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森 炎 著 『死刑と正義』 市民裁判時代の死刑と哲学 / 人命の価値は死刑の根拠にはならない

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『死刑と正義』 著:森 炎 市民裁判時代の死刑と哲学
現代ビジネス2012年12月19日(水)
 この日本という「開かれた社会」にあって、裁判所は特殊例外的なまでに閉鎖的な社会である。法廷の外で裁判官が何をどう考え、どのような精神生活を送っているのか、その実像を知る人は、同じ裁判官という人種以外にはない。
 刑事裁判官の日常は、荘厳な薄暗い裁判官室で、担当事件や死刑について思考の刃を研ぎ澄ますように、一人じっと沈思黙考し続ける---といったものではまるでない。
 私が刑事裁判官をやっていたのは、東京地裁八王子支部に配属されていた時期だったが、退官後も、何かにつけてよく思い出す風景がある。あるいは心象風景と言うべきかもしれないが、それは、田舎の小学校のような雰囲気の庁舎の中で、一部屋に三人が雑居して、それぞれ書物(事件記録、執務資料)を読み、ぼんやりと考えを巡らしているといった牧歌的な情景である。
 実際、八王子支部の庁舎は桜の古木に囲まれた低層の建物で、すぐ裏には三多摩の清流の一つ、浅川が流れていた。西側は都立南多摩高校に隣接していて、いつもどこかで若い男女の声が聞こえ、川のにおいが感じられるような場所だった。
 司法組織の管轄の関係上、東京地裁八王子支部刑事部は、重大事件が集中する部署として知られていて、死刑求刑事件も当たり前のように常に複数抱えていた。それでも、牧歌的な裁判官生活にはほとんど何の影響も及ぼしていなかった。
 2009年春、東京地裁八王子支部は立川に移転し、オフィスビルを思わせる白を基調にした近代的な新庁舎が新築された。八王子の旧庁舎は取り壊され、今はもうない。しかし、おそらくは、刑事裁判官の心静かな日常は今もあまり変わっていないはずである。
 なぜ死刑事件を抱えていてもそうなのか。それは、死刑判断など実際にはしていないからである。裁判官は、判断と呼べるような判断などしていない。
 よく言われるように、裁判は先例主義で行われてきた。その司法の仕組みのもとでは、先例による基準と担当事件を照らし合わせて、半ば自動的に処理するだけである。その事件が先例上死刑の領域に入っていれば、死刑でやむを得ないし、入っていないなら死刑にすることはない。先例に反してまで死刑にする必要など少しもないし、死刑にするにしても、先例に従ってそうする以上は、司法権が死刑にするのであって個人が死刑にするのではないと考えることができる。何も好き好んで、先例の枠をはみ出すことはない。それが、裁判官としての「まともな」感覚なのである。
 私は、一度、先例上死刑の領域に入らない事件について死刑の判断をしようとして、非常に苦しい思いをしたことがある。そこでは、個人の判断で人命を絶つことの問題性がむき出しになる。言い訳や責任転嫁の道がなくなると同時に、それ以上に名状しがたい畏れと疚しさに襲われた。
「畏れ」と言うのは、恐怖ではなくて、先例に反してまで人命を絶とうとすることへの畏れである。先例は、「生ける法」という言い方もされる。その意味では、先例に反して人命を絶つことは、法に反して人命を奪うのと紙一重である。まさに殺人の感覚である。「疚しさ」と言うのは、その疚しさである。
 だからどうしても、裁判官であれば誰もが、心情的に、「裁判官の本分は、正確に先例を把握し、かつできるだけ正確に担当事件をあてはめることだ」と思いたくなる。そうしていれば、すべてが安泰であり、心乱されることもない。それは、責任逃れという以上に、強烈な誘惑である。
「誰がやってもこうなるのさ」---自分以外のどの裁判官が判断したとしても結論は同じなのだから、自分の責任ではないというメンタリティー。それが死刑判断を支えてきたのである。
 死刑か否かという最も重大な結論を人間の顔を持たない組織としての司法権が行う、それも半ば自動的に行うというシステムが、死刑判断をそれこそ、自動的に、人間の判断とはかかわりなく生み出してきた。
 しかし、この事態は、明らかに一つの思考停止である。組織としての司法ではなく、裁く者としての裁判官を見た場合は、思考停止以外の何ものでもない。これまでの死刑宣告は、少なくとも一面では、思考停止の産物だった。
 死刑を支えてきた原因には、もう一つある。それは、哲学の不在である。死刑判断は、基本的に法律論ではできない。法律よりも深い、人間存在や社会の在り方の根本に関わらざるを得ない。本来は、思想・哲学、さらには社会学などの分野の問題である。
 ところが、思想・哲学の世界を見ても、死刑についての考察は驚くほど少ない(ように思われる)。
 ジャック・デリダによれば、「私の知るかぎり、かつて一度も、いかなる哲学者としての哲学者も、その本来的かつ体系的に哲学的な言説において、死刑の正当性について異議を申し立てたことはありません」(ジャック・デリダ=エリザベート・ルディネスコ『来たるべき世界のために』)と言明されている。
 死刑肯定にしても、その根拠は「人を殺した者は死ななければならない」(カント『人倫の形而上学』)とか、「殺人者としてその者は、生命は尊重されるべきではないという法則を定立しているが、それによって自らに死刑を宣告している」(ヘーゲル『法の哲学』、ホトー手稿)など、取り付く島のないような見解が散見されるばかりである。
 これでは、裁く者が、いざ先例に頼らずに死刑の当否を判断しようとしても、参照し得るものがない。支えになるものがない。死刑廃止論や死刑存置論などの制度論はあるが、死刑宣告が何ゆえに可能となるのか、われわれの社会にはそれを基礎づける価値があるのか、あるとすればそれは何かなど、最も直接的な部分の議論がない。それがないままに、死刑宣告だけが行われてきたのである。これは、哲学の欠落であり、哲学者の怠慢ではないか。
 この11月に現代新書の一冊として『死刑と正義』を出してもらうことになった。この本で、私は、これまでの死刑に関する書とは全く違う事柄を全く違う次元で扱った。
 言い古された死刑存廃論議ではないのはもちろん、死刑の基準や死刑判断の実情について書いたものでもない。ここでは、新しい死刑空間における死刑の価値について書いた。裁判員制度の実施により、裁判の先例主義は崩れた。旧制度(職業裁判官制度)の時代の先例どおりに判断するなら、裁判員制度など要らない。新制度では、先例主義は成り立たない。これは、司法当局も認めている。
 その結果、死刑空間とも言うべき空間が切り開かれることになった。そして、市民裁判時代の到来と同時に、市民はその空間に投げ出された。われわれは、この空間で死刑を正当化する価値が何処にあるのかをわれわれ自身で確かめなければならない。哲学不在の中、われわれ自身の哲学で死刑の価値とは何なのかを見定めなければならないことになった。
 最後に、一つだけ紹介しておきたいことがある。それは、人命の価値は、何ら死刑を正当化する理由にはならないことである。最高の価値であるはずの人命が死刑の根拠にならないとは、いったいどういうことか。興味を持たれた方は、一度、店頭で本書(『死刑と正義』)を手に取ってみてほしい。(もり・ほのお 弁護士)
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『死刑と正義』著者・森炎インタビュー 人命の価値は死刑の根拠にはならない/人命以外の死刑を決める価値 2012-11-17 | 死刑/重刑/生命犯 問題 

      

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