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爾来68年、民主主義日本は世界に類例のない不思議な道を歩んだ 「8・15」に思う 佐瀬昌盛

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【正論】「8・15」に思う 防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛
産経新聞2013.8.8 03:21
 ■日本になかった「憲法実用主義」
 敗戦時、奈良女子高等師範学校付属国民学校の5年生だった。国民学校とは今で言う小学校。戦時色濃厚となった時代にそう改称された。われら「小国民」は例外なく軍国少年少女で、私なぞ、その名も勇ましい「征空鍛錬班」の一員だった。奈良は幸運にも空襲を免れた。それでも随所に戦争があった。集団疎開の学童が教師引率の下、すきっ腹を抱えながら軍歌を歌って登校していた。「産めや殖やせや、子は宝」の時代ゆえ、受け入れる地元校がもともと満員だ。そこへ集団疎開組が加わる。教室や時間割の算段は大変だった。だから後年、気付いた。あの戦争に勝てるわけはなかったと。
 ≪GHQの非軍事化に沿って≫
 戦時下、日曜日には町内の竹槍(たけやり)訓練があった。撃墜米機から落下傘脱出するヤンキー兵を地上で刺す、という。週日には隣組の消火訓練もあった。念のために言うが、失火対策ではない。米機による焼夷(しょうい)弾攻撃への備えだ。父は中支戦線にいて不在。長男たる私と母が手製の防空頭巾と消火モップを持って出てみると、どの家も同じように母と子の参加だった。居合わす男はおじいさんばかり。
 敗戦でそれががらりと変わった。戦時中の戦意高揚歌の一節に「いざこい、ニミッツ、マッカーサー」というのがあったが、実際にマッカーサー将軍が厚木に降り立つと、学校で民主主義教育が始まった。けれども「国民学校訓導」、つまりは先生たちがしどろもどろで、その初手は不都合な戦中教科書に墨を塗ることだった。
 爾来(じらい)68年、民主主義日本は世界に類例のない不思議な道を歩んだ。最適例はやはり憲法問題だろう。何しろ日本国憲法は占領下に、体罰たる日本非軍事化(ディミリタリゼーション)方針に沿って生まれた。制定時の1946年11月には連合国軍総司令部(GHQ)にもまだ東西冷戦への予感がなく、そのGHQ主導で「戦争の放棄」と戦力・交戦権の否認を謳(うた)う第9条が誕生。12歳の私にはそれが眩(まぶ)しかった。
 ≪「リアリズムの塊」西独憲法≫
 同じ敗戦国でもドイツは憲法どころではなかった。占領管理方式をめぐる戦勝4国の対立で全国土が冷戦と分断の舞台と化し、西独限りの憲法制定も49年5月と遅れた。が、何が幸いするかは別だ。冷戦下だったため、西独憲法には日本国憲法の前文や9条の夢想性がなく、リアリズムの塊だ。将来の再軍備向けの布石でさえ西独自身が打っていた。6年後には憲法改正を経て再軍備を開始。それから58年、今日の統一ドイツ憲法には手術の痕跡が50以上。世界記録だ。必要に憲法を合わせるこの憲法実用主義(プラグマティズム)が日本にはない。
 日本国憲法前文と9条の裏にあるGHQの日本非軍事化政策は、一時的体罰と考えられていた。50年6月に朝鮮半島で冷戦ならぬ「熱戦」が始まると、米国は日本に再軍備を求め、体罰を解こうとした。が、吉田茂首相が経済の弱体を理由にこれを謝絶、妥協の産物として警察予備隊が誕生した。自衛隊の前々身だ。間には保安隊時代がある。つまり、非軍事化という一時的体罰を正式解除せず灰色の便法が採られたのだった。
 戦後68年、法令上、日本は再軍備していない。いまなお自衛隊は警察と軍隊の間の灰色的存在だ。警察力は国内治安維持、犯罪取り締まり、交通警察などにみるように、対内的、国内的に働く。国防は警察の任務でない。自衛隊の最重要任務は国防で、その作用は外向きだ。国防に当たるのは本来は「軍」で、ゆえに「自衛隊」(セルフ・ディフェンス・フォース)も英語では、つまり外向きには「軍(フォース)」を名乗る。が、警察予備隊なる出自ゆえに法令上は警察系統だ。
 ≪「灰色自衛隊」脱するときだ≫
 近年の安保環境の変化に対応して、実体的に自衛隊は「軍」すれすれの灰色となった。必要の結果だ。ただ、「陸海空軍その他の戦力」の保持を禁じる現行憲法下では、「軍」を名乗れない。名は体を表さず、なのである。
 諸国の「軍」は交戦規定(ルールズ・オブ・エンゲージメント)を持つ。9条2項は概念不明確ながら交戦権を認めないので、自衛隊は「交戦規定」を持てず、代わりに「部隊行動基準」なるものを持つ。苦しい言い換えだが、自衛隊が「軍」と紙一重となるにつれ、この「基準」も世に言う交戦規定にうんと近づいた。が、現行憲法の呪縛は残る。これが現段階。国としての必要を満たすには、あとは憲法を変えるしかない。
 敗戦時に10歳だった少年は運命のいたずらで20世紀最後の26年間、防衛大学校に勤務した。当初、教え子たちは私と同世代の、憲法解釈を異にする作家の「防大生は現代の恥辱」なる発言や、心ない世人の「税金泥棒」の罵声に耐えなければならなかった。だが、1年半前の内閣府世論調査では自衛隊に「良い印象」を持つ声が91・7%を記録した。これほどの評価を享受する国防組織を私は他に知らない。今後必要なのは、立派な合格点に達した自衛隊のため、憲法上正当かつ明確な位置付けを国と国民が用意することだ。(させ まさもり) 
 *上記事の著作権は[産経新聞]に帰属します  *リンクは来栖
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内と外の「二枚舌」要らぬ憲法を 佐瀬昌盛 2013-05-31 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉 
 【正論】防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛 内と外の「二枚舌」要らぬ憲法を
 産経新聞2013.5.31 03:07
 自分の知力、気力、体力が最も盛んだった時期を、私は防衛大学校で過ごした。当初、防大生は街で「税金泥棒」とか「憲法違反」とかの罵声に耐えねばならなかった。猪木正道学校長時代、これらの罵声が不当であることを防大生に納得させるため、新入学生に憲法学習の時間が設けられた。私はそれを担当しなかったが、自分の考えを纏(まと)める必要があった。言うまでもなく、最大の問題点は現行憲法の第9条であった。
 ≪護憲派は「憲法文言墨守派」≫
 「いわゆる護憲派」全盛の時代だったので、対外的発言には細心の注意を要した。開口一番、「私は護憲論者です」と名乗る。聴衆は怪訝(けげん)そうな表情。次に「護憲論者だから改憲が必要と考えます」と私。聴衆は???だ。そこで私。「第96条には憲法改正に関する規定があります。改憲は禁じられていません。だから、護憲と改憲は矛盾しません」。そして「いわゆる護憲派」は実は「憲法文言墨守派」に過ぎない、と結ぶ。
 昨今はさすがに「憲法一字一句墨守派」は減った。昔日の「墨守論者」たちは9年前に「九条の会」へと戦線縮小した。それに参画した憲法学者、奥平康弘東大教授は「この会のターゲットは9条一本に絞って、改定に対する反対の声をあげていこうというものです」と語った。一点墨守論だ。
 産経新聞の「国民の憲法」要綱づくりで現行の9条関係を担当できたことは私にとり誠に光栄であった。日本は現実の必要から自衛隊という軍事組織をつくったが、これには2つの大きな難点があったし、現になおある。第1は入り組んだ憲法解釈なしではその合憲性が説明できないこと、第2は自衛隊を説明するのに国内向けと対外的とで二枚舌を必要とすることだ。私は「国民の憲法」ではこの2つの難点を消したいと努めた。
 ≪一丁目一番地で手品的解釈≫
 現行の9条を含む第2章は「戦争の放棄」と題されている。9条1項、2項のどこにも「国防」の文字はない。が、現実には憲法発布から数年で「国防」の必要が生まれた。ためにその数年後には国防を担う自衛隊が発足。その合憲性は憲法の明文規定ではなく憲法解釈に依拠した。9条は国防に関する憲法解釈の一丁目一番地。道はそこから東西南北に走る。「戦力の不保持」へと向かったはずの道が、気がつくと大きくカーブ、「戦力ではない自衛隊」に行き着いた。憲法解釈という手品だ。
 当初、国民は自衛隊は違憲くさいと思いつつも現実の必要性をより重視した。やがて国民の8割が自衛隊を肯定、手品じみた憲法解釈に無関心となった。しかし、この現実は憲法重視の見地からは不健全が過ぎる。だから「国民の憲法」は「国防」の必要を第3章の章名で謳(うた)うことにした次第だ。
 自衛隊は国民の間では定着している。だが、国際社会ではどうか。自衛隊は国際的には「SDF(セルフ・ディフェンス・フォース)」を名乗る。他国を見れば分かるように、「F(フォース)」は「軍」であって「隊」ではない。日本国内では自衛隊は「隊」だが、「軍」であってはならない。9条2項が「陸海空軍その他の戦力」の保持を禁じているからだ。つまり、日本では国の内と外とで二枚舌に終始してきた。それでも、自衛隊の活動が国内に限定されている間はまだよかった。国連平和維持活動(PKO)が任務に加わる時代となると、新しい問題が生じた。
 派遣先で同じ任務に従事する他国の部隊が必要に応じて国連基準で許される武器使用も、「軍」でない自衛隊はその一部を国内法で縛られて「使用不可」だ。他国部隊への後方支援も、他国の「武力の行使と一体化」すると、憲法違反と解釈され、許されない。派遣された自衛隊が現場で苦しむという不条理。これも自衛隊が「軍(フォース)」でないことに起因する。
 ≪自衛隊は「軍」との明文規定≫
 では改憲で自衛隊を「自衛軍」に改めると、問題は片付くか。否。なぜなら「自衛軍」もSDFであり、対外的には同じ看板が続くからである。外国にすれば、「看板が同じなのに行動原理が変わるのはどうして?」となる。日本不可解論の増幅もあり得よう。
 結局、自衛隊もSDFも清算するほかない。では「国防」に必要な「軍(フォース)」は何と呼ばれるべきか。「国民の憲法」では「軍を保持する」と謳った。これは機能の記述であり、組織呼称ではない。呼称は将来の法律に委ねられる。「第3章 国防」、「第16条 軍の保持」に照らして「国防軍(NDF)(ナショナル・ディフェンス・フォース)」と呼ぶのが妥当だろう。
 「自衛権」は謳わないのか。要綱には「確立された国際法規に従って」とある。国連憲章第51条で「個別的、集団的自衛権」は国家固有の権利だ。ゆえに憲法でそれを明文否定しない限り、保有は自明だ。自明を書くには及ばない。
 義務教育を終え、選挙権年齢に達した国民が読んで合格点を取れる程度に理解できる憲法。国防という重要事項につき手品まがいの憲法解釈を必要としない憲法。それが防大の教壇に立って以来の私の念願だったから、要綱策定は苦しかったが、楽しかった。(させ まさもり)
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◇ 自衛権の解釈要す憲法/国権の発動 永久に放棄〜「おやおや、それでは日本は国家ではないということだ」 2012-11-05 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉 
 自衛権の解釈要す憲法は異常だ
 産経ニュース2012.11.5 03:17 [正論]防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛
 外国が日本を侵略したら自衛隊が出動してわが国と国民を守る。国民の圧倒的多数がそれを当然視している。自衛隊のこの行動を何と呼ぶかとの質問には、その名のごとく自衛の行動だと答えるだろう。その行動は正当かと重ねて問われれば、正当と答えるはずだ。
■9条の読み方の違い
 ところが、では憲法の9条との関係でそれは正当な行動と呼べるかとなると、驚くほど多くの国民がしどろもどろだろう。無理もない。何せ憲法制定国会問答で吉田茂首相が「戦争の放棄」を謳(うた)うこの憲法の下、「自衛権の発動としての戦争」も放棄したかのごとき答弁を残したほどなのだから。
 だから、自衛隊の前々身の警察予備隊が発足した昭和25年以降、万年野党ながら国会第二党だった日本社会党が「非武装中立」論の下、「自衛隊違憲」を唱えたのも、あながち奇異とは言えなかった。多くの知識人、とくに憲法学者の多数派が社会党のこの主張に共鳴した。9条については、立場次第でいく通りもの読み方があったし、現になおその名残がある。
 ただ、こと政府に関する限り、9条の読み方は一本化された。警察予備隊、保安隊を経て吉田政権最末期に自衛隊が発足した後、昭和29年暮れに誕生した鳩山一郎政権は自衛隊の根拠となる「自衛権の存在」を憲法解釈として明言した。いわく「第一に、憲法は、自衛権を否定していない。第二に、憲法は戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない(=自衛隊はこの抗争用の手段)」。
 40年後の平成6年にはからずも首相の座に押し上げられた村山富市社会党委員長は一夜にして「自衛隊違憲」から「自衛隊合憲」に乗り換えてしまった。つまり、政府首長として右の政府統一見解に改宗、積年の、だが賞味期限のとっくに切れた社会党流の解釈を見限ったのだ。誰が見ても、それはそれで結構なことだった。
 が、これらの歴史的情景は、立憲国家にとって健常と言えるか。否、だろう。有事に国と国民を守るという国家至高の責務の可否が憲法条文で一義的に明瞭とは言えない状態は、健常であるはずがない。無論、この異常さの淵源は現行憲法が敗戦の翌年、占領下で制定された点にある。それが百%の押し付け憲法ではなかったとしても、日本は戦勝国による非軍事化政策を受容するほかなかったし、結果、自衛権の存否につき立場次第で百八十度方向の違う解釈さえ許す憲法が誕生したのである。
■国家の一丁目一番地の問題
 爾来、こと自衛権の存否に関する限り日本は「憲法解釈」なしでは立ち行かない国である。念のため言うが、「憲法解釈」の必要がない国などない。が、ことは程度問題だ。国家の自衛といういわば国家に取り一丁目一番地の問題までもが、半世紀を超えて「解釈」に依存し続ける国は日本以外にはない。今後もそれでいいのか。
 今日、納税者たる国民は有事に国家が自衛隊をもって自分たちを守る、すなわち、自衛権を行使するのを自明視している。だが、それは9条を読んで納得したからでもなければ、いわんや先述の政府統一見解に共鳴してのことでもない。そんなこととは無関係に、納税者としていわば本能的欲求がそういう反対給付を国家に求めているまでのことだ。乱暴に言うと、自衛権について何を言っているのかが曖昧な9条なぞどうでもいいというのが実情だろう。
■保有わざわざ謳うのは傷痕
 考えてもみよ。有権者のいったい何%が「自衛権の存在」に関する政府統一見解の存在を知っているだろう。百人に一人? つまりウン十万人? 冗談じゃない。そんなにいるものか。では、国会議員の何割が、いや政府閣僚のいく人が憲法9条のいわば「正しい」読み方、つまりは「自衛権の存在」に関する政府統一見解を、合格点が取れる程度に理解しているか。言わぬが花だろう。
 憲法は第一義的には国民のためにある。憲法学者や、いわんや政府の法解釈機関(内閣法制局)のために、ではない。ところが、国の存亡に関わる第9条、わけても自衛権存否の問題は、憲法学者や内閣法制局の水先案内なしでは国民は理解ができない。この状態は明らかに望ましくない。自衛権の存在は、少なくとも平均的な文章読解力を持つ国民が、その条項を読んですんなり理解できるよう記述されなければならない。
 近時、政権党たる民主党は別だが、大小の政党や多くの団体が競うように憲法改正案を発表した。そのほとんどがわが国は「自衛権を保有する」旨を謳っている。が、国連憲章により自衛権は国家「固有の権利」なのだから、その必要は本来ない。ただ、日本には、この問題を憲法自体でなく憲法解釈によって切り抜けてきたという、積年の悲しい業がある。
 各種の憲法改正案がわざわざ自衛権保有を謳うのは、この業のゆえであり、いわば一種の傷痕である。だが、傷痕をことさら目立たせるのはよくない。傷痕を小さく、国際常識に立つ姿勢を明示することこそが望ましい。(させ まさもり)
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大江健三郎
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『なぜアメリカは日本に二発の原爆を落としたのか』日高義樹著《ハドソン研究所首席研究員》 2012年07月25日1刷発行 PHP研究所 
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『帝国の終焉』(「スーパーパワー」でなくなった同盟国・アメリカ)日高義樹著 2012年2月13日第1版第1刷発行 PHP研究所
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