半世紀の証言:名張毒ぶどう酒事件/上 無実信じ続けた母
1961年3月28日、三重県名張市葛尾で開かれた懇親会で農薬入りぶどう酒を飲んで女性5人が死亡した名張毒ぶどう酒事件から50年が過ぎた。奥西勝死刑囚(85)=名古屋拘置所在監=は無罪を訴え続ける。節目の時に関わった人たちの証言と、親族や弁護士以外で面会を許可された特別面会人が大学ノート10冊分に残した奥西死刑囚の肉声から、半世紀をたどる。
「赤飯を炊いてタイを用意して待っとるよ」。その朝、母は努めて明るい声で息子を送り出した。
1審無罪から5年後の69年9月。奥西勝が名張市の母タツノ宅から向かったのは、控訴審判決が下される名古屋高裁。「原判決を破棄し、被告人を死刑に処する」。奥西がタツノの元へ戻ることはなかった。タツノも毒ぶどう酒事件のあった集落から姿を消した。
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元東海テレビカメラマンの門脇康郎(67)が集落を訪ねたのは78年冬だった。奥西のことを書いた本を読み「判決は事実を見誤っている」と直感した。だが集落の住民は事件について口をつぐんだ。
「奥西を一番よく知る人物から話を聞きたい」。弁護団すら知らなかったタツノの居所を捜し当て、80年2月、名張市内の市営団地に足を運んだ。ガラス戸の5センチほどの隙間(すきま)から、小さな声が聞こえた。「(集落の住民に)墓も持って行け言われてな」
タツノが明かした「死刑囚の母」の日常は過酷だった。道に座っていると蹴られ、家のガラスは石で割られた。逃げた先々で「毒ぶどう酒の奥西や」とささやかれた。団地は事件から数えて4カ所目の住まいだった。「つらい毎日でした」。昼も雨戸が閉め切られた室内の闇から、おびえ切った目がのぞいた。
80年秋、タツノは初めて門脇を室内に招き入れた。戸を開けると線香の香りが鼻を突き、煙でいぶされてすすけたカーテンが目に留まった。タツノは午前と午後に2時間ずつ、線香を上げて息子の帰りを毎日祈っていたのだ。「どうか息子を助けてください」。タツノは息子より若いカメラマンの前に正座し、涙を流して畳に額をつけた。門脇は恐れさえ抱きながら、黙って眺めるしかなかった。
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「まさる しっかりせよ」(上告棄却直後の72年6月22日)
タツノは拘置所の奥西に手紙を送り続けた。「1日でも、もういっぺん一緒に暮らしたい」(74年4月19日)「あんかを入れて寝ていると勝は寒くないかと心配で、すると勝の夢を見るのです」(88年4月22日)
特別面会人として奥西との面会記録をノート10冊に書き残した川村富左吉(故人)は94年2月、手紙をワープロで打ち直し、奥西に差し入れた。息子の無実を信じた母は88年11月、84歳で病死した。969通に上る手紙は120ページの冊子となって残った。(敬称・呼称略)
●奥西死刑囚の言葉●
最後まで無実を信じてくれた。母は誰よりも一番よく無実を知っていた=91年3月22日、母タツノについて
これでやっと終わると思った。死んだ妻にも晴れて墓参りがしたいと思った=96年5月22日、無罪判決時の心境
名古屋拘置所に移され2〜3日ぼーとしていた。自分が今どうしてここに居るのかわかるのに1週間くらいかかった=同、逆転死刑判決時の心境
(特別面会人・川村富左吉の記録より)
毎日新聞 2011年6月14日 東京夕刊
半世紀の証言:名張毒ぶどう酒事件/中 忘れられない「地獄」
供養塔の建つ高台からは、50年前とほとんど同じ姿の小さな集落が一望できる。
「あの日の夕方、公民館近くで遊んでいたら母ちゃんが『はよう帰りや』と言ったのを覚えています」。今年4月24日朝、三重県名張市葛尾地区の公民館跡近くの高台で、毒ぶどう酒事件の慰霊祭が約40年ぶりに開かれた。母親を亡くした北浦幸彦(59)が遺族を代表してあいさつした。「50年は長いようで短かった」。住民ら約30人を前に涙ぐんだ。
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61年3月28日夜、公民館であった地区の懇親会。南田栄子(75)は湯飲みに口を当てた瞬間、ピリッという刺激を感じた。男には日本酒、女にはぶどう酒が振る舞われた。酒の弱い南田は乾杯後、飲んだふりをした。
10分後、女性たちがばたばたと倒れた。「みんな酔うとるな」と思った。しかし、逃れるように戸外へ出て動かなくなった人を見て気付いた。「ただ事じゃない」。地獄だった。10人ほどの女性が「苦しい」とうめいた。駆け付けた医師の指示で自宅からバケツで湯を運び、倒れた人の体をふいた。南田の仲人をしてくれた女性も倒れていた。同い年の友達だった。死んだ妻を抱いてうつむく奥西勝(85)もいた。
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「妻と愛人との三角関係を清算するため農薬を入れた」。6日後、奥西が逮捕される決め手となったのは自白だった。狭い集落の「三角関係」を耳にしていた南田は「やっぱりそうか」と納得した。
古川秀夫(76)は当時、県警名張署の鑑識担当だった。奥西の険しかった顔ががらりと変わり、笑顔で署内を歩くのを見て「罪を認めて葛藤がなくなったな」と思ったという。だが2週間後、奥西は「自白を強要された」と否認に転じた。
1審無罪(64年)、2審逆転死刑(69年)……。自白の信用性を巡って司法判断は揺れた。押し寄せるマスコミにコメントを求められる住民は、葛尾地区に住んでいることを隠すようになった。
南田は3月28日になると事件を思い出し怖くなる。気持ちに区切りをつけたくて慰霊祭に参加した。「亡くなった人には安らかに眠ってほしいが、やっぱり事件は忘れられないよ」。慰霊祭が今後開かれる予定はない。(敬称・呼称略)
●奥西死刑囚の言葉●
妻が死に、子どもやら家族のこと、仕事のことやらどうしたらよいかが真っ先に気になった=96年5月22日、事件発生後の心境
警察の暴力はしょっちゅう受けた。頭を押さえつけたり、こづいたり。机をどんどんたたいたり、恐ろしかった=93年12月27日、取り調べについて
死刑になるとか全然思わなかった。思うのは子どもや家族のことばかり=96年5月22日、自白時の心境
(特別面会人・川村富左吉の記録より)
毎日新聞 2011年6月15日 東京夕刊
半世紀の証言:名張毒ぶどう酒事件/下 支えた特別面会人
「名張事件に再審開始決定出る。嬉(うれ)しくて、嬉しくて電報を打つ」
05年4月5日、奥西勝(85)の元特別面会人、川村富左吉の大学ノートに、名古屋高裁の再審決定を伝える文字が躍った。面会を始めて18年、ノートは10冊目になっていた。
名古屋市の弁護士会館の記者会見場に、川村はつえをついて現れた。「無実を信じていた。言葉が出ない」と涙ぐんだ。
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人権団体「日本国民救援会」の専従役員だった川村は、第5次再審請求中の82年から奥西の支援活動を始めた。国会議員を通じて法務省に働きかけ、87年に面会が許可された。親族や弁護士以外の確定死刑囚との面会は当時異例だった。
川村は死刑執行の情報を耳にするたび名古屋拘置所へ駆け付け、奥西の顔を見て胸をなで下ろした。98年、第6次請求が棄却された時、奥西は「いつもこんな時、川村さんが飛んできてくれるので実は待っていた」と言って出迎えた。
心臓病を患って03年に特別面会人を退いてからも時折奥西と会った。だが再審決定直後の05年6月6日、「特に用はないが顔を見たくなって」赴いたのが交流の最後となった。5カ月後、大動脈瘤(りゅう)破裂で逝った。74歳だった。後を継いだ特別面会人、稲生昌三(72)の記録には奥西の弔いの言葉が残る。「よくぞここまで私を支えてくれました」
名古屋高裁の別の部が再審開始を取り消したのは、それから約1年後だった。
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最高裁の差し戻し決定(10年4月)を受けた高裁の第7次請求の差し戻し審では、ぶどう酒に入れられた農薬が奥西の当初の自白通り「ニッカリンT」だったかを判断するため、ニッカリンTを再製造し、鑑定人が成分分析する。
名古屋高検幹部は「勝つとか負けるとかじゃない。この裁判は検察と弁護団の論争だけで終わらせられない」と、半世紀の闘いの決着を望む。
82年に弁護団に加わった弁護団長の鈴木泉(64)は「司法の壁をなかなか打ち破れない無力感」を募らせる。「奥西さんに残された時間は少ない。生きている間に冤罪(えんざい)を晴らしたい」(敬称・呼称略)=沢田勇、大野友嘉子、式守克史が担当しました
●奥西死刑囚の言葉●
これに打ち負けるわけにはいきません。命ある限り無実を訴えつづけたい。裁判官が何言おうと私は無実です=97年1月29日、第5次再審請求特別抗告棄却時の心境
顔で笑って心で泣いて=98年10月12日、第6次再審請求棄却時の心境
よくぞここまで書いてくださった。裁判官が現場のことにくわしい=05年6月6日、再審開始決定書を読んで(特別面会人・川村富左吉の記録より)
毎日新聞 2011年6月16日 東京夕刊
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