千葉元法相の呼び掛け1年 かすむ死刑論議
2011年7月26日 東京新聞 朝刊
死刑廃止論者だった千葉景子元法相が突然、死刑執行に踏み切り、国民的議論を呼び掛けてから二十八日で一年になる。この間、新たな執行はないが、裁判員裁判で死刑判決が続き、確定死刑囚は過去最多の百二十人に。廃止を迫る国際世論は強まるばかりだが、国内の議論は震災や検察改革の陰で盛り上がる気配がない。(小嶋麻友美)
昨年の執行後、千葉元法相は「国民的な議論の契機にしたい」と刑場をメディアに公開し、法務省内の勉強会を立ち上げた。しかし、法相はこの一年で三人交代。法務当局は大阪地検特捜部の証拠改ざん事件に端を発した取り調べ可視化への対応や組織改革に明け暮れ、死刑議論はかすんだ。
勉強会は六回開かれたが、存置論者や廃止論者からヒアリングした程度。前進が期待された情報開示も勉強会の議事録や資料をホームページで公開するにとどまる。
一方、市民が加わる裁判員裁判での死刑判決は昨年十一月以降、八件に上る。このうち二被告が控訴を取り下げ判決が確定した。
国内の議論が停滞する中、死刑廃止の国際潮流は揺るがない。国連総会は昨年十二月、三度目となる死刑の執行停止決議を採択。国際人権団体アムネスティ・インターナショナルによると、死刑の全面廃止国は昨年末で九十六カ国で、この二十年で四倍以上になった。
存置国は日本や米国、中国など五十八カ国だが、米国では廃止する州が増え、中国の最高裁(最高人民法院)も昨年来、死刑の適用基準を厳しくしたり、適用罪名を減らすなどの動きが出ている。
仮釈放のない無期刑の創設と執行の一時停止を盛り込んだ法案提出を目指す「死刑廃止を推進する議員連盟」の亀井静香会長は「廃止は世界の流れで、日本でも仮釈放のない無期刑ができれば死刑判決は減るはず。そうなれば国会でも議論が起きてくる」と強調する。
◆オウム全裁判が年内に終結/震災・原発・沖縄・死刑、いずれも軽重区別をつけてはならない命の問題2011-06-18 | 死刑/重刑/生命犯 問題
オウム遠藤被告、9月に弁論=死刑上告で最後−最高裁
地下鉄、松本両サリン事件など4事件で殺人罪などに問われ、一、二審で死刑とされたオウム真理教元幹部遠藤誠一被告(51)について、最高裁第1小法廷(金築誠志裁判長)は16日までに、弁論期日を9月29日に指定した。
教団をめぐる一連の事件で死刑が言い渡されたのは13人。このうち11人が確定し、上告中の中川智正被告(48)も9月16日の弁論が決まっている。(時事通信2011/06/16-17:54)
〈来栖の独白2011/06/18Sat.〉
全裁判が終結、確定すれば、オウムの場合、次に来るものはかなり早期と予想される。国にとって最も効果的な時期、状況を選んで行われるだろう。
昨年7月28日、千葉法相(当時)は東京拘置所在監の2名に対して死刑を執行した。私はこれを法務官僚に半ば屈した末の命令と受け止めたが、某テレビ番組で千葉氏と側近が語っていたところによれば、千葉氏は法相就任の極めて早い時期に執行命令の決断はしていたという。さまざまなことがあって命令の時期が遅れただけ、ということだった。命令書に判を押さないで済ませる気はなかった、と。
死刑廃止思想の持ち主でいらしたから、執行について煩悶があったことは疑う余地はないだろう。が、氏は法相として死刑執行の決断はしていた、ということだ。なぜ、執行するか。彼女の云うことによれば、「死刑についての議論を国民の間で起してほしいから」ということであった。
死刑囚2人に命を差し出させることで願った、死刑制度に関する国民的議論。その結果はどうだったか。一時的に騒いだだけではなかったろうか。
3・11以降は東日本大震災以外のことを話題にすれば、顰蹙を買いかねない風潮である。ましや、「死刑」の議論など、ごくわずかの変人のすること、不謹慎の極みであろう。
K君(名古屋アベック殺人事件、無期懲役者)は書信の中で次のように言う。
“衣食住の全てを税金でお世話になっている私たち受刑者は、東日本大震災や原発事故の関係で当然のことながら、節水や節電に取り組むことになります。昨年に続いて今年もまたとても厳しい夏になりそうですが、微力ながら私も「今の自分にできること」をしっかりと考えて実行してゆきたいと思います。”
3・11以降、揺るがせにできない問題は数々起きた。中国は新規原発を稼働させたし、北方領土の問題、また沖縄については、それこそ国民が一緒になって考えねばならない問題をアメリカは提起してきている。それらすべて命の問題である。
いかなる状況にあっても、不断にしっかりと考え、取り組んで「ここに問題があります」と言ってゆかねばならない。東日本大震災の問題も原発の問題も、そして沖縄、防衛・安全保障のことも死刑も、いずれも軽重区別をつけてはならない問題である。
======================
◆8月中に東京拘置所の刑場を報道陣に公開 平和(シャローム)とは「傷付いた部分のない状態」をいう2010-07-30 | 死刑/重刑/生命犯 問題
〈来栖の独白 2010-07-30Fri.〉
報道によれば、千葉法相は、8月中に東京拘置所の刑場を報道陣に公開するそうだ。これまで密殺・密行であった処刑。それが刑場だけでも、公開されることになる。
故勝田清孝死刑囚は上告趣意書のなかで「犯罪の抑止に少しでも貢献できるのであれば大衆の面前での処刑をも辞さぬと純粋に考えたりする私です。」と述べ、東京拘置所在監の死刑囚坂口弘氏も“叶ふなら絞首は否む広場での銃殺刑をむしろ願はむ” と詠んでいる。
また、私も弊ホームページのなかで、「死刑とは何か〜刑場の周縁から」と題して加賀乙彦氏や大塚公子氏の作品から、刑場と刑執行の有り様について考えてみた。
裁判員制度が施行されて1年以上が経過した。本年は死刑という量刑も考えねばならない事案も出てくる、とも報じられている。国民は、死刑について知らねばならない。そのための水先案内人となって28日処刑に立会い、そしてまた本日「8月中に東京拘置所の刑場を報道陣に公開」と発表した千葉法相の英断を賛美したい。
冗談(英断を賛美)は、ここまで。
千葉法相は、「国民的な議論の契機にしたい」として28日の死刑執行を命令したと言う。如何にも乱暴、強引な理由付けではないだろうか。命を奪わず(執行せず)とも議論はできるのではないか。法相という重く高い立場のもたらす苦悩が私のような民間人には理解不能なのだろうが、私はどう考えても二人の命の喪失の上に何かが結実するとは思えないのである。千葉法相は、死刑廃止の理念を持っておられた。死刑廃止は「平和」と同じく、人類の叡智を傾けて成される高邁な理想である。手前味噌(私はカトリックの信徒である)を言わせて戴くなら、聖書によれば、「平和(シャローム)」とは「傷付いた部分のない状態」をいう。「国民的な議論の契機」が死刑執行であった、命を奪うこと(身体全損)であったなら、私は立ち上がれないような思いに閉ざされる。こんな契機で死刑廃止も平和も訪れるとは思えない。全存在を否定された二人の絶望を見過しにできない。
また千葉氏は、死刑執行を法務官僚側から説得されたとの一部報道に対しては「まったく当たっていない」と答えているが、それも俄かに信じがたい。そもそも従来、法相に死刑執行を説得しない法務官僚など、あり得ない。「死刑執行命令書に判を押すこと」と「刑場の公開」は、双方がギリギリで見せたカードだったろう。1年近くも判を押さずに踏ん張った千葉氏が易々と判を押したとも思えず、永年開かずの扉を守ってきた法務省が易々と刑場を公開するはずもない。
夢想しないではいられない。本日は叶わずとも、明日にでも死刑制度が廃止されるなら、刑場の公開も不要となる。「刑場の公開」ということは、この国が死刑を存置している、この先当分は存置する、ということだ。
「死刑制度の存廃を含めたあり方を研究する勉強会も同月中に発足させる方針」とも言う。まだまだこの先当分、死刑は続きそうだ。「研究」や「勉強会」の類いが、早急に対応したためしはない。
...
◆メディアは伝えるべきことを伝えているか<愛の反対は憎しみではなく無関心です>2011-06-17 | 政治/検察/メディア/小沢一郎
中日春秋
2011年6月17日
太平洋戦争末期、東海地方で大地震が続き、甚大な被害が出たことを当時、大半の国民は知らなかった。軍部の報道統制で、新聞はわずかな事実しか伝えられなかったからだ▼昭和十九年十二月七日の東南海地震で、三重や愛知県などで約千二百人が犠牲になった。翌八日は太平洋戦争の開戦から三年。各紙の一面トップは昭和天皇の写真付きの記事だった▼中部日本新聞(中日新聞)でも、三面に二段の小さな記事だけだ。レイテ沖海戦にも敗れた厳しい戦況の下、国民の士気への影響を軍部は恐れたのだろう(保阪正康責任編集『昭和史講座』)▼一カ月後、愛知県三河地方を襲った直下型地震では、二千人を超える死者が出ている。中部日本新聞は「再度の震災も何ぞ 試煉(しれん)に固む特攻魂」の見出しを掲げ、被害状況にはほとんど触れなかった▼軍の情報統制は今はない。被災地や原発事故のニュースは厚みがある。それでも自問を重ねる。伝えるべきことを伝えられているか、震災報道の陰で埋もれている重要なニュースはないか▼北沢防衛相は、米普天間飛行場の代替え施設の滑走路をV字形にすることや、過去に多くの墜落事故を起こした垂直離着陸機オスプレイの普天間飛行場への配備を容認すると仲井真知事に通告した。<愛の反対は憎しみではなく無関心です>。マザー・テレサの言葉をかみしめている。 *強調(太字)は来栖
==============
◆死刑 悩み深き森/千葉景子さん「執行の署名は私なりの小石」
朝日新聞2010/11/20Sat.
死刑執行命令書に署名するかどうか。そうしない道はあったと思います。でもやっぱり、ただ「やりませんでした」では、死刑制度の是非をめぐる議論は消え入ってしまうのではないかと思ったのです。
法務大臣にご指名頂いて、受けるときに最初に考えました。必ずつきつけられてくる問題だろうと。
でも、国会開会中は政治とカネや指揮権、取り調べの可視化の問題などがあり、大きな問題に踏み込むのは、なかなかしにくかった。選挙の時は、色々な集まりで「廃止論をやめてほしい」といった声も多かった。非常に目に見えない雰囲気、というか。それを何かの理由にすることはないが、そういうことは正直言ってありました。
選挙に落ちてしまって、このまま私も離任、というところもなきにしもあらずでしたが、区切りまでという話になった。じゃあその中で、私が何かやっぱりやる必要があるだろうな、というのが自分の流れかなと。
法務官僚の説得に折れたというわけではありません。そういう方がわかりやすいですが。ただ、そういう見方を「ひどいなあ」とは思いません。
これは私の矛盾ですが、過去に執行された時は国会議員として「なぜやるんですか」「廃止の方向で行くべきじゃないですか」と当時の法相などに申し上げたのも事実です。しかし考えてみると、結局は国会として十分な議論と何らかの法案をまとめる、というところまで行っていない。どこかで本格的に議論をもう一度打ち立てていくことがないといけないのかなと。
執行と、議論を始めることは、セットじゃない。だけど、(死刑)廃止を言っていた人間が、執行することもなく議論しましょう、となると、「廃止論の流れを作ることだ」という風につながりやすいところはある。私は廃止論なんだと言って一直線で行くというのも確かに1つの道ではあるかもしれないのですが、それによって逆のとんでもない存続論が非常に強くわき起っていく、というのも感じます。
被害者に光を当てる流れがどんどん強まっている。被害者を大事にするのはもちろん否定しませんが、国会などが、ずっと忘れることなく議論をし、被害者のことも含めて、きちっと流れを作っていく、そういう場になっていく必要があると思います。
法務省内でも両論あって、内心ではどちらかというと廃止論の人もいる。「これからは廃止の方向に行かざるを得ないんじゃないかと思うが、今ただちには難しい」という話をしたりしていました。
(死刑廃止をしたフランスなどと比べて)日本では、司法や刑罰に関心を持つ人が考えているだけで、時の政権なり、トップリーダーがどういう意見を持っているかが明確ではない。だから、これまでも、その時の法相がやった、やらない、という問題になってしまっているように思います。
署名後、死刑執行に立会いました。死刑に肯定的な気持ちになることは、やっぱりないです。厳粛だとよく言いますよね。厳粛・・・厳粛・・・。ああいうものを厳粛というんだろうか。皆さわりたくない、やりたくない、そういうものを厳粛さみたいなものをもって、なんとか気持ちを肯定させている。えらくあっけないといえばあっけない。でも何か、とってもこう、美しくないというか、何か醜悪というか、でも形の上では厳粛。そこのなんとも落差というか、ある意味で自己嫌悪みたいなものもありました。
自分が立ち会っているってことはいったいなんなんだと。最後の責任者、という整理はつかないことはないが、自分の中で自分を責めるものがあって。いろんな理屈はあっても、国の権力をもって、あの人の命をそこで絶つ、ということはできるんだろうか、というのは改めて感じました。
そう感じるだろうということは、まったくわからなかったわけではありませんが、やっぱり何となく、観念的に整理していたんです。ただ現実を見ると、命という究極なものについて、国という抽象的なものをもって奪うことの残酷さ、醜悪さを実感したような気がします。うまく整理できませんが。死刑廃止の考えが変わったということはありません。今後どうしたらいいのかという自分の活動の方向は、まだ手探りの状態です。
(執行の場面の)記憶は、自分の中で薄れさせてはいけないという意識が強いです。ただ、執行後のことはあまり記憶がはっきりしていない。現実から違うところに自分がいるような状態だったんじゃないかと。
議論はみんなに引き継いでもらいたい。スタートはしたので、今後も続けて議論して頂ければいいのかなと。
裁判員裁判での死刑判決でも、裁判長が控訴を勧めました。死刑については二重、三重に考えてもらわなければいけないという悩みだったのかなあと思いもします。制度導入時にあまり深く論じられませんでしたが、死刑を前提にするのであれば、死刑判決は全員一致を要件にすべきではないか。
(署名したことについては)どう言おうとも、自己弁護みたいになるところはあると思うんです。私一人でたいそうなことができる人間でもない。思想家でも何でもない。死刑という問題について一つ、小石を投じることはできるかもしれない。こういう役目をもらった意味、私なりの遂行の仕方として何ができるだろうか。そういうことかもしれません。(聞き手・山口進)
↧
死刑執行から1年 かすむ死刑論議/震災・原発・沖縄・死刑、いずれも軽重区別をつけてはならない命の問題
↧