琉球史新議 〜明は併合に公式に同意した?〜 長崎純心大学准教授 石井 望
八重山日報 2013年6月5日23:16:00
人民日報に琉球の領有は未確定だとの論説が載り、世間を騷がせてゐる。實質上はチャイナによる領有の主張である。彼らは常々過去の朝貢を強調してゐる。
しかしそもそも過去のチャイナ人は自力で尖閣海域を渡航できず、琉球人の案内でやっと渡ったことが史料に歴々と書かれてゐる。況や尖閣の先の琉球を領有することなど、形式上では可能でも、歴史と文化の實質上は有り得ない。
私は昨年來の尖閣研究の中で、薩摩による琉球併合に關(かか)はる一史實を見つけてゐた。大したこととも思ってゐなかったのだが、人民日報のお蔭で大したことになったので、五月二十六日に日本會議長崎主催の公開講演會でこれを公表した。明國の高官が日本の使者を訊問する際に、琉球併合に同意することを公式に言明し、更に皇帝にまで報告して、中央朝廷で記録したといふ事實である。
▽薩摩による檢地を認知
西暦1609年、薩摩藩は琉球を併合し、以後琉球王に明國皇帝の臣下として朝貢貿易をつづけさせたことはよく知られる。明國側は薩摩の統治を知り、一時は朝貢を禁じようとしたが、やがて已むを得ず朝貢再開をゆるしたことも、近年の研究で明らかになってゐる。
薩摩が琉球を領有してから七年後の西暦1616年、琉球國は明國に使者を派遣した。明國福建の巡撫(軍政長官)黄承玄はこれについて皇帝に上奏文「琉球の倭情を咨報するを題する疏」(黄承玄の文集「盟鷗堂集」に收める)をたてまつって報告した。その中で黄承玄は、琉球が日本に編入され、日本の役人が統治してゐることを述べる。曰く、
「近年已折入于倭、疆理其畝、使吏治之。」
〔近年すでに倭に折入(せつにふ)し、其の畝を疆理(きゃうり)し、吏をしてこれを治めしむ〕
と。折入とは編入されたことを指す。畝を疆理したとは薩摩藩が琉球で檢地を行なったことを指す。明國側は薩摩藩による檢地まで認識してゐた。
▽重大な新事實
ここまでは瑣事に過ぎないが、越えて西暦1617年、福建に日本の使者明石道友が渡航すると、福建の海道副使(海防兼外交長官)韓仲雍(かんちゅうよう)がこれを訊問した。訊問記録は國立公文書館藏の寫本(しゃほん)「皇明實録」(くゎうみんじつろく、中央朝廷の議事録)の同年八月一日の條に見える。韓仲雍が「日本はなぜ琉球を侵奪したのか」と問ふと、明石道友は供述して曰く、
「薩摩酋・六奧守、恃強擅兵、稍役屬之、然前王手裏事也。……但須轉責之該島耳。」
〔薩摩の酋・陸奧守、強きを恃み兵を擅(ほしいまま)にし、稍やこれを役屬せしむ、然れども前王(家康)の手のうちの事なり。……ただ須らく轉じてこれを該島(薩摩)に責むべきのみ〕
と。薩摩が琉球を併合したのは家康の世で濟んだ話であり、この件は薩摩を追究して欲しい、との意である。家康は前年(西暦1616年)に亡くなってをり、それを理由に言ひわけめいた供述となってゐる。これに對し、韓仲雍は次のやうに諭告した。曰く、
「汝并琉球、及琉球之私役屬於汝、亦皆吾 天朝赦前事。當自向彼國議之。」
〔汝(日本)の琉球を併する、及び琉球のひそかに汝に役屬するは、亦た皆な吾が天朝(明)の赦前の事なり。まさにみづから彼の國(琉球)に向かひてこれを議すべし〕
と。これは昨今の中華人民共和國の主張に對して重大な意義を有する。一字一句を檢討せねばならない。
(本稿で使用する正かなづかひ及び正漢字の趣旨については、「正かなづかひの會」刊行の「かなづかひ」誌上に掲載してゐる。平沼赳夫會長の「國語を考へる國會議員懇談會」と協力する結社である。)
琉球史新議 〜明は併合に公式に同意した?〜 長崎純心大学准教授 石井 望
八重山日報 2013年6月6日23:31:00
原文の「役屬」(えきぞく)とは課税や兵役などを以て服屬したことを指す。役屬の主語は琉球であり、琉球が半ば主動的に日本の領土となったものと韓仲雍は理解してゐる。赦前(しゃぜん)とは皇帝による大赦の前を指す。「明史」によれば西暦1614年、皇太后が崩御した際に萬暦(ばんれき)皇帝は天下を大赦した。日本(薩摩藩)が琉球を併合したのはその五年前なので「赦前」となる。即ち大赦の前に日本が琉球を併合したことを不問に付してゐる。
「亦」(また)とは、過去の家康の事だとの言ひわけを承けて、明國側でも恩赦以前の事だと調子を合はせた語である。中華思想を原則とする明國だが、琉球を屬國(ぞくこく)としてゐたのは形式だけなので、派兵して薩摩を討伐しようにも尖閣航路すら掌握してをらず、已むを得ず迎合したのである。中華思想なるものは虚構であって、歴史の現場に適用できなかったことが多々有る。その好例がこれである。
▽自分で琉球と談判する事だ
「議する」とは前罪を追究するのではない。赦前の罪は議しないのが法であり、議するのはこれ以後の琉球領有についてである。「自(みづか)ら」とは日本を指すとも明國を指すとも見える。明國と解すれば、薩摩が現に統治してゐる優先權に異をとなへず、「薩摩と別に自分で談判する」意となり、これ以後の兩屬關係を暗示してゐる。しかしこの解には以下の不足が有る。
まづ明國としては、これ以後の朝貢について上から命ずることは有っても、琉球と對等に議論する語氣はふさはしくない。
次に「當」(まさに〜すべし)といふ助動詞は、自分がしようといふ場合にも用ゐられるが、韓仲雍が朝貢について自分で決定する權限は無く、中央朝廷が皇帝の名義で決めることである。しかし中央朝廷が「しよう」といふ不確定性の語氣で諭告するのはふさはしからず、「する」と言ひ切るのが通常である。
また薩摩が現に領有してゐるのに咎め立てせず、明國が自分で琉球と談判するといふのも通じにくい。
逆に「自ら」が日本を指すと解すれば、韓仲雍は日本による併合に完全に同意したことになる。しかし中華思想の語氣では「汝自ら琉球と談判せよ」と命ずるのが通例であって、矢張り「當」は語氣が弱い。
私はどちらにも解してみたが、今一つ完全と言ひ切れない。そこで原文に忠實に、「この問題は自分で琉球と談判すべき事だ」と現代語譯すれば通じる。日本でも明國でも既に「前」の事だから、あとはそれぞれ勝手に琉球と談判しようといふ意である。
以上三解のどれを取るにしても、明國が日本による併合に同意してゐたことだけは等しい。それを日本の使者に對して言明し、中央朝廷にも報告したのである。この時は臺灣(たいわん)島や日本との關係についてもまとめて報告したのだが、それに對する皇帝の返事は「確議して速聞せよ」(しっかり議論して速やかに報告せよ)であった。肯定的方向の返事である。少なくとも否定してゐない。
▽併合に同意しても異論出ず
この記録は「皇明實録」及び黄承玄「盟鷗堂集」所收の上奏文に見えるほか、張燮「東西洋考」や陳子龍「皇明經世文編」など、明國の二次史料の中にも見えるもので、朝野に反感を惹起しなかった。なぜなら琉球人の案内によってどうにか渡航して儀式を行なってゐただけなのだから、明國が琉球に援軍を送ることは不可能であった。訊問中で大赦を理由としたのは半ばメンツのために過ぎない。
以上の史事の周邊を論じた先行研究は幾つか有るが、日本の使者に向かって同意を示したことを論じた研究はこれまで無い。また「皇明實録」の通行複製本ではこの部分が省略されてをり、それが國立公文書館の寫本(しゃほん)に載ってゐるのは、今度の新出史料だと言って良いだらう。二次史料と違って朝廷の公式記録である。(終)
石井 望 長崎純心大学准教授。
昭和41年、東京都生まれ。京都大学文学研究科博士課程学修退学。長崎綜合科学大学講師などを経て現職。担任講義は漢文学等。研究対象は元曲・崑曲の音楽。著書『尖閣釣魚列島漢文史料』(長崎純心大学)、論文「大印度小チャイナ説」(霞山会『中国研究論叢』11)、「尖閣釣魚列島雑説四首」(『純心人文研究』19)など。
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◆ 琉球侵攻 公式に容認 明「皇帝が大赦」 日本に帰属、400年前に同意 2013-06-04 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉
琉球侵攻 公式に容認 明「皇帝が大赦」 日本に帰属、400年前に同意
八重山日報 2013年6月4日23:29:00
明朝廷の議事録「皇明実録」(国立公文書館所蔵、赤染康久氏撮影)
江戸時代初期に起きた薩摩藩の琉球国侵攻と併合に対し、当時の明国高官が「皇帝が大赦(赦免)を行った」と述べ、公式に容認していたことが、長崎純心大学の石井望准教授の調査で明らかになった。中国共産党の機関紙、人民日報は5月、「琉球の帰属問題は未解決」という論文を掲載したが、歴史的には400年前、明国が琉球国の日本帰属に同意しており、大勢は決していたことになる。
薩摩藩は1609年、琉球国に侵攻した。石井氏によると、明朝廷の議事録「皇明実録」に薩摩の琉球侵攻と明国の反応について記述があり、日本の国立公文書館所蔵の写本で確認できる。
1617年、日本から福建省に渡航した徳川幕府の使者、明石道友に対し、福建省の海防と外交の担当者だった韓仲雍(かん・ちゅうよう)が、日本はなぜ琉球を侵奪したのかと質問。明石は、薩摩の琉球侵攻は家康の代で済んだことであり、この件は薩摩を追究してほしい、と答えた。
韓仲雍は「汝(なんじ)の琉球を併する、及び琉球のひそかになんじに役属(えきぞく)するは、また皆、わが天朝の赦前(しゃぜん)の事なり」(日本の琉球併合と、琉球が日本に服属したことは、3年前の皇太后崩御時に明の皇帝が大赦を行った前の出来事だ)と発言。8年前の琉球侵攻は、皇帝による「大赦」の対象であるとして不問に付し、公式に容認した。
韓仲雍はさらに「まさにみずから、彼の國(琉球)に向かいてこれを議すべし」と述べている。
「みずから」は明とも日本とも解釈できるが、石井氏は「この問題は済んだことなので、明国も日本もそれぞれ勝手に琉球と談判しようという意味だろう。いずれにしても、明国が日本による琉球併合に同意していたことに変わりはない」と指摘した。
石井氏によると、琉球国の帰属問題をめぐり、明国が公式に日本帰属に同意していたことを論じた研究はこれまでにないという。
石井氏は「明国は琉球人の案内によって使者が琉球に渡航していただけであり、琉球に援軍を送ることは不可能だった。高官が(琉球の領有同意を示す)『大赦』という言葉を使ったのも、なかばメンツのために過ぎない」と分析している。 (琉球侵攻と明国の反応に関する石井氏の寄稿を近日中に掲載します)
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