〈来栖の独白2013/4/19 Fri. 〉
先日お亡くなりになった三國連太郎さん。新聞報道によれば、鬼気迫る演技故に「怪優」と呼ばれていたそうだ。加えて、私は以下の「女性セブン」の記事により、凄まじい私生活だったことを知った。その生きざまは私の裡で、猿翁・中車父子が重なった。佐藤浩市さんも香川照之(市川中車)さんも、極限ともいえる確執、葛藤を乗りこえたのだろう。
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三國連太郎さん 役者をやると告げた佐藤浩市に一言「そうか」
2013.04.19 16:00
4月14日、急性呼吸不全で亡くなった三國連太郎さん(享年90)は、生涯4度の結婚をした。太平洋戦争で戦地に赴く直前に結婚した最初の妻は、「私はどこの馬の骨ともわからない男と結婚しているのに絶望を感じた」と宣告され、別れた。
女性に対する不信感を強めつつもふたり目の妻と再婚。女児をもうけるも、彼女は三國さんの大嫌いな大酒飲みだったため不仲に。そしてまだ婚姻中にもかかわらず、後に3人目の妻となるA子さんと同棲を始める。1952年のことだった。そのころすでに三國さんは人気俳優として活躍していた。
「A子さんは東京・神楽坂の売れっ子芸者でした。ふたりの同棲は大きく報じられたんですが、それで夫の不倫を知った2番目の奥さんがすぐに離婚訴訟を起こしたんです。慰謝料請求は当時の金額で200万円。三國さんは財産のほとんどを慰謝料に持っていかれてしまったそうです」(映画関係者)
A子さんとは1957年に結婚し、その3年後に長男が誕生。それが佐藤浩市(52才)だ。しかし幸せな生活はすぐに破綻を迎える。A子さんは仕事柄、着物や帯を大量に買い込み、毎晩のように酒を飲んで帰る。しかし三國さんはそれに我慢できないこともあって、女優の故・太地喜和子さん(享年48)ら多くの女性たちと浮き名を流し、家に戻らない日々が続いた。
A子さんとの関係は完全に終わっていたが、三國さんはまだ小学校低学年だった息子を思って何通も手紙を送った。無責任とは思いながらも、自分の思いを伝えるために、冒頭には必ず「これは君が大きくならないと理解できないかもしれないけど」とつけて。
そして1972年、三國さんはA子さんとの離婚を決める。まだ小学6年生だった佐藤を箱根の十国峠に連れて行き、三國さんはきっぱりこう言い放ったという。
「ここで、お前と別れる。今日から他人になる。一切関係を絶つ。これからひとりで一生懸命生きてくれ」
三國さんに棄てられ、母とふたりで生活することになった佐藤。しかしその生活も、彼にとっては忘れがたき苦しい日々となった。
「三國さんと別れた後、A子さんはスナック経営を始めたんですが、佐藤さんが中学校に上がると、内縁の男性が現れたんです。思春期だった佐藤さんは、内縁の男性との3人の生活に耐えきれず、“この家に自分の居場所はない”と高校2年生の時に家を飛び出したんです」(佐藤の知人)
以来、喫茶店でアルバイトをしながら一人暮らしを続けた佐藤は1980年に父と同じ俳優の道に進むことを決意。三國さんを呼び出した早稲田駅のホームで「役者をやりたい」と告げたという。三國さんは「そうか」と一言だけそう言って、電車に乗って別れた。離れ離れになった息子が自分と同じ世界を目指している。嬉しくないはずはない。しかし、三國さんの胸中は複雑だった。
というのも佐藤がデビューすれば、どうしても「三國の子供」として見られてしまう。しかし俳優の仕事は「一代限り」。自分なりの演技論、文化論を築いていく必要がある。それが三國さんの考えだった。
※女性セブン2013年5月2日号
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香川照之 父・猿之助と45年ぶり和解
デイリースポーツ(2011年9月28日)
息子・香川照之(左から2人目)と甥・市川亀治郎(右)の手を借りて会見場を後にする市川猿之助。左は香川の長男・政明くん=都内
スーパー歌舞伎の市川猿之助(71)を父に持つ俳優・香川照之(45)が来年6月、東京・新橋演舞場公演「初代市川猿翁 三代目市川段四郎五十回忌追善 六月大歌舞伎」で歌舞伎俳優としてデビューすることになり27日、都内で会見した。九代目市川中車(ちゅうしゃ)を襲名し、歌舞伎の舞台に立つ。会見場には1歳の時に香川の元を去った猿之助も登場。40余年にわたり断絶状態だった父子にとって、“和解”の舞台となる。
「浜(木綿子)さん、ありがとう。恩讐の彼方に、ありがとう、ありがとう」。会見最後のフォトセッションで父・猿之助が小さな声で漏らした言葉。「一族で(写真を)撮るのは、物心がついてから初めてです」と笑顔を浮かべていた香川が、こらえきれず嗚咽(おえつ)し、涙ぐんだ。
猿之助が記者会見の場に現れたのは03年11月の脳梗塞で倒れてから初めてで、確執が伝えられた父と子の雪解けを象徴する場面になった。
日本舞踊家・藤間紫さん(09年1月没)とのW不倫に走り、1歳の時、父は家を出て行った。3歳のころに両親は正式に離婚。歌舞伎とは無縁の映像の世界に生きてきた。母の女優・浜木綿子(75)は、家族を捨てた猿之助を許さなかった。香川は25歳の時に母に内緒で猿之助の楽屋に押しかけ、物心ついて初めて父と対面。しかし「今の私とあなたは何の関係もない」と冷静に言い放たれたことを、後に明かしている。
45年に及ぶ愛憎史を物語るように、この日、猿之助は「恩讐の彼方に」と口にした。香川は浜について「いろいろと問題があります。いろいろな思いがあるでしょうし、一番心を痛めているかもしれません」と母親の複雑な胸中を思いやり、「僕のやろうとしていることを許してくれたことを感謝してます。それがなければ、なかった話です」と父のもとで、父と同じ道を歩むことを許してくれたことを説明。「僕自身は何も辛いことはなかった。今までは全部、幸せな人生」と笑顔で語った。
初めて歌舞伎の舞台に立つことに「素人が入っていいものか、怖くてたまりません。でも、猿之助の名前は140年続く。僕自身、考えてきたことで、この船に乗らないわけにはいかない。これが僕の人生」と決意表明。「この春から(父と)同居しています」と意外な事実も明かし、「24時間、一緒にいて、病気、体調をみてきて、大勢のお弟子さんたちの運命も父が握っている。誰がサポートするのか。僕が立ち上がらなければいけない」と力強く語った。いまだに舞台に立つことのできない父を思いやった上での決断だった。
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香川照之、中車襲名「生涯かけて責任を」
デイリースポーツ(2012年6月6日)
「六月大歌舞伎」初日の「口上」で舞台に並んだ(右から)四代目市川猿之助、二代目市川猿翁、九代目市川中車、五代目市川團子(代表撮影)
俳優・香川照之(46)が5日、東京・新橋演舞場で初日を迎えた「六月大歌舞伎」に出演。九代目市川中車(ちゅうしゃ)を襲名し、歌舞伎デビューを飾った。口上では父で二代目市川猿翁を襲名した三代目市川猿之助(72)、長男で五代目市川團子(だんこ)を襲名した政明(8)らとともに登壇し、「生涯をかけて精進し、九代目中車を名乗らせていただきます」と熱く決意表明した。また、市川亀治郎(36)は四代目市川猿之助を襲名した。
恩讐(おんしゅう)を超えた熱い決意表明だ。客席からは香川の母で、猿翁とは直前まで絶縁状態にあった女優・浜木綿子(76)が見守った。
「小来栖の長兵衛」の長兵衛役で“香川照之”を脱ぎ捨て、歌舞伎俳優の第一歩を踏み出した中車。緊張と感激が交ざり合った口上では「生涯をかけて精進し、九代目中車を名乗らせていただきます、責任を果たして参りたいと存じております」と力強く宣言。この日は息子の團子の初舞台でもあり、「親子ともに懸命に精進して舞台を務めて参ります」と語るや、客席からは割れんばかりの拍手がわき起こった。
中車に続いた團子は「猿翁のおじいさまより、ずっと立派な俳優になることが夢でございます」と大物の雰囲気が漂う堂々の口上で硬かった雰囲気を一気にほっこりさせ、最後は猿翁が台座に乗って8年ぶりに舞台に登場。後遺症で口がまわらない部分もあったが、「相変わらぬご声援のほどを隅から隅までずずずいとこい願い申し上げます」と三代そろい踏みの口上を締めた。
昨年9月27日に父とともに会見し、歌舞伎界入りすることを宣言した中車。1968年に母の浜と離婚した猿翁とは、幼少期から長らく絶縁状態だった。しかし、03年に團子が生まれ、ほぼ同時期に猿翁が脳梗塞で倒れたことがきっかけで徐々に心境が変化。澤瀉屋(おもだかや=市川家の屋号)を守る使命を選択した。
約8カ月間のけいこは中車にとって、45年ぶりの父子の触れ合いでもあった。けいこ場やこの日は浜も駆けつけ、複雑な感情を乗り越えて“一家”が勢ぞろいする形となった。
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◆ 名残の御園座へ 2013-03-05 | 日録/(音楽)
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