日本の民主主義化の芽をつんだ“小沢一郎暗殺事件”(大貫 康雄)
News Log 2012年12月23日 大貫 康雄
■「小沢一郎事件〜今様政治家暗殺事件」
小沢一郎氏を対象にした事件は民主党の政権交代の可能性が現実に出てきた2008年11月ごろから霞ヶ関や永田町でささやかれ始めた。その翌年2009年3月の東京地検特捜部による強制捜査以来、小沢氏に対する執拗な攻撃は、変質した末の民主党・野田政権が解散を決めるまで続いた。民主党政権成立前夜から終焉の時まで。戦後日本の政治史上忘れてはならない事件である。
この小沢一郎事件について月刊「マスコミ市民」編集代表の大治浩之輔氏が鋭く本質を突く一文を「マスコミ市民12・12号」に載せている。大治氏は元NHK社会部記者で数々の公害問題の取材で知られる。日本の報道界の大先達。ここに大治氏の了解を得て全文をそのまま紹介する(原文は縦書き。一行当たりの字数の違いは御容赦頂きたい)。
*******************
小沢一郎事件〜今様政治家暗殺事件
東京地検特捜部が「小沢一郎事件」を始めたのが、2009年3月3日。戦後初めての本格的な政権交代が実現する2009年8月30日の総選挙の直前であった。政権交代必至の野党党首に政治資金規正法で強制捜査、バランスの取れない異例の非常識な捜査である。
2012年11月12日。その「小沢一郎事件」を東京高裁が無罪判決で締めくくった。
小沢の政治団体・陸山会が秘書寮新築のため2004年10月に3億5200万円で東京世田谷の土地を買った。その取引の届けを、本来の2004年でなく翌2005年の政治資金報告書で届けたのが犯罪になるか。担当秘書は、届がずれたのは、土地の移転登記が翌年にずれたのに合わせたので適法だと思っていたと抗弁。
検察はこれを認めずに秘書を起訴。そして、検察審査会が小沢を強制起訴。『秘書に任せたていた』といえば政治家本人の責任は問われなくていいのか」「市民目線からは許しがたい」という、罪刑法定主義を無視した衆愚の暴論で小沢をも起訴すべしという議決を繰り返し、小沢は強制起訴で被告になってしまった。
高裁判決は、「小沢は秘書が違法な処理をしていると思っていなかった」として“共謀”の成立を認めず、一審に続いて無罪。そればかりか、そもそも担当秘書も「登記に合わせて所有権が移転すると信じていた可能性がある」と認めて、刑事責任を否定した。犯罪は無かった、火の無いところに煙を立てたようなものだ。いったい検察は何を目的として、「小沢事件」を仕掛けたのか。と言いたくなる判決だ。この間に、季節は移り、政権交代への期待と希望は、幻滅と失望に変わっている。
高裁判決の翌日、「小沢事件」が無ければ首相になっていたはずのない野田が、かつて、へなへなと政権を投げ出した自民党の安倍を相手に「11月16日に衆議院解散」を宣言して、幻滅の政権交代の終わりを告げた。
小沢事件と民主党政権は、「始まり」も「終わり」もほぼ同時である(「小沢事件」は検察役の弁護士側が上告をすれば、まだ引き伸ばして小沢を被告の座に置いておくことが可能だった。しかし、野田の「解散宣言」のあと、検察役弁護士は上告を“断念”した)。
この“政権の消長”と“事件の推移”との時期の一致は、「小沢一郎事件」の政治的な狙い・意味を、わかりやすく示している。政治的狙いとは、〈本来、この政権交代を党首として主導するはずであった、一人の政治家を、無実の罪にひっかけてでも、すくなくともこの交代政権が続いている期間、政治の表舞台から追放する〉、ということである。「小沢一郎事件」とは、今様の政治家暗殺事件、つまり「小沢一郎暗殺事件」であった。
日本の戦後の政治の流れからいえば、2009年8月30日の地滑り的な政権移動は、革命であった。それが掲げたのは、内政ではアメリカ型の新自由主義(金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏になる自由)からヨーロッパ型の社民主義的な福祉社会への基本的な転換。外に向かっては、アメリカ隷属からの相対的自立とアジア重視、であった。もちろんこれは、旧政権・自民党とそれにつながってきた旧体制支持派(経済界・官僚組織・大マスコミ)と、日本=自民党として対日政策をとってきたアメリカとを、同時に相手に回しての大難問であった。
崖っぷちに隘路を切り拓いていくような仕事だった。政治的なリアリズムと緻密さ、相手の手の内を充分に知り尽くした剛腕も必要だった。鳩山のようにヴィジョンだけというのでなく、ヴィジョンに到達するため、敵に応じて闘いを組み立てられる、味方に引き込むこともできる、リアリズムが必要だった。地滑り的に大勝した民主党の中で、それが務まるのは「小沢一郎」以外にいなかったろう。それを一番よくわかっていたのは、民主党ではなく、旧体制の側だった。だから、彼らは、「小沢一郎事件」が東京地検によって仕掛けられるや、一致協力して、表舞台から消す“暗殺”に手を貸したのである。
12、13日を経た11月14日の朝日の論説面。社説が2本『マニフェスト バラ色に染めるな』『週刊朝日問題 報道の自覚に欠けた』。その右側に政治漫画、「オレの不名誉な日々を誰が返してくれんだ!?」と題して、『無罪一郎』と大書した紙をかかげて“小沢一郎”が道を走っている。つまり、せいぜい言って被害者は小沢一郎・個人どまり、という認識だ。しかし、この認識は間違っている。
検察の強制捜査は、戦後最大の政治の転換点に介入し、いまだ成長過程のデリケートな日本の民主主義化の芽を摘み、自然な成長を破壊した。被害者は国民である。
かりに、小沢一郎という政治家が妨害を受けなければ、この3年間の政治展開は全く別物になっていたかもしれない。政権政党としては素人ばかりのような民主党集団の中で、彼は、例外的に、旧勢力の手口も攻め口も自民党の面々以上に、熟知しており、革命派にして旧勢力にだまされないという隘路を、切り拓けたかも知れなかったから。対米関係も、中国、韓国との関係も、過去の経緯を熟知したうえで対応し、現状とは別の展開になっていた可能性が高い。それらの可能性のすべてが、検察の不当な政治介入捜査で国民から強奪された、盗まれた。そのうえに、自ら小沢外しを強行した民主党の未熟な連中の手で、政権交代は幻滅と荒廃感しか残さないものになった。日本は歴史のターニングポイントで、道をそれてしまった。悲劇だ。われわれは遠回りをすることになるだろう。
公判で、検察の黒い工作が暴露された。秘書の一審公判では、“被告の供述調書が検事の違法な「威迫や利益誘導」で作られた”として、排除された。それどころか、検察審査会の議決を受け、元秘書・石川知裕議員を再聴取したとき、担当検事は検察に有利な架空の内容を盛り込んだ捜査報告書をつくり、特捜部幹部も「小沢共謀の証拠となりうる」という報告書を検察審査会に提出。一審判決で「事実に反する捜査報告書で検察審査会の判断を誤らせることは許されない」と、断罪された。にもかかわらず最高検は、担当検事の「記憶が混同した」「故意ではなかった」と放免している。自律能力も責任感も無い。
東京新聞は判決翌日の朝刊一面コラム「筆洗」で、「▼検察審査会に出された捜査報告書は偽造だった。検察は認めようとしないが、今回の強制起訴は素人の審査会を欺き、有力政治家を葬り去ろうとした東京地検特捜部の『権力犯罪』だった疑いが濃厚である。▼傲慢な検察の世直し意識を助長してきた責任の一端は、マスメディアの側にある。猛省しなければならない」と指摘。社説で、「検察が市民の強制起訴を意図的に誘導した疑いが晴れぬ、生ぬるい内部検証ではなく国会が『検察の“闇”を調べよ』」と主張している。同感である。
************
以上が大治浩之輔氏の一文だ。
大治氏は現在77歳。筆者がNHK社会部駆け出しの記者時代の遊軍キャップだった。鋭い視点と強い意志、パッションで毎日、毎晩、担当の記者たちと議論しながら遊軍を率いていた。
大治氏は日本の公害の原点といわれる水俣に入り、有機水銀の被害に苦しむ人たちから話を聞きながら一つのドキュメンタリーの取材制作に関わった。それが、1956年に水俣病が公式に確認されたにもかかわらず葬りされていた実態を明らかにしたテレビ・ドキュメンタリー「埋もれた報告」で、76年、芸術祭大賞を受賞している。ジャーナリストの基本である被害者の視座から考える大治氏でこそ実現した報告だった。
また81年、当時の「ニュースセンター9時」に三木元首相を何度も説得しインタビュー取材した上にロッキード事件5周年の企画リポート制作に関わった。しかし、この放送に時の島圭次報道局長(後のNHK会長)が中止命令を出した時、島報道局長と厳しく対立した。
経歴からもお分かりのように、自由で公正な報道の原則を堅持し、市民に情報で武装してもらうという強い意志と情熱のあるジャーナリストだ。現在は一度退いた月刊「マスコミ市民」の編集代表をヴォランティアで再び引き受けている。
月刊「マスコミ市民」は67年2月創刊以来、日本社会の言論の自由、平和、人権、民主主義の確立を目指した論陣を張っている。言論・報道に携わる者に原点からの姿勢を問う数少ない雑誌と言って良い。
【NLオリジナル】
*大貫康雄プロフィール
NHK入局後、報道局社会部、NHKエンタープライズ、報道局国際部、ヨーロッパ総局長など、主に国際報道の現場を取材。スペシャル番組エグゼクティヴ・プロデューサーとして番組制作多数。講演では、「国外から視る日本」「日本とヨーロッパの視野の相違点」「日米関係」等の最新情報を解説。
・職歴・経歴
1948年栃木県生まれ。72年東京外国語大学ロシア語科卒業後、同年NHKに入局し、取材記者として活躍。福島放送局、横浜放送局を経て、80年に報道局社会部国際関係の担当となる。88年ロサンゼルス支局長に任命され、日米貿易摩擦、防衛、環境、湾岸戦争などを取材。その後、報道局国際部デスク、広報室国際広報副部長等を経て、99年ヨーロッパ総局長に就任。イラク戦争、NATO拡大、EU統合拡大などを取材。同年ドイツ連邦共和国功労文化章小綬章。2004年エグゼクティヴ・プロデューサーを務める。その後放送文化研究所勤務を経て、08年NHK退職。
・担当番組
NHK特集「日本の戦後40年」「難民」「アメリカで何が起きているか」「ボイジャー2号海王星大接近」など多数。年始特番「ノーベル賞百年教育」、教育テレビ40周年年始特番「世界の知性に聞く」、クローズアップ現代「NATO拡大」。
・著書・執筆
『ヨーロッパ・メディアに見る日本・世界』、「オオヌキの目」(連載)、「ドイツの戦後60年」「EU拡大」(雑誌「世界」連載)。
・講演実績
アメリカ外交問題評議会(ワシントン)、アメリカ世界問題協議会、アメリカ各地で日本の政治、文化・メディア事情・社会問題など。イギリスでは、王国国際問題研究所、平ワード大学大学院、英連邦公共放送会議、日英産業会議、ドイツ第二公共放送、日西文化会議(バルセロナ)やユネスコ文化多様性会議(アテネ)、次世代放送会議(ベルリン)、BBC定期番組・ニュースなど。日本国内大学での講演他多数。
=========================================
◆政治資金規正法を皆さん勘違い。小沢さんがいなくなることはプロの政治家がいなくなること=安田弁護士2011-01-08 | 政治/検察/メディア/小沢一郎
7/19緊急シンポジウム!! ''ニッポン''は何を守ろうとしているのか!H.22-06-08
---------------------------------------------------------
◆ 「小沢一郎に取りつかれた日本」 WSJ / 『誰が小沢一郎を殺すのか?』カレル・ヴァン・ウォルフレン著 2012-04-27 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
==================================
◆ 『誰が小沢一郎を殺すのか?』の著者カレル・ヴァン・ウォルフレン氏と小沢一郎氏が対談〈全文書き起こし〉 2011-07-30 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
=========================================
◆『アメリカに潰された政治家たち』孫崎亨著(小学館刊)2012年9月29日初版第1刷発行
p93〜
第2章 最後の対米自主派、小沢一郎
角栄に学んだ小沢の「第七艦隊発言」
私は情報局が人材のリクルートのために製作したプロモーション映像を見たことがあるのですが、そのなかで「我々は軍事だけでなく、政治的な分野でも諜報活動を行っている」と活動を紹介し、オサマ・ビン・ラディンの映像などを流していました。そういった一連の映像や画像のなかに、小沢一郎氏の写真が混ざっていて、私はハッとしました。
彼らにとっては、小沢一郎に工作を仕掛けているということなど、隠す必要がないほど当たり前のことなのです。
p94〜
明確にアメリカのターゲットに据えられている小沢一郎とはどんな人物なのか、簡単におさらいしておきましょう。
小沢一郎は27歳という若さで衆議員議員に初当選した後、田中派に所属し、田中角栄の薫陶を受けて政界を歩んできました。しかし、1985年に田中角栄とは袂を分かち、竹下登、金丸信らと創政会を結成。のちに経世会(竹下派)として独立しました。
1989年に成立した海部俊樹内閣では、47歳で自民党幹事長に就任しています。おそらく小沢一郎という人物をアメリカが捕択、意識し始めたのはこの頃だと考えられます。1990年にサダム・フセインがクウェートに軍事侵攻し、国連が多国籍軍の派遣を決定して翌年1月に湾岸戦争が始まりました。
ここでブッシュ(父)大統領は日本に対して、湾岸戦争に対する支援を求めてきます。
アメリカ側は非武装に近い形でもいいので自衛隊を出すことを求めましたが、日本の憲法の規定では、海外への派兵は認められないとする解釈が一般的で、これを拒否します。アメリカは人を出せないのなら金を出せとばかり、資金提供を要請し、日本は言われるまま、計130億ドル(紛争周辺国に対する20億?の経済援助を含む)もの巨額の資金提供を行うことになります。
p95〜
当時の外務次官、栗山尚一の証言(『栗山尚一オーラルヒストリー』)では、この資金要請について「これは橋本大蔵大臣とブレディ財務長官の間で決まった。積算根拠はとくになかった」とされています。何に使うかも限定せず、言われるまま130億?ものお金を出しているのです。
橋本は渡米前に小沢に相談していました。小沢は2001年10月16日の毎日新聞のインタビューでそのときのやりとりを明かしております。
「出し渋ったら日米関係は大変なことになる。いくらでも引き受けてこい。責任は私が持つ」
この莫大な資金負担を決定したのが、実は小沢一郎でした。当時、小沢はペルシャ湾に自衛隊を派遣する方法を模索し、実際に「国連平和協力法案」も提出しています(審議未了で廃案)。
“ミスター外圧”との異名をもつ対日強硬派のマイケル・アマコスト駐日大使は、お飾りに近かった海部俊樹首相を飛び越して、小沢一郎と直接協議することも多かったのです。小沢一郎が「剛腕」と呼ばれるようになったのはこの頃からです。
p96〜
この時代の小沢一郎は、はっきり言えば“アメリカの走狗”と呼んでもいい状態で、アメリカ側も小沢を高く評価していたはずです。ニコラス・ブレディ財務長官の130億?もの資金要請に、あっさりと応じただけでなく、日米構造協議でも日本の公共投資を10年間で430兆円とすることで妥結させ、その“剛腕”ぶりはアメリカにとっても頼もしく映ったことでしょう。
田中派の番頭だった小沢は、田中角栄がアメリカに逆らって政治生命を絶たれていく様を目の当たりにしています。ゆえに、田中角栄から離れて、「対米追随」を進んできたものと思われます。
しかし、田中角栄の「対米自主」の遺伝子は、小沢一郎のなかに埋め込まれていました。
1993年6月18日、羽田・小沢派らが造反により宮沢内閣不信任案が可決され、宮沢喜一首相は衆議員を解散しました。それを機に、自民党を離党して新生党を結成し、8党派連立の細川護煕内閣を誕生させました。その後は、新進党、自由党と新党を結成しながら、03年に民主党に合流します。(略)
p97〜
外交政策についても、対米従属から、中国、韓国、台湾などアジア諸国との連携を強めるアジア外交への転換を主張するようになりました。「国連中心主義」を基本路線とするのもこのころです。
小沢一郎は、09年2月24日に奈良県香芝市で「米国もこの時代に前線に部隊を置いておく意味はあまりない。軍事戦略的に米国の極東におけるプレゼンスは第7艦隊で十分だ。あとは日本が自らの安全保障と極東での役割をしっかり担っていくことで話がつくと思う。米国に唯々諾々と従うのではなく、私たちもきちんとした世界戦略を持ち、少なくとも日本に関係する事柄についてはもっと役割を分担すべきだ。そうすれば米国の役割は減る」と記者団に語っています。
つまり沖縄の在日米軍は不要だと明言したわけです。
この発言を、朝日、読売、毎日など新聞各紙は一斉に報じます。『共同通信』(09年2月25日)の配信記事「米総領事『分かっていない』と批判 小沢氏発言で」では、米国のケビン・メア駐沖縄総領事が記者会見で、「『極東における安全保障の環境は甘くない。空軍や海兵隊などの必要性を分かっていない』と批判し、陸・空軍や海兵隊も含めた即応態勢維持の必要性を強調した」と伝えています。アメリカ側の主張を無批判に垂れ流しているのです。
p98〜
この発言が決定打になったのでしょう。非常に有能だと高く評価していた政治家が、アメリカから離れを起しつつあることに、アメリカは警戒し、行動を起こします。
発言から1か月も経っていない2009年3月3日、小沢一郎の資金管理団体「陸山会」の会計責任者で公設秘書も務める大久保隆規と、西松建設社長の國澤幹雄ほかが、政治資金規正法違反で逮捕される事件が起きたのです。小沢の公設秘書が西松建設から02年からの4年間で3500万円の献金を受け取ってきたが、虚偽の記載をしたという容疑です。
しかし、考えてもみてください。実際の献金は昨日今日行われたわけではなく、3年以上も前の話です。第7艦隊発言の後にたまたま検察が情報をつかんだのでしょうか。私にはとてもそうは思えません。
アメリカの諜報機関のやり口は、情報をつかんだら、いつでも切れるカードとしてストックしておくというものです。ここぞというときに検察にリークすればいいのです。
この事件により、小沢一郎は民主党代表を辞任することになります。しかし、小沢は後継代表に鳩山由紀夫を担ぎ出します。選挙にはやたらと強いのが小沢であり、09年9月の総選挙では“政権交代”の風もあり、民主党を圧勝させ、鳩山由紀夫政権を誕生させます。ここで小沢は民主党幹事長に就任しました。
p99〜
小沢裁判とロッキード事件の酷似
ここから小沢はアメリカに対して真っ向から反撃に出ます。
鳩山と小沢は、政権発足とともに「東アジア共同体構想」を打ち出します。 対米従属から脱却し、成長著しい東アジアに外交の軸足を移すことを堂々と宣言したのです。さらに、小沢は同年12月、民主党議員143名と一般参加者483名という大訪中団を引き連れて、中国の胡錦濤主席を訪問。宮内庁に働きかけて習近平副主席と天皇陛下の会見もセッティングしました。(略)
しかし、前章で述べたとおり、「在日米軍基地の削減」と「対中関係で先行すること」はアメリカの“虎の尾”です。これで怒らないはずがないのです。
その後、小沢政治資金問題は異様な経緯を辿っていきます。
p100〜
事件の概要は煩雑で、新聞等でもさんざん報道されてきましたので、ここでは触れませんが、私が異様だと感じたのは、検察側が10年2月に証拠不十分で小沢を不起訴処分にしていることです。結局、起訴できなかったのです。もちろん、法律上は「十分な嫌疑があったので逮捕して、捜査しましたが、結局不起訴になりました」というのは問題ないのかもしれません。
しかし、検察が民主党の党代表だった小沢の秘書を逮捕したことで、小沢は党代表を辞任せざるをえなくなったのです。この逮捕がなければ、民主党から出た最初の首相が鳩山由紀夫ではなく、小沢一郎になっていた可能性が極めて高かったと言えます。小沢首相の誕生を検察が妨害したということで、政治に対して検察がここまで介入するのは、許されることではありません。
小沢は当初から「国策捜査だ」「不公正な国家権力、検察権力の行使である」と批判してきましたが、現実にその通りだったのです。
この事件には、もう1つ不可解な点があります。検察が捜査しても証拠不十分だったため不起訴になった後、東京第5検察審査会が審査員11人の全会一致で「起訴相当」を議決。検察は再度捜査しましたが、起訴できるだけの証拠を集められず、再び不起訴処分とします。それに対して検察審査会は2度目の審査を実施し「起訴相当」と議決し、最終的に「強制起訴」にしているところです。
p101〜
検察は起訴できるだけの決定的な証拠をまったくあげられなかったにもかかわらず、マスコミによる印象操作で、無理やり起訴したとの感が否めないのです。これではまるで、中世の魔女裁判のようなものです。
ここで思い出されるのは、やはり田中角栄のロッキード事件裁判です。当時、検察は司法取引による嘱託尋問という、日本の法律では規定されていない方法で得た供述を証拠として提出し、裁判所はそれを採用して田中角栄に有罪判決を出しました。超法規的措置によって田中は政界から葬られたのです。(略)
■東京地検特捜部とアメリカ
p102〜
実は東京地検特捜部は、歴史的にアメリカと深い関わりをもっています。1947年の米軍による占領時代に発足した「隠匿退蔵物資事件捜査部」という組織が東京地検特捜部の前身です。当時は旧日本軍が貯蔵していた莫大な資材がさまざまな形で横流しされ、行方不明になっていたので、GHQの管理下で隠された物資を探し出す部署として設置されました。つまり、もともと日本のものだった「お宝」を探し出してGHQに献上する捜査機関が前身なのです。
東京地検特捜部とアメリカお関係は、占領が終わった後も続いていたと考えるのが妥当です。たとえば、過去の東京地検特捜部長には、布施健という検察官がいて、ゾルゲ事件の担当検事を務めたことで有名になりました。
ゾルゲ事件とは(略)
p103〜
さらに布施は、一部の歴史家が米軍の関与を示唆している下山事件(略)
他にも、東京地検特捜部のエリートのなかには、アメリカと縁の深い人物がいます。
ロッキード事件でコーチャンに対する嘱託尋問を担当した堀田勉は、在米日本大使館の一等書記官として勤務していた経験があります。また、西松建設事件・陸山会事件を担当した佐久間達哉・東京地検特捜部長(当時)も同様に、在米大使館の一等書記官として勤務しています。
この佐久間部長は、西松建設事件の捜査報告書で小沢の関与を疑わせる部分にアンダーラインを引くなど大幅に加筆していたことが明らかになり、問題になっています。
この一連の小沢事件は、ほぼ確実に首相になっていた政治家を、検察とマスコミが結託して激しい攻撃を加えて失脚させた事件と言えます。
『文藝春秋』11年2月号で、アーミテージ元国務副長官は、「小沢氏に関しては、今は反米と思わざるを得ない。いうなれば、ペテン師。日本の将来を“中国の善意”に預けようとしている」と激しく非難しています。
p104〜
アメリカにとっては、自主自立を目指す政治家は「日本にいらない」のです。必要なのはしっぽを振って言いなりになる政治家だけです。
小沢が陥れられた構図は、田中角栄のロッキード事件のときとまったく同じです。アメリカは最初は優秀な政治家として高く評価していても、敵に回ったと判断した瞬間、あらゆる手を尽くして総攻撃を仕掛け、たたき潰すのです。小沢一郎も、結局は田中と同じ轍を踏み、アメリカに潰されたのです。
=========================================