長谷川幸洋著 『政府はこうして国民を騙す』(講談社)〜情報操作は日常的に行われている〜
現代ビジネス 賢者の知恵 2013年02月09日(土) 1月18日発売の最新刊より巻頭を抜粋
■はじめに
メディアは政府や権力から独立しているべきだ。
これは当たり前のことなのだが、残念ながら日本では十分に実現しているとは言いがたい。2011年3月11日の東日本大震災と福島原発事故を経て、国民の間には「日本のマスコミは政府や電力会社の言いなりで大本営発表を垂れ流すばかりだ」といった批判が広がった。
そんな批判はインターネットの普及もあって、いまや多くの人々に共有されている。だが、大本営発表報道は3.11の後から始まったわけではない。それ以前から、ずっと続いていた。それが3.11後に、だれの目にもあきらかになったという話である。
12年12月の総選挙を経て3年3ヵ月続いた民主党政権は終わりを告げ、新たに自民党と公明党の連立による安倍晋三政権が発足した。選挙結果は自公両党合わせて325議席という圧勝だった。09年に続く本格的な政権交代である。第3極という新たな政治勢力も一定の地歩を固めた。政治の地殻変動は今後も続いていくだろう。そんな中でメディアも自己改革を迫られている。
本書は3.11後の東京電力処理や原発・エネルギー問題、消費税引き上げ、民主党の小沢一郎元代表をめぐる事件と検察疑惑、オフレコをめぐるメディア問題などを扱っている。
さまざまな話題を追いながら、ずっと心の片隅で考えていたのは「メディアの自立」というテーマである。
■私の座標軸
東電処理や原発問題について、どこから出発し何を目標にして考えるか。あるいは小沢と検察について、国民にとって本当に問われている問題は何か。それらを考えるのに、ジャーナリストである自分の立ち位置をしっかり定める。それが一番肝心だった。
言うまでもなく、ジャーナリストは官僚でも政治家でもない。社会や政治、経済の出来事をプロとして観察、分析して報道かつ論評する職業人である。そんなジャーナリストが社会に対して情報や論評を発信するとき、いったい社会にとってどんな有益性があるのだろうか。
官僚がつくった政策をそのまま紹介するだけなら、読者は役所のホームページを見ればいい。「それを読むのは面倒だから新聞がある」というなら、新聞は単なる役所情報の要約係にすぎない。そういう時代はもう終わった。インターネットがなかった時代には、要約係でも新聞の有用性があったが、いまやだれでも役所のホームページをチェックできる。
政治の話も同様だ。政治家の発言を紹介したり、国会の動きを伝えるだけなら、政治家や国会のホームページなどを見ればいい。いまでは国会審議の様子を伝える個人のブログもたくさんある。
新聞には一覧性があるという意見もある。だが、いまやヤフーのニュースサイトにも一覧性がある。一覧性は新聞だけの利点ではない。
社会に有益性のない仕事はやがて淘汰される。必要がないものにカネを払って購読する消費者や広告料を払うスポンサーはいない。これはメディアやジャーナリストだって同じである。だからインターネットで情報が氾濫する中で、ジャーナリストは何をすべきなのか---。それが私の根本の問題意識だった。
そう考えると「メディアの自立」という命題はごく自然に出てくる。メディアが官僚や政治家、政党から自立していないなら、そんなメディアが発信する情報や分析にたいした意味はない。なぜなら官僚や政治家、政党自身が直接、発信する情報を読んだほうが、よほど正確でかつ内容も深いからだ。
メディアの情報や分析に意味があるとすれば、官僚や政治家、政党の情報をメディア自身がしっかり評価、分析して、独自の立場から報道し、論じるからではないのか。
私はそう考えた。
だから、私のコラムは初めから中立性とか客観性といった日本の新聞が大好きな物差しが当てはまらない。これは文字通り「私のコラム」である。それくらい私の立ち位置、判断の座標軸を強く意識して、ようやく「メディアの自立」につながっていくのではないか、という考えがあった。はっきり言えば「間違っても、霞が関の物差しなんかに縛られないぞ」という気分である。
その結果、ときには独善に陥ったり、見当違いになった場合もあるだろう。言うまでもなく私と読者は価値観や知識、経験も違うのだから、それは当然でもある。そういうご批判があれば、ありがたく甘受する。批判を受けるのは、もとより覚悟の上だ。
それでも偏見と言われるくらい、思い切って書かなければ、いつまでたっても、メディアは自分の足で立てない。言い換えれば「官僚のポチ」であり続けてしまう。そういう危機感があった。
■無色透明な情報など存在しない
一方、相変わらず「新聞をはじめメディアは中立で客観的であるべきだ」という議論もある。読者は白紙の状態で新聞を読むのだから、新聞自身に色がついていたら困る。新聞は無色透明な情報を提供するのが役目で「色を考えるのは読者に任せるべきだ」という話でもある。
はたしてそうか。私は色がついていない「無色透明な情報」というのは存在しないと思っている。情報には、みんな色がついている。それは同じ顔をした人間がいないようなものだ。情報を発信する側には必ず意図や思惑がある。官僚には自分たちの既得権益を拡大したいという思惑があり、政治家には権力を握りたいという意図がある。
そういう情報を扱う職業人としてのジャーナリストは、自分なりの座標軸をしっかり定めたうえで、何をどう伝えるか、絶えず新しい方法を探っていくべきだと思う。自分の座標軸は仕事の前提である。それがないジャーナリストは単なる情報伝達係のようなものだ。
ジャーナリストには、フリーランス記者と新聞のような組織に属する記者の2通りがある。私の場合は少し変わっていて、新聞社の論説副主幹として社説を書く一方、雑誌やネットにも書き、ツィッターで発信し、テレビやラジオにも出演する。私の所属する新聞社は幸いなことに、私に完全な言論活動の自由を保証してくれている。
念のために言えば、私が署名入りで書いた記事やテレビ、ラジオでの発言はすべて私個人の意見だ。東京新聞・中日新聞の主張ではない。私は東京新聞を代表して発言しているわけでもない。
ときどき私の意見が東京新聞の主張であるかのように受け止める読者もいるが、それはまったくの誤解である。私の意見が両紙の社説と同じ場合もあるし、異なる場合もある。複数の論説委員たちによる議論の末に決まる社説の内容がいつも私の意見と同じだったら、むしろそのほうがおかしいだろう。
私はフリーランス記者を基本的に尊敬している。彼らは仕事の場で多くの困難に直面しながら、自由な報道と論評を続けようと懸命に努力している。私は恵まれた立場にいるからこそ、自分の筆を曲げてはならない、と決心している。
日本のメディアはいま変化の渦中にある。世間の批判を浴びて、なんとか信頼を取り戻そうと苦闘している。それでも世の中の多くの組織と同様、惰性で動いている部分があって、なかなか変われない。組織だけでなく個々の記者も苦闘中だ。「現代ビジネス」で書いてきたような記者の主観的なコラムが、あちこちの新聞にたくさん載るような時代が早く来ないか。そうなったら、面白い。
『政府はこうして国民を騙す』著者:長谷川幸洋 (講談社刊) 3〜9ページより抜粋
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目次
はじめに 3
第1章 情報操作は日常的に行われている
1. 資源エネルギー庁長官が「オフレコ」で漏らした本音 31
2. 「オフレコ破り」と抗議してきた経産省の卑劣な「脅しの手口」 38
3. 今度は東京新聞記者を「出入り禁止」に! 呆れ果てる経産省の「醜態」 44
4. 取材から逃げ回る経産省広報と本当のことを書かない記者 54
5. 事実を隠蔽する経産官僚の体質は「原発問題」と同根である 62
6. 辞任した鉢呂経産大臣の「放射能失言」を検証する 70
7. 「指揮権発動」の背景には何があったのか---小川敏夫前法相を直撃 78
8. 「陸山会事件でっち上げ捜査報告書」を書いたのは本当は誰なのか 89
9. 「捜査報告書問題」のデタラメ処分にみる法務・検察の深い闇 98
第2章 政府は平気で嘘をつく
10. 経産省幹部が封印した幻の「東京電力解体案」 115
11. 東電の資産査定を経産官僚に仕切らせていいのか 124
12. 賠償負担を国民につけ回す「東電リストラ策」の大いなるまやかし 129
13. お手盛り「東電救済」---政府はここまでやる 134
14. 国民には増税を押しつけ、東電は税金で支援。これを許していいのか 140
15. 資金返済に125年! 国民を馬鹿にした政府の「東電救済策」 146
16. 不誠実極まりない枝野経産相の国会答弁 154
17. 「東電国有化」のウラで何が画策されているか 159
18. 原子力ムラの「言い分」を鵜呑みにしてはいけない 164
19. 大飯原発再稼動---政治と官僚の迷走ここに極まれり! 170
20. 様変わりした抗議行動---反原発集会で感じた新しい動き 178
21. 野田政権が決めた「原発ゼロ」方針は国民を欺く情報操作である 187
22. 東電のギブアップ宣言 194
第3章 迷走する政治、思考停止したメディア、跋扈する官僚
23. いい加減、財務省べったりの「予算案報道」はやめたらどうか 206
24. 増税まっしぐら! 財務省の「メディア圧力」 212
25. 日銀のインフレ目標導入でメディアの無知が露呈した 216
26. 官僚たちがやりたい放題! 野田政権「日本再生戦略」には幻滅した 223
27. 増税に賛成したメディアは自らの不明を恥じるべきだ 228
28. もはや用済みの野田首相が財務省にポイ捨てされる日 235
29. 「年内解散」を的中させた私の思考法を公開しよう
30. 安倍自民党総裁の発言を歪めたメディアの大罪 247
おわりに 256
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2013年01月20日(日)長谷川 幸洋
長谷川幸洋著 『政府はこうして国民を騙す』〜情報操作は日常的に行われている〜
現代ビジネス 賢者の知恵 第1章導入部を抜粋
第1章 情報操作は日常的に行われている
この章は主にメディアのオフレコと検察の暴走問題を取り上げる。
オフレコというのは「オフ・ザ・レコード」の略で、字義通りなら「記録に残さない」という趣旨だ。では「絶対にメモをとってはならない」のかというと、そうでもない。普通、メディアの世界でオフレコといえば「メモはとっても構わないが、報じない」というところに力点を置いている。つまり「ここだけの話で、あなただけに教えてやるけど書いちゃだめだよ」という趣旨だ。
新聞記者は普通、地方支局のサツ回りからスタートする。刑事さんを取材すると「これはまだ書いちゃダメ」という話はいくらでもある。新聞に捜査の進展具合など内幕を書かれると、警察が内偵捜査していた犯人が証拠隠滅を図ったり、逃亡してしまう心配があるからだ。約束を破って書くと、事件がつぶれてしまう恐れがあるだけでなく、情報源である刑事との関係も壊れてしまう。つまり以後、警察を取材できなくなる。
逆に、約束を守っていれば刑事に信頼され、やがて大きな特ダネをつかんで「敏腕記者」と呼ばれるようになるかもしれない。そんな経験を駆け出し時代から積み重ねてくる記者は、だから自然と情報源に「書いちゃダメ」と言われると、基本的には書かない姿勢が染み付いている。
こういう事情はメディアで働く記者なら常識だが、一般にはなじみがないだろう。オフレコ問題には、まず記者の側にそういう背景がある。そこが出発点だ。
■オフレコのルール
霞が関や永田町の取材となると、少し事情が変わってくる。
官僚が「これはオフレコで」といった場合のルールはどうかというと、必ずしも明確になっていない。まったく書いてはいけない「完全オフレコ(完オフ)」の場合もあれば、情報源を明かさなければ書いてもいい、あるいは記者が自分の文章で書く解説記事の中であれば、情報として扱ってもいい、などいろいろなケースがある。
記者と情報源が1対1のサシの場合もあれば、記者が複数で情報源は1人という場合もある。記者が複数だと情報源との取り決めが完全に守られるかどうか、という問題が起きる。さらに「扱いをどうするか」のルールも事前に明確になっていない、という問題もある。
この章で紹介する?「資源エネルギー庁長官が『オフレコ』で漏らした本音」というコラムは、経済産業省・資源エネルギー庁長官が論説委員懇談会で話したオフレコ発言を報じたケースだ。
このコラムは大きな反響を呼んだ。コラムを公開すると経産省の広報室長が私の上司に抗議し、私が勤める東京新聞の経産省記者クラブ詰記者を経産事務次官など幹部との懇談会から締め出した。私は経産省とのやりとりを含めて事態の展開を同時進行で計5回にわたって書き続けた。
いまだから正直に書くが、私はもともと経産省・資源エネ庁が私に抗議してくるとは予想していなかった。記者と役人を合わせて30人前後も出席していた懇談会での発言が報じられたところで、それは半ば公然の席での発言だ。一方的に「これはオフレコで」なんて言ってみたところで、だれかがどこかで漏らすに決まっている。そんな発言が報じられたところで、初めから「予想の範囲内」と考えているに違いないとみていた。官僚はもともと「自分は匿名で情報を広める」のを狙っているからだ。
ところが予想に反して、広報室長は目くじら立てて「制裁」に出てきた。こうなると私としては、ますます書かずにはいられない。こんな面白いケースはめったにないからだ。なぜ、広報室長は怒ったか。それは私のオフレコ破りもさることながら、実は先のコラムの後段部分に理由があるとにらんでいる。そこで、私はこう書いた。
〈 もしも、官僚が目の前にいた論説委員たちを騙すために、こういうトンデモ論を吐いたのだとしたら、それは「論説委員たちが馬鹿にされた」という話である 〉
〈 そうではなく、もしも本当に心の底から屁理屈が正しい理屈だと思っていたのだとしたら、それは官僚の基本的能力や発想、心構えが文字通り、とんでもなく劣化したという話である 〉
なんの話かと言えば、東京電力の処理だ。官僚たちは「東電をつぶすと賠償ができなくなる」という理屈を立てて「だから東電はつぶせない」と言っていた。こんな馬鹿な話はない。なんのために特別立法するのかといえば、被災者への十分な賠償と国民負担を最小化するのが目的の一つである。この点は別のコラム(第2章?「経産省幹部が封印した幻の『東京電力解体案』」)でも指摘した。
つまり、私は官僚の政策企画能力に疑問符を付けた。それがプライド高い経産省を刺激したのである。だが、第2章でも指摘したとおり、いまや東電が賠償や除染、廃炉をすべて自力で賄うシナリオは、まったくの夢物語である。最終的に東電はいったんつぶす以外にない。東電存続の鍵を握っている原子力損害賠償支援機構法は、そもそも成立後にすぐ見直す方針だったである。
東電処理をめぐる政策の本質的な部分で根本的な疑問を投げかけていたからこそ、広報室長は全面対決を選んだ。私はそう考えている。このケースを単なる記者と官僚のオフレコ問題に矮小化してしまうと、問題の本質を見誤る。その政策は間違いだとずばり指摘したので、放置できなかったのだ。
■「報道操作」のツールになっている
それを指摘したうえで、オフレコ話に戻ろう。
オフレコは情報源と記者が同意して初めて成立するのが原則とはいえ、実際には官僚や政治家が「これはオフレコで」といえばそれまでで、記者が同意しようがしまいが書けない話になっている。
なぜかと言えば、複数の記者がいる席で相手が「オフレコ」と言ったのに破ってしまうと、その記者は仲間から村八分に遭うからだ。「オレたちはみんな守っているのに、お前だけ書くとは何事だ」という話である。そうなると、後で自分だけ懇談から仲間外れにされるなど報復される。これは談合の世界とまったく同じだ。
政治取材では、記者同士がむしろ積極的に談合して政治家の話はオフレコだろうがオンレコだろうが、後でみんなで内容を確認して(「メモ合わせ」という)上司や同僚に報告するのが常態化している。オフレコは記者が抜け駆けを許さないシステムになっているのだ。
言うまでもなく、記者が取材するのは読者に伝えるためだ。
そんな記者本来の立場で考えれば、記者がオフレコを許容できるのは、基本的に書いてしまうと情報源に危害が及ぶとか、失職するといった場合に限られてくる。いまは書けなくても将来、事情が変われば書けるから、当面は書かずに取材だけにとどめる場合もあるだろう。
官僚や政治家の側は、記者とはまったく違う思惑に基づいてオフレコを多用している。それは先に書いたように、だれが喋ったか正体を世間に明かさずに、一定の相場観や評価をメディアに報じさせたい、という狙いである。
一言で言えば、官僚は「報道操作」のツールとしてオフレコを使っているのだ。それが本質である。記者の側はそれを見極めたうえで、書くに値するか避けるべきか、自分が判断しなければならない。
書くかどうかを決めるのは、あくまで記者の側でなくてはならない。ここは根本だ。そういう判断力を含めて記者の力量である。そんなトータルとしての力が衰えていることがメディアとジャーナリズムの大きな問題なのだ。
■根本的な問題はメディア側の意識だ
私が資源エネ庁長官懇談のオフレコ破りをした結果、なにが起きたか。経産省からはその後、私に論説委員懇談会のお呼びはかかってこない。それで困ったことになったか。なにも困らない。なぜなら、私が聞きたいような話は、そもそも論説懇ではほとんど出てこないからだ。論説懇も記者クラブも役所の政策宣伝のためにある。
政策自体は役所のホームページを見れば、予算案や法律案の段階から出ている。私が知りたいのは政策の背景であり、真の狙いだ。それには自分で考え、本当に信頼できる官僚、専門家や政治家などと意見交換してみるに限る。論説懇や記者クラブのブリーフィングにいくら出席しても背景や内幕を聞いて書かない限り、時間の無駄である。
オフレコの真の問題は役所や政治家の側にあるというより、むしろメディアの側にある。なぜメディアはオフレコの乱用を許すのか。それはメディア自身が論説懇や記者クラブに安住して、現場の記者たちに抜け駆けを許さない仕組みを求めているからだ。読者や視聴者はメディアが激しい特ダネ競争でしのぎを削っていると思うだろう。実は違う。記者クラブのメディアは競争を嫌っている。
たしかに一方では特ダネを求めてはいるが、他方でよその新聞と同じ記事が載っていれば安心する。よその新聞が書いているのに、自分の新聞が書いていない事態だけは絶対に避けたい。これが日本の新聞である。だから取材現場では談合が常態化している。結果として同じような記事が蔓延している。
こういう事態を改めなければならない。官僚のポチになるようなオフレコは拒否する。それが第一歩である。
■小沢報道でメディアが犯した罪
もう一つのテーマは検察の暴走だ。
民主党の代表を務め、2012年12月の総選挙にあたり「日本未来の党」誕生の立役者となった小沢一郎をめぐる一連の事件は、日本の政治に大きな影響を与えた。小沢は事件を抱えて政党代表を辞任せざるをえなくなり、後には離党と新党結成に追い込まれた。
だが、事件の本質はそんな永田町の政変にとどまらない。いまだに当事者たちは気づいていないかもしれないが、新聞やテレビなどメディアにこそ大きなダメージを与え、深刻な反省を迫っている。
2009年の西松建設事件は、途中から旗色が悪くなった検察の訴因変更によって陸山会事件に変わり、検察審査会が小沢を強制起訴した後になって、検察官が検審に提出した捜査報告書が完全なでっち上げだったことが暴露された。それもインターネットへの文書流出という衝撃的な経路によって。おそらくは内部告発だったのだろう。小沢事件が「検察の暴走事件」に姿を変えたのである。
小沢一郎の犯罪とされたものは一審無罪となっただけでなく、攻守が完全に入れ替わって、検事の犯罪疑惑が濃厚になった。にもかかわらず、だれ一人として罪に問われないまま、闇に葬り去られようとしている。
小沢については強制捜査権をもつ検察が徹底的に調べたが、結局、自分では起訴できなかった。ところが舞台が検察審査会に移ったら、そこにデタラメの捜査報告書を提出し、検察審査会の議論を誘導して強引に起訴に持ち込んだ。検察が事件を理解する重要な決め手になる文書をでっち上げて罪に問う。相手は本来なら内閣総理大臣になっていたかもしれない政治家である。民主主義国家にとって、これほど恐ろしい話はない。
メディアにとって深刻なのは当初、検察情報に依拠した形で小沢の疑惑を「これでもか」と大報道で追及しながら、検察の暴走が暴露されると、こちらは通りいっぺんに批判しただけで事実上、真相をうやむやのまま放置してしまった点である。これでは「権力の監視役」を標榜するメディアが責任を果たしたとは、とうてい言えない。メディアの自殺行為と批判されてもやむをえないと思う。
経済記者だった私は財務省や日銀の言うがままになっている記者たちを「ポチ」と呼んで批判してきた。同じ体質は、検察をカバーしている事件記者たちにも染み付いている。取材源である検察の情報を垂れ流すばかりで、一歩離れて検察は何をやっているのか、と批判的に観察、評価する姿勢にまったく欠けているのだ。
■国民は検察の不正を見抜いている
検察官によるデタラメ報告書事件について、小川敏夫前法相へのインタビューを思い立ったのは、小川が「指揮権発動を考えた」と退任会見であきらかにしていたからだ。指揮権発動とは、ただごとではない。一般的には、1954年の造船疑獄での指揮権発動が「政治家による検察捜査への介入」と理解され、あってはならない事態として批判的に記憶されている。私もかつて、そう思っていた。
だが、弁護士で大学教授の郷原信郎が監修した『政治とカネと検察捜査〜「小沢秘書逮捕」は何を物語るか/「コーポレートコンプライアンス」季刊第18号』(講談社、2009年)という本の書評を引き受けた際に、収められた論文から、造船疑獄の指揮権発動は捜査に行き詰まった特捜部を救うために政治家が利用された面がある、と知った。それもあって、小川の話を聞いてみたいと思った。
小川が考えた指揮権発動は造船疑獄とは、まったく事情が違う。小川は率直に話してくれた。小川がメディアのインタビューに応じたのは、私の知る限り「日刊ゲンダイ」に続く第2弾だったが、読者の反響は予想以上に大きかった。
小川は自分が発動しようとした指揮権の具体的な中身を私のインタビューでは語らなかった。だが、後に郷原との対談本『検察崩壊〜失われた正義』(毎日新聞社、2012年)の中で「国民が納得するだけの十分な捜査を指示する。大臣が納得するまで、人事上の処分を了承しない」という内容だったことをあきらかにしている。
小川は同書で「もう今後五〇年は、検察は信頼回復できないと思います」と語っている。では、どうするか。私の提言は原発事故と同じく、国会が特別の調査委員会をつくって国政調査権を武器に徹底的に真相解明することだ。詳しくは?「『捜査報告書問題』のデタラメ処分にみる法務・検察の深い闇」をお読みいただきたい。
検察の暴走は結局、法務省による甘い人事上の処分で幕引きになる。だが、法務・検察が「これで一件落着」と思っていても終わらないだろう。国民はしっかり本質を見抜いている。国民の抗議行動とデモが続く原発問題と同じである。
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2013年02月02日(土)長谷川 幸洋
長谷川幸洋著 『政府はこうして国民を騙す』〜政府は平気で嘘をつく〜
現代ビジネス 賢者の知恵 第2章導入部を抜粋
第2章 政府は平気で嘘をつく
■福島原発事故は終わっていない。
それは、なにより故郷を追われた「さまよえる人々」の存在が証明している。原発事故の避難者は2012年8月現在、福島県だけで16万人余を数える。これは親類宅などに避難した自主避難者を含んでいない。単なる引っ越しにカウントされたりしている避難者を合わせると、事故によって故郷を失った人々はもっと多いはずだ。
避難者たちは今後、各地で除染が進んだとしても、事故以前の生活に戻れるかといえば、かなり厳しい。専門家たちは、森林や田畑の除染は「きわめて難しく、ほとんど不可能」とみている。家屋や学校、幼稚園、目先の道路などは除染できても、汚染された地域で農業や牧畜を事業として再開するのは難しい。
どう16万人を救っていくのか。生活や仕事をどう支えていくのか。それは、とてつもなく重い課題である。これを解決せずして日本の未来はない。国土の3%を放射能で汚し、故郷を奪い、生活と人生を破壊しながら、東京電力はいまも生きながらえている。そして関西電力の大飯原発は再稼働された。
そんな事態がいったい、どうして許されるのか。
毎週末、首相官邸前や国会議事堂前の反原発抗議行動に集まる数万人の人々は政府と電力会社に怒りをたぎらせながら、そして不安も抱きながら「再稼働反対」の声を上げている。この章では、東電処理や原発再稼働をめぐる政府の対応、抗議行動の意味を考える
■破綻処理をしなかったが故に
政府の支援がなければ、東京電力の存続はとうてい不可能だった。これまでの経過は後のコラムを読んでいただくとして、まず2012年夏時点での東電を取り巻く状況を整理しておこう。
野田佳彦政権は2012年7月31日、原子力損害賠償支援機構を通じて東電に1兆円を出資し事実上、国有化した。政府の出資に先立って、機構は政府から受けた交付国債を財源に、当面の賠償支払いに充てる費用として2013年度までに東電に対して総額2兆4,262億円の交付を決めている。つまり出資と合わせれば、東電には3.5兆円近い公的支援のカネが流れていく。
政府は東電支援に当たって「国民負担の最小化」を繰り返し、強調してきた。国民負担には、そのものずばりの税金による負担と電気料金の値上げがある。税金であれ電気料金値上げであれ、家計の負担になるのは同じだ。このうち税金について、政府は「東電救済には1円も投入しない」と言ってきた。一方、電気料金の値上げは2012年9月からの実施が決まってしまった。
国民負担の最小化を言うなら、東電をさっさと破綻処理すればよかった。
この考えは?「経産省幹部が封印した幻の『東京電力解体案』」のコラムから一貫している。ちなみにコラムで紹介した「東京電力の処理策」と題した6枚紙の筆者は当時、経産官僚だった古賀茂明である。古賀は省内で干された状態だったが、この紙をまとめたことで省内で一層、警戒されていく。
破綻させて株主には100%減資を、銀行には債権放棄を求めれば、その分、東電が処理しなければならない債務は減るので、最終的には少なくとも数兆円の国民負担が減ったはずだ。ところが、実際には破綻処理を避けてしまった。その結果、株主と銀行の責任を問わない形になったので、国民負担は最小化できなくなった。
■「最小化」と「極小化」の違い
政府は厳密に国民負担の話をしたり文書に残すときは、注意深く「最小化」ではなく「極小化」という。それは、政府の案では最小化にはならない事情がよくわかっているからだ。極小化であれば、ある一定条件(この場合は株主と銀行の責任免除)の下で部分的に小さくなる点(極小値)を目指せばいい。これに対して、最小化は文字通りの最小化である。つまり極小化は、けっして最小化と同じではない。
ほとんどのメディアはおおざっぱに考えて、最小化も極小化も区別しない。そのことが官僚や官僚のブリーフィングを受けた大臣にはわかっているので、たとえば枝野幸男経産相は機構が1兆円を出資した2012年7月になっても、まだ平気で「これ(出資)は賠償、廃止措置、電力の安定供給という三つの課題を国民負担最小化する中でしっかりと実現するためのものであります」と自慢げに語っている(7月31日の記者会見)。
これはメディアが馬鹿にされているという話である。経産省は「どうせ最小化も極小化も違いがわからないだろう」とたかをくくっているのだ。
電気料金値上げは結局、決まってしまった。では、東電に投入された公的資金は本当に一時的な肩代わりで、最終的にはきちんと国民に返済されるのだろうか。それをたしかめるには東電の経営実態をみればいい。
政府の支援を受ける前提として、東電は原子力損害賠償支援機構法(*)に基づいて2012年4月27日に「総合特別事業計画」を作成した。それによれば、東電の純資産は2012年3月期の5,774億円から2013年3月期には1兆3,760億円に増加する見通しだ。ほぼ1兆円の出資に見合っている。
当期利益は2013年3月期に2,014億円の損失を出すのを底に、2014年3月期は1,067億円の黒字転換をはたす。それ以降、2022年3月期まで毎年1,000億円前後の利益を出すシナリオを描いた。2010年代半ばに「積極的な国際展開や小売り部門における新ビジネスの展開等による収益の拡大」を通じて社債市場への復帰をめざしている。
*) 2011年8月10日に成立した。第1条で「原子力損害の賠償の迅速かつ適切な実施」と「電機の安定供給」「原子炉の運転に係る事業の円滑な運営の確保」を図り「もって国民生活の安定向上と国民経済の健全な発展に資する」ことを目的と定めている。「国民負担の最小化」は初めから目的になっていない。
政府が損害賠償支払いのために機構に交付国債を交付し、機構がそれを現金化、東京電力に資金を交付する。東電は後で機構に毎年、特別負担金を支払って返済する。交付国債だけでは資金不足の場合や後に東電の返済負担が過大になった場合には、交付国債とは別に国が機構に資金(現金)を交付することもできる。ただし機構は交付国債を現金化した分については国に返済するが、現金で受取った分については国への返済義務はない。
このほか、機構は国の政府保証を得て民間の金融機関から資金を借り入れ、東電に出資や融資もできる。機構は2012年7月31日、東電に1兆円を出資し事実上、国有化したが、その際の資金は政府保証付きで民間金融機関から5,000億円ずつ2回に分けて資金を借り入れた。
■黒字転換のカラクリ
実は、このシナリオは肝心かなめの賠償費用を一切、盛り込んでいない。なぜなら当面、賠償支援機構が賠償費用をぜんぶ立て替え払いしてくれるからだ。いくらかかろうと機構が払ってくれるので、収支シミュレーションで計算する必要がない。それには、次のような事情がある。
原子力損害賠償支援機構法によれば、機構が政府から受けた交付国債を現金化して東電にカネを渡す。東電は後で「特別負担金」として機構に長期で分割返済する仕組みである。では、いつから特別負担金を払うのか。それが先の事業計画によれば「2010年代半ば以降」なのだ。
つまり2010年代半ば以降に国際展開や新ビジネスを手がける。社債市場にも復帰する。それから借金返済を始めるというのだ。それと同時に機構が保有する1兆円株式も東電自身が買い戻し、市場に売却する計画を立てた。それが実現できれば、1兆円出資もあるいはムダにならないかもしれない。
だがこれは、まったくの絵空事である。
当面は機構が肩代わりするとしても、東電は少なくとも数兆円に上る賠償負担を抱えている。加えて除染もある。除染はどうかといえば、放射能物質汚染対処特別措置法に基づいて、こちらも当面は国と地方が分担して除染事業を実施するので、東電は費用を心配をする必要がない。だが、これはあくまで一時しのぎである。除染費用は後で東電が国に支払うのだ。先の措置法にそう書いてある。
それに廃炉がある。当座の応急措置分は先のシナリオに計上しているが、最終的な廃炉費用総額はわからず、計算から除いている。ようするに「2010年代半ば以降には社債市場に復帰して、2022年3月期まで毎年1,000億円前後の利益を出す」というシナリオは、賠償も除染も廃炉もぜんぶ除き、借金返済を棚上げしたうえでの話なのである。
それで1,000億円程度の利益である。そんな額で「特別負担金」は支払えるのか。賠償と除染、廃炉にかかる費用はいくらか。日本経済研究センターの試算によれば、少なくとも20兆円、最大で250兆円かかるという(「原発の行方で異なる4つのシナリオ」2012年3月、「原発の発電コスト、20年度には事故前の3倍に」2011年7月)。
借金が総額20兆円として年1,000億円の利益を全部返済に充てたとしても利子なしでも200年、250兆円なら2500年かかる計算である。こんな話を信じる人がどこにいるのだろうか。こんな状態で社債市場に復帰できるわけがない。それは結局、22「東電のギブアップ宣言」で書いたように東電自身が認める結果となる。
■最小化どころではない
実は交付国債以外にも、機構法では機構が「現金」を東電に渡したり、政府保証付きで民間金融機関から資金を借りて、東電に出融資する道が開かれている。実際、機構の1兆円出資は民間金融機関から政府保証付きで調達した資金が原資だった。この問題は?「国民には増税を押しつけ、東電は税金で支援。これを許していいのか」から3回にわたって追及した。
このうち機構に対する政府の現金交付は実行されていないが、法律上は機構が現金で受け取って東電に渡した分は機構が政府に返済する必要はない。返済しなければならないのは、あくまで交付国債を現金化した分だけだ。つまり、東電が返済しなければそれまでである。このカラクリは先のコラムで詳しく解説したが、非常に複雑で素人が法律を斜め読みしたくらいでは、とてもわからない。新聞もまったく報じていない。
交付国債の現金化による支援を続ける限り、東電はやがて特別負担金の納付による借金返済を迫られる。だが、それも絵に描いた餅になるだろう。いずれ東電が返済し続けるのはムリとわかるので、どこかの時点で返済不要な現金交付、あるいは政府保証による東電支援に切り替わる可能性がある。その後で東電が破綻すると、機構の出資や支援が焦げ付いて、カネを貸した民間金融機関から政府保証による返済を迫られる事態になるかもしれない。
そうなれば国民負担は当然、一挙に増える。最小化どころではなくなってしまうのだ。
もともと原子力損害賠償支援機構法は2011年8月に成立してから施行された後、すぐ見直す予定だった。
附則第6条には「施行後早期に、資金援助を受ける原子力事業者と政府及び他の原子力事業者との間の負担の在り方、資金援助を受ける原子力事業者の株主その他の利害関係者の負担の在り方等を含め、国民負担を最小化する観点から、この法律の施行状況について検討を加え、その結果に基づき、必要な措置を講ずるものとする」(一部抜粋)と書き込まれている。
「株主その他の利害関係者の負担の在り方」というのは「株主と銀行にも負担を求めるべきだ」という論点を含んでいる。そうでないと「国民負担を最小化する観点」に達しないからだ。
ところが成立から1年を過ぎても、抜本改正の機運はない。本来の発送電分離による電力再編も進まず、政府が機構を通じて1兆円を出資し、国有化した地点にとどまっている。公的資金だけが東電に着々と注ぎ込まれる一方、原発再稼働も実行された。
だから?「様変わりした抗議行動---反原発集会で感じた新しい動き」で書いたように、怒りに燃えた国民の抗議行動が収まらないのだ。
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◆ 捜査報告書捏造問題 「指揮権発動」発言の真相 小川敏夫前法相直撃インタビュー 『日刊ゲンダイ』6月6日 2012-06-06 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
「指揮権発動」発言の真相 小川敏夫前法相直撃インタビュー
日刊ゲンダイ2012年6月6日 掲載
「記憶が混同」の言い訳は通用しません
<地に落ちた検察の信頼はこのままでは回復しない>
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◆「指揮権発動について再び首相と会う前日に更迭された」「小沢裁判の虚偽報告書問題・・・」小川敏夫前法相 2012-06-07 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
「指揮権発動について再び首相と会う前日に更迭された」、「小沢裁判の虚偽報告書問題は『検事の勘違い』などではない!!」小川敏夫前法務大臣に真相を聞いた
現代ビジネス「ニュースの深層」2012年06月07日(木)長谷川 幸洋
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◆小川敏夫前法相 検事への捜査徹底のため指揮権検討したものの、首相了承せず/「虚偽」捜査報告で 2012-06-05 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
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◆小沢抹殺で法務官僚が謀った大司法省計画/捜査資料流出の裏に「検察の暗闘」 『サンデー毎日』5.27号 2012-05-16 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
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◆検察も頭を抱えるまさかの控訴 陸山会「茶番」裁判は笑止千万 『週刊朝日』 5/25号 2012-05-16 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
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◆法相の指揮権発動
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◆ 「東京新聞は護憲ですが、私は違います」 記者が社説と異なる主張をする自由こそ、ジャーナリズムの基本だ 2013-02-01 | メディア/ジャーナリズム
現代ビジネス「ニュースの深層」2013年02月01日(金)長谷川 幸洋
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