G2 » Vol.11 » 小沢一郎妻に「離縁状」を書かせた男
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第1回
その記事は、確かに衝撃的な波紋を引き起こした。さる6月14日に発売された『週刊文春』(6月21日号)が、次のような大見出しを掲げ、トップ記事として放った“スクープ”である。
〈小沢一郎 妻からの「離縁状」全文公開 「愛人」「隠し子」も綴られた便箋11枚の衝撃〉
30年以上にわたって日本政治の舞台中央に立ち続け、いまもなお、良きにつけ悪しきにつけ一挙手一投足がメディアの関心事となっている小沢一郎(70)。その妻・和子が小沢の地元・岩手の支援者らに向けてしたためたとされる手紙には、にわかには信じがたいような内容がいくつも綴られていたのだから、衝撃を呼ぶのも無理はなかったろう。
〈小沢は放射能が怖くて秘書と一緒に逃げだしました〉〈長年お世話になった方々が一番苦しい時に見捨てて逃げだした小沢を見て、岩手や日本の為になる人間ではないとわかり離婚いたしました〉〈八年前小沢の隠し子の存在が明らかになりました〉〈三十年間皆様に支えられ頑張ってきたという自負心が粉々になり、一時は自殺まで考えました〉〈それでも離婚しなかったのは、小沢が政治家としていざという時には、郷里と日本の為に役立つかもしれないのに、私が水をさすようなことをしていいのかという思いがあり、私自身が我慢すればと、ずっと耐えてきました〉〈ところが三月十一日、大震災の後、小沢の行動を見て岩手、国の為になるどころか害になることがはっきりわかりました〉……。
『週刊文春』の発行元である文藝春秋などによれば、公称70万の部数は発売の翌15日夕までに完売し、手紙の内容はネット上などでも凄まじい勢いで伝播していった。同時に、日ごろから小沢に批判的な識者たちも、ついに決定的なダメージを「剛腕・小沢」に与える大スキャンダルが飛び出したと沸き立った。
たとえば、評論家の立花隆は翌週号の『週刊文春』(6月28日号)に、次のような一文を寄せている。
〈「これで小沢一郎はおしまいだ」と確信した。誰がどう読んでも、小沢は政治家失格だと確信する、それほど衝撃的な手紙だった〉
〈何しろあの一本の記事が当代随一の政界実力者の政治力を一挙に奪ってしまったのだ〉
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問題の手紙が真に小沢和子の手によって書かれたものであり、その内容がすべて事実であるならば、こうした指摘も決して的外れではなかっただろうと思う。しかし、以後の経過を見ると、事態は必ずしもそのように推移していない。有力週刊誌や夕刊紙などはさまざまな形で後追い報道を繰り広げたものの、新聞やテレビといった大手メディアはほぼ沈黙を守り、問題の手紙がまるで「なかったもの」であるかのように振る舞っている。実際には政治家・小沢の今後にボディーブローのように効いてくるのかもしれないが、〈当代随一の政界実力者の政治力を一挙に奪ってしまった〉とまで断じるような状況には、少なくとも見えない。すべてがどこか霧のようなものに覆われたかのごとく、もやもやとしたままである。
小沢一郎への嫌悪感
それにしても、小沢一郎という政治家は、ひどく奇態な存在である。いや、正確に記すなら、小沢一郎という存在そのものよりも、それを取り巻く周辺状況の方が奇態というべきなのかもしれない。
さまざまな世論調査などに目をやれば、世の人々の相当数は小沢一郎という政治家に嫌悪感を抱いているらしい。民主党を飛び出した小沢が立ち上げた「国民の生活が第一」なる新党について、結成直後に共同通信が世論調査を実施したところ、「期待している」とする回答が16・5%にとどまる一方、「期待していない」とする回答が81・8%にも上ったというのは、その証左の一つであるだろう。
しかし、一部の人々は小沢を熱心に支持しているらしい。世の多数が小沢に嫌悪感を抱いているのは、検察や官僚組織が意図的かつ恣意的に小沢の追い落としを謀っているからであり、しかも新聞やテレビといった大手メディアがその尻馬に乗って小沢バッシングやネガティブキャンペーンを繰り広げているからにほかならないと主張する人々は、さらに熱狂的に小沢支持に突き進む。
そうした主張には頷ける部分もあるにはあるのだが、小沢を取り巻く奇態な風潮の中で、事実は往々にして極端な方向へと歪められていく。一方の側は、事実を過大視してここぞとばかり小沢バッシングに狂奔し、もう一方の側はやはり事実を過大視したり過小評価したりしながら、すべては背後に「政治的謀略」がある、などと声を張り上げて訴える。
余談に属するのかもしれないが、小沢一郎をターゲットとする東京地検特捜部の捜査が繰り広げられていた当時、私は検察捜査の問題点をさまざまな場で批判した。どう考えても無理筋の捜査であったし、過去の政治資金事件に比べて捜査のハードルが明らかに低く、戦後初の本格的政権交代を検察ごときが掻き回すことにどうしようもない不快感を覚えたからなのだが、小沢を支持するらしき人々からはネット上などで随分と過分なお褒めを頂戴した。
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一方で私は、小沢一郎という政治家に一片の好意も抱いていない。だから、同時に小沢批判にも幾度か言及したのだが、その途端、同じような人々からひどく感情的なバッシングを浴びることになった。別にネットなどで何を書かれようとどうでもいいのだが、小沢一郎という存在をめぐる近年の議論は、かくも感情的で、かくも極端に走りがちなことは痛感させられた。
つくづくと思うのだが、事実はもっと虚心に見つめられねばならない。さもなくば、歪んだ見方が大手を振って罷り通ってしまうし、エキセントリックな謀略論に閉じこもって異論を封殺するような輩も跋扈してしまう。 では、衝撃的に報じられて世に広く伝播しながら、新聞やテレビがほぼ沈黙した小沢和子の手紙の実相とは何だったのか。普段は「恣意的な小沢叩きに躍起となっている」と揶揄される新聞やテレビはいったいなぜ、格好のネタともいえる和子の手紙に反応しなかったのか。
幾人もの小沢関係者のもとを訪ね歩いたのだが、長きにわたって小沢と行動をともにしてきた元側近に尋ねてみると、やや言葉を濁しながら、こんなふうに打ち明けはじめた。
「あの手紙は、小沢先生の奥さまが書かれたものに間違いありません。ただ、おそらくはすべてが自らの意志で書かれたものではないと思います」
―自分の意志じゃないとすれば、いったい誰が?
「実は……」
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第2回
妻・和子の変調
小沢の妻・和子は1944(昭和19)年9月、新潟市に本社を置くゼネコン「福田組」の創業者一族に生まれた。福田組は明治期の1902年、初代の福田藤吉が個人企業として立ち上げたものだったが、戦後に四代目の社長となった藤吉の子・福田正が社勢を急成長に導き、鉄道、港湾、発電施設などの土木工事を幅広く手がける東証一部上場の中堅ゼネコンにまで育て上げている。
急成長の背後にあったのが、故・田中角栄の威光と政治力だった。四代目社長の福田正は角栄の後援会「越山会」の最高幹部であり、全盛期の越山会は角栄の地元・新潟で泣く子も黙る権勢を誇った。「列島改造」を唱えて角栄が政界の出世街道をのし上がっていくのと歩調を合わせるように、福田組も業績を拡大させてきたのである。
この福田正の長女が和子であった。ちなみに福田正の次女・雅子は、故・竹下登の異母弟で自民党衆院議員の竹下亘の妻となっており、角栄門下である竹下登―小沢一郎という恩讐も入り交じった師弟は、福田組を軸として姻戚関係を形作っている。いずれも角栄の紹介によるものであり、古くからある言葉を用いれば、まさに「政略結婚」と評すべきものだったろう。
そうして小沢と和子が結婚したのは、73(昭和48)年のことである。翌74(昭和49)年には長男が、77(昭和52)年と78(昭和53)年には次男と三男も生まれている。一方、当時30代になったばかりだった小沢は、少壮の衆院議員として自民党最大派閥の田中派に所属し、角栄や金丸信の寵愛を一身に受けて急速に政界での力を蓄えていった。
これを陰で支えたのが和子だった。小沢が代議士だった父・佐重喜から引き継いだ地盤をさらに固め、岩手に強大な“小沢王国”をつくりあげるのに、和子の地道な奮闘は欠かせないものだったらしい。田中派時代から小沢周辺を取材し続けた大手紙のベテラン政治記者がこう解説してくれたしてくれた。
「もともと和子さんは人前で話したりするのが得意なタイプじゃなかったようですが、岩手で(小沢の母の)みちさんの薫陶を受けて、とことん裏方に徹しながら、小沢さんの“名代”として一生懸命に地元の支援者回りを積み重ねてきました。いまだって岩手では『和子さんがいなければ地元がまとまらない』という声が出るくらいです」
一方、東京の小沢事務所でも和子の存在と献身は大きかった。小沢の秘書を長く務めた衆院議員の石川知裕のもとを訪ねると、当時の日々を懐かしむようにこう語った。
「とにかく小沢さんはぶっきらぼうで、秘書や住み込みの書生にも優しい言葉をかけることなんかまったくありませんからね。そんな小沢さんに代わって、秘書の動きに気を配ったり、やる気を引き出してくれたのは、いつも奥さんでした。小沢家における奥さんの存在は、相撲部屋のおかみさんをイメージするとわかりやすいかもしれません。むかしは、台所で奥さんと一緒に小沢さんやわれわれ秘書の朝食をつくっていました。料理のつくり方なども、よく教えてもらったものです」
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そんな小沢と妻・和子の関係が大きく変質していったのが、おおよそ10年前ごろからのことだったようである。前出した小沢の元側近が、こう明かしてくれた。
「弟さんが亡くなられたころの話です。あれから、奥さまは急激に体調を崩されましてね。よっぽどショックだったんでしょう、それから間もなくお父さんまで亡くなられて、ますます体調が悪くなって……」
―体調というと?
「体調……というより、はっきり言えば、精神的に病を抱えたような状態になってしまわれたんです。最初のころは、更年期ということもあるのかな、と思っていたんですが、どうやらそんな程度じゃなくて、小沢さんとの関係も急速に悪化しましてね」
和子の実弟である福田実は、父・正の跡を継ぎ、92(平成4)年から福田組の五代目社長に就いていた。ところが2003(平成15)年3月10日、食道ガンのため54歳という若さで急逝してしまったのである。福田組名誉会長の座に退いていた父・正が世を去ったのは弟・実の死より後、09年10月のことであった。元側近の話を続ける。
「弟の実さんは、奥さまと非常に仲良しでね。それに、お父さんの正さんはリクルート疑獄の際に小沢先生や竹下先生に代わって未公開株を受け取り、激しいバッシングに晒されていますから、実家の福田家は政治に翻弄されておかしくなってしまった、という苛立ちも募りに募り、それが一挙に爆発した面もあったんじゃないでしょうか。以後、(和子は)もうすっかり人が変わってしまったようになって、この10年くらいは、地元(岩手)にもほとんど入らなくなってしまいました。あれほど一生懸命に後援会活動を続けてきたのに……。『週刊文春』に報じられた手紙にも書かれていましたが、『隠し子』の問題が浮上してきたことも影響したと思います。同じ家の中にいながらも別居状態になられて、夫婦間の会話もほとんどなくなってしまいましてね」
東京・世田谷区深沢の小沢邸は、敷地面積が600坪もある。その敷地内の一角に、2階建ての別棟が新築されたのは2002年のことだったという。所有者は和子。間もなく和子はこの別棟に閉じこもって暮らすようになり、小沢との夫婦関係は完全に冷め、破綻状態となっていった。
いまもむかしも、政治家と呼ばれる人種は大抵、自らの地盤を世襲によって維持したがるものである。戦後日本で初の政権交代が成し遂げられた先の総選挙―2009年8月の衆院選を例に取れば、立候補者のうち3親等内に国会議員を持つ「世襲比率」は自民党が約39%、民主党でも約15%に上っている。世襲がうまくいくか、無惨に失敗するかはともかく、また、政治家の世襲そのものの是非はともかく、現下日本の政界では、おおよそ4人に1人以上が何らかの形の世襲議員で占められている、とも言われる。畢竟、大物と呼ばれるような議員の子息は、秘書などの形で早くから公の場に姿を現し、マスメディアなども彼らの動向に注目する。
しかし、小沢の場合は違う。小沢自身が父・佐重喜の地盤を継いだ世襲議員であるにもかかわらず、それを引き継ぐ可能性のある子息らの動静がまったく明らかにされていないのである。
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第3回
父への憎悪
前記したように、小沢と妻・和子の間には3人の息子がいる。74年に生まれた長男は、早稲田大学理工学部を卒業後に海上自衛隊の幹部候補生学校に入学し、海上自衛官となった。77年生まれの次男は98年に東京大学文科・類への合格を果たし、78年生まれの三男は慶應義塾大学に進学しているから、いずれも随分と立派な学歴の持ち主である。しかも三男は、卒業後にプロボクサーになるという異色の人物だという。
ところが長男は2001年に海上自衛隊を退職し、プロボクサーとなった三男は鳴かず飛ばずの戦績のまま引退してしまったらしい。東大を卒業した次男も、既に30歳を超えているのに、定職に就いている気配がない。少し前まで小沢番だったテレビ局の政治部記者もこう言う。
「小沢さんの長男と三男はもう深沢の家(小沢邸)を出ているのですが、いまどこで何をやってるのか、わたしたち番記者にもわからないんです。そもそも小沢さんは長い間、番記者とそういう話をする機会を持とうともしませんから。そういえば、3年ほど前に小沢さんがラジオ番組に出た時、『息子は派遣社員をやっている』と明かして話題になったことがありました。三男のことだと思うんですが、これも真偽は定かじゃありません。次男ですか? 次男だけは、いっつも和子さんと一緒にいるようです」
この次男について、前出した小沢の元側近に尋ねると、次のように打ち明けてくれた。
「(次男は)いまでもずっと奥さまと一緒にいるはずです。あの方(次男)は、むかしから奥さまと本当に仲良しでね。大きくなられてからも腕を組んで一緒に出かけるほどでしたから、傍から見ていると少し異常なくらいでした。それに、大学時代ぐらいから小沢先生にものすごく反発するようになりましてね」
―というと?
「大好きな母を蔑ろにし、失意のどん底に追いやる小沢先生が許せなかったんでしょう。ものすごい政治嫌いになって、秘書や書生にも敵意を露にして、ほとんど口もきかないような状態になりました。あの手紙も、実は……」
―実は?
「奥さまとずっと一緒にいる次男が、奥さまに書かせたんだと思います」
―次男が? どうしてそんなことを?
「愛する母を不幸にした父や秘書たちへの復讐、ということじゃないでしょうか。もちろん奥さま自身の意志も入っているとは思いますが、いまの奥さまはきちんとした判断ができるような状態じゃありませんから。それに、あの手紙は明らかな間違いがいくつもある。小沢先生が放射能が怖くて逃げ出したなんていうことはないし、京都から出馬するなんていう話もありえない。小沢先生は奥さまや次男と会話も交わさないような関係になってしまっていますから、妄想的な話も交えて感情任せに書いたもの、という印象を受けました。書く必要もない秘書の名前まで詳しく書かれているでしょう。あれも秘書への恨みのようなものを感じます」
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野田首相が開口一番……
小沢の周辺に当たってみると、問題の手紙が綴られた背後事情に関する証言には若干の食い違いもある。
ただ、これだけは間違いなく断言できる。小沢の妻・和子は近年、まともな精神状態といえるような身体ではなかった。しかも、夫・小沢との関係は完全な破綻状態に陥っており、母・和子を異常なほど偏愛する次男は、父・小沢への反発と憎悪をたぎらせつつ和子にベッタリと寄り添っている。つまり、家庭内の不和が極限まで高まる中、妻と次男によって問題の手紙はしたためられた。
その上、手紙の中には明らかに事実と異なる記述もあれば、ウラの取りようのない記述もあった。だから、大半の新聞やテレビは手紙を黙殺した。大手紙の政治部デスクがうんざりとした顔で言った。
「小沢側から圧力がかかった、なんて話まで出ていましたが、ウラが取れない上、明らかに事実と違う内容がしたためられた感情任せの手紙なんて、記事にできるわけがありませんよ。唯一、読売新聞が(6月23日付の紙面で)取り上げていましたが、あれこそいかにも特定の政治的意図を持った下品な記事でした。一方で小沢シンパの議員たちは手紙がすべて捏造だと言い張っています。いや、捏造だと思い込むことにした、という方が正確でしょうけれど、これもなんだかなぁ……という感じです(苦笑)」
衝撃の手紙の真相とは、つまるところそれだけの話に過ぎない。しかし、手紙をめぐる一連の経過を眺め見れば、キナ臭さが立ちこめているのも事実ではある。
問題の手紙が岩手の後援会関係者に届いたのは、昨年秋のことであった。それが今年6月になってから『週刊文春』に報じられ、同誌の発売直後には、そのコピーが東京・永田町に位置する国会議員会館の各議員事務所に大量に送りつけられた。家庭内の不和から発せられた手紙は、作成・投函から半年以上も経過した後になって、突如として“利用”されはじめたのである。小沢と長く行動をともにしてきた衆院議員の松木謙公はこう言う。
「あれ(手紙)が本物というのなら、(妻・和子らが)感情的になっているのは事実だろうね。でも、夫婦の間のことだからね。喧嘩することだってあるでしょう。それが政治的に利用されてしまった、ということじゃないですか」
では、半年以上も前にしたためられた手紙を“利用”したのはいったい誰か。ある官邸関係者が、私にこんな話を打ち明けてくれた。
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「今年の1月中旬のことでした。野田(佳彦)首相が大手メディアの幹部と密かに会食したことがありましてね。その際、野田首相が会食場所に姿をみせるや否や、開口一番に『小沢さんがついに離婚されたそうですね』と切り出したんです。出席者たちは、なんでいきなりそんなことを言うんだろうと怪訝な雰囲気だったんですが、今になって考えれば、1月の段階で官邸は手紙の存在を掴んでいたんでしょう。だから、ひょっとすると官邸筋があの手紙を“利用”したのかもしれません」
真相はわからない。しかし、だからといって家庭内の不和が極限状態にまで達した中で発せられた感情的で不正確な代物―という以上の意味が、問題の手紙に付されるわけでもない。また、小沢周辺の関係者によれば、和子は以後、さらに体調を悪化させているという。
「和子さんは、手紙が報道されて以降も地元の小沢支持者からの電話には何度か応じたそうです。その(支持者たちの)話によると、報道の反響でストレスが溜まり、極端な睡眠障害に陥り、鬱症状もさらに悪化して、再び入院したそうです。たぶん、次男がそう(入院)させたんでしょう。一部では、自分で歩けないほどに衰弱してしまっている、という話もあります」
この“手紙”をどう読むか
断っておくが、私はここで、『週刊文春』が和子の手紙をスクープしたことについて疑義や異論を挟み込むつもりなど微塵もない。30年以上にわたって日本政界の中枢に居続けた男の動静は、相当にプライベートな部分まで含め、報道する価値は十分にある。また、大抵の情報は、発信者の背後にさまざまな思惑が横たわっていることが常であり、それがゆえに報道そのものを封ずるという選択肢はあり得ない。
しかし一方、この手紙をもって〈当代随一の政界実力者の政治力を一挙に奪ってしまった〉などとはしゃぐのは、明らかに歪んだ見方である。同時に、すべてが仕組まれた謀略のように物事を捉え、事実を直視しようともしないのは、まさに愚か者の振る舞いである。繰り返すが、事実は虚心に見つめられなければならない。
まず、こう判断することができるだろう。長く自身を支えてくれた妻をそのような精神状態に追い込み、子どもからも憎悪と反発の対象とされるような人物は政治家としても失格であり、国政の重要部分を担うには相応しくない、と。実際、小沢の周辺では、小沢という人間の「情の欠落」を難ずる声は実に多い。
一方、家庭や私生活などは政治家としての資質とは無関係であり、そのようなことをうんぬんするのは意味がない、とみなすこともできる。事実、隠し子や愛人を抱えた政治家など過去に数多いるのだから、そのようなことに目くじらを立てる必要はないようにも思う。
おそらく、いずれの立場も正しい。煎じ詰めれば、あの手紙はその程度に冷めて見るべき代物に過ぎない。それこそが、手紙の“利用者”に踊らされぬ道でもある。
了
<筆者プロフィール> 青木理 Osamu Aoki ジャーナリスト
1966年、長野県生まれ。慶應義塾大学文学部卒。1990年、共同通信社入社。警視庁警備・公安担当などを経て、2002年から2006年までソウル特派員を務め、『北朝鮮に潜入せよ』(講談社現代新書)を執筆。2006年に独立し、主な著書に『絞首刑』(講談社)、『ルポ 拉致と人々』(岩波書店)がある。近著は『トラオ 徳田虎雄 不随の病院王』(小学館)
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◆ 小沢家の悲劇「妻・和子の手紙」の真相 週刊ポスト2012/7/6号(2012年6月25日発売) 2012-06-25 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
小沢家の悲劇「妻・和子の手紙」の真相
週刊ポスト2012/7/6号(2012年6月25日月曜日発売)
政治家とて人間である。人に知られたくないプライバシーもある。それが政治家としての資質や政治活動の理非曲直に関わるのであれば、国民にはそれを知る権利がある。報道が社会の木鐸として政治家の私生活を取材することは悪ではない。
ただし、政治家のプライバシーが公共の問題たりうるという名分をいいことに、政治謀略や個人攻撃の材料にすることは許されない。そう思う。日本の権力構造に詳しい政治学者のカレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、政界、マスコミ界、さらには司法界まで一体となった小沢一郎氏への個人攻撃を「人物破壊」と指摘し、世界の政治史に残る重大な汚点だと厳しく論難した。
消費増税、原発再稼働、さらに政界再編の胎動が重なったこのタイミングで小沢氏に降りかかった夫婦の重大問題は、それだけ見れば報道に値するテーマであるとしても、なぜそれが「今」なのか、「小沢」なのかを考えると、背景に見え隠れする日本のグロテスクな権力の暴走を看過するわけにはいかない。
政治の節々に結節する小沢問題。小沢に何が起きたのか、政治謀略に終止符を打つ真実をここにレポートする。(文中敬称略)
小沢を苦しめた和子の変調
今から数週間前、小沢和子から1通の書簡が小沢に届けられた。文面を一読した小沢は、
「来るべきものが来た」
と覚悟を決めたに違いない。政治家として、あるいは一個人としても、小沢は親しい者によくこう語る。
「俺は人として、男として、妻と家族を守る事を第一に考える。家族を守り、そして地域社会を守り、その延長線上で国家を守ることが政治の根幹でもある」
その信条からして、書簡は小沢に忸怩たる思いを抱かせるものだった。関係者らの話によれば、和子からの慰謝料の協議を求める内容と思われる。
それはつまり、法的に離婚手続きが取られた事を意味している。
実は小沢は数年ほど前から離婚の問題を妻・和子に委ねていたという。本当に離婚の意思があったかは余人の知るところではない。そうすることで、一時は和子も心の平穏を取り戻したかに見えた時期があり、夫婦の関係は小康を保っていたらしい。
小沢は人知れず苦しんできたと思われる。ある時は、こんな言葉を吐いた。
「すべては俺の不徳だ。妻を守れない。家族を守れない。そんな人間が、何の政治家であるものか。天下国家を語れるものか」
聞く者には苦悶に満ちた自問自答の苛烈な心象風景を思い浮かべさせる。小沢を近くで見てきた者には驚くべき変調と映った。家族、コミュニティ、国家を守ることを同心円の問題と語ってきた小沢にとって、一見、筋の通った話にも聞こえるが、しかしこれまで、どんなに自分や家族がマスコミの集中砲火を浴びても、事実でない誹謗中傷を浴びせられても、天下国家のためには耐え忍ぶしかないとしてきた小沢の態度とは明らかな段差を感じさせた。
小沢の変調は、和子の変調と軌を一にしていた。
家族愛に燃え、政治家・小沢を支える一点に人生を懸けてきた和子との二人三脚は大きく歪み、音を立てて崩れ、その度を深くしていたのである。
何があったのか。その始まりは和子の「もうひとつの家族愛」と無関係ではなかっただろう。小沢との間に生まれた3人の息子と同じように、親同然に愛してきた実弟(福田実・福田組社長)が、03年、癌で突然この世を去ったことと符節を合わせている。54歳の若さだった。続くように実父・正も09年逝去。和子は激しく動揺した。
最愛の肉親を2人失った寂寥感、心の空洞を小沢にぶつけたとしても、それは責められるべきことではないだろう。多くの女性にとって、親を失う時期は、心身の変調に苦しむ人生の壁と重なる。そこに愛する弟の死が重なり、心のありようや家族の形にも変化が生まれることは、どの家庭にも起こり得る。
小沢と和子の間で、どのような衝突、格闘があったかは、すぐれてプライベートな問題だ。そこに踏み込むことは報道としても意味をなさないが、結果として、数年の時間を掛けて2人の関係は修復できないものになってしまった。
「別居」と政権奪取の狭間
和子の変調は小沢の地元や支持者の間では早くから知られていた。
それまでの和子は、永田町での活動に集中する小沢の代わりに、文字通り「金帰火来(きんきからい)」で毎週のように選挙区に帰って、いわゆる「票田の草刈り」に没頭した。後援会を切り盛りし、有権者の声を聴き、それを小沢に伝えた。小沢も和子を政治的にもかけがえのないパートナーと頼り、和子が岩手から戻ってくる日には、いつも利用していた夜10時着の新幹線を東京駅で迎えることが習いとなった。
一方で、これも多くの家族が抱える問題として、小沢の母・みちと和子の微妙な関係も存在した。みちは夫・佐重喜、そして息子・一郎を支えた鉄壁の後援会を築き上げた原動力だった。その自負と小沢への愛が、あるいは和子を嫁として迎える心のハードルになっていたのかもしれない。
やがて、みちが病に倒れてからは、後援会を支える重責は和子の双肩にかかり、和子はその役目を見事に果たしたが、病床のみちは和子を完全に受け入れはしなかった。その献身的な看護を拒否することもあったという。時には医療スタッフの世話さえ善しとしない頑迷さを見せたとされる。
当時、若き自民党幹事長として飛ぶ鳥落とす勢いだった小沢は、妻と母の確執の間で、母の介護という難題も抱えることになった。時には、小沢自ら母の口に食事を運ぶこともあった。
みちは95年に他界した。
それからの和子は、小沢王国の大黒柱として駆け回ったが、その頃から政界、マスコミ界の絨毯爆撃のような小沢への人物破壊が激しさを増し、和子の使命感や誇りにも影響を与え、心身の屈折を生じさせたようだ。
和子の言動に変化が生じてきたことは、家族だけでなく、後援会でも心配の種になった。日に日に変わっていく姿に周囲の心痛は大きかったに違いない。小沢にも悔恨が沈殿していった。時にはありもしないことを口走り、根も葉もない中傷と知る噂で小沢を激しくなじることもあったという。
自分の内面、ましてや家庭の“阿鼻叫喚(あびきょうかん)”の様を語ることなどありえない。内なる葛藤を抱えながら小沢は政権奪取にひた走った。それを止めることは誰にもできない。それこそ小沢における政治家の摂理なのだ。夫婦の関係は難しくなるばかりだった。
やがて和子は世田谷区にある小沢邸の敷地内に別棟を建て、そこで生活するようになった。それが「別居」と報じられたこともある。
和子は、あんなに心血を注いできた後援会活動にも、実弟が亡くなった10年ほど前から、ぷっつりと姿を見せなくなって家に閉じこもるようになった。これは後援会関係者なら誰もが知る事実だ。「小沢家の問題」を取材するマスコミも、きちんと地元に行けば簡単に確認できるはずである。
その頃でも小沢は、毎夜9時過ぎには自宅に帰ることを決め事にしていた。和子との会話はほとんどできなくなっていたが、それでも、指呼の間(しこのかん)にいる和子が昔日のように「パパ!」と声を掛けてくるかもしれない。そんな期待も秘めていたのだろう。
しかし現実の和子は、ますます猜疑心や妄想にとらわれるようになり、最も信頼している次男以外の言葉は受け入れないほどに憔悴を見せるようになった。いきなり秘書に小沢のスケジュールを詳細に報告させ、その立ち寄り先に片端から連絡して、「小沢は本当にそこに行ったのか」と詰め寄る異常な行動が周囲を驚かせる“事件”も起きた。
次男と小沢の関係にも暗雲が立ち込めた。和子の心を救いたいと、実家である福田家の関係者が話し相手になって支えた時期もあったが、そうした努力は誰の目にも不毛で、和子を訪れる人は少なくなっていった。
父と母、父と弟の間に立って辛苦を引き受けてきた長男も、ついに家を出る決心をした。
そして小沢は、求められるまま和子に離婚のフリーハンドを与えた。家族の絆を取り戻すことはますます難しくなった。
「手紙」に書かれた数々の矛盾
半年ほど前、小沢後援会の婦人部の何人かに、「小澤和子」から手紙が届いた。
すでに『週刊文春』が報じ、その直後に何者かが文面のコピーをネットに広く流出させたものだ。そこには小沢への激しい非難と離婚の事実が綴られていた。
手紙が和子の手によるものか真贋はわからない。書かれた内容には、明らかに事実ではないことも多い。
数年間、「別居」していた和子が「小沢邸での政治密談」を暴露してみせたり、小沢家の所有する不動産に関する記述が間違っていたりと、少なくとも正常な判断ができる状態なら書かない内容が多く見られる。かつて一部の新聞、通信社が「スクープ」と報じ、事実は違った「総選挙で小沢が京都から出馬する」という捏造情報をそのまま書いていることも不自然だ。
人物破壊に加担する多くのマスコミは、手紙の内容を確認しないまま事実であるかのように報じているが、それを信じる国民の間で最も批判の強い「大震災の際に放射能を恐れて逃げようとした」というくだりは明らかに常軌を逸している。なぜなら、震災の少し前から和子の変調は激しくなっており、現在まで1年以上も小沢と会話も交わせない状態が続いているからである。放射能から逃げる、逃げないで小沢と揉めたという記述には疑問がある。
そもそも手紙では、放射能から逃げたい小沢が地元には近づこうとせずに「長野の別荘地」に避難場所を購入したというのだが、仮に「別荘地」が軽井沢だとすれば福島第一原発からは約250km、ちょうど岩手県都・盛岡までと同じ距離である。さらに震災後に千葉で釣りに興じたという記述もあるが、これも東京より原発に近く放射線量も多い地域なのだから、事実とすれば小沢の行動はあまりにも支離滅裂である。
付言すれば、現実には震災直後の小沢は地元対応に寝る間もなかったようだ。これもマスコミは知り尽くしているはずだが、地元・岩手は、達増拓也・知事はじめ県政中枢部に小沢派が多い。彼らが震災対応で小沢に刻一刻と報告を入れ、政府への橋渡しや支援を要請していたことは誰でも想像できるはずで、実際、県政関係者はそう本誌に明かしている。しかし、人物破壊勢力は、あえてそうした常識的な判断から目を背け、確認取材もしないまま「和子の手紙」を事実として垂れ流すのである。
また、「離婚した」としながら、旧姓の「福田和子」ではなく「小澤和子」と署名していることも奇異な印象を与えていた。
究極の狙いは「骨肉戦争」?
ある後援会の関係者は、書かれた内容そのものより、和子の心がそこまで深刻な状態になってしまったのかと衝撃を受けた。また、達筆で知られた和子の直筆にしては、あまりに筆が乱れていること、さらに内容がこれまで小沢への攻撃材料にされた”疑惑”をなぞるように書かれていたことから、「何者かが捏造したものではないか」と疑う関係者も少なくなかった。
ただし、事実として明らかなのは、冒頭に書いたように和子が小沢との離婚を決意し、慰謝料の協議を申し入れたことだ。その点で、手紙には重要な部分で真実が書かれている。
人物破壊を進める勢力にとっては百万の味方を得たようで、欣喜雀躍とする様子を隠そうともしない。
手紙が報じられる2週間ほど前、人物破壊の工作に深く関与してきた政界関係者が、「いよいよ小沢を潰す時がきた。息の根を止めるものすごい情報が近く報道される」と、一部政界関係者に触れ回っていた事を本誌は確認している。そして前述のように、報道の直後から、タイミングを計ったように文面のコピーがネットに流出した。政界でよく見る怪文書による「紙爆弾」の手法である。
手紙の内容にも、この紙爆弾の性格を窺い知るヒントがある。
なぜ、数年来、没交渉だった後援会に宛てられたのか。また、「慰謝料を取れば、それを岩手に寄付したい」と書かれたのか。
ある後援会関係者は、「これは小沢家の悲劇の始まりになるかもしれない」と苦痛の表情を見せた。
「書かれた内容は後援会の人間ならデタラメがほとんどだとわかるものだが、和子さんと、それを支える次男が小沢先生に反旗を翻している事実は変わらない。誰かに唆されて書いたものか、あるいは捏造されたものかにかかわらず、私たちが心配するのは、このアクションが後援会と地元に向けられた点だ。家族の問題で小沢先生の政治生命に打撃を与えようという意図がはっきり出ている。それを望む人たちは、例えば次男や和子さん自身を小沢先生の対抗馬として擁立して泥沼の骨肉戦争をさせるなどして、小沢先生を決定的に痛めつけようとするかもしれない。
そうなっても、たぶん小沢先生は家族と争うことはしたがらないだろう。引退とは言わないかもしれないが、ある意味では検察の捏造した政治資金問題以上に苦しい問題になる」
その懸念が現実になるかはわからないが、離婚が事実である以上、そして政治資金問題がマスコミや権力者による捏造だったと判明した今、家族の問題が人物破壊の主要テーマになっていくことは間違いなさそうである。すでに、新聞、テレビニュース、ワイドショー、果ては国会での野党質問にまで「和子の手紙」は利用され尽くしている。
妻や息子から恨まれる小沢は、本人が言う通り不徳のそしりは免れないかもしれないが、その家族の問題さえ、執拗で容赦のない人物破壊の結果だったという面が否めないことは、まさに悲劇である。
この国の政治と権力のどす黒い醜態は、ウォルフレンが言うまでもなく、世界の日本不信の根本原因になっている。それに振り回される有権者、国民もまた悲劇の当事者である。
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◆小沢一郎「妻からの「離縁状」全文 週刊文春6月21日号 2012-06-15 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
小沢一郎「妻からの「離縁状」全文公開 週刊文春6月21日号
「愛人」「隠し子」も綴られた便箋11枚の衝撃 (ジャーナリスト松田賢弥+本誌取材班)
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◆ 『誰が小沢一郎を殺すのか?』カレル・ヴァン・ウォルフレン著 角川書店 2011年3月1日 初版発行
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◆『アメリカに潰された政治家たち』孫崎亨著(小学館刊)2012年9月29日初版第1刷発行