会党が「非武装中立」論の下、「自衛隊違憲」を唱えたのも、あながち奇異とは言えなかった。多くの知識人、とくに憲法学者の多数派が社会党のこの主張に共鳴した。9条については、立場次第でいく通りもの読み方があったし、現になおその名残がある。
 ただ、こと政府に関する限り、9条の読み方は一本化された。警察予備隊、保安隊を経て吉田政権最末期に自衛隊が発足した後、昭和29年暮れに誕生した鳩山一郎政権は自衛隊の根拠となる「自衛権の存在」を憲法解釈として明言した。いわく「第一に、憲法は、自衛権を否定していない。第二に、憲法は戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない(=自衛隊はこの抗争用の手段)」。
 40年後の平成6年にはからずも首相の座に押し上げられた村山富市社会党委員長は一夜にして「自衛隊違憲」から「自衛隊合憲」に乗り換えてしまった。つまり、政府首長として右の政府統一見解に改宗、積年の、だが賞味期限のとっくに切れた社会党流の解釈を見限ったのだ。誰が見ても、それはそれで結構なことだった。
 が、これらの歴史的情景は、立憲国家にとって健常と言えるか。否、だろう。有事に国と国民を守るという国家至高の責務の可否が憲法条文で一義的に明瞭とは言えない状態は、健常であるはずがない。無論、この異常さの淵源は現行憲法が敗戦の翌年、占領下で制定された点にある。それが百%の押し付け憲法ではなかったとしても、日本は戦勝国による非軍事化政策を受容するほかなかったし、結果、自衛権の存否につき立場次第で百八十度方向の違う解釈さえ許す憲法が誕生したのである。
■国家の一丁目一番地の問題
 爾来(じらい)、こと自衛権の存否に関する限り日本は「憲法解釈」なしでは立ち行かない国である。念のため言うが、「憲法解釈」の必要がない国などない。が、ことは程度問題だ。国家の自衛といういわば国家に取り一丁目一番地の問題までもが、半世紀を超えて「解釈」に依存し続ける国は日本以外にはない。今後もそれでいいのか。
 今日、納税者たる国民は有事に国家が自衛隊をもって自分たちを守る、すなわち、自衛権を行使するのを自明視している。だが、それは9条を読んで納得したからでもなければ、いわんや先述の政府統一見解に共鳴してのことでもない。そんなこととは無関係に、納税者としていわば本能的欲求がそういう反対給付を国家に求めているまでのことだ。乱暴に言うと、自衛権について何を言っているのかが曖昧な9条なぞどうでもいいというのが実情だろう。
■保有わざわざ謳うのは傷痕
 考えてもみよ。有権者のいったい何%が「自衛権の存在」に関する政府統一見解の存在を知っているだろう。百人に一人? つまりウン十万人? 冗談じゃない。そんなにいるものか。では、国会議員の何割が、いや政府閣僚のいく人が憲法9条のいわば「正しい」読み方、つまりは「自衛権の存在」に関する政府統一見解を、合格点が取れる程度に理解しているか。言わぬが花だろう。
 憲法は第一義的には国民のためにある。憲法学者や、いわんや政府の法解釈機関(内閣法制局)のために、ではない。ところが、国の存亡に関わる第9条、わけても自衛権存否の問題は、憲法学者や内閣法制局の水先案内なしでは国民は理解ができない。この状態は明らかに望ましくない。自衛権の存在は、少なくとも平均的な文章読解力を持つ国民が、その条項を読んですんなり理解できるよう記述されなければならない。
 近時、政権党たる民主党は別だが、大小の政党や多くの団体が競うように憲法改正案を発表した。そのほとんどがわが国は「自衛権を保有する」旨を謳っている。が、国連憲章により自衛権は国家「固有の権利」なのだから、その必要は本来ない。ただ、日本には、この問題を憲法自体でなく憲法解釈によって切り抜けてきたという、積年の悲しい業がある。
 各種の憲法改正案がわざわざ自衛権保有を謳うのは、この業のゆえであり、いわば一種の傷痕である。だが、傷痕をことさら目立たせるのはよくない。傷痕を小さく、国際常識に立つ姿勢を明示することこそが望ましい。(させ まさもり)
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中国当局機 尖閣周辺で領空侵犯
NHK NEWS WEB 12月13日 16時2分
13日午前11時すぎ、中国の国家海洋局に所属する航空機が沖縄県の尖閣諸島の周辺の領空に侵入しました。航空自衛隊の戦闘機がスクランブル=緊急発進をするなど対応しましたが、防衛省によりますと、この航空機はすでに領空の外に出ていたということです。
13日午前11時6分ごろ、沖縄県の尖閣諸島の魚釣島の南およそ15キロの日本の領空を中国の国家海洋局に所属する固定翼機1機が飛行しているのを海上保安庁の巡視船が見つけ、防衛省に通報しました。
これを受け、航空自衛隊那覇基地からF15戦闘機8機と早期警戒機がスクランブル=緊急発進をして対応しましたが、現場に到着したときには、この航空機はすでに領空の外に出ており、防衛省によりますと、自衛隊機による警告は実施していないということです。
中国機の領空侵犯は初めて
中国当局の航空機が日本の領空を侵犯したのは今回が初めてです。
防衛省によりますと、記録がある昭和42年以降、これまでに外国の航空機が日本の領空を侵犯したのは合わせて34回です。
このうち、33回が冷戦時代の旧ソビエト機や今のロシア機によるもので、その現場も多くが北海道や対馬海峡の周辺でした。
残りの1回は台湾機によるもので、平成6年、尖閣諸島周辺の領空を侵犯しました。
中国当局の航空機が日本の領空を侵犯したのは今回が初めてです。
海上保安庁も確認
海上保安庁によりますと、最初に中国当局の航空機を確認したのは尖閣諸島で警戒に当たっていた巡視船で、午前10時40分ごろに魚釣島周辺の上空を飛ぶ航空機1機を発見したということです。
この航空機は中国国家海洋局所属の固定翼機で、機体には海洋監視船と同じ「中国海監」という文字が記されていたということです。
海上保安庁では、午前11時6分ごろの時点で、この航空機が魚釣島の南およそ15キロの領空に侵入していることを確認したということです。
その後、航空機は午前11時10分ごろに魚釣島の北東の方向に飛び去り、巡視船の視界から消えたということですが、この際に巡視船が無線を使って「わが国の領空内に侵入しないよう飛行せよ」と警告したところ、航空機からは「ここは中国の領空である」という回答があったということです。
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領空侵犯機 レーダーで捕捉できず
NHK NEWS WEB 12月13日 16時24分
今回、沖縄県の尖閣諸島の周辺の領空に侵入した中国当局の航空機について、自衛隊のレーダーでは捕捉できなかったことが分かりました。
航空自衛隊は各地に設置したレーダーなどで航空機による領空侵犯がないか監視する体制をとっています。
しかし、今回は、領空に侵入した中国の国家海洋局に所属する航空機をこれらのレーダーで捕捉することはできず、海上保安庁からの通報で、航空自衛隊の戦闘機が緊急発進したということです。
これについて、自衛隊トップの岩崎茂統合幕僚長は13日の記者会見で「日本周辺の空域の警戒監視を行っているが、残念ながら捕捉できず領空侵犯された。今後、こうしたことが起こらないように対応していきたい」と述べました。
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