〈来栖の独白〉
『百年の手紙--20世紀の日本を生きた人々』第4回(中日新聞2011/07/28Thu.)は、管野すがの手紙である。梯さんは、次(抜粋転写)のように書く。
“図版で、あるいは現物で、歴史上の人物の書簡を数多く目にしてきたが、こんなに変わった手紙を見たのは初めてだ。一見すると何も描かれていないただの半紙。だが光にかざしてみると、針で開けた思われる無数の小さな穴があり、それが文字になっているのがわかる。”
“ともに暮らした恋人である幸徳秋水のために、朝日新聞記者の杉村縦横に獄中から彼の無実を訴え、弁護士を世話してくれるよう頼んでいる。
針文字で書いたのは、看守の目を盗んでひそかに外部に持ち出すためだ。手紙が書かれた頃は外部との書簡のやりとりも面会も禁じられており、出獄していく女性囚人に託して投函してもらった可能性が高い。”
“2006年に我孫子市内の杉村の邸宅から発見されたという。封筒もあったが管野の筆跡ではなく、彼女が獄中から何者かに託したのは手紙文が書かれた半紙だけだったと推測される。”
“取り調べが進む中で管野は、中心的なメンバーは死刑に処せられるとの感触を得たと思われる。明治天皇を襲撃する計画を話し合っていたのは管野を含めた4名で、幸徳はこれに加わっていなかった。しかし、これを機会に社会主義を一網打尽にしようとした政府は、著名な幸徳を首魁に擬したのである。幸徳まで重罪に問われる危険を感じ取った管野の、何とか彼の命を助けようとする必死の思いが、細かく穿たれた点の1つ1つから伝わってくる。”
おのが刑死を目の前にして管野すがの心中にあったのは、幸徳の命をなんとしてでも助けたい、との思いだけだったようだ。その必死の思いをスガは針の先にこめる。何という姿だろう。人は、このようにも生きることができる。快く圧倒された。
「管野すが」については、「すが」であるのか「スガ」なのか、判然しない。
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◆大逆事件:管野スガの書簡見つかる 2010-01-29 | 死刑/重刑/生命犯 問題
大逆事件:管野スガの書簡見つかる 幸徳秋水の無罪訴え
発見された書簡と封筒。白紙に見える=武田良敬撮影
1910(明治43)年の大逆事件で処刑された社会主義者ら12人のうち唯一の女性、管野スガ(須賀子、1881〜1911)が同じく処刑された幸徳秋水(1871〜1911)の救済を求め、獄中からひそかに新聞記者に送った書簡が、千葉県我孫子市で見つかった。当時の検閲を恐れてか、書簡は何も書かれていない白い和紙に見えるが、針で細かい穴が開けられており、光にかざすと文字が浮かぶ。今年は事件から100年。研究者から「これほど長く極秘に保管されていたとは」と驚きの声が上がっている。【武田良敬】
書簡は、朝日新聞記者として活躍した杉村楚人冠(そじんかん)(1872〜1945)の旧宅の居間にある書棚から発見された。秋水の同志で、同居していたこともあるスガが「自分たちは近く死刑宣告を受けるので、よく調べてほしい。秋水に弁護士をつけてほしい」と訴える内容。末尾で「彼は何も知らぬのです」と秋水の無罪を訴えている。日付は6月9日と記されている。
書簡はきれいに16折にされ、封筒に入っていた。「6月11日東京・牛込局」の消印で差出人は不明。当時、スガや秋水は獄中で取り調べを受けており、書簡が届けられた経緯は不明だが、我孫子市教育委員会の小林康達調査員は「私外(ほか)三名」といった文面からスガ自身がつづった可能性が高いと分析。「歴史のドラマそのものだ」と話す。
楚人冠は秋水の古い友人で、スガとも知り合いだった。事件後も欧州特派員などとして活躍したが、書簡については生涯沈黙し、ひそかに保管していたとみられる。
大逆事件に詳しい山泉進・明治大副学長(政治思想史)の話 100年間も極秘に保管されていたのは驚きだ。大逆事件関係者の思想や人間性を再評価するうえで、極めて貴重な資料だ。
◇書簡の全文◇
京橋区瀧山町
朝日新聞社
杉村縦横様
管野須賀子
爆弾事件ニテ私外三名
近日死刑ノ宣告ヲ受ク
べシ御精探ヲ乞フ
尚幸徳ノ為メニ弁ゴ士
ノ御世話ヲ切ニ願フ
六月九日
彼ハ何ニモ知ラヌノデス
※「縦横」は楚人冠の筆名
毎日新聞2010年1月29日15時00分
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