イチロー 伊良部さんの言葉「一生忘れない」
衝撃の余波は続いた。ロッテ、阪神、ヤンキースなどで活躍し、米ロサンゼルス郊外の自宅で首つり自殺をした伊良部秀輝氏(享年42)について、マリナーズ・イチロー外野手(37)が思い出を口にした。90年代に記録した当時の日本人最速の158キロを「物差し」と表現。日米を巻き込んだ三角トレードで伊良部氏がメジャー移籍をしたことがきっかけで制度化されたポスティングシステム(入札制度)。その制度を行使した日本人第1号という縁もある。先輩に、哀悼の意を表した。
クラブハウスのいすに座ったイチローが、言葉を選びながら語り出した。球団ワーストの17連敗、自身の打撃も乗り切れない。こんな状況でも、かつての好敵手への思いを問われると、「ただ、ただ、残念です」と、静かな口調で切り出した。これまで多くを語ることのなかった「野球人・伊良部秀輝」へ、手向けの言葉とするかのように、言葉を続けた。
イチロー こっちに来て球の速いピッチャーはたくさんいますけど、比較する時に必ず頭に浮かぶのが伊良部さんの真っすぐだったというのはありますよね。伊良部さんの一番速い球っていうのが大リーグで10年以上やっても、物差しになる。それはずっと変わってないことですね。
剛腕クレメンスら、これまで対峙(たいじ)した数々の速球も、基準は「伊良部ありき」だったことを明かした。日米で通算51度、打席に立った。打った、抑えられたではない、2人にしか分からない「空気」があった。海を渡り、前人未到の10年連続200本安打を達成した。もちろん卓越した技術があるからこそだが、160キロ超のスピードへの対応も、日本時代に伊良部氏と対戦していたからこそ、だった。
心を引き裂かれた、衝撃的な言葉も思い出した。まさに無手勝流の勝負を打席で意識させられたのも伊良部氏だった。
イチロー 95、96年のオールスターで話をした時に、「バッターを殺したいぐらい憎い」って言うんですよね。「頭に当てようが何しようが俺は抑えたい」っていうことを聞いた時に、ちょっと恐ろしい人だな、と思いましたけど、それぐらい、勝負に対する思いが大きかった人でしょうね。あの言葉は一生忘れないですね。
一方で、「人間・伊良部秀輝」とのほほえましいエピソードも披露した。伊良部氏が02年にレンジャーズに移籍した4月。当時チームメートだった長谷川滋利氏(現野球評論家)と3人で出かけたダラスの焼き肉店。伊良部氏が明け方近くまで自身の投球論を繰り広げたという。「投球、ピッチングフォームについての力説が始まって、野球についての考え方も含めて、止まんなくなっちゃったんですよね。でも、僕ら早く帰りたいからどうやって帰ろうか、長谷川さんと相談してたぐらい野球が大好きだったんでしょうね。あの時はあきれ返りましたけど、そういう熱い、ゲームに対する思いをもった人だったですよね」と、懐かしそうに振り返った。
09年ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)決勝戦。ドジャースタジアムのネット裏で応援していた姿を見たのが、最後だった。自らは無安打でチームも大敗。好勝負を繰り広げたライバルの死に、思い出が走馬灯のように駆け巡った。【シアトル(米ワシントン州)=木崎英夫通信員】
◆02年のイチロー対伊良部 日本ではイチローが「あんなすごいボールばかり打っていたら体がおかしくなる」、伊良部が「あいつはどうしようもない。こうやって打ち取ろうという組み立てで最後に行くまでに、打たれる。悔しい」などと互いを評価していた対戦。大リーグでは伊良部がレンジャーズに在籍した02年4月13日、6年ぶりに再会した。結果は右安、三ゴ、遊ゴ。伊良部との対戦をイチローは「そりゃあ特別。一番刺激のある相手」。149キロの内角直球を右前に打たれた伊良部は「いいボールだった。想像していたよりイメージは変わっていない。イチロー君が高い技術を持った打者だということはみんなが知っている」。2人は1週間後の20日にも対戦し、146キロの高速フォークを打って投ゴロだった。[日刊スポーツ2011年7月31日8時44分]
=============
伊良部秀輝の“遺言”「父親がアメリカ人とは知らなかった」
日刊SPA!2011.07.30 ニュース
野球界のみならず、伊良部秀輝さんが亡くなったという知らせは、日本中に衝撃が走った。本誌は、伊良部さんが亡くなる約1か月前、彼が静かに暮らすロサンゼルスにて、4時間にわたり現在の心境を聞いた。謂わば“遺言”ともいえる渾身のインタビューを全文掲載する。
この最後となってしまったインタビューは、ジャーナリストの田崎健太氏が行った。
週刊SPA! 7/19号(2011年)「エッジな人々」より
――今でこそ、メジャーリーグで日本人がプレーするのは普通になりました。1997年に伊良部さんが移籍したときは、大騒動になりましたよね。
伊良部 「伊良部問題(※1)」って当時は言われましたけれど、あれは本当に伊良部の問題だったのかって言いたかったですよ。日米の法律の問題で、パドレスとロッテの問題でした。
――ロッテからパドレスへの権利譲渡(※2) はテレビのニュースで知ったとか。
伊良部 そうです。テレビを見ていたら、パドレスの社長とロッテのオーナーが握手をして、パドレスに行くと話していて、驚きました。
――伊良部さんはヤンキースにしか行きたくない。このトレードは無効だと突っぱねた。新聞の見出しに「ワガママ伊良部」なんていうのもありました。
伊良部 ぼくだって、ルール違反して行きたいとは思っていなかったですよ。その前に、球団はヤンキースに行かせる約束をしていた。それは守られなかったんです。ルール(※3) として、1年間浪人すれば、任意引退選手となって、どこの球団とでも交渉できる。そうしたいと思っただけ。新聞記者の方に、重要なことは曲げないで書いてほしいと、こうした資料はお渡ししました。それなのに……これは手に負えんと思いましたよ。そのとき思ったのが、野球ボールはコントロールできるけれど、メディアはコントロールできない(笑)。
◆父親がアメリカ人とは知らなかった
――伊良部さんがそこまでメジャーリーグにこだわるのは、お父さんを捜しにアメリカ(※4) に行くためだという報道もありました。
伊良部 (驚いた表情で)誰がそんなことを言い出したんですか? それは事実ではないです。だって、ぼくはアメリカに行くまで、自分の本当の父親がアメリカ人ということを知らなかったですもの。
――えっ?
伊良部 ヤンキースに入ってから……98年のキャンプのときに、球団から連絡があって、ぼくの父親だと名乗る人間が来たと。びっくりしましたよ、父親だって言うから。
――会ったんですか?
伊良部 はい。それから、母親に確認したんです。そうしたら、そうだって。それまでは父親がアメリカにいるなんて、考えたことがないですよ。でも面白いですね、ぼくがどうしてもアメリカに行きたかった理由が、父親に会いたかったからなんて。
――実のお父さんに会われてどんなふうに思われました?
伊良部 これといった感情はなかった。生みの親より育ての親みたいな。今も年に2回ほどは連絡を取り合ってますけど、それだけです。
※1 伊良部問題
96年のシーズン終了後の11月、伊良部はメジャーリーグへの移籍を求めて、ロッテのオーナーに直訴。当時、一軍登録から10年でFAの権利を取得できたが、伊良部はこの年で9年目だった。12月にロッテは、メジャー移籍を認める代わりに、チーム選択、年俸交渉を一任する覚書にサインするように強要。これを伊良部と代理人の団野村は拒否した
※2 パドレスへの権利譲
97年1月10日、ロッテの重光オーナーは伊良部 を呼び出して、パドレスへのトレードを通告。伊良部は「約束していたヤンキースではない」と拒否した。1月13日、パドレスとロッテの業務提携を発表。その業務提携書の中に、伊良部の権利をすべてパドレスに「譲渡」することが含まれていた
※3 ルール
日米コミッショナーの取り決めで、1年間浪人すると、自由契約選手扱いとなり、どこのメジャーリーグ球団とも契約できることになっていた。メジャーリーグ選手会は、伊良部の主張を支持。旗色が悪くなったロッテとパドレスは、伊良部をヤンキースへと三角トレードして解決した
※4 お父さんを捜しにアメリカ
ロバート・ホワイティングは『日出づる国の「奴隷野球」』の中で、伊良部がスポーツライターに「いつか、アメリカへ渡って有名な選手になりたい、そうすれば実の父親に会えるかもしれない」と明かしたと書いている。また夕刊紙にも同様の報道があった
伊良部秀輝の“遺言”「縦の変化球で勝ち続けたのは野茂さんだけ」
――伊良部さんが最初にメジャーリーグを意識したのはいつ頃ですか?
伊良部 中学生のときかな。テレビで、サチェル・ペイジ(※5) というピッチャーが亡くなったときの特番を見て度肝を抜かれました。長身のピッチャーで、鞭のようにしなる体。ものすごい細いんだけれど、全身を使って投げる。これはただ者ではないと。あんなふうに投げたいと思って、さんざん真似しました。ロッテに入ってからも最初の6年間ぐらいは、彼のように投げたいと思っていましたね。彼以外でも、ぼくと同じぐらいの上背のピッチャー(身長190cm)がどのように体を使うのかを研究しようとすると、日本にいないので、どうしてもメジャーのピッチャーになってしまうんです。グッデンとかクレメンス(※6)とか。
――当時はメジャーリーグの映像はなかなか見られませんでした。どうやって研究したんですか?
伊良部 雑誌の分解写真を見て、どうやって投げているんだろうって、絶えずそんなことを考えていました。
――その当時から、ヤンキースに行きたいと思っていた?
伊良部 そうですね。90年代半ばから、常にワールドチャンピオンを狙える、非常に強いチームでしたから。野球のユニフォームを着た人間ならば、ワールドチャンピオンのチームでやりたいと思うでしょ? それでぼくがヤンキースに入ったとき、グッデンとクレメンスの2人がいたんです。まさか、こんなところに自分が本当に来れるなんて……。
――伊良部さんは、158kmの速球を投げて、非常に目立つ存在でした。日本球界で最高のピッチャーの一人に数えられています。しかし、結果を見てみると、実は日米で106勝しかしていない。
伊良部 その程度のピッチャーですよ(笑)。クレメンスや(デービッド)ウェルズは、ぼくと同じような上背で球の速さも同じぐらい。でも彼らはそれぞれ300、200勝もしている。どうしてぼくがそうなれなかったかというと、答えは簡単。横の変化球がないんです。スライダーやカットボールがなかった。フォークやカーブという縦の変化だけだとある程度しか勝てないですよ。
――スライダーは今や高校生でも投げますよね。
伊良部 もちろんぼくも投げ方は知ってますし、投げられます。ただ、スライダーを投げると、手首が傾く癖がついてしまって、次のストレートの球速が落ちてしまう。だから試合中は使えなかった。スライダー、シュート、ツーシームといった横の変化球を投げられるピッチャーはコンスタントに勝っていける。縦の変化だけで、長く勝ち星を積み重ねたピッチャーって野茂さんだけ。
――158kmのストレートがあっても駄目ですか?
伊良部 1試合120球のうち、全力投球できるのは、せいぜい20、30球しかないんですよ。もし、体力がもって、全部158km投げられたとしても、プロのバッターには打たれます。緩急が大切ですから。球の速さよりも、球の出どころが見えないほうがずっと大切ですよ。
――球の出どころ?
伊良部 ボールを投げるとき、バッターから腕が見えないほうがいいんです。出どころが見えれば、球筋は読めますから。ホークスのあのピッチャー……杉内(俊哉)なんてすごいですよね。(そこまでの球速でないのに)みんなバッターが振り遅れてますものね。勝ち負けに繋がらない速球はいらないんですよ。
※5 サチェル・ペイジ
1906年生まれ、野球史上最高のピッチャーの一人とされている黒人選手。ニグロ・リーグ時代、2500試合に登板して、2000勝したという伝説のピッチャー。82年6月8日没
※6 グッデンとかクレメンスとか
ドワイト・グッデン(64年生まれ)、ロジャー・クレメンス(62年生まれ)、共にヤンキースなどで活躍したメジャーリーグを代表するピッチャー。通算成績は、それぞれ194勝と354勝
伊良部秀輝の“遺言”「日本に帰りたいです。英語も話せないし」
――ヤンキース、エクスポズ、レンジャーズ、そして阪神タイガースの一員として日本に戻りました。星野監督から声を掛けられたんですよね?
伊良部 その前の年、エコノミー症候群でリタイアして、半年間リハビリが必要だったんです。それなのによく呼んでくれたなぁと。
――星野さんと面識は?
伊良部 なかったです。
――阪神ファンだったんですか?
伊良部 育ったのが尼崎だったんでね、周りがそういう環境ですから。あの歌、「六甲おろし」もまた盛り上がるような歌じゃないですか。
――帰国して戸惑いはありました?
伊良部 なんでこんなにボールが飛ぶんかなと。今年からはだいぶましになったんですか? 当時はすごかったですよ。打球が速くなるんです。ショートゴロを打たせたはずやのに、なんで三遊間抜けるのって。
――阪神では、03年に13勝を挙げて、チームはリーグ優勝。そして05年に引退します。その後の活動については日本ではあまり知られていません。アメリカでうどん屋を経営していたんですよね?
伊良部 阪神のときは、家族をアメリカに置いて、単身赴任だったんですよ。引退後、こちら(ロサンゼルス)に戻ってきた。高校の同級生から、近くにおいしいうどん屋がないので一緒にやらないかと誘われたんです。ぼくは高校(尽誠学園)のとき、香川でおいしいうどんを食べているじゃないですか。それだったらいけるんじゃないかと。
――立ち上げはいつですか?
伊良部 05年の9月。そして07年に土地のリース契約が切れたので、そこで閉めました。
――その後、09年に独立リーグの選手として現役復帰しました。しかし、昨年2度目の引退。原因は?
伊良部 腱鞘炎です。手首を壊しました。原因はスライダーです。スライダーを投げなくてよかったんですね。昔から投げていたら、もっと早く壊れていたかもしれない。今も手首が痛むんです。朝起きて、布団をめくるだけでも痛いときがある。
◆監督の器ではないことはわかっています
――最近は何をされてますか?
伊良部 何もしてませんよ。近所の子供に野球を教えるぐらい。あとはたまに、草野球に顔を出してます。
――コーチや監督をやる気は?
伊良部 監督の器ではないことはわかっています。コーチ? 日本で雇ってくれるところがあるかなぁ(苦笑い)。三軍のピッチングコーチならばできるかな。
――三軍のピッチングコーチ?
伊良部 二軍でも投げさせて貰えないピッチャーとか、3年も4年も二軍を教えるコーチ。一軍で調子を崩したピッチャーの面倒を見たり。メジャーでは巡回コーチと呼んでいて、ぼくもお世話になりました。
――ヤンキース時代ですか?
伊良部 そうです。なぜそういうコーチが必要かというと、下手したらピッチングコーチって、2年おきぐらいに代わってしまうんです。前のコーチはこう言うていたのに、新しいコーチは全然違うことを教えると、パニクっちゃうんです。選手一人に対して教えるコーチが何人もいたら、良い結果は生み出さない。この選手はこのコーチに任せると決めて、長期間教えさせたほうがいい。
――日本にはそうしたコーチはいないですね。
伊良部 ブルペンの横でコーヒーでも飲みながら、和やかな雰囲気で選手と話をして、みたいな感じがいいですね。迷っている選手とじっくり話をして、何に迷っているのか、ぼくが知っている範囲で答えたい。それでそのプレーヤーがよくなれば嬉しいですね。
――また、現役に復帰する気はないんですか? 手首を治せばまだ投げられるんじゃないですか?
伊良部 フフフ、もう無理です。お腹いっぱい(笑)。
――このまま日本に戻らず、アメリカに永住する予定ですか?
伊良部 家族がこちらの生活がいいと言っているんで。ぼくとしては日本に帰りたいです。英語も話せないし。もし話せたとしても日本がいいですね。日本が好きですから、テレビ番組も面白いし、四季もあるし。
――どんな番組が好きなんですか?
伊良部 バラエティです。松本人志さんとか面白いじゃないですか?
【伊良部秀輝】
69年、沖縄県生まれ。その後、兵庫県尼崎市で育つ。高校時代に甲子園に2度出場。87年ロッテオリオンズにドラフト1位で入団。98年アジア人メジャーリーガーとして、初のチャンピオンリングを獲得。2010年、高知ファイティングドッグスを最後に引退
取材・文/田崎健太
==============
自宅に遺言状 LAの「東本願寺別院」に納骨…伊良部さん自殺
(2011年7月31日06時00分 スポーツ報知)
日米通算106勝を挙げ、米ロサンゼルス近郊の自宅で亡くなった伊良部秀輝さん(享年42歳)について、ロサンゼルス郡検視局は29日、検視の結果、首をつっての自殺と断定したと明らかにした。現地の親しい知人によると、自宅から遺言状が発見されたこともわかった。
伊良部さんが、生前に遺言状を残していたことが30日、分かった。足しげく通っていたロサンゼルスのリトル東京(日本人街)にある「東本願寺別院」に納骨してほしいことなどがしたためられていたという。
日本時間29日にロサンゼルス軍保安官事務局当局者が、自宅内で発見された死体が伊良部さんのものと断定。伊良部さんの親しい知人によると、検視の結果、事件性はないものと判断され、遺族、関係者の自宅内への立ち入りが認められた。その結果、初めて遺言状が見つかったという。
日本時間の8月2日に、ロサンゼルスで親族だけによる密葬が営まれることも決まった。遺骨も本人の希望通り、実父の母国である米国、ロサンゼルスに永久に眠ることになる。
◆阪神、ロッテが試合前に黙とう ○…伊良部さんがプレーした阪神とロッテが、哀悼の意を示した。阪神・横浜戦(甲子園)とロッテ・楽天戦(QVCマリン)の開始前に、黙とうがささげられた。03年に13勝(8敗)して18年ぶりリーグVに貢献した剛腕に対し、阪神の選手、首脳陣はユニホームに喪章をつけて試合に臨んだ。沼沢球団本部長は「一緒にやった仲間も多いし、ファンも多いのでいろいろ検討しました」と理由を説明。88〜96年までプレーしたロッテでは、球場の大型ビジョンに往年の雄姿を映し出した。
===============
〈来栖の独白〉
惻隠の情、抑えがたい。昨年だったか、日本の独立リーグでやる、という報道に接して、ああ、よかった、と喜んだのだったが・・・。どんなにか野球をやりたかったことだろう。思うようにいかないものだ。異国で、自ら死を選んだ。伊良部よ、伊良部秀輝よ。