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三島由紀夫「憲法改正草案」 43年の封印解き全文公開の理由

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三島由紀夫「憲法改正草案」 43年の封印解き全文公開の理由
NEWS ポストセブン 8月5日(月)7時5分配信
 作家・三島由紀夫は1970年11月25日、自衛隊の市ヶ谷駐屯地で自決する直前、このような檄文を発した。
 「今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はいないのか。もしいれば、今からでも共に起ち、共に死のう」
  あれから43年、憲法改正の機運が高まるいまなお、あのときの三島の切実な問いに応える論議はない。しかし、三島の覚悟をいまに伝える唯一の“遺産”が、初めて全文公開される。三島の憲法改正草案である。
 〈天皇は国体である〉
 〈日本国民は祖国防衛の崇高な権利を有する〉
  この条文は、三島由紀夫が「楯の会」の憲法研究会に作成を指示し、自らも議論に加わってできあがった憲法改正草案の一部である。楯の会とは、左翼勢力に対抗するため、三島の主導で学生を中心に約100人で結成された民兵組織だった。三島はそのうち13人を憲法研究会のメンバーとして、1970年安保に向けて学生運動が激化した1969年12月以降、毎週3時間、計34回にもわたる討議を繰り返した。
  だが、それだけ三島が情熱を注いだはずの改正草案は、日の目を見ることはなかった。三島が割腹自殺したからだ。
  三島の死後の1971年2月、残された会員らによって「維新法案序」と題された草案がまとめられたが、一部公開されることはあったものの、原文は封印されたままだった。ところが今回、当時の楯の会主要メンバーであり、憲法研究会に所属していた本多清氏が、その全文公開に踏み切った。しかもそこには、三島が草案作成に先だって記した直筆の「問題提起」が添えられていた。
  なぜ本多氏は、43年にもわたる封印を解いたのか。
 「三島先生が自決した日は、研究会で討議する予定になっていた日でしたが、事前に中止になった。私には全く予兆がなかったが、三島先生は前もって準備していたのです。先生は、勢いだけで自決したのではないことを示すために、死後この草案を世に問うつもりだったのではないでしょうか。
  しかし、当時の私たちは未熟であったし、憲法論議そのものがタブーとされる風潮があった。あれから40年以上経ち、憲法改正の機運が高まったいま、その是非はともかくとして、憲法論議の端緒になることを期待して、草案を公開することにしたのです」
※週刊ポスト2013年8月16・23日号
 *上記事の著作権は[Yahooニュース]に帰属します
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石原慎太郎著『新・堕落論』 新潮選書 2011/7/20発行 2012-07-25 | 読書 
 (僅か抜粋)
p122〜
  三島由紀夫の予言
  私はこの今になって、亡き三島由紀夫氏と交わした幾つかの会話を改めて思い出さずにはいられません。
  40年前奇矯な自殺劇でこの世を去った三島氏ではあったが、彼がその晩年口にしていた予言が今不気味な余韻で蘇るのを感じぬ訳にいきません。
p123〜
  曰くに、「愚かな野党党首を暗殺して自らも自裁した山口二矢(おとや)は神だ」、「健全なテロルの無い社会に、健全な民主主義など育ち得ない」、「恐ろしいものが無くなった社会ほど、恐ろしいものはない」と。(略)
 その後三島氏が、私は20分間1人で一方的にしゃべるから余計な口は挟まないでくれ、私のいった通りのことをそのまま総理に告げてほしいと前置きし、誰とどこで相談してきたのか、政府が自衛隊を使っての反クーデターの案を滔々とのべたものでした。
p124〜
  曰くに、どこそこに何師団を配置し、どこそこに戦車何台、言論機関はすべて報道停止、国会も停止し百人の有識者による国事の決定等々。
  私たちは唖然としてきいていたが、語り終えると三島氏ははったと保利氏を睨みつけ、保利氏は大きく頷きはしたが、
  「いや、おっしゃる通りですなあ。しかしまあ、なかなかそうはいきませんでしてねえ」
  と慨嘆してみせ、三島氏もそれ以上期待してきた風もなくそのまま立ち上がって部屋を出ていきました。(略)
 三島氏の自裁の前私は何度か彼の政治(?)行動について激論を交わしたことがありますが、その中で彼は、それでは核の問題は君に任せる。我々「楯の会」は憲法改正を受け持つと明言した。
p125〜
  二人ともその問題について何をなすこともなく今日にいたってしまいましたが、この国が彼の予言の通りかくまで自己を喪失し堕落しきった今、誰のためでもなく自分自身と自らの子弟のためにこそ、1人1人が現況からの回復再生を願って考えるべきものについて考えなおさなくてはなりますまい。
  屈辱を屈辱として捉えられぬ者は自我を欠いた奴隷でしかありません。
  しかしなお、あの頃の三島氏のまさに奇矯としかいいようなかった「楯の会」なる私兵を駆っての政治行動を滑稽として嘲笑いながらも心配していた同世代の芸術家たちはいましたが、彼等の中で、後々到来した今日この国この民族の堕落の惨状を予見した者がいただろうか。
  だがなお、今この国には命がけでことを誅する壮士はどこにもいはしないし、政権を賭してことを行う政治家も政府もありはしない。ならば我々国民の1人1人がまず人間として我々の今おかれて在る状況を本気で見直し、その克服のための手立てを民族の声として立ち上げる以外にありはしません。
p143〜
  同じ敗戦国のドイツは、戦後の復興の過程で、新しい憲法と新しい教育の指針は絶対に勝者たる外国にはまかせず、自分自身で決めるといい張り通しました。当たり前のことだが、その当たり前のことをこの日本は出来ずに全て占領軍の言いなりになってしまった、その結果が今の体たらくだ。
p189〜
  戦後書かれた最も美しい青春小説の1つである福永武彦の「草の花」はその題名のごとくなんとも可憐で哀切な、性愛を伴わぬ純愛小説でした。この作品は戦後まだ数少なかった文学賞の中の新潮文学賞を三島由紀夫の「潮騒」と争って敗れましたが、私と親しかった三島は、この作品の存在をしきりに気にしていろいろいっていました。要するに、「なんだ、あんな肺病病みの小説」ということだった。
  しかし「草の花」は戦争に巻き込まれそれぞれ口惜しく挫折夭折していった戦中世代への、作者の実体験を踏まえてのオマージュといえたでしょう。
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