承之章
1. 農業嫌い
高校に入学してから背丈が伸びました。十センチくらいは伸びたでしょうか。食欲も人一倍旺盛で、昼の弁当を食べても満腹感は束の間でした。それに多少、貧血気味だったのか、午後の実習はとても辛く、ひだるさも手伝って、よく目が回る思いをしたものです。
たいていの者は、実習に備えて校内食堂でカレーやうどんなどを弁当以外にも食べていました。そういう中
で、私は、私の少ない小遣いでは級友と同じようには、食べたくても食べられなかったのです。
月五百円の小遣いはあっという間になくなり、うまそうに食べる級友に羨望を募らせながら、ひもじい思いで実習に耐えていたのです。
家の仕事さえ手伝っていれば、毎日のうどん代くらいは貰えていたかも知れません。だが、父への反感もあり、また実習後のクラブ活動でくたくただったこともあり、どうしても農業を手伝う気持ちにはなれなかったのです。
ここで、ちょっと横道にそれますが、私がなぜ農業を嫌いだったか、その理由の一端について触れておきたく思うのです。百姓仕事のバカらしさというものを見せつけられた体験があるからです。
それは、夏休みのことでした。宿題に「家庭菜園」というのがあり、私はトマト栽培に挑戦したのでした。教科書を片手に肥料の三要素(窒素・燐酸・加里)の配合を細かく秤量しての土壌作りからのスタートです。発芽に喜び、最初は渋々だったのが、カンカン照りにも負けず汗みどろになって、その育成に精魂を注いだものです。その結果、トマトは見事に実ったのです。たわわに実ったトマトを手にとってかみしめた味は、もちろん天下一品でした。
作業工程、育成に要した経費を算出し、その結果割り出した採算に胸を躍らせながら、少ない日でも二十数個余り、多い時には百個余りも収穫し、せっせと市場に出荷しました。でも、しかし生産者の庭先相場とは大違いで、それらの汗の結晶は第三者の仲買人の手によって値踏みされ、労苦にはとても及ばない安値で引き取られるのです。馬車馬のように働く百姓仕事なのに、それを・・・・これほど理に合わない労働はない、と思い知れされたのでした。そうやって私は、並大抵でない親の苦労を知りました。だけど、手助けしてやろうという気持ちよりも、労する割りには引き合わない採算に嫌気がさし、そのことがさらに私を農業嫌いにさせたのでした。
話を元に戻します。吹奏楽部の仲間に、いつも千円くらい所持している人が二人ほどいました。同クラスというよしみから、ちょいちょいパンやらうどんをおごってもらっていたのです。あんまりおごってもらっても返せないという思いがあったのですが、実習後に控えたクラブ活動に備え、ひもじさからついつい甘えてしまうのでした。それが悩みのタネでした。あまりおごられっ放しでは申し訳が立たず、どうやって返そうかと思い悩んでいたのです。それで、親のご機嫌をうかがい、何度も母に無心しようと意を決したのですが、「無駄な金を使わしやがって」という父の言葉を思いだすと、その気持ちもたちまち萎えてしまい、言い出せずにひとり悩むのでした。
2. 転落
そんな日々が続いたのです。そのうち、どうせ親に無心できないのなら、いや無心して叱られるくらいなら自分で都合してみせる・・・と考えるようになったのです。
(お金はなくても食券さえあれば・・・)
そう考えたことが、そもそもの間違いでした。
私は夜間には無人となる校内食堂に侵入すべき方法を画策するようになっていたのでした。食券さえあれば友達に気兼ねしなくても済む、という気持ちでしたから、かりに現金があっても食券以外は盗むつもりはありませんでした。もっとも、食券だけなら、何回侵入して盗んでも分からないだろうが、現金を盗めば発覚しやすく、せっかく盗んだ食券も使用できなくなってしまうという狡猾さも私にはあったのです。しかし、いずれにせよ、人のものを盗むという悪事を働いたのはこの時が最初でした。
校内食堂から盗んだ食券を友達に、おごってくれたお返しだといって、数回渡しました。その友達はどことなく落ち着いていて、男兄弟のない私には、兄貴のような暖かさを感じさせる人柄でしたが、食券の件を不審がられて私は悪事を打ち明けたのでした。ところが、彼は私の悪事を咎めないばかりか、むしろ積極的になり、二人して食堂に侵入するようになったのです。二人になったという心強さから、手口も大胆になり、文房具にまで手を出すようになったのでした。
共犯という連帯感から、二人はさらに打ち解け合いました。そんな彼から私は、別の悪事つまり車を盗む手口、それに車の運転方法を教わったのです。それが私の転落の、本当の始まりでした。
当時の車にはハンドル・キーといったものはなく、エンジン・キーを直結するだけで、いとも簡単に盗むことができたのです。窓ガラスをこじ開け、二本の針金で素早く直結しては静かに車を移動させ、所有者に聞こえない場所でエンジンをかけて盗み出すといった方法でスリルを満喫していたのです。それまで全く運転経験のなかった私でも、教わったとおりの操作をするだけで簡単に運転ができ、それからというものは車に魅せられ、ほとんど毎日といってもいいほど自分の方から友達を誘うようになったのです。
当初はただ無性に運転がしたいだけで、盗んだ車にいたずらすることもなく、必ず元の場所に戻していました。ですから同じ車を三回盗んだこともあります。車も乗用車に限らずライトバンありトラックありで、車種も多種多様でした。こうして二人で何台か盗んだころには、私も独り立ちができるようになり、昼間学校で会えば「今度は俺が盗んでおまえの家へいくさかい、起きて待ってろよ・・・」と、相互に時間を示し合わせては毎晩のように深夜ドライブを楽しんでいたのです。
やがて、ただ乗り回すだけでは飽きたらなくなり、カーステレオやラジオなどの装備品を盗むようになり、それにつれて車も次々と乗り捨てるようになったのです。しかも盗んだ品物を何食わぬ顔で同級生に売り捌いて小遣い稼ぎをするまでになっていたのでした。その金銭欲はさらにエスカレートし、もっと簡単に金を手に入れる方法はないものかと考えた私は、ついに単独犯行で、ひったくりをするようになったのです。
こうして、食券さえあればといった発想は、いつの間にか現金を専門に狙ったひったくりにまで急速にエスカレートしたのです。この頃すでに加速度的に、転落の一途をたどっていたのでした。
3. 少年院
高校二年生の時に私が犯したひったくりは二十数件にものぼりました。手口が次第に乱暴になり、そのことは、通行人を棒で殴り昏倒させた隙に持ち物を奪うといった強盗傷害事件の一件を取り上げて見ても判然としているのです。だが、二十数件と数が多い割りには入手金はさほど多くはありませんでした。そして、多数の人たちを泣かせた私の悪運も、そう長くは続かなかったのです。
警察は、連続して発生するひったくり事件の検挙を目指して警戒を強めていました。そんなことも知らない私は、その日の夜も、ひったくりを実行すべく暗がりに身を潜めていたのです。そこに二つの人影が近づいてきた時には逃げる余裕すらなく竦んでしまいました。悪運が尽きたのでした。
捕まった私は、自分の犯した罪に目覚め、悔恨の涙して連日の取調べを受けていたのです。共犯のいることまでは黙っていようかとさんざん迷いましたが、友達にはすまないと思いながら、とうとう行動を共にした悪事の一切を名指しで告白したのでした。
たしか一週間余り経った日のことだと記憶しています。畳敷きの取り調べ室で調書を取られていた私は、「僕が全部しゃべれば退学にはなりませんか。いえ僕だけでなしに友達も・・・」
と、高校の退学だけは何としても免れたい気持ちがあったので、何度も刑事に訊ねました。すると刑事は調書の手を休めて、「おまえのやったことは悪いことや。そやけど、隠さんと全部正直に話したらすっきりするし、罪も軽うなるんや」
と、やさしく言ってくれたのでした。しかし同時に、私には退学どころか少年院に送られるのではないかという不安も次第に増していたのです。
「悪いことをしたのは僕やけど、少年院だけは絶対に行きとうないんです。退学はしゃあないけど、少年院だけは・・・」
少年院に送られさえしなければ、かりに退学になっても、もう一度復学してやり直せると考えていたのです。
「心配いらん。送られへん。今はそんなことより正直に全部話すことだけ考えることや。高校もうまくいけば停学で済むかも知れんしなあ」
刑事が、そう激励してくれたので、私は涙して喜んでいたのです。
京都鑑別所へ移送されて審判を待つ心細い不安の日々も、そんな刑事の言葉を心の支えに送っていたのでした。
そんな、ある日のことでした。面会にきた父から、ほとんどの被害者に被害金額の弁償を済ませたことや、私の友人をはじめ被害者本人からも沢山の嘆願書を頂いたことを聞かされました。また家裁には不必要な弁護士まで私のために雇ってくれたことを知り、失った生気をしばらくぶりに取り戻せた思いでした。
それにしても父には申し訳ないことをしてしまったものです。父は差し迫った審判までに弁償を間に合わせようと、山や田畑を相手の言い値で売却せざるを得なかったのです。先祖代々受け継いできた田地田畑を今日まで守り通してきた父母の無念を思うと、胸がしめつけられる思いです。その掛け替えのないお金を、私の身勝手が引き起こしたことの弁償に当ててくれたのでした。
父の面会があった翌日だったか、私は私の心情をくまなく担当さんに打ち明け、いろいろ相談したのでした。
「初犯だから試験観察か保護観察で帰れるだろうから、そう心配しなくてもいい」と担当さんは言ってくれました。その言葉が身に染み、私はもう頭から帰れるものだと思い込んでしまい、残るは高校が退学にならぬよう祈るばかりの心境となったのでした。年の暮れのことでもあり、同じ帰れるのなら正月は家で迎えたいと、気持ちはすでに自宅に帰っていたのです。
ところが、突如として退学処分になった旨を知らされてガックリ肩を落としたばかりか、十二月二十四日の審判では、よもやとも考えていなかった少年院送致の宣告まで受けたのでした。
4. 半狂乱
刑事の言葉をそのまま信じていた私は、うぶの一語に尽きるのでしょう。たしかに少年院送致に至当な犯罪だったのかも知れません。しかし、刑事や担当さんの言葉を十七歳の胸で信じ切っていたばかりか、田畑を処分して被害弁償に充当し、予測しなかった嘆願書や弁護士まで揃えて万策を講じてくれた父母に感謝しつつ大船に乗った気持ちでいた私は、純粋な心持ちで罪を悔い改め、高校への再出発に真剣に意欲を燃やしていたのです。それが・・・立て続けに受けた二重のショックはあまりにも大きく、いっそ死んでしまいたい思いにかられ、半狂乱に取り乱す私でした。
ところで今回、私の罪の一切の記録を検察のはからいですべて開示して頂け、その膨大な記録全部に目を通すことができました。その中に、審判までの経緯を『送致文』で初めて知ることができました。その送致文には、次のとおりに記されています。
送致文
一、昭和四十年の段階では、性格は幼児的性格に加えて脅迫的攻撃的で、非行内容は無情性傾向を示している。
二、犯罪情状等に関する意見
被疑少年は非行歴を有しないが、在学中であるにもかかわらず本件を敢行したものであり、性短気怠惰にして他にも本件同種のひったくり、あるいは官公署荒らし、車上狙い等の窃盗犯罪を重ねており、両親は稼働中で監護能力なく、再犯の恐れが十分あるので、中等少年院送致を相当と認める。
三、被害額
被害総額 1,180,961円
被害回復額 1,038,300円
実被害額 142,661円
四、犯行期間
自 昭和40年 4月 7日
至 昭和40年11月18日
五、犯行件数
窃盗 23件
同未遂罪 1件
となっており、ちなみに鑑別所内での観察結果は、『表情態度常に暗く、元気がなく積極性に欠けているが、指示には素直であって、整理・整頓・服装面はきちんとしていた。審判の結果、中等少年院送致決定となったときは、相当ショックを受けたようで、「自分は正直に事件を述べた。隠そうと思えば隠せた」と理屈に合わないことを言って泣いてばかりいた』となっていました。
過ぎ去ってもはや二十余年も昔のこととはいえ、実に情けない思いで読ませて頂きました。自分が全面的に悪いのだと深く反省し、もう一度やり直そうと思い、刑事の言葉を信じて洗いざらい打ち明けたのでしたが、刑事の言葉がまるっきり裏腹だったことが分かり、腹が立つというより実に情けない思いなのです。
それに、たしかに両親は「稼働中」でした。ですが、貧しい農家ではどこの家庭でも親は働いているのです。遊んで暮らせるほど余裕のある農家なんて一軒もないはずです。それを、稼働中であるから監護能力がないと決めつけ、一方、私の涙して罪を悔い改める気持ちは一片も汲んでもらってはいなかった---と思うと悔しくてならないのです。
こんなこと今の私には口にする資格はないのですが、少年院に送ることがその人間を更生させるのに万全な策とは言えないと思うのです。事務的な処理で頭から少年院送致を決める前に、両親と共に今後を語らう場を設定して頂くなり、また少年犯罪を担当する大人の刑事がもっと親身になって私の心の中を見極めてほしかったと、残念な気がしてならないのです。
むろん私は、私が生きる価値すらない、人間の屑だということは自覚しています。しかし、少しでも私の体験が生かされることを切に願う心で、十七歳当時のことを書かせて頂きました。
5. 陰口
大阪府の和泉少年院に収容されたのは、昭和四十年のクリスマスイブの日でした。親元を遠く離れたことのない私は、入院後の十日間余りは虚脱感に襲われていました。「たった半年じゃないか。元気を出して頑張れ」と、先生から再三励まされましたが、長い半年でした。
落胆する私を激励しようと、父母は片道2時間以上も電車に揺られながら繁々と足を運んでくれたのです。たった三十分の面会のために、また一本のようかんを差し入れてくれるために、仕事まで休んで遠路を来てくれたのです。そんな父に、ごめん、の一言も私は言えなかったのでした。
昭和四十一年の七夕の日、私は少年院を退院しました。坊主頭で半年振りに帰宅した私は、隣り近所に対する気恥ずかしさから三週間ほどは自宅で無為に過ごしていたでしょうか。その間、訪ねて来てくれた親戚や近所の人から、何回となく慰められたり、勇気づけられたりしたのです。私は心から人生の再出発に奮起したものでした。
満十八歳になって直ぐ私は、自動車学校に通いました。運転免許があれば、就職するにもそれだけ優遇されるだろうと考えたからです。一方、この頃は私に対する以前の厳格さがなくなった父に勧められて、父が働いていた「N車体」というトラックのボディー製造会社に就職しました。父に骨折ってもらい、希望する配線関係の職場に配属されて、私は満足でした。ですから初めは、忙しい時には遅くまで残業をし、真面目に働いていたのです。父と共にガス溶接の資格も取得しました。
ところが、そのことは父から聞かされていなかったのですが、この会社には、私が少年院上がりであることを知る同郷の人が十余人も勤務していたのです。そのことが分かって、私はいくぶん動揺しましたが、それでも、百人以上も働いているうちのごく一部の人なんだから、と気を取り直して真面目に働きました。多少の陰口には耐える気構えでした。それよりも自分を入社させてくれた父には絶対に気詰まりな思いをさせてはいけない---さんざん親不孝を重ねた私は、今度こそ真面目になって親に報いようと真剣に思っていたのです。
そんなある日、就業中の更衣室から財布が盗まれるという窃盗事件が発生したのでした。
嫌疑が私に向けられました。「あいつと違うか。こんなこと今までいっぺんもなかったのになあ」などと、ヒソヒソ話す年配者の声に至極惨めな思いをしました。だけど、犯人が捕まらない限り、私の身の潔白を知ってもらえません。毎日が陰鬱で、とてもやるせない思いです。
(俺やない。俺はいっぺんも更衣室には入っていないぞ・・・)
そう呟きながらヒソヒソ話を黙って聞き流すほかなかったのでした。神経過敏だったかも知れません。だが、誰一人として、過去持った私に、心やさしい思いやりのある声をかけてくれる人はいませんでした。心機一転の決意で人生をやり直す心構えでしたが、いざ社会に飛び立ってみると、世間の不人情をいやというほど教えられたのでした。
それでも一生懸命に耐えたつもりです。心の中で、このまま会社を辞めたら父にすまない、と何度も自分を叱咤しながら耐える努力をしたのです。無情にも、その後も、更衣室のロッカー荒らしが二、三件続発してしまい、就業後の更衣も、貸与されたロッカーがありながら近づき難く、もはやどうしようもないところまで追い込まれてしまったのです。いつしか仕事に対する責任感や意欲も消えてしまい、通勤の足として父から買ってもらった車を乗り回すことで心のうさ晴らしをするようになったのでした。
遅刻、欠勤を繰り返し、もうこの頃は父は以前の厳格な姿に戻っていました。しかし私は、「俺がこんな容赦ない侮蔑のまなざしを受けているのに、ちっとも分かってくれない。なのになぜ俺が父ちゃんの気持ちを汲まねばならないんだ」と反感を抱くばかりでした。そしてついに、自制できぬまま、父の顔に泥を塗って会社を辞職してしまったのです。
そんな私に父はなおも職を紹介してくれました。しかし、結局三回とも父の顔をつぶすばかりだったのです。周囲の人が白い目で見ているという意識がいつもあって、長続きしなかったのです。
6. 家出
職場を転々と渡り歩いた私は、仕事への意欲をすっかりなくし、なにもかもが嫌になってしまったのでした。ついて回る烙印に苦悩し、神経がすっかり衰弱していました。ささいなことにもかんしゃくを起こし、私は一種の人間嫌いになっていたのです。
そんな時、車を暴走させることが私の一番の気晴らしでした。車の月賦代、ガソリン代はもちろん、自己の修理代や交通違反の罰金などあらゆる費用を親まかせにしては気随きままに車を乗り回していました。一瞬にして死に直面するような猛スピードでブッ飛ばすことに快感を覚え、町中をわがもの顔に走り回ったものです。通行人の驚愕に興が乗っては違反を繰り返す、という無軌道ぶりでした。荒んだ生活でした。
また私はこの頃、地元近くで働く気詰まりから逃げて、山中に身を隠したことがあります。砂利採取現場で働いたのです。
誰にも干渉されない山奥での単身生活はとても気楽でした。他人の目を意識することなく、また、烙印を取り沙汰される心配もありませんでしたから羽根を伸ばして働くことができました。
ところが、この職場は、三カ月余りしか続きませんでした。砂防指定地での違法採取とかで府庁から手入れを受け、操業停止に追い込まれたからです。私にとっては初めての憩いの職場でしたから、操業中止はショックでした。誰もいなくなった山で独りぼんやりと座り込むほどでした。失業の寂しさ---というものを、初めてしみじみ感じたのでした。
山に未練を残す私は、その後も、二ヵ所の採取現場に働き口を求めましたが、あいにく人手には事欠かないと断られ、ついに下山を余儀なくされたのでした。
次に就職したのはA建材という建築資材の販売店でした。社長は多少口調が乱暴で、労働条件も良くはありませんでしたが、過去を気にせずに働ける気安さみたいなものがあったので、勤めることにしたのです。しかし、二ヵ月ほど働いた頃のことですが、偶然に出会った知人から「おまえいつからやくざになった?」と聞かれてビックリしてしまいました。やくざの息がかかっている社長だったのです。それを知り、私は怖くなってしまい、翌日から出勤しませんでした。
ちょうどこの頃でした。中学時代の同級生だったI君が足の骨折で入院中と聞き、見舞ったことがありました。その時、失業中であることを告げた私にI君は、大阪で鉄工所を営む従兄が人手を探しているという話をしてくれたのです。私は迷うことなく就職のとりつぎをI君にお願いしたのでした。
その翌日でしたか、早速I君は従兄のMさんを紹介してくれたのです。Mさんは、私の過去のことについては当然I君から聞いて知っているはずなのに少しも嫌な素振りを見せませんでした。そればかりか無一文の私にMさんはアパートまで準備して下さるとのことでした。私はその場で、Mさんの鉄工所で働こうと決心したものでした。
ところで、その当時、私には交際中の女性がいました。翌日にも家を出ようと決心した私は、彼女に会ってその旨を伝えました。
「落ち着いたらおまえも呼んでやるさかい、それまで待っていてくれ」
と告げたのです。彼女に未練があったのですが、自分一人でも不安がある大阪に彼女まで連れて行って生活する自信がありませんでした。しかし彼女は、大阪と知っても動じないばかりか、親の反対を押し切ってでも一緒について行くと言ってくれたのでした。
こうして私は、彼女を連れて、右も左も分からない不安いっぱいの都会へと飛び出したのです。
7. 同棲
大阪市生野区の「青森アパート」で、二十歳になったばかりの私と、十九歳の彼女との同棲生活が始まったのは、確か昭和四十三年九月頃でした。
アパートといっても、ごくありふれた民家の二階を三部屋に改築しただけのもので、陰気な六畳一間です。便所は悪臭を放つ汲み取り式で、もちろん風呂などはついていません。小さな流し台を配しただけの部屋は、窓が小さく陰湿で、南京虫との相部屋でした。
生活は楽ではありませんでした。彼女も近所で女工として働き、共稼ぎの収入がありましたが、なにしろ初めて経験する自活ですから、わからないことが多いのです。家賃は当然のことながら、ガス・電気・水道・汲み取り費・共益費・銭湯代など、食費以外に予想外の出費があることに悩まされました。汗と油で汚れる旋盤工の私には毎日の銭湯行きは不可欠でしたが、「私はいいから」と言ってわずかな入浴代も倹約する彼女でした。なのに、なぜか貧困からは抜け出せなかったのです。たった百円の金に困って家賃が払えず、真っ暗な部屋で二人で居留守を決めたことも度々ありました。
十円の金に困る彼女を見ていながら、Mさんに前借を申し込むなりして工面してやることさえ出来ない意気地なしの私でした。生活が苦しいからと簡単に音を上げて田舎に戻るわけにはいかない、意地でも困窮に耐え抜くしかない、と偉そうな私でした。でも、心の中では、いつも彼女に詫び、耐えてくれている彼女に感謝していたのです。
あれは日曜日の夕方でした。
仕事は休みです。私達は給料日前でお金がなく、朝も昼も食パンで空腹を凌いでいました。昼食は、残しておいた一枚の食パンを二人で半分ずつ食べただけでした。明日になればなんとかなるだろうと夕方まで我慢していたのですが、やはり半分のパンではどうにも辛抱ならなくなり、私は彼女に「電話をかけて来る」とだけ言って部屋を出ました。親に無心するつもりでした。
しかし勝手に家を飛び出しておきながらいまさら親に無心すれば「それみよアホが」と邪険にあしらわれるのがおちです。そう臆病風に吹かれた私は受話器を片手にダイヤルは回せず、やはりMさんに頼むしかないのかと、とぼとぼアパートへ引き返すしかありませんでした。
その時でした。買い物かごを提げた彼女の後ろ姿を前方に見たのです。
あれっ、おかしいな、という疑問がありました。彼女の財布の中には、交際中に縁起をかついで私が渡した五円玉とその他三、四枚の一円玉しか入っていないはずなのです。買い物かごなど提げられるわけがありません。私はホームサイズのコーラと食パンjを手にニコニコする彼女に、
「どうしたんや、そんなお金?」
と問わずにいられませんでした。いや、金があったならもっと早く出せ、と怒鳴りつけてやりたい心境でした。しかしそんな私に、「ヘソクリがちょっと残っていたの」と彼女は言うだけです。パン屋に無理を頼んでツケで買ったのか、そんなふうに考えてみたのでした。
翌朝、仕事に出掛けた私は、Mさんにとりあえず二千円を前借しました。帰りにパン屋へ寄りました。前日は彼女が私のために恥を忍んでパンを買ってきてくれたのだから、今度は逆に「払っといたぞ」といって彼女の厚意をねぎらってやろうと思ったのです。ところが、パン屋のおばさんから「コーラと牛乳の空き瓶を持って来られ、食パンと交換してほしいと頼まれたんですよ」と、意外な事を聞かされました。さらに、「若い娘さんが恥ずかしいとも思わないで瓶を出される姿を見て感心したので、気の毒でしたからコーラも差し上げたのですよ」と言います。しかも、「前にもこんなことが一度ありましたよ」と私は知らされたのです。
二の句が出ませんでした。思わず目頭が熱くなってしまいました。同棲生活に破綻をきたさぬよう、私には心配させまいとする彼女に頭が上がらない思いでした。
(こいつだけは何としても幸せにしてやらんとあかん!)
彼女に二度と恥ずかしい思いをさせてはならないと強く思いました。私は急遽、転職を決意したのです。少しでも高給を取れる仕事をしようと考えたのです。
8. 不正
Mさんの鉄工所を辞めたあと、大阪・城東区内の「福栄荘」という鉄筋のアパートに引っ越しました。便所は水洗共同で風呂無しですが、南に面する六畳一間はとても日当たりが良く、「青森アパート」とは雲泥の差で、彼女も大変喜びました。
新しい就職先はSレンタカーでした。当時私の運転免許証は取り消し処分になっていましたが、彼女が普通免許を取得していたので「二人で一人前です」と応募したところ案に相違して就職が決まったのでした。仕事時間は朝の八時から夜九時までと長く、洗車に追われる毎日は決して楽とはいえませんが、二人して同じ職場で働けることに大満足でした。そのうち、真面目に働くおしどりの便利さをかわれたのか、布施営業所勤務の私達は新店舗オープンの関目営業所に転勤させられ、おかげで通勤距離が一層近くなり何一つ不満はなかったのです。
生活も贅沢さえしなければ食うに困らず、二人揃って毎日銭湯にも行けるようになり、ただ一つの道楽として好きなプラモデルの組み立てに興じることができるようになったのです。さらにある日、営業所に隣接する喫茶店でウエイトレスの募集があって、彼女がそこで働くようになってからは一段と経済的な余裕ができ、大阪に飛び出して以来やっと落ち着いた生活ができるようになれたのでした。
彼女と私はその喜びを「お前のお陰や」「あんたのお陰よ」と互いに讃え励まし合っては涙を流したものです。
ところが、関目営業所で二ヵ月勤務した頃でした。所長のSさんから「勝田君、ええ金儲けがあるんだが・・・」と誘われ、、つい欲に目がくらんでしまったのです。金儲けとはレンタカーの不正貸し出しだったのです。その片棒をかつぐ羽目になったのでした。
不正貸し出しの手口は、伝票操作でした。伝票とは、車を借用する客の住所・氏名・免許証番号等を記録する、いわば賃貸契約書の類いなのですが、この伝票が各営業所に十冊ずつまとめて配備されていました。一冊目が百枚綴りの伝票十冊には通し番号が付されているのですが、十冊目を使用するには丸一年以上もかかります。S所長はそこに目をつけ、十冊目の伝票を使って不正を働くことを思いついたのです。つまり事故を起こしそうもない客を選んで、十冊目の伝票で車を貸し出してはその売上金を全額拐帯するわけです。ですから棚卸しの際には露見必定なのですが、「わしが十冊目の伝票は最初から配備されていなかったと言えば済む」と言うSさんでした。
私は、上司でもあり所長でもあるSさんのそうした不正を黙認することで拐帯額の半分をもらっていたのでした。ところが、不正行為を十回くらい続けた頃でした。何の内示もなく突然、奈良営業所への転勤を社長から命じられたのです。なぜ自分だけが左遷同様の転勤を命じられ、かたや張本人のSさんが安泰でいられるのか釈然としないまま奈良へ引っ越したのでした。
奈良転勤を命じられた時、私はSレンタカーを辞めようかと思いました。N車体当時の苦い経験が脳裏に甦り、職場が替わっても白い目で見られるような気がしたからです。それに実家に近くなるのも嫌でした。でも、次の職が見つかるまでは辛抱しよう、給料も少しはくれるだろうと思い直し、引っ越したのでした。結局は、ひと月ほど働いて奈良営業所を辞める時には一銭の給料も貰えず、拐帯額と相殺しても私の損失のほうが大きかったのです。
9. 結婚式
かくして私がD陸運という運送会社に入社したのは昭和四十五年二月のことでした。運転免許証のない私は最初トラック助手として勤めました。作業員は私を含めて七人で小規模な会社でしたが、雰囲気が明るく、働いている人も陽気な人ばかりでした。家庭的なムードを好む私には願ってもない職場であり、また私の過去を知る人は誰もいなかったので、大型トラックの助手をしていた時から、正社員になろうと決意していたのです。
ちょうどこの頃、父が結婚式を挙げろと私達に言ってきたのです。私との交際を当初反対していた彼女の父親も同棲という既成の事実を前に、もはや諦めたらしく、娘をもらってくれと父に言って来たらしいのです。体裁にこだわる私の父は、それ以来何度も挙式を催促するのでした。
当時の私達は奈良市南京終(みなみきょうばて)の新築のアパートに住んでいました。その入居資金の三十万円をD陸運の社長から前借していたのです。そのような経済状態でしたから私は、蓄えができてから挙式をやりたいと、父の申し出を強く拒みつづけました。
父に車を買ってもらった時、かなり恩に着せられた経験があるので、挙式は自分の力で何とかしたいという気持があったのです。それで彼女の父親にも会ってしばらくの間待ってくれるようお願いしたのですが、私の父には納得してもらえず、結局は無理強いの挙式となったのです。
それはともかく、こうして昭和四十五年三月、私達は晴れて夫婦となったのです。粉雪がちらつく寒い日でした。そして四月に運転免許を再取得してから本格的に私のトラック人生が始まったのでした。
運転手という職業は、ひとたび会社を発てば誰からも干渉されることなく、伸び伸び働けるという気楽さがあるのです。つまり、寝ようと走ろうと時間の許す限りは束縛されず、自分が社長といった気分でいられるわけです。それに絶大な魅力は給料でした。彼女と共稼ぎだった頃と比較すればおよそ倍の所得があったのです。労働時間に限っては不規則の極みでしたが、そんなことは一切無頓着です。
進取の気性を発揮し、東は千葉・埼玉から西は九州宮崎まで長距離輸送は一手の意気で、東奔西走していたのです。不本意な人生に挫折し、人間嫌いの心境から一度は遠く奈良の地を離れた私でしたが、今は生き甲斐を感じ日々でした。これもひとえに艱難辛苦をいとわず懸命に耐え抜いてくれた彼女のお陰だと感謝し、今後は働かさずに楽をさせてやろうと恩返しを心に誓ったのでした。
それに私は、将来への夢を、初めて持つことができたのです。というのも、その当時D陸運に傭車として出入りする人がいましたが、社長から仕事を委託されて多忙を極めていました。それを見て、自分も真面目に頑張っていれば信用がつき、独立した時に仕事がもらえるに違いないと思い、近い将来には小さいながらも運送屋を開くのだ、と心に堅く目標を抱いたのです。
過去に職場を転々とした私は、こうして、その日暮らし的な考え方ではなく、目標に向かって邁進する生き方を始めたのです。私にとっては初めて、意気に感じる人生でした。楽しかったし、やり甲斐も魅力もありました。昼休み以外は休まず、ひたすら精魂をこめて働きました。
10. 帰郷
酒を飲まない私は、当時、休日に同僚達とボーリングをする以外、これといった道楽は ありませんでした。というより、仕事に追われて遊んでいる暇が無かったというほうが正確な言い方でしょう。ただ、好きだった車だけは手放すことができず、維持費は相当に必要でした。
その車は友人二人から前後して購入した中古車二台で、いずれも古くて修理代には泣かされました。しかし二台とも長くは所有せずに分相応な軽四輪車に乗り換えたので、度が過ぎたボーリング以外の出費といえば、この軽四輪車の他、運転手は体力が資本であることから食道楽に糸目をつけなかったことくらいです。
ところで、実家に戻ることは私も妻も決して望んでいたわけではないのですが、この頃、一人娘の姉が結婚して家を出たため、父と二人暮らしになった母が、私達に同居を望むようになりました。母の、「お父さんも悪かった言うて反省してはる。帰って来い言うてはるさかい、帰っといで」という言葉に私は、(あの頑固おやじが妥協するとはなんと気弱になったもんやなあ)と、その好転にむしろ私の方が「いや俺も悪かったんや」と恐縮してしまい、妻の了承を取り付けた上で、親不孝の悔悟の念から自発的に同居に踏み切ったものでした。
しかし、母の言葉を丸呑みに優しい理想の父親像を描いて戻った私でしたが、父は同居後も昔とは変わっておらず、木で鼻を括ったような頑固さです。その態度に、私は唖然とさせられたのでした。不自由ない生活と、二人の憩える部屋を捨てての引越しだっただけに、あの言葉が母の一人芝居だったと知った時、妻に対する済まなさと軽信した自分の愚かさがあいまってひどく後悔しました。本当にいい面の皮だったのです。
父にとっては私の仕事が気にいらなかったのです。出勤が早朝であったり深夜だったりする不規則に加えて、二、三日帰らないことも間々あって一家団欒の食事など数えるほどしかない仕事は、父には正業とは認め難かったのでしょう。運転手家業を危険千万と決めつけて終始反対していました。
そうした父の愚痴にも似た説教に私が一言でも反対しようものなら、「誰のお陰で結婚式を挙げられた」「誰のお陰でこの家に住める」と決まって罵倒されるのでした。ですから二階で起居する私は、深夜勤務の時はわけても神経を使うようになり、またおのずと、自ら率先して長距離を走るようになったのです。なるべく父とは顔を合わすまい、という気持でした。
たしかに、危険な仕事だと私の身を案じてくれる父の気持は理解できなくもないのです。しかし、顔を合わせれば説教する父に、どうしても抗弁せずにはいられなかったのです。
父から相談を受けてか、叔父からも「正業に就け」と忠告されました。その折に、府事務所の会計係に一名の欠員があるから応募してはどうか、と執拗に勧められたことがあります。父からも先刻勧められていたのですが、地元で、しかも公務員になるなどは絶対に嫌で、私は頑として受け入れなかったのです。だが結局は説き伏せられてしまい、応募させられたのでしたが、その際に、私は履歴書に<少年院上がり>を明記して抵抗したのです。それが実ってか、府事務所からは何の音沙汰も無く、恥ずかしい思いを強いられただけで話は自然消滅したのでした。
11. 烙印
長距離をできるだけ控え、慎重運転を心がけるようになったのは、昭和四十六年六月に長男が誕生してからでした。長男の写真を肌身離さず持ち、写真を見ては父親としての責任と自覚を新たに、喜びをかみしめていました。
そんな私に父が今度は、地元に消防署ができる、という話を始めたのです。そして、いいチャンスだからと執拗に迫るのでした。私は働かずに遊びほうけているわけではないのです。好きな仕事に目標を持ち、真面目に働く私の足を、なぜ父は引っ張ろうとばかりするのか。
「まだそんなこと言うてんのか、ええ加減にせい!」
と、ついカッとして怒鳴ってしまったものです。そういう場合、父は決まって「ばかもん!!親に向かって何という口の利き方じゃ!親はいつでも子供のことばかり心配しているのに・・・」と言います。家にいると父とのいさかいが絶えず、それが嫌でついつい長距離へと家を空けるようになる私でした。
ところが、旗色が悪くなるとぷいと家を出てしまう私を知る父は、その矛先を妻に向け始めたのです。語らぬ妻でしたが、沈む態度やその仕草で私には容易にわかりました。かくして、公務員を執拗に勧める父を敬遠しながら妻子同伴で長距離を走ることも間々あったのです。父と私との間でジレンマに陥った妻が、長距離に出かける私の身が心配だと称して乳飲み子を抱いて助手席に同乗するようになったわけです。
そんな妻を見るに忍びなく、私は何度か、「家を出てアパートで暮らそうか?」と探りをいれたのです。しかし、妻は甘えたい心をのぞかせながらも「子供の将来のことも考えないと」と、軽挙妄動を慎む姿勢でした。 その頃です。隣町の加茂町において、女子行員が何者かに殺されるという事件が起こったのでした。すると、少年院上がりの私を真っ先に容疑者と決めつけて、刑事が職場にまで尋ねて来たのです。
あの日は確か、私が東京から会社に帰り着いたときでした。まだガレージにトラックを入れ終わらないところへ社長が近寄って来たのです。
「ただいま」と、車窓から顔をのぞかせて挨拶する私に、いきなり社長が、
「勝田!おまえ人を殺したやろ!」
と言ったのです。しょっちゅう長距離を走っていた私は睡眠不足勝ちで運転することも度々あったので、まさか東京からの帰路で気づかずに人を跳ねたのではないか、と本気でそう思ったほどでした。
「今、刑事が二人来て、お前のことを調べて帰りよったぞ・・・」
私はこの時になって、加茂町で発生した殺人事件で刑事が来たことを知り、自分が疑われているのだと直感しました。社長の目は、私を犯人だと疑いを抱いているような目つきだったのです。社長のその言葉を聞いて無性に腹が立ち「どこの刑事が来よったんや、名前は何という刑事や・・・」と、直ぐに警察へ怒鳴り込んでやろうと憤慨したのです。
社長への信望はおろか、将来への夢も刑事によってぶちこわされたように思えたからです。私の過去を、刑事は社長に、一切を暴露したのではないかという懸念が湧き起こり、実に業腹だったのです。
そして、「私達が来たことを本人には絶対に言わないで欲しい、と言うて刑事は帰りよったぞ」と、ねめるように言う社長自身の口吻からしても、社長が私を犯人だと断定しているに違いないように私には感じとれたのでした。つまり、二人の刑事から「本人には言うな」と口止めされた社長にしてみれば「勝田が犯人だから、刑事が来たことを知れば彼は逃走するかもしれない」と、暗に言い含められたようなもので、私をいぶかしげに睨みつけたのも当然だと思えたのです。
これで信用はまったくなくなってしまったに違いないと思うと、充実した気力もいっぺんに抜けてしまい、自分の将来に強い危惧の念を抱かずにはいられない気持でした。長男が生まれ、さらに頑張らねばと自分に発破をかけていた時だけに、実に悲哀な思いをさせられました。よしんば刑事の使命であっても、他人の信用を失墜させたり、幸せを剥奪する権限は断じてないはずです。あまりにも人を侮り、慎重を欠いた無責任極まる捜査に、私は我慢なりません。
社長は単なる聞き込みだと気楽に聞いていたかも知れません。しかし、少年院上がりの引け目を引きずって生きていた私は、いつ過去を知られるかを、その不安の中で常に戦々恐々としているわけです。それを知らない刑事ではないはずです。ならばなぜもう少し慎重にやってくれないのか、と思うのです。また来る、とだけ言い残し、名前も明かさない刑事に調伏してやりたいほど憤怒を覚えました。
◇ 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(1) まえがき 起之章
◇ 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(2) 承之章
◇ 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(3) 転之章〈前篇〉
◇ 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(4) 転之章〈後篇〉
◇ 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(5) 結之章〈前篇〉
◇ 勝田清孝の手記『冥晦に潜みし日々』(6) 結之章〈後篇〉