Quantcast
Channel: 午後のアダージォ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 10100

南京大虐殺“決定的証拠写真”=粗悪な捏造写真

$
0
0

南京大虐殺“決定的証拠写真” 全てがおそらく合成かヤラセ
NEWSポストセブン2013.08.09 16:00
 中国の歴史捏造の代名詞が「南京大虐殺」だ。1937年の南京事件で30万人もの市民が虐殺されたと中国側は主張するのに、そのおびただしい死体を目撃した者は誰もいない。中国が捏造した写真と、真実の写真を比較すれば、でっち上げが一目瞭然である。
 ここに1点の写真がある。膝立ちになって首をはだけた男性を前に、兵士が左足を前に踏み出して刀を振り上げているという構図になっている。1938年7月発行の『日寇暴行実録』(国民政府軍事委員会政治部編)、『外国人目睹中之日軍暴行』(H.J.ティンパーリ編著)に掲載され、「日本軍による処刑写真」として流布されている有名な写真だ。
 しかし、この写真は粗悪な捏造写真であることが指摘されている。亜細亜大学の東中野修道教授は、『南京事件「証拠写真」を検証する』(草思社刊)で次のように分析している。
〈刀を持つ人は、首を斬るさい、右足が前に出ていなくてはならないが、左足を前に出している。これでは刀を振り下ろしたときに、みずからの足を斬ってしまう〉〈刀を持つ男はチャンチャンコのようなものを着ているが、将校、下士官、兵を問わず、このような服装をした軍人は日本軍には存在しない〉
 捏造写真について拓殖大学日本文化研究所客員教授の黄文雄氏はこう解説する。
 「南京大虐殺の決定的“証拠“として出回る写真のすべてがこうした類のもので、おそらくは合成かヤラセ。それがデタラメな解説とともに流通している。それを承知で写真を使いまわし、適当なキャプションを付して報じてきた反日マスコミの責任は重大だ。30万人という数字も中国共産党中央の文宣部が決定したもので根拠は何もない」
 ジャーナリストの水間政憲氏は指摘する。
 「中国が南京大虐殺を持ち出したのは1970年代に入ってから。1972年の日中国交正常化に向け、外交を有利に展開しようと歴史認識問題の利用を思いついたのです。これに乗じたのが朝日新聞をはじめとする左翼メディアだった。1971年に始まった本多勝一氏の連載『中国の旅』で大キャンペーンを張り、日本軍による南京大虐殺を国内外に喧伝しました」
※SAPIO2013年8月号
 *上記事の著作権は[NEWSポストセブン]に帰属します *リンクは来栖
――――――――――――――――――――――――
◇ 掲載写真を見るだけで自虐史観から脱却 南京事件等 『ひと目でわかる「日中戦争」時代の武士道精神』 2013-06-21 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉 
 超拡散希望《『ひと目でわかる「日中戦争」時代の武士道精神』の【はじめに】と目次》 

    

――――――――――――――――――――――――
『日本人の誇り』藤原正彦著(文春新書)2011年(平成23年)4月20日第1刷発行
  〈関連部分のみ抜粋〉
p104〜
 南京大虐殺の不思議
 「南京大虐殺」も実に不思議な事件でした。1937年12月13日に南京を陥落させた日本軍が、その後6週間にわたり大規模な虐殺行為を行ったというものです。
 1997年にアメリカで出版された五十万部を超えるベストセラーとなった、中国系アメリカ人アイリス・チャンによる『ザ・レイプ・オブ・南京』によりますと、「ヒットラーは6百万人のユダヤ人を殺し、スターリンは4千万以上のロシア人を殺したが、これらは数年をかけて行われたものだ。レイプ・オブ・南京ではたったの数週間で市民30万人を殺し、2万人から8万人の女性を老若かまわず強姦し豚のように殺した、という点で史上最悪のものだ。天皇を中心にした日本政府がこれを仕組んだ」という内容のものです。「日本兵は女性の腹を裂き、胸を切り刻み、生きたまま壁に釘づけにした。舌を鉄の鉤に吊るしたり、埋めてセパードに食い散らかせた」などとも書いてあります。
 私達の父や祖父達がこんなことを組織的にしていたとしたら、私たち日本人は百年は立ち上がれないでしょう。祖国愛や誇りを持つなどということもあり得ないことです。
 そのためにも事実を明らかにし、東京裁判史観に染まった国民にどうしても真実を知ってもらう必要があります。
 1937年12月、南京攻略を決めた松井石根大将はとても神経質になっていました。日露戦争に従軍したことのある松井大将は、かつて世界1規律正しいと絶賛された軍隊でロシアと戦ったことを誇りに思っていました。
 そこで攻勢前に兵士たちに、「首都南京を攻めるからには、世界中が見ているから決して悪事を働いてはならぬ」という趣旨の「南京攻略要綱」をわざわざ兵士に配り、厳正な規律を徹底させました。これ自体が稀な行為です。そのうえ、還暦を目前に控えた松井大将は、陸軍大学校を首席で卒業した秀才ですが、若い頃からアジアの団結を唱える大アジア主義に傾倒していて根っからの親中派でした。孫文の革命を支援したばかりか、若き蒋介石が日本の陸軍士官学校に留学した時は親身で面倒まで見てやった人です。運命のいたずらで愛弟子と戦わざるを得なくなり、せめて規律だけは保たせようと思ったのでしょう。そして、攻略を始める前日の12月9日、南京包囲を終えた松井大将は中国軍に対し、民間人の犠牲を避けるため10日正午までに南京を解放するよう勧告しました。蒋介石をはじめ政府と軍の首脳はすでに7日に首都を放棄していました。続いて役人、警察官、郵便局員と姿を消したため、水道は止まり電気も消え、無政府状態となりました。
p106〜
 ほとんどの戦争では、中国でもヨーロッパでも、市民を巻き添えにしないため軍隊は市内から出るものです。第2次大戦でパリはドイツに占領され、後に連合軍に占領されましたが、どちらの場合も軍隊は市街を出たので美しい町が保たれたのです。北京や武漢でも中国兵は町から出たので市民巻き添えという混乱はありませんでした。
 南京守備軍の唐生智司令官はこれを無視しました。「首都と運命を共にする」と広言していた彼は、日本軍の猛攻を受け陥落寸前というときに撤退命令を出すや、逃げ出してしまいました。指揮系統はすでに失われていたので数万の兵に撤退命令は伝わりませんでした。大混乱の最大原因です。降伏命令だったら何も起きなかったからです。
 『「南京事件」の総括』(田中正明著、小学館文庫)に、軍服を脱ぎ捨てた数千の中国兵が安全区に入ってきてからの混乱が詳述されています。南京市は首都といっても面積は世田谷区の3分の2ほどの狭さです。日本軍の攻撃の迫った12月1日、南京市長は全市民に対し、安全区、すなわち国際委員会が管理する地区に避難するよう命令します。安全区は、狭い南京の一角に作られた2?四方程度の狭小の地区です。日本軍が攻略を始めた12月10日には、すでに揚子江上流に避難した中上流階級の人々を除く、全市民がここ安全区に集まっていました。 資料により異なりますが、この段階における安全区人口は12万から20万の間です。「惨劇」があったとしたら、すし詰めとなったこの安全区で起きたはずなのです。
 ところが不思議なことに、南京に入城した幾万の日本兵も、共に入城した百数十名の日本人新聞記者やカメラマンンも誰一人そんな惨劇を見ていないのです。皆が一糸乱れぬ口裏を合わせているのでしょうか。こんな狭い所で大虐殺が行われたというのに、そこに住んでいた国際委員会の外国人や外国人記者も目撃していません。
 日本軍が入城した12月13日から翌年2月9日までに、国際委員会は日米英の大使館に61通の文書を提出しており、そこには殺人49件、傷害44件、強姦361件(うち被害者多数3件、被害者数名6件)などがありますが、大虐殺と呼べるものはありません。この数字自身も、国際委員会書記スマイス教授が認めたように、検証されたものではなく中国人からの伝聞によるものでした。また国府軍側の何應欽将軍が直後の1938年春に提出した大部の報告書にも、南京での虐殺を匂わせるものはいっさいありません。無論、市民虐殺を示唆する日本軍の作戦命令も存在しません。
 当時、中国に関して最も権威ある情報源とされていた「チャイニーズ・イヤーブック」と呼ばれる年鑑がありました。上海で英国系新聞が出版していたものです。これにも虐待の影はありません。
 一口で言うと、虐殺を示す第一次資料は何一つないということです。
p110〜
 東京裁判で再登場した
 「南京大虐殺」が再登場したのは、南京戦後8年半もたった1946年、東京裁判においてです。証人となった中国人が次々に大虐殺を「証言」しました。日本兵は集団をなし、人を見れば射殺、女を見れば強姦、手当たり次第の放火と掠奪、屍体はいたる所に山をなし、血は河をなす、という地獄さながらの描写ばかりでした。
 この裁判は、通常の裁判とはまったく異なり、証人宣誓が求められず証拠検証もされませんでしたから、言いたい放題だったのです。殺害者数30万人という証言に疑念を抱いたロヴィン弁護人が「私の承知している限りでは南京の人口は20万ですが」と質問すると、ウェッブ裁判長は「今はそれを持ち出すときではありません」と慌ててこの発言をさえぎりました。
 中国人だけでなく金陵大学(のちの南京大学)のベイツ教授など数人の欧米人も証人として出廷しました。ベイツ教授は事件時に南京にいて国際委員会のメンバーであり、「戦争とは何か」を書いたティンパーリに、書簡で事件を教えた人です。「1万2千人の市民を含む非武装の4万人近い人間が南京城内や城壁の近くで殺されたことを埋葬記録は示している」という趣旨の証言をしましたが、やはり中国人からの伝聞のみです。
 埋葬死体が戦死者のものかどうかも確認していません。実はベイツ教授は、やはり国際委員会に属する金陵大学のスマイス教授と、1938年の3月から4月にかけて、多数の学生を動員して南京市民の被害状況を調査していました。スマイス教授は社会学が専門なのでこの種の調査には慣れていて、50戸に1戸を無差別抽出して、2人1組の学生がそこを訪れ質問調査するという方法でした。
 この日時をかけた調査結果は、日本兵の暴行による被害者は、殺された者2400人、負傷した者3050人でした。(「南京地区における戦争被害調査」)。ただし、調査は被害者救済のためのもので、誰も住んでいない家は調査対象となっていませんから、家族全員が犠牲になった家などは統計に入っていません。また死亡者の中に、南京に自宅のある兵で便衣兵(軍服を脱いで一般市民に混じった中国兵)として処刑された者もかなり混じっているはずです。この人たちは市民でもあります。というわけで実数はある程度上下するはずです。しかしこの調査はほとんど唯一の第1次資料と言えるものです。
 ベイツ教授はこの調査を知っていながら、東京裁判では大いに水増ししました。そればかりか、
 「日本軍侵入後何日もの間、私の家の近所の路に、射殺された民間人の屍体がゴロゴロしておりました。スマイス教授と私は調査をした結果、城内で1万2千人の男女及び子供が殺されたと結論しました」
 と述べたのです。一方のスマイス教授の東京裁判への出廷は、弁護側が要求したにもかかわらず認められませんでした。ベイツ教授は1938年と1946年に蒋介石より勲章をもらっていました。
 またマギー牧師は法廷で延々と日本軍による殺人や強姦の事例を証言しましたが、ブルックス弁護人に「実際に自分で見たのはそのうちの何件か」と問われ、「実際に見たのは1件だけ」と白状しました。しかもそれは、日本軍歩哨に誰何され逃げ出した中国人青年が射殺された件でした。当時、中国にいた宣教師たちが国民党におもねっていたことは、アメリカの上海副領事をしていたラルフ・タウンゼントが1933年に出版した『暗黒大陸中国の真実』(芙蓉書房出版)などに記されています。
p120〜
 私は大虐殺の決定的証拠が1つでも出てくる日までは、大虐殺は原爆投下を正当化したいというアメリカの絶望的動機が創作し、利益のためなら何でも主張するという中国の慣習が存続させている、悪質かつ卑劣な作り話であり、実際は通常の攻略と掃討作戦が行われただけと信ずることにしています。さらに事を複雑にしているのは日本国内に、大虐殺を唱え続けることこそが良心と平和希求の証し、という妄想にとらわれた不思議な勢力があることです。「南京大虐殺」は歴史的事実ではなく政治的事実ということです。事実であるという決定的証拠が1つでも出るはるか前に、「カチンの森」が事件発生50年後のソ連崩壊時に告白されたごとく、「南京大虐殺」の真実が、アメリカの情報公開で明るみに出るか、中国の一党独裁崩壊後に告白されるのではないかと考えています。
 ただし、アメリカは時が来れば何でも情報公開する公平でオープンな国のように見えますが、肝心のものは公開しません。真珠湾攻撃前1週間の暗号解読資料とかケネディ大統領暗殺犯などについては、今もすべてを出そうとしません。南京事件が原爆投下と関係しているとしたら容易には出さないでしょう。
 南京の話が長くなったのは、これが未だに日本人を委縮させているからです。中国に対して言うべきことも言えないでいる理由だからです。尖閣諸島が中国のものと言っても、自分から体当たりしてきて謝罪と賠償を高らかに唱えても、怒鳴りつけることもできず、下を向いたまま「領土問題は存在しません」とつぶやくだけの国となっているからです。
 20年以上にわたり毎年10%以上も軍事費を増加させるという中国の異常な軍備拡大に抗議するどころか、すでに6兆円を超すともいわれる巨額のODAを与え、さらに援助し続けるのも、自らの対中防衛力を高める努力もしないでハラハラしているだけなのも、中国の不当な為替操作を非難しないのも、「南京で大虐殺をしましたよね」の声が耳にこだまするからです。中国の対日外交における最大の切り札になっているのです。 *強調(太字・着色)は来栖
――――――――――――――――――――――――
◇ 『最終目標は天皇の処刑』 中国「日本解放工作」の恐るべき全貌 ペマ・ギャルポ著 飛鳥新社 2013-02-05 | 読書 
 (関連部分のみ抜粋)
p115〜
  第2期工作要綱が発掘された1972年は、日本にとって重要な意味をもつ年だったと思います。「日中国交回復」「沖縄返還」さらには「あさま山荘事件」と、数多くの歴史的な出来事が起きています。(略)
 前年の1971年を振り返れば、中国が突然、尖閣諸島の領有を主張し始めています。それと合わせるかのように、朝日新聞の本田勝一(かついち)記者によって、“南京大虐殺”など旧日本軍の罪を捏造した『中国の旅』の連載が始まり、日本人に中国への“贖罪意識”を植え付ける工作が始まっています。不思議な話ですが、それ以前は中国国内で南京大虐殺に関する研究発表など、ほとんどありませんでした。ところがこれ以降、中国が南京大虐殺を喧伝するようになるのです。もちろん、本田勝一氏が中国の工作員であったと断定するつもりはありません。が、ここに書かれているように普通の日本人であっても正体を隠した工作員と接触する中で、本人が知らないうちに中国政府の走狗と化してしまう、という可能性も否定できないのです。
p124〜
 日中記者交換協定
  1972年時点において、工作要綱に第2期と名付けられていることからもわかるように、すでに日本国内に相当の工作機関員が潜伏していました。特にマスコミ工作に関しては、かなりの環境作りがなされていたようです。そうした環境作りの一環といえるのが1964年に結ばれた日中記者交換協定でしょう。この日中記者交換協定によって朝日新聞、毎日新聞、読売新聞、産経新聞、日本経済新聞、西日本新聞、共同通信、NHK、TBSの9社の報道機関が、国交がない段階で北京に常駐できることになります。ところが、68年の改定で中国側から「政治3原則」が押しつけられ、各社は否応もなくそれを飲まされることになりました。
1、中国を敵視してはならない。
2、「2つの中国」を作る陰謀に加担しない。
3、中日両国関係が正常化の方向に発展するのを妨げない。
 p125〜
  これ以降、中国はジワジワと日本のマスコミに圧力をかけていくのです。例えば当時、日本のマスコミでは台湾の国民党政府(中華民国)と区別するために、北京政府を中共と呼んでいました。(略)そのため国交が樹立して真っ先に要求してきたのが、“中共”という呼称を中国に変えさせることでした。本当の中国は自分たちであり、台湾ではないということを認めさせたのです。この協定が結ばれて以降、中国に不利益となる報道はできなくなります。
  例えば、林彪がモンゴルで墜落死した事件が大手新聞社で報道されたのは、事件後半年も経ってからでした。おそらく、政権内部で権力闘争が続いていることが公になって、中国が推進する日中国交樹立に支障を来すことを危惧した新聞社が自主規制したのです。
  その後も朝日新聞などを中心として、“中国ブーム”のようなものを起す動きが顕著になっていきます。国交回復を機に贈られたパンダブームもそうですが、中国は巨大市場であり、中国は膨大なエネルギー資源があり、日本は近しくならなければ損であるといった具合に、マスコミによって親中国の世論醸成がなされていったように私は感じます。当時、朝日新聞に中国には大油田があり、関係がよくなれば石油は心配いらなくなるという記事が書かれていたのをはっきり覚えています。
――――――――――――――――――――――――
171.東中野修道他 「南京事件 証拠写真を検証する」 草思社(2011.10.9.)
...............


Viewing all articles
Browse latest Browse all 10100

Trending Articles