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被災者にとっては悲しむことが大切なのに「頑張ろう」で、涙を流してはいけない雰囲気になっている

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中日新聞2011/07/15Fri. 「あの人に迫る」
【悲しみを忘れて社会は成長せず】野田正彰 精神科医
 日航ジャンボ機墜落事故の遺族、阪神大震災の被災者らから聞き取りをして、「悲しみに共感する力」の大切さを語ってきた精神科医で関西学院大教授の野田正彰さん(67)。東日本大震災では現地に何度も足を運んだが、「頑張ろう」の掛け声ばかりが目立つ状況に、それは「悲しみを抑圧するだけだ」と警鐘を鳴らす。(増村光俊)

--日本は悲哀を抑圧する社会だと主張されています。今回も同じですか。
---悲しみを押し殺すことが善だという社会だ。今回の大震災でも「東北の人は我慢強い」「日本人の美徳だ」という声が目立つ。冗談を言うなと言いたい。
 大震災で計2万人を超える人が死亡するか行方不明になっている。それなのに「頑張ろう」コールばかりだ。悲しみの人に思いやりが少ない。ある避難所に行ったとき、子どもたち向けに菅直人首相と高木義明文部科学大臣名の紙が貼ってあった。
 「いま抱えている悲しみや不安から完全に逃れることはできないかもしれません。でも皆さんがこの悲しみと向き合えるようになる日まで学業やスポーツなど夢中になれるものを見つけて、この苦しい時期を乗り越えて」という内容だった。悲しみを勉強とスポーツで忘れろということだ。母を、家族を失って必死に耐えている子どもによくこんなことが・・・。人間に対する冒涜だ。

--政府の復興構想会議でもおかしなことがあったと。
---南相馬市(福島県)にいた時、宿に戻るとテレビで映像が流れていた。なんと会議に出席する全員が紅白の胸章を着けていた。着ける方も着けられる方も平気なのか。
 家族を亡くした被災者にとって大切なことは、悲しむことだ。なのに今は「頑張ろう」で、涙を流してはいけない雰囲気になっている。社会は「皆さんと一緒にいます。悲しみの中で新しい社会をつくっていきましょう」というメッセージを出さないといけない。悲しみを忘れては社会は成長しない。日本の社会は悲しみにあまりに鈍感だ。

--大切な人を亡くした被災者は、どういう精神状態になっていきますか。
---二つの段階がある。最初は亡くなったり、行方不明になった人との対話だ。遺体を取り戻そうと探すのも、波に流された時、例えば父はどんな思いをしていたかと想像する。なぜ私だけを残して死んだのかと恨む、すべて対話だ。一片の服を、遺品を見つけ、生活の様子を知るのもそう。そうしたことは他人にあまり言わない。周囲の共感する力が大切だ。
 それからゆっくりと故人の遺志を思いやる。「おばあちゃんは私に自立できる女性になりなさいと願っている」とか、「兄はこうした被害をもたらさない防災システムをつくることを望んでいる」とか。
 子ども夫婦と孫を亡くし、消え入りそうになっているおばあちゃんは「生きていけない」と言うだろう。そんなとき「孫が生きていた証しは、おばあちゃんが長生きして孫のことを思い出してあげること、生きていたことをつなぐために、お墓参りに行ってあげることだよ」と誘導する。そういうことをじゃましない社会が大切だ。

--自殺や孤独死も心配されてきます。
---仮設住宅に入るとき、特に5、60代の男性には最初に鍵を渡さないでほしいと言っている。家族を亡くし、1人になった中年の男性に鍵を渡したら外へ出てこなくなる。孤立するのは明らかだ。最初にお茶会や食事会をして互いに自己紹介し、孤立しない仕掛けを考えないといけない。
 避難所で感じたのは被災者に格差があること。お年寄りが避難所にかたまって無気力になっている。お年寄りの孤独死が心配だ。このままでは阪神大震災以上に悲惨なことになる。孤独死というが消極的自殺だからね。自分の体をいたわらない。風邪をひいても暖かい布団に入らない。食事をビールでごまかす。病院に行かない。希望を失って亡くなっていく。

--阪神大震災以降、心のケアとよくいわれます。
---うっとおしいことを忘れて明るいことを考えましょう、みたいなケアはノウハウにすぎない。人間の精神はそんなものではない。阪神大震災以降、心的外傷後ストレス障害(PTSD)という言葉がマスコミ用語になった。被災者の多くは、地震で死の恐怖にさらされて無力感を抱いたという本来の意味でのPTSDではない。「心の傷」「心が壊された」というが、文学的表現であっても医学ではない。

--被災地を歩いて感じられたことは。
---被災地で頑張っているのは、学校の先生。避難所の運営、地域の人への世話など。そこに何も分かっていない教育委員会が心のケアとかいって、疲れている教員に「眠れますか」などとアンケートをして、もっと疲れさせているところがある。そして臨床心理士に高い金を払って講義をさせている。子どもと一番接触しているのは学校の先生。創意工夫で災害を受け止めているのに、なぜ任せないのだろう。
 ある避難所で、大学名を記した服を着たボランティアの男女6人が固まって食事をしていた。「たまには被災者と一緒にご飯を食べたら」と声をかけた。そしたら「大学から被災者と話をしたらいけないと言われた」と。ボランティアが行政の肩代わりになっている。被災者と交流するのが大切なのに。教委にしてもボランティアにしても、一言で言えば、鈍感だ。
 4月のことだが、気仙沼市で、1軒開いていたうどん屋に入った。今回、被災者で死者を悼む花をあまり見かけなかったので、「関西から来た。阪神では1カ月もするとあちこちでコップに花を生けていた。海岸を歩いている人もいない」と話しかけた。すると主人は「花を手向ける余裕がない。がれきの中に入って歩いたりすると、金を探しているのではないかと疑われる」と言った。被災地が緊張ある社会になっていると感じた。
 今回の大地震は「線」の災害だ。最初のころ、テレビなどマスコミ報道をみていると、東北は津波で壊滅しているのかと思っていたので、現実とのギャップがあった。阪神は面の災害だったが、今回は線。つまり被災地の後方は壊れていない。土地もいっぱいあり、仮設住宅も建てられる。後方へ行けば救助はやりやすい。だからこれから悲惨なことになっていくとすれば、行政の問題で人災だと思っている。

〈インタビューを終えて〉
 「復興構想会議に出席した人たちが紅白の胸章を着けているのを見て何も感じなかったの?」インタビューの最中、野田さんにふいに問いかけられた。「意識しませんでした」と正直に答えると、「ほかの新聞社の幹部も同じことを言っていた」と嘆いた。
 被災地の子どもについて話をしている途中だった。メモを取る手をふと止めて、野田さんを見た。「子どもは必死に耐えているのに・・・」と話す目に涙が今にもあふれ出しそうになっていた。激しい言葉で権力者らを批判する野田さんの、奥底に流れる優しく熱い心に触れた。 *強調(太字)は来栖
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東日本大震災:安易な復興ムードに警鐘 精神科医の野田氏
 被災者支援について調査・提言している関西学院大学教授で精神科医の野田正彰さん(67)が15、16日、宮城県沿岸部に入り遺族や被災者の話を聞いて歩いた。東日本大震災では2度目の被災地入り。家族を失って1カ月が過ぎた遺族らと接した野田さんは「復興ばかりに重点を置いて『がんばろう』を繰り返せば、遺族の疎外感と喪失感は強まる。復興支援は一番つらい遺族の視点に立つべきだ」と安易な復興ムードに警鐘を鳴らす。
 県南部、福島県境にある山元町。641人が死亡し、131人の行方が分かっていない(18日現在)。
 野田さんは山元町立坂元中学校の避難所を訪ねた。「家族全員が見つかるまでは」と震災後ひげをそっていない男性がいた。目黒裕一さん(36)。両親、祖母、姉の5人家族だったが、4人の行方が分からない。「避難所にいれば、いつかみんなが顔を出すんじゃないかって。甘い考えだったかな。携帯もメールもつながらないんです」。今月上旬、姉ゆかりさん(39)に目元が似た遺体の写真を見つけた。DNA鑑定の結果を待っている。
 「家族が夢に出てこない。俺って冷たい人間なんですか」。そう尋ねた目黒さんに野田さんは「そんなことはない。家族もあなたのことを思って流されたはずだよ」。目黒さんは「それならやっぱり俺が早く見つけてあげたい」とつぶやいた。
 仙台市の南隣、名取市閖上(ゆりあげ)地区。「あれは、妻が育ててたんだ」。汚泥をかぶったビニールハウスを指して、荒川勝彦さん(63)は野田さんに言った。中に、ピンクや白のカーネーションが、枯れずに残っていた。
 妻八千代さん(58)はあの日、ハウスにいた。近所の人の話では地震後、自宅にいた三男孝行さん(27)を迎えに車で自宅に戻り、一時公民館に避難。更に約500メートル離れた中学校に向かう途中、津波にのまれた。孝行さんは遺体で見つかったが、八千代さんは見つかっていない。
 自宅から公民館まで、野田さんは荒川さんと八千代さんの話をしながら歩く。「なかなか気持ちの整理がつかなくて……」。そう話す荒川さんに、野田さんは「奥さんが生きた記憶を忘れずに生きていくんだよ。奥さんの生前の姿を一番伝えられるのはあなたなんだから」と声をかけた。八千代さんの足取りを荒川さんに追体験してもらうことで、少しでも心の整理をしてもらおうと、野田さんは考えた。
 野田さんによると、遺族は被災直後、家族を失った現実をなかなか受け入れられない。遺体が見つかり数カ月が過ぎたころ、喪失感に襲われる人もいるという。そんな時「遺族に寄り添って、悲しみを共有してあげることが大切」という。
 野田さんは「遺族ほど悲しみや苦しみに耐え、頑張っている存在はいない。周囲が死を見ないようにして『頑張ろう』と復興ばかり強調すれば遺族は『放っておかれている』と思う。喪失感は増し、最悪自殺という手段を選択させてしまう」と遺族の孤立化を危惧している。【村松洋】
毎日新聞 2011年4月20日 10時24分(最終更新 4月20日 12時31分)
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関連:光市母子殺害事件差し戻し審  
 「週刊ポスト」2007,8,17・24
 弁護団の依頼により元少年被告人の精神鑑定を行った野田正彰氏(関西学院大学教授・精神科医)の話

 広島拘置所の面会室。透明なアクリル板をはさんで、山口県光市母子殺害事件の被告人Aと私が初めて対面したのは、今年1月29日のことです。
 Aの口調はボソボソと頼りなく、内向的な印象を受けました。感情も表にほとんど現わさない。拘置中に『広辞苑』をすべて読んだというだけあって、難解な言葉も使うのですが、概念をよく理解していない。およそ26歳とはほど遠く、中学生、否、小学生のような印象を最初に抱きました。
 しかし、淡々と話していても、ひとたび父親のことが話題にのぼると、Aは心底怯えた表情を見せる。Aは「捕まったとき、これで父親に殺されなくてすむと思った」とすら語った。それは、父親の暴力がどれほどAの心を傷つけていたのかを物語っていた。
 その日を機に、2月8日、5月16日と、計3回合計360分超に及ぶ面談が始まったのです----。
 ここにきて、Aの主任弁護人である弁護人安田好弘弁護士ら21人の弁護団に対して、脅迫や嫌がらせが続発しています。日弁連や朝日新聞社あてに送られた脅迫文には、弁護人安田氏を「抹殺する」と脅し、銃弾のような金属片まで同封されていたと報じられています。
 安田氏の依頼でAの精神鑑定をした私に対しても、<(野田は)犯人を擁護し、遺族を深く傷つける証言を行った。また、シンポジウムでは遺族本村洋に対し、「社会に謝れ」などの脅迫・侮辱的な暴言を吐いた>などと、まだ公判で証言もしていないのにデマが意図的に流されていた。さらに、勤務先である関西学院大学には、電話やメールで「辞めさせろ」「大学の恥」などの抗議がありました。ネットには、私が死刑廃止論者であるとして、Aの死刑を阻止するために弁護団に協力しているとの書き込みもありました。
 私は精神科医として病気の診断をするのであり、刑の判断は司法が行うものです。
 しかしマスコミ、とりわけテレビは偏向報道で大衆裁判の風潮を煽った。「凶悪犯を弁護するとは何事だ」とばかりに、弁護団を犯人と同一視し、憎悪の感情を扇情的に煽り続けた。

「父に殺されると思った」
 そもそも、安田弁護士が依頼してきたのには理由があります。
 Aの述べることがよく理解できず、またあまりの幼さに驚いた。その上、家庭裁判所の調査官(3名)による詳細な「少年記録」には「AのIQは正常範囲だが、精神年齢は4,5歳」と書かれていた。
また、生後1年前後で頭部を強く打つなどして、脳に器質的な脆弱性が存在する疑いについて言及していました。
 さらに広島拘置所では、Aに統合失調症の治療に使う向精神薬を長期多量に服用させていました。当惑した弁護団が精神鑑定を求め、裁判所が認めたのです。
 精神鑑定では、Aへの直接面談以外にも、Aの父親、実母方の祖母、実母の妹、Aの友人にも話を聞いています。Aの生育歴、人格形成の経緯を多角的に調べました。結果、私は「Aは事件当時、精神病ではなかった。しかし、精神的発達は極めて遅れており、母親の自殺時点で留まっているところがある」という結論を下しました。
 なぜ、Aには精神的発達の遅れがあったのか。理由を知るためには、Aの幼少期まで遡らねばならない。
 Aは1981年、山口光市で、地元の新日鉄に勤務する父と、母の間に長男として生まれました。2歳年下の弟とともに育てられましたが、家庭は常に「暴力」と「緊張」そして「恐れ」に支配されていました。
 父親は、結婚直後から、母親に恒常的に暴力を振るっていたようです。これは実家の母や妹が外傷を見ています。
 父親から暴力を受け続ける母親の姿は、Aにはどう映っていたのでしょうか。
 Aはやがて、母をかばおうとするようになります。これを契機に、父親の暴力の矛先は押さないAにも向うようになった。「愛する母を助けてあげられない」という無力感にも苛まれる。幼児期、父親に足蹴にされ、冷蔵庫の角で頭を打ち、2日間もの間朦朧としていたこともあったそうです。
 小学校1〜2年生ごろに海水浴に行った際には、一親は、泳げないAが乗ったゴムボートを海の上で転覆させ、故意に溺れさせた。また、小学3〜4年生ごろには、父親に浴槽の上から頭を押さえつけられ、風呂の水に顔を浸けられたといいます。この時、彼は「殺されると思った」と感じている。
 父親の暴力は、些細なことから突然始まるために、Aは、どう対応すればいいのか分からなかった。
 Aが母親を守ろうとすると、父から容赦ない暴行を受け、逆に母親がAを守ろうとすると、父は母に対して暴力を加えた。
「どうしようもなかった、何もできなかった、亀になるしかなかった。僕は守れなかった」
 面接中あまり感情を表現しないAですが、母のことになると無力感に顔を歪めていました。
 このようにAは、常に父親の雰囲気をうかがってびくびくするような環境で育ちました。本来、愛を与えてくれるはずの親から虐待され続けたA。そして、彼の人間関係の取り方、他人との距離の置き方は混乱してゆくのです。

「母の首つり遺体」の記憶
 父親の暴力に怯える母とAは、ともに被害者同士として、共生関係を持つようになります。
 母親は親族からも遠く離れ、近くに相談相手もおらず孤立した生活を送っていた。その中で、長男のAとの結びつきを深めていった。母親はAに期待し、付っきりで勉強を見た。Aも、母親が自分の面倒を見てくれることが本当にうれしかったと語っています。
 そしてAが小学校の高学年になると、2人の繋がりは親子の境界をあいまいにする。母子相姦的な会話も交わされるようになりました。
 母親から「将来は(母とAとで)結婚して一緒に暮らそう。お前に似た子供ができるといいね」と、言葉をかけられたことがあったといいます。
「母の期待に応えられるかどうか、本当に似た子が生まれるのか不安だった」と、Aは当時の心境を振り返っています。
 Aは私との面談で、母親のことをしばしば妻や恋人であるかのように、下の名前で呼んでいました。それほど母親への愛着は深く、母親が父親の寝室に呼ばれて夜を過ごすと、「狂いそうになるほど辛かった」とも話しています。
 母親は虐待により不安定になり、精神安定剤や睡眠薬にも頼るようになり、自殺未遂を繰り返しました。そして、Aが中学生(12歳)の時に38歳で自殺します。その際、自宅ガレージで首を吊った母親の遺体を、Aは目撃している。
 Aにその時の状況を聞くと、求めてもいないのに詳しい図面を描き始める。それほどその時のショック、精神的な外傷体験は鮮明に記憶されている。Aは「(母親の)腰のあたりがべったり濡れていた。その臭い(自殺時の失禁)も覚えている」と語りました。
 彼はまず、「父親が愛する母を殺したのだ」という念を強くします。これには二重の意味がある。
「父親の虐待で母が死を選んだ」という思い。さらに、父親が第一発見者を祖母から自分へ変えたことから、「父親が直接殺したのではないか」という疑いです。
 母を殺した父を殺そうと包丁を持って、眠っている父のもとに行ったこともあったが、かわいそうで実行できなかったともいっています。弟と2人で殺すことを考えたが、まだ負けると断念したともいっています。
 同時に、Aは「母親を守れなかった」との罪悪感も募らせていった。後追いして自殺しない自分を責めてもいます。
 こうした生育歴と過酷な体験により、Aの精神的発達が極めて遅れた状態になったと考えられる。理不尽な暴力を振るう父親を恐怖し避ける。一方、母親とは性愛的色彩を帯びた相互依存に至った。父親の暴力がいつ始まるか、怯えながらの生活は他人との適切な距離感を育むことを阻害した。Aは、他人との交流を避け、ゲームの世界に内閉していった。
 そして、母親の死の場面は、強烈な精神的外傷としてAの心に刻まれた。この精神的外傷は、以後、何度となく彼の心の内を脅かすこととなりました。

死刑になれば「弥生さんの夫に」
 検察はAの犯行を、計画を立て、女性だけの家に入り込んで強姦しようとした、としています。ところが、犯行当日、Aはなんとなく友人の家に遊びに行って過ごし、友人が用事があるというので、たまたま家に帰った。そして、何となく時間を潰すために近くのアパートで無作為にピンポンを押していった。そこに、緻密な計画性は認められない。
 たまたまドアを開けた本村弥生さんが、工事用の服を着ていたAを見て、「ご苦労さま」と受け入れた。その時、Aは弥生さんの先に、かつてすべてを受け入れてくれた亡き母を見ていたと考えられるのです。
 弥生さんの抵抗に驚いたAは、殺害に至る。プロレス技のスリーパーホールドで絞めた行為をAは、「ただ、静かにしてもらいたかっただけ」と語っている。殺害後、ペニスを挿入したことについては、母親との思い出がフラッシュバックしたと考えられます。理由は首を絞められた弥生さんが失禁したこと。その異臭で母親の自殺の光景が蘇った。そこで母親と一体になろうとした思いに戻っていったのかもしれません。
 ただし、A本人は、このセックスを「死者を蘇らせる儀式。精液を注げば生き返ると思った」とも主張していますが、これはどうか。当時、本当にそう考えていたかは疑問も残り、後付けの可能性もあります。
 夕夏ちゃんを殺害して、遺体を押し入れの天袋に入れた行為はどうか。本人は、「押入にはドラえもんがいて、何とかしてくれると思った」と話していますが、彼は夕夏ちゃん殺害について私に「思い出せない、分からない」と答えている。ですから、犯行時にドラえもんの存在が思い浮かんだかどうかはわかりませんし、これも後付けの可能性がある。
 ただし、彼が、自分の中に閉じこもり、ファンタジーの世界に生きていたということは事実でしょう。
 また、彼は、自分の母親や弥生さんが死んでしまったこと、死は無であることを認識しているかどうか。「死んでいるが、生きている」と二重の思いを語ります。
「もし僕が死刑になって、先に弥生さん、夕夏ちゃんと一緒になってはいけないのではないか。再会すれば、自分が弥生さんの夫になる可能性があるが、これは本村さんに申し訳ない」と語るA。世間は反省の気持ちもない傲慢な主張と受け取るかもしれませんが、実際の本人は十分に反省する能力もないほど幼稚だからこそ、弁護団でさえ戸惑うようなことを平気でいうのです。
 繰り返しますが、彼は事件当時、統合失調症や、妄想性障害のような精神病ではありません。しかし、精神的発達は母親の自殺の時点で停留しており、18歳以上の人間に対するのと同様に反省を求めても虚しい。本人も混乱するばかりです。さらにいえば、父親の暴力への恐怖、母親への感情を分析していけば、Aの発展を促すことは十分に可能だと考えられる。
 例外なく、殺人は最悪の行為です。しかし、事件は事実に向かって調べられなければならない。精神鑑定は、精神医学に基づいて、多元的に診断されるものです。
 もちろん、妻と1歳にも満たない子どもという最愛の2人が殺されている被害者遺族が、Aへの怒りと憎悪を強めていくことは痛いほど理解できます。
 しかし、その感情をさらに煽るようなマスコミ報道は許されない。
 Aが死刑になるかどうかは、裁判所、司法が決めることです。解明された事実を正しく伝えることが、マスコミの役割ではないか。どのメディアも、犯人憎しの報道で同じ方向を向いて、事実を追う媒体はまったくありません。これは「ジャーナリズムの放棄」を意味するのではないか。
 さらにいえば、Aが苦しんできた家庭内暴力のような不幸な現実に光をあてることも、マスコミの使命ではないか。
 公判の最後、「事件を通して、いったい何を考えなければならないのでしょうか」との問いが投げかけられた。私は「社会は、(Aを)殺せというだけでなく、彼がこれほどの家庭内暴力に対し誰にも助けを求めることができなかったことへの反省はないのでしょうか」と答えた。二度とこのような不幸な事件を繰り返させないためにも、皆が冷静に考えることを望むばかりです。


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