産経抄 12月18日
産経新聞2012.12.18 03:09
きのうの各紙の1面は、いずれも自民党の圧勝と政権復帰を大きく伝えて、違いがほとんどない。そのなかで目を引いたのが、東京新聞の政治部長が書いたコラムだった。「脱原発の民意と隔たり」との見出しで、衆院選の結果に疑問を呈している。▼首相官邸前で毎週金曜日に行われている脱原発デモには、多くの一般の人が参加している。公示直前の世論調査では、6割の人が原発ゼロを求めていた。ゆえに「原発の存続をもくろむ自民党」の圧勝は、「民意」と大きく隔たっているというのだ。▼どうやら、「議会制民主主義への誤解」があるようだ。16日付の小紙で佐伯啓思京都大学教授が指摘して、小欄も目からウロコが落ちたものだ。できるだけ個別の政策に「民意」を反映させるのが民主主義だとすれば、「議会主義」とは、不安定な「民意」を直接に政治に反映させない工夫である。だから両者が時に対立するのは当然だというのだ。▼そもそも「脱原発」が本当に民意といえるのだろうか。もし世論調査で、電気代が大幅に上がり経済が立ち行かなくなっても、原発ゼロを求めるかと聞いていれば、結果は違ってきたはずだ。▼惨敗した民主党、日本未来の党はじめ、脱原発を看板に掲げる党は軒並み議席を減らした。代替エネルギーの裏付けのない無責任な原発ゼロ政策は認めない。これが民意と考える方が自然だろう。▼「天の声にもヘンな声がある」。福田赳夫元首相が、総裁予備選で思わぬ敗北を喫したときの名台詞(せりふ)だ。政治部長も、選挙が東京新聞の望み通りの結果にならなかったのを嘆くのなら、福田氏にならって、こんな見出しのコラムにすべきだった。「民の声にもヘンな声がある」。
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脱原発 世論6割、当選3割 3大争点すべてズレ
東京新聞2012年12月17日 朝刊
衆院選では、原発政策とともに大きな争点だった消費税増税や憲法九条でも民意と選挙結果に隔たりのある結果となった。本紙が公示直前に行った世論調査と、東京都の二十五選挙区に立候補した百三十四人を対象に行ったアンケートを比較するとその差は歴然としている。
原発では、世論の約六割が原発ゼロを訴えていたが、東京の二十五選挙区でも自民党候補が続々と勝利。当選した自民党の中にはアンケートで「原発ゼロ」と答えた候補もいたが、二十五人の中で脱原発を求める当選者は28%にとどまった。
消費税増税について世論調査では反対が55・6%で、半数を超えていた。
消費税増税は民主党と自民、公明両党の三党の枠組みで決めた。マニフェストで約束していなかったのに増税を決めた民主党は、世論の批判をまともに受けて惨敗。しかし、その代わり自民党が小選挙区で躍進し、公明党も議席を獲得したため、結局、増税勢力が多数を占めた。
憲法九条は、世論調査では改憲反対と賛成が拮抗(きっこう)していたが、選挙結果では改憲し「国防軍」を明記すると主張した自民党が勝利。維新も含めた「改憲勢力」で三分の二を占めた全国的な傾向と同様の結果となった。
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〈来栖の独白 2012/12/18 Tue. 〉
中日〈東京〉新聞は小沢一郎氏裁判については鋭い視点を有しているが、憲法・防衛問題には、偏向が感じられる。護憲を金科玉条と心得ておられるようで、例えば集団的自衛権などと口にしただけで「ナショナリズム」と断じられる。領土、領海を守ることは国際上義務付けられており、国家として当たり前のことだ。中日新聞編集子、ジャーナリストを標榜されながら、世界の動向に疎く、独り善がりであるようだ。
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憲法改正のマジック 週のはじめに考える
中日新聞 2012年12月9日 社説
憲法で禁じた集団的自衛権の行使を法律によって可能にする、こんなからくりが国会で進みつつあります。実現すれば平和憲法はなし崩しになります。
十六日投開票の衆院選挙で集団的自衛権の行使容認を訴えているのは自民党、日本維新の会、国民新党など複数あります。
公約には掲げていないものの、野田佳彦首相が「見直す議論を詰めていきたい」と述べるなど民主党の中にも容認派はいるようです。尖閣諸島などの問題や国内の行き詰まった状況がナショナリズムを高めているのでしょうか。
■集団的自衛権行使へ
集団的自衛権とは何なのか。あらためておさらいします。一九八一年、政府は答弁書で、集団的自衛権について「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を実力をもって阻止する権利」と定義したうえで、「わが国が主権国家である以上、集団的自衛権を有しているが、憲法九条で許容される必要最小限の範囲を超え、行使は許されない」としています。
政府見解は定着しており、憲法改正を経なければ、集団的自衛権行使は認められないはずですが、「国家安全保障基本法」の制定によって行使が可能になるとの見方が政党間で急浮上しています。
例えば、自民党は七月の総務会で国家安全保障基本法の制定を決めました。まだ法案の概要しかありませんが、次に政務調査会が詳細な中身を定めていきます。
法案の概要をみると、第一○条「国連憲章に定められた自衛権の行使」は、国連憲章五一条の規定を根拠に集団的自衛権の行使を認めています。第一一条「国連憲章上の安全保障措置への参加」は、国連安保理決議があれば、海外における武力行使を認める内容となっています。
■憲法解釈変える法律
どちらも憲法九条の解釈に明らかに反します。憲法違反の法案は国会提出さえできないのでは、そんな疑問が浮かびます。
一面はその通りです。行政府の中央省庁が法案をつくる内閣立法なら、憲法との関係を審査する内閣法制局の段階でストップがかかり、国会提出には至りません。
国会議員が法案をつくる議員立法となれば話は別です。衆院、参院それぞれの法制局が審査して意見を述べますが、提出を決めるのは立法権のある国会議員。国会で法案を説明するのは提出議員のため、答弁に窮するような問題のある法案が提出に至ることはまずないのですが、前例があります。
二〇一〇年五月、中谷元・元防衛庁長官ら五人の議員が「国際平和協力法案」を衆院に提出しました。先月の衆院解散により審議未了で廃案となりましたが、海外での武力行使が不可避な自衛隊の活動が三項目含まれ、憲法違反が疑われる内容でした。
国家安全保障基本法案も、議員立法の手続きが予定されています。自民党はこの法律とともに集団自衛事態法、前出の国際平和協力法を制定し、自衛隊法を改定するとしています。
これらの法律が成立すれば、集団的自衛権行使や海外の武力行使が解禁されることになります。法律が憲法違反か審査する憲法裁判所のような規定がわが国にはないため、法律によって憲法解釈が変更され、「国のかたち」を変えるのです。やがて憲法が自衛隊活動の実態に合わないとの批判が起こり新たな憲法が制定に至ると見込んでいるのではないでしょうか。まるでマジックです。
国会で過半数を占めさえすれば、国家安全保障基本法は成立します。三分の二の国会議員の賛成や国民投票が必要な憲法改正と比べ、なんとお手軽なことか。与党であっても党内で反対され、この裏ワザはとらなかったのですが…。
○七年、自民党の安倍晋三総裁は首相だった当時、自衛艦と並走する米軍艦艇の防御、米国を狙った弾道ミサイルの迎撃など四類型を示し、集団的自衛権行使の容認を目指しました。いったいどの国が世界一の軍事力を誇る米国に対して正規戦を挑むというのでしょうか。
■海外の武力行使が可能に
起こりそうなのは、米国による海外の戦争に参加して武力行使することではないでしょうか。第二次世界大戦後、各地で起きた戦争や紛争の多くは、米国や旧ソ連が介入して始まりました。「大量破壊兵器を隠し持っている」と言いがかりをつけて米国が始めたイラク戦争に英国は集団的自衛権を行使して参戦しました。イラクへは陸上自衛隊も派遣されましたが、憲法の規定から人道復興支援にとどまりました。
日本の平和を守り、国民の安全を守ってきた憲法を法律でひっくり返す「法の下克上」は断じて認めるわけにはいかないのです。
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◆『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』日高義樹著《ハドソン研究所首席研究員》 2012年07月25日1刷発行 PHP研究所
p1〜
まえがき
日本の人々が、半世紀以上にわたって広島と長崎で毎年、「二度と原爆の過ちは犯しません」と、祈りを捧げている間に世界では、核兵器を持つ国が増えつづけている。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国に加えて、イスラエル、パキスタン、インドの3ヵ国がすでに核兵器を持ち、北朝鮮とイランが核兵器保有国家の仲間入りをしようとしている。
日本周辺の国々では核兵器だけでなく、原子力発電所も大幅に増設されようとしている。中国は原子力発電所を100近く建設する計画をすでに作り上げた。韓国、台湾、ベトナムも原子力発電所を増設しようとしているが、「核兵器をつくることも考えている」とアメリカの専門家は見ている。
このように核をめぐる世界情勢が大きく変わっているなかで日本だけは、平和憲法を維持し核兵器を持たないと決め、民主党政権は原子力発電もやめようとしている。
核兵器を含めて武力を持たず平和主義を標榜する日本の姿勢は、第2次大戦後、アメリカの強大な力のもとでアジアが安定していた時代には、世界の国々から認められてきた。だがアメリカがこれまでの絶対的な力を失い、中国をはじめ各国が核兵器を保有し、独自の軍事力をもちはじめるや、日本だけが大きな流れのなかに取り残された孤島になっている。
ハドソン研究所で日本の平和憲法9条が話題になったときに、ワシントン代表だったトーマス・デュースターバーグ博士が「日本の平和憲法はどういう規定になっているか」と私に尋ねた。
「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」
私がこう憲法9条を読み上げると、全員が顔を見合わせて黙ってしまった。一息おいてデュースターバーグ博士が、こういった。
「おやおや、それでは日本は国家ではないということだ」
これは非公式な場の会話だが、客観的に見ればこれこそ日本が、戦後の半世紀以上にわたって自らとってきた立場なのである。
このところ日本に帰ると、若い人々が口々に「理由のはっきりしない閉塞感に苛立っている」と私に言う。私には彼らの苛立ちが、日本が他の国々とあまりに違っているので、日本が果たして国家なのか確信が持てないことから来ているように思われる。世界的な経済学者が集まる会議でも、日本が取り上げられることはめったにない。日本は世界の国々から無視されることが多くなっている。
日本はなぜこのような国になってしまったのか。なぜ世界から孤立しているのか。このような状況から抜け出すためには、どうするべきか。 *強調(太字・着色)は来栖
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◆『憲法が日本を亡ぼす』古森義久著 海竜社 2012年11月15日 第1刷発行
p78〜
2 日本のソフト・パワーの欠陥
○ハード・パワーは欠かせない
「日本が対外政策として唱えるソフト・パワーというのは、オキシモーランです」
ワシントンで、こんな指摘を聞き、ぎくりとした。
英語のオキシモーラン(Oxymoron)という言葉は「矛盾語法」という意味である。たとえば、「晴天の雨の日」とか「悲嘆の楽天主義者」というような撞着の表現を指す。つじつまの合わない、相反する言葉づかいだと思えばよい。(略)
p79〜
日本のソフト・パワーとは、国際社会での安全保障や平和のためには、軍事や政治そのものというハードな方法ではなく、経済援助とか対話とか文化というソフトな方法でのぞむという概念である。その極端なところは、おそらく鳩山元首相の「友愛」だろう。とくに日本では「世界の平和を日本のソフト・パワーで守る」という趣旨のスローガンに人気がある。
ところが、クリングナー氏はパワーというのはそもそもソフトではなく、堅固で強固な実際の力のことだと指摘するのだ。つまり、パワーはハードなのだという。そのパワーにソフトという形容をつけて並列におくことは語法として矛盾、つまりオキシモーランだというのである。
クリングナー氏が語る。
「日本の識者たちは、このソフト・パワーなるものによる目に見えない影響力によって、アジアでの尊敬を勝ち得ているとよく主張します。しかし、はたからみれば、安全保障や軍事の責任を逃れる口実として映ります。平和を守り、戦争やテロを防ぐには、安全保障の実効のある措置が不可欠です」
p80〜
確かにこの当時、激しく展開されていたアフガニスタンでのテロ勢力との戦いでも、まず必要とされるのは軍事面での封じ込め作業であり、抑止だった。日本はこのハードな領域には加わらず、経済援助とかタリバンから帰順した元戦士たちの社会復帰支援というソフトな活動だけに留まっていた。(略)
クリングナー氏の主張は、つまりは、日本は危険なハード作業はせず、カネだけですむ安全でソフトな作業ばかりをしてきた、というわけだ。最小限の貢献に対し最大限の受益を得ているのが、日本だというのである。
「安全保障の実現にはまずハード・パワーが必要であり、ソフト・パワーはそれを側面から補強はするでしょう。しかし、ハード・パワーを代替することは絶対にできません」
p81〜
となると、日本が他の諸国とともに安全保障の難題に直面し、自国はソフト・パワーとしてしか機能しないと宣言すれば、ハードな作業は他の国々に押しつけることを意味してしまう。クリングナー氏は、そうした日本の特異な態度を批判しているのだった。(略)
p82〜
しかし、日本が国際安全保障ではソフトな活動しかできない、あるいは、しようとしないという特殊体質の歴史をさかのぼっていくと、どうしても憲法にぶつかる。
憲法9条が戦争を禁じ、戦力の保持を禁じ、日本領土以外での軍事力の行使はすべて禁止しているからだ。現行の解釈は各国と共同での国際平和維持活動の際に必要な集団的自衛権さえも禁じている。前項で述べた「8月の平和論」も、たぶんに憲法の影響が大きいといえよう。
日本の憲法がアメリカ側によって起草された経緯を考えれば、戦後の日本が対外的にソフトな活動しか取れないのは、そもそもアメリカのせいなのだ、という反論もできるだろう。アメリカは日本の憲法を単に起草しただけではなく、戦後の長い年月、日本にとっての防衛面での自縄自縛の第9条を支持さえしてきた。日本の憲法改正には反対、というアメリカ側の識者も多かった。
ところがその点でのアメリカ側の意向も、最近はすっかり変わってきたようなのだ。共和党のブッシュ政権時代には、政府高官までが、日米同盟をより効果的に機能させるには日本が集団的自衛権を行使できるようになるべきだ、と語っていた。
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◆『帝国の終焉』(「スーパーパワー」でなくなった同盟国・アメリカ)日高義樹著 2012年2月13日第1版第1刷発行 PHP研究所
p173〜
ヨーロッパで言えば、領土の境界線は地上の一線によって仕切られている。領土を守ることはすなわち国土を守ることだ。そのため軍隊が境界線を守り、領土を防衛している。だが海に囲まれた日本の境界線は海である。当然のことながら日本は、国際的に領海と認められている海域を全て日本の海上兵力で厳しく監視し、守らなければならない。尖閣諸島に対する中国の無謀な行動に対して菅内閣は、自ら国際法の原則を破るような行動をとり、国家についての認識が全くないことを暴露してしまった。
日本は海上艦艇を増強し、常に領海を監視し防衛する体制を24時間とる必要がある。(略)竹島のケースなどは明らかに日本政府の国際上の義務違反である。南西諸島に陸上自衛隊が常駐態勢を取り始めたが、当然のこととはいえ、限られた予算の中で国際的な慣例と法令を守ろうとする姿勢を明らかにしたと、世界の軍事専門家から称賛されている。
冷戦が終わり21世紀に入ってから、世界的に海域や領土をめぐる紛争が増えている。北極ではスウェーデンや、ノルウェーといった国が軍事力を増強し、協力態勢を強化し、紛争の排除に全力を挙げている。
p174〜
日本の陸上自衛隊の南西諸島駐留も、国際的な動きの1つであると考えられているが、さらに必要なのは、そういった最前線との通信体制や補給体制を確立することである。
北朝鮮による日本人拉致事件が明るみに出た時、世界の国々は北朝鮮を非難し、拉致された人々に同情したが、日本という国には同情はしなかった。領土と国民の安全を維持できない日本は、国家の義務を果たしていないとみなされた。北朝鮮の秘密工作員がやすやすと入り込み、国民を拉致していったのを見過ごした日本は、まともな国家ではないと思われても当然だった。
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そもそも「脱原発」が本当に民意といえるのだろうか/「民の声にもヘンな声がある」
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