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参院選2013 憲法を問う (1)戦争放棄 不戦か海外派兵か (2)権利・義務 人権か「公」優先か

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参院選2013 憲法を問う(1)戦争放棄 不戦か海外派兵か
東京新聞2013年7月6日 Sat.
 憲法の将来を決める岐路となる参院選が始まった。改憲勢力が議席を大幅に増やし、発議への布石を打つのか、護憲勢力が改憲の流れを断ち切るのか。日本の平和主義の象徴となっている九条や、国会が改憲を発議する要件を定めた九六条などテーマごとに、各党の主張を比較し、検証する。
  戦争を放棄し、戦力の不保持と交戦権の否認を定めた憲法九条。各党の主張を比べると(1)自衛隊を「軍」と位置付けるか(2)米国などの同盟国が攻撃を受けた場合、反撃できるように変えるのか(3)自衛隊の海外活動を拡大するのか−の三点で対立している。
  自民党は昨年四月に改憲草案を公表した。九条を変えて自衛隊を「国防軍」と明記。米国などが攻撃された場合も反撃できるようにし、国防軍の海外活動も規定。現在は禁じられている多国籍軍への参加を可能にした。
  日本維新の会も選挙公約に「自立した安全保障体制確立のため、憲法を改正する」と明記し、自民党と同じような主張をしている。
  これに対し、共産、社民、みどりの風の三党は九条は変えるべきではないと主張。共産党は「日本を『海外で戦争する国』にする改憲を許さない」、社民党も「憲法改悪と戦争への道を許さない」と公約し、みどりは「九条の平和主義は国際社会における信頼の基盤だ」(谷岡郁子代表)と訴える。
  九条改憲派と護憲派の違いは、目指す国家像の違いによる。
  改憲派は日本も他国並みに「軍」を持って海外に派兵し、戦闘に巻き込まれる危険があっても「国際貢献」すべきだと考える。一方、護憲派は九条堅持によって自衛隊の海外活動に歯止めをかけ、戦後、日本が歩んできた平和主義を守ろうとしている。「不戦」こそが先の大戦で多数の犠牲者を出し、唯一の被爆国である日本の存在感を世界に示せると考える。
  どちらの路線に軸足を置くかはっきりしないのが民主党で、九条改憲の是非も明確な見解を示していない。公約は「平和主義、専守防衛、徴兵制禁止の原則及び、自衛隊に対する国会のチェック機能を明確にするための議論を深める」とするにとどめる。
  公明党は今の九条の条文はそのまま残し、自衛隊の海外活動のあり方は九条に条文を加えて明記することを検討。ただし、活動内容は人道復興支援など非軍事的な協力を想定している。
  生活の党も九条の条文は残し、自衛隊の国連活動への参加の根拠となる条文を加えるべきだと主張するが、国連決議があれば紛争地域への派遣も認める方針で、公明党より改憲派に近い。
  みんなの党は、渡辺喜美代表が公示日の街頭演説で「民主主義を破壊する憲法改正は絶対に認めない」と強調。しかし、同党は公約で九条改憲の賛否は明らかにせず、三月の衆院憲法審査会では「わが党は九条に自衛権を明記すべきだと考えている」と表明している。(岩田仲弘)
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憲法を問う (2)権利・義務 人権か「公」優先か
東京新聞2013年7月8日 Mon.
 憲法の第三章には法の下の平等や表現の自由など、個人の権利を保障する規定が並ぶ。憲法は国家権力を縛るためにあるという立憲主義の根幹をなす章として「人権カタログ」とも呼ばれる。
  特に、一三条の幸福追求権は人権規定のよりどころで、憲法で最も大切な条文といわれる。ただ、個人の権利にも「公共の福祉に反しない限り」という条件が付く。他人に迷惑をかけたり、多くの人に共通する利益を妨げる場合は一定の制約を受けることがある。
  自民党は改憲草案で「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」という言葉に置き換えた。草案の解説集は「基本的人権の制約は、人権同士がぶつかるときに限らないことを明確にした」と説明し、「公共の福祉」とは違うことを認めている。「公益」「公の秩序」は国家、政府が決めた政策やルールとも解釈でき、政府の方針が人権に優先することもあり得る。
  背景には、現行憲法が「人権を尊重するあまり、究極の個人主義、利己主義が広がった」(保岡興治元法相)という考え方がある。改憲草案では義務規定も増やし「日の丸・君が代尊重義務」「家族の助け合い義務」を明記した。
  日本維新の会も同じような考え方で、衆院憲法審査会で「個人の権利行使は国家や社会の利益との調整も必要だ」と表明している。
  これに対し、民主、共産、社民、みどりの風の四党は「国家による恣意(しい)的な権利制限の意図が読み取れる」と反対。民主党は公約で「基本的人権は『公の秩序』に劣るものではない」と指摘し、社民党の福島瑞穂党首は「表現の自由を公の秩序で制限すれば、権利がなくなってしまう」と批判する。
  共産党は、東日本大震災の被災者や非正規労働者の生活の現状を挙げ「今の政治には、先駆的な人権条項を盛り込んだ現行憲法の精神がまったく生かされていない。憲法の理想に現実を近づけるべきだ」と主張する。
  公明党は権利と義務の見直しには触れない代わりに「新しい人権」を憲法に加えることに積極的だ。良好な環境を享受する環境権などの新設を求めている。自民党と維新は改憲の突破口にする狙いもあって新しい人権に賛成。民主党も前向きで、みんなの党は必要性は認めている。
  共産、社民両党は環境問題などには熱心だが、憲法に加えると「アリの穴から堤が崩れる」ことになりかねないと、護憲の立場から反対。みどりの風も「人権のインフレ化(憲法に多くの人権を書き込むと、結果として他人の人権を制限してしまうこと)が起こる懸念がある」と否定的だ。 (岩崎健太朗)
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問題は9条だけじゃない 後藤昌弘(弁護士) 2013-06-09 | 後藤昌弘弁護士 
  中日新聞を読んで 問題は9条だけじゃない 後藤昌弘(弁護士)
  2013/06/26 Sun.
 憲法第96条の改正に関する特集が掲載された。今回の改正の動きは、憲法のどの部分を変えるのかを示さないままで改正のハードルだけを下げようとするものであり、アンフェアな印象を受けるのは私だけではあるまい。
 昨年4月発表の自民党憲法改正草案を見たが、第9条以外にも気になる点は多い。その1例が第24条である。「家族は、互いに助け合わなければならない」との条文が加えられている。当たり前すぎて、憲法で定める必要もないことである。指摘できるのは、憲法は国の基本方針を定めるものであり、法律は憲法の理念に沿って制定されるという点である。現行の生活保護制度は憲法第25条に基づいて制度設計されているが、右の条文が加えられれば「家族がいるのならまず家族が助けるべきだ、生活保護はそれを補うものでしかない」との方針転換が可能となる。最近生活保護の対象を制限しようとする動きがあるが、この新設第24条は、生活保護を限定化する方向に変えたい、との思惑が透けて見える。
 もう1つが、地方自治に関する第93条第3項である。「国及び自治体は、法律の定める役割分担を踏まえ、協力しなければならない」とある。現在、地方交付税交付金と許認可権限を持つ国からの協力要請を断れる自治体などほとんどない。では、何故この条文が必要なのか。これは原発・核廃棄物処理場・米軍基地を考えれば分かる。エネルギー政策・外交関係は国の所管であるから、地方自治体は協力する義務がある。地方自治体が反対しても国は強行できる、との方向に進める目的以外には考えられない。
 こうした改正案を見ると、憲法改正の目的が、個人や地方自治体を尊重する今の憲法の理念から、国の施策・国の財政状況しやすさを優先させる方向に転換することにあることが見えてくる。国を動かす官僚や政治家が喜ぶ憲法改正が、国民に幸せをもたらすとは到底思えない。
...........
〈来栖の独白 2013/6/9 Sun. 〉
 いつも共感を覚えながら読む後藤弁護士のコラム。1点のみ、呟いてみたい。
>「家族は、互いに助け合わなければならない」
>当たり前すぎて、憲法で定める必要もないことである。
 当たり前すぎることだが、しかしそれができていない。できなくなって久しいのが現実である。子を虐待する親は後を絶たないし、親が死んでも親の年金欲しさに死亡届を出さない子がいる。その現実に目をやるなら「当たり前すぎて」とは的外れであり、生活保護の限定化狙いと片づけるわけにはいかぬ。親子がまず互いを看ないで誰が看るか。
 例えば苦難の末に民主主義を勝ち取ったフランスの市民国民とは違って、我が国の民主主義はアメリカから宛がわれたものであり、真の民主主義が根付いておらず、偏狭な個人主義ばかりが徒長した。他者、隣人はおろか家族すら互いに助け合おうとしない、そんな戦後日本であったのではないか。自己の権利の主張ばかりが目立つ。 
*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 
石原慎太郎著『新・堕落論』 新潮選書2011/7/20発行
 (抜粋)
p39〜
 坂口安吾がかつて、当時の世相の変化を踏まえて書いた「堕落論」には、「世相が変わったので人間が変わったのではない」とあったが、今の日本の変化にそれが当てはまるものではとてもない。敗戦から65年の歳月を経て、この国では人間そのものの変質が露呈してきています。これは恐らく他の先進国にも途上国にも見られぬ現象に違いない。
 それを表象するある出来事に、少なくとも私は固唾を呑まされました。
 東京における男の最高齢者といわれていた老人が、実は30年前に死亡しており、家族はそれを隠し続けていたがそれが露顕し、遺体はすでに白骨化していました。その間家族は死んでいる老父の年金と、数年前に死亡した、かつて教師をしていた老母の遺族年金も受領し続けてい、年金を支給していた団体は遺族を不正として告訴し逮捕されました。そしてこれを皮切りに高齢者の不在、行方不明があちこちで数多く露呈してきています。
 亡くなった実の親の弔いもせずにそれをひた隠し、限りある家の中に禁断の部屋をもうけ、死んでなお扉一枚隔てただけの一角に放置された死せる親、30年という驚異の長き間白骨と化しながら一体何を待ち続けていたのだろうか。これがきっかけで高齢者に対する調べが始まったら、他のある他のある家族は何を憚ってか、これは我々のプライバシーの問題だと訪れた調査員との面談を拒否してもいる。
p41〜
 国民が追い求め、政治もそれに迎合してかなえ、助長している価値、目的とはしょせん国民それぞれの我欲でしかない。その我欲は分析すれば、金銭欲、物欲、性欲です。この追求にこれほど熱心な国民は世界にいないでしょう。
p42〜
 しかし我欲がのさばってくると、これは始末におえません。死んだ親の弔いもせずに遺体を放置したまま、その年金を詐取する家族に始まって、高値のブランド製品に憧れてそれ欲しさに売春までする若い女の子。新しい同棲相手の男に媚びて、先夫との間に出来た子供をいびり殺してはばからない若い母親。消費税を含めていかなる増税にも反対してごねる国民。
 消費税のアップなしに、この国のここまできてしまった財政がもつ訳はない。
p44〜
 しかしそれにしても、親族にとって30年前に死亡していた老父なる人物の存在は実はどんな意味合いをもっていたのだろうか。
p45〜
 同じ家に住み続けてきながら肉親の死者への弔いについてわずかも思わず、それを隠匿する家族の心象というものが私には全くわからない。
 一族から出た死者への弔いなるものは家族の連帯を確かめる最後の手立てだろうに、それを行わず遺体を隠匿して金をせしめるといういじましい行為の根底にあるものは一体何なのだろうか。
 いつかテレビの番組で見たが、アフリカに棲む動物の中でも知能の高い象たちは群れの中から死者が出ると群れのすべての象たちが、子供に至るまで一頭一頭死者に歩み寄って鋭敏な長い鼻で相手に触れ、その死を自ら確かめ別れを告げていました。
p46〜
 弔いは知性ある生きものの、生死を分かった同僚への己の存在を踏まえた実は自らのための儀式でもあるのに、人間ながらそれを省いてまでして彼等が保持しようとするものが僅かな金というなら、動物以下の下劣な存在というよりない。
 あてがわれた平和の毒
 つまりこれは坂口安吾がいった、ただの世相の表示ではなしに、人間そのものが堕落し変質した証しでしかない。
 こうした未曽有の現象が証すものは日本人という民族の本質的な堕落としかいいようありません。要するに戦勝国アメリカの統治下、あてがい扶持の憲法に表象されたいたずらな権利の主張と国防を含めた責任の放棄という悪しき傾向が、教育の歪みに加速され国民の自我を野放図に育てて弱劣化し、その自我が肉親といえども人間相互の関わりを損ない孤絶化した結果に他なるまい。
p47〜
 しかし我々が敗戦から65年という長きにわたって享受してきた平和は、他国が願い追求努力して獲得してきた平和とはあくまで異質なものでしかありません。それは敗戦の後、この国の歴史にとって未曽有の他者として到来したアメリカという為政者が、あのニューヨークタイムズの漫画に描かれていたように、彼等にとっては異形異端な有色人種の造形した日本という、危険な軍事力を備えた怪物の解体作業の代償としてあてがったいびつな平和でしかありません。
 ドイツは敗戦後連合軍の統治下、国是として2つのことを決めました。1つは新生再建のための国家規範となる憲法はドイツ人自身が決める。2つは戦後のどいつにおける教育はドイツ人自身が決めて行う、と。我々に人がやったことはドイツと正反対のものでしかなかった。
 我々は、他人が彼等の目的遂行のために造成しあてがった国家の新しい規範としての憲法と引き換えに、自らの手で造成に努めることなしに、いや、努めることを禁じられた囲われ者へのお手当としての平和を拝受してきたのでしかありません。
p48〜
 平和は自ら払うさまざまな代償によって初めて獲得されるもので、何もかもあなたまかせという姿勢は真の平和の獲得には繋がり得ない。
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『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』日高義樹著《ハドソン研究所首席研究員》 2012年07月25日1刷発行 PHP研究所
p1〜
  まえがき
 日本の人々が、半世紀以上にわたって広島と長崎で毎年、「二度と原爆の過ちは犯しません」と、祈りを捧げている間に世界では、核兵器を持つ国が増えつづけている。アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国に加えて、イスラエル、パキスタン、インドの3ヵ国がすでに核兵器を持ち、北朝鮮とイランが核兵器保有国家の仲間入りをしようとしている。
 日本周辺の国々では核兵器だけでなく、原子力発電所も大幅に増設されようとしている。中国は原子力発電所を100近く建設する計画をすでに作り上げた。韓国、台湾、ベトナムも原子力発電所を増設しようとしているが、「核兵器をつくることも考えている」とアメリカの専門家は見ている。
 このように核をめぐる世界情勢が大きく変わっているなかで日本だけは、平和憲法を維持し核兵器を持たないと決め、民主党政権は原子力発電もやめようとしている。
 核兵器を含めて武力を持たず平和主義を標榜する日本の姿勢は、第2次大戦後、アメリカの強大な力のもとでアジアが安定していた時代には、世界の国々から認められてきた。だがアメリカがこれまでの絶対的な力を失い、中国をはじめ各国が核兵器を保有し、独自の軍事力をもちはじめるや、日本だけが大きな流れのなかに取り残された孤島になっている。
 ハドソン研究所で日本の平和憲法9条が話題になったときに、ワシントン代表だったトーマス・デュースターバーグ博士が「日本の平和憲法はどういう規定になっているか」と私に尋ねた。
「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」
 私がこう憲法9条を読み上げると、全員が顔を見合わせて黙ってしまった。一息おいてデュースターバーグ博士が、こういった。
「おやおや、それでは日本は国家ではないということだ」
 これは非公式な場の会話だが、客観的に見ればこれこそ日本が、戦後の半世紀以上にわたって自らとってきた立場なのである。
 このところ日本に帰ると、若い人々が口々に「理由のはっきりしない閉塞感に苛立っている」と私に言う。私には彼らの苛立ちが、日本が他の国々とあまりに違っているので、日本が果たして国家なのか確信が持てないことから来ているように思われる。世界的な経済学者が集まる会議でも、日本が取り上げられることはめったにない。日本は世界の国々から無視されることが多くなっている。
 日本はなぜこのような国になってしまったのか。なぜ世界から孤立しているのか。このような状況から抜け出すためには、どうするべきか。 *強調(太字・着色)は来栖
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 自衛権の解釈要す憲法は異常だ
産経ニュース2012.11.5 03:17 [正論]防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛
 外国が日本を侵略したら自衛隊が出動してわが国と国民を守る。国民の圧倒的多数がそれを当然視している。自衛隊のこの行動を何と呼ぶかとの質問には、その名のごとく自衛の行動だと答えるだろう。その行動は正当かと重ねて問われれば、正当と答えるはずだ。
■9条の読み方の違い
 ところが、では憲法の9条との関係でそれは正当な行動と呼べるかとなると、驚くほど多くの国民がしどろもどろだろう。無理もない。何せ憲法制定国会問答で吉田茂首相が「戦争の放棄」を謳(うた)うこの憲法の下、「自衛権の発動としての戦争」も放棄したかのごとき答弁を残したほどなのだから。
 だから、自衛隊の前々身の警察予備隊が発足した昭和25年以降、万年野党ながら国会第二党だった日本社会党が「非武装中立」論の下、「自衛隊違憲」を唱えたのも、あながち奇異とは言えなかった。多くの知識人、とくに憲法学者の多数派が社会党のこの主張に共鳴した。9条については、立場次第でいく通りもの読み方があったし、現になおその名残がある。
 ただ、こと政府に関する限り、9条の読み方は一本化された。警察予備隊、保安隊を経て吉田政権最末期に自衛隊が発足した後、昭和29年暮れに誕生した鳩山一郎政権は自衛隊の根拠となる「自衛権の存在」を憲法解釈として明言した。いわく「第一に、憲法は、自衛権を否定していない。第二に、憲法は戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない(=自衛隊はこの抗争用の手段)」。
 40年後の平成6年にはからずも首相の座に押し上げられた村山富市社会党委員長は一夜にして「自衛隊違憲」から「自衛隊合憲」に乗り換えてしまった。つまり、政府首長として右の政府統一見解に改宗、積年の、だが賞味期限のとっくに切れた社会党流の解釈を見限ったのだ。誰が見ても、それはそれで結構なことだった。
 が、これらの歴史的情景は、立憲国家にとって健常と言えるか。否、だろう。有事に国と国民を守るという国家至高の責務の可否が憲法条文で一義的に明瞭とは言えない状態は、健常であるはずがない。無論、この異常さの淵源は現行憲法が敗戦の翌年、占領下で制定された点にある。それが百%の押し付け憲法ではなかったとしても、日本は戦勝国による非軍事化政策を受容するほかなかったし、結果、自衛権の存否につき立場次第で百八十度方向の違う解釈さえ許す憲法が誕生したのである。
■国家の一丁目一番地の問題
 爾来(じらい)、こと自衛権の存否に関する限り日本は「憲法解釈」なしでは立ち行かない国である。念のため言うが、「憲法解釈」の必要がない国などない。が、ことは程度問題だ。国家の自衛といういわば国家に取り一丁目一番地の問題までもが、半世紀を超えて「解釈」に依存し続ける国は日本以外にはない。今後もそれでいいのか。
 今日、納税者たる国民は有事に国家が自衛隊をもって自分たちを守る、すなわち、自衛権を行使するのを自明視している。だが、それは9条を読んで納得したからでもなければ、いわんや先述の政府統一見解に共鳴してのことでもない。そんなこととは無関係に、納税者としていわば本能的欲求がそういう反対給付を国家に求めているまでのことだ。乱暴に言うと、自衛権について何を言っているのかが曖昧な9条なぞどうでもいいというのが実情だろう。
■保有わざわざ謳うのは傷痕
 考えてもみよ。有権者のいったい何%が「自衛権の存在」に関する政府統一見解の存在を知っているだろう。百人に一人? つまりウン十万人? 冗談じゃない。そんなにいるものか。では、国会議員の何割が、いや政府閣僚のいく人が憲法9条のいわば「正しい」読み方、つまりは「自衛権の存在」に関する政府統一見解を、合格点が取れる程度に理解しているか。言わぬが花だろう。
 憲法は第一義的には国民のためにある。憲法学者や、いわんや政府の法解釈機関(内閣法制局)のために、ではない。ところが、国の存亡に関わる第9条、わけても自衛権存否の問題は、憲法学者や内閣法制局の水先案内なしでは国民は理解ができない。この状態は明らかに望ましくない。自衛権の存在は、少なくとも平均的な文章読解力を持つ国民が、その条項を読んですんなり理解できるよう記述されなければならない。
 近時、政権党たる民主党は別だが、大小の政党や多くの団体が競うように憲法改正案を発表した。そのほとんどがわが国は「自衛権を保有する」旨を謳っている。が、国連憲章により自衛権は国家「固有の権利」なのだから、その必要は本来ない。ただ、日本には、この問題を憲法自体でなく憲法解釈によって切り抜けてきたという、積年の悲しい業がある。
 各種の憲法改正案がわざわざ自衛権保有を謳うのは、この業のゆえであり、いわば一種の傷痕である。だが、傷痕をことさら目立たせるのはよくない。傷痕を小さく、国際常識に立つ姿勢を明示することこそが望ましい。(させ まさもり)
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