【日本経済の幻想と真実】「半沢直樹」はグローバル競争の負け組だ 世界から置き去りにされる日本企業の社内政治
JBpress 2013.09.26(木) 池田 信夫
TBS系列で放送されたドラマ「半沢直樹」が、大人気のうちに終わった。まるでリアリティがないのでほとんど見なかったが、ツイッターで「つまらない」と書いたら山のように反論が来て驚いた。
多くの視聴者は銀行の実務や不良債権の実態なんて知らないから、上司に「倍返し」で復讐する半沢はサラリーマンの憧れなのかもしれない。しかし気になったのは、登場人物がみんな内向きで、社内の人間関係しか関心をもっていないことだ。
*今も受け継がれる銀行の隠蔽体質
池井戸潤氏の原作(『俺たちバブル入行組』など)は、作者の銀行員としての経験を踏まえて書かれているので、ドラマほど荒唐無稽ではないが、気になったのは税務署や金融庁から不良債権を隠すことが正義のように描かれていることだ。
もちろん小説としては、上司の背任の証拠を見つけて金融庁に渡したのでは物語にならないから、それを隠して上司に復讐するところに面白さがあるのだろうが、これは法的には証拠隠滅という犯罪である。
これで思い出したのが、かつて私がNHKで不良債権問題を取材したときの銀行の隠蔽体質だ。たとえばイトマン事件は、山口組の企業舎弟がイトマンの常務になって3000億円以上の不正融資を行った大規模な犯罪だが、彼らがイトマンを食いつぶすまで表に出なかった。
その裏では「半沢」のように責任の押し付け合いがあったのだろう。銀行という閉ざされた世界では人事がすべてだから、背任や横領があっても、関連会社に「飛ばし」たり補填したりして隠し、自分の社内での地位を守ろうとする。
こういう極端に内向きの銀行の行動が、1990年代の不良債権問題を長期化させ、結果的に損失を拡大したのだが、池井戸氏の世代にまでその体質は受け継がれているのだろうか。
もちろんこれはドラマだから、現実の日本の会社がこうだとは言えないが、これが最高視聴率40%を超える大人気になったということは、日本のサラリーマン社会の一面を描いているのだろう。
*人間関係で動く戦略なき経営
「半沢」でもう1つ特徴的なのは、こうした争いや報復がすべて人事によって行われることだ。ここでは他の企業との競争は意識されず、自分がいかに出世競争に勝ち残るかが行動の基準になっている。終身雇用の日本企業では、いやな上司に出会うことは多いが、それをいかにやりすごし、それなりのポストにつくかが勝負だ。
こうしたサラリーマンの「あの上司に復讐したい」という潜在的な欲望を、半沢が満たしたと見ることもできる。どう考えても、現実のサラリーマン社会で、あんなに露骨に上司を敵に回す社員がいるはずがない。それがドラマとしてリアリティのなくなる原因だが、多くのサラリーマンはそれを見てスカッとするのだろう。
しかし人事というのは、しょせんゼロサムゲームである。社内政治に勝つこととビジネスで勝つことは別だ。「半沢」には、外の世界との競争や企業戦略はまったく出てこない。彼らのビジネスは、昔ながらの「金貸し」でしかない。
日本の銀行は、80年代以降の世界の金融業界の大きな変化に乗り遅れ、投資銀行などのリスク管理業務で立ち後れた。そのケガの功名で、2008年以降の金融危機に巻き込まれなかったが、収益力はまったく上がらず国債を買っている。
銀行はもうグローバル競争から降りた負け組の業界だが、他の日本企業も似たようなものだ。かつて勝ち組だった電機業界も、携帯電話などは世界市場では壊滅状態だ。社内では、小さくなって行く市場と減ってゆくポストをめぐってこういう社内政治が行われているのかもしれない。
*新しい帝国主義戦争
グローバル資本主義は、戦争である。資本主義を生んだのは産業革命でもプロテスタントの倫理でもなく、世界を植民地として支配して新大陸やアジアから富を略奪してきた植民地主義だった。それがかつては帝国主義戦争になったが、今は新しい帝国主義戦争の時代である。
かつてのように土地を占領して物理的資源を収奪する代わりに、現代では技術的な主導権を握り、プラットフォームを制した企業が最大の利益を得る。そのためにはリスクを取って大規模に投資し、成功したらひとり勝ちし、失敗したら責任を取る指揮系統の明確化が必要だ。
アナログ家電のように規格が標準化され、いいものを安く大量につくればよかった時代には、日本の人間関係に依存した「ものづくり」が生きたが、現代のグローバル資本主義では、製造部門は新興国にアウトソースし、開発部門は得意分野に絞り込む経営判断が求められる。
こうした水平分業の世界では、半沢的な人間関係は何の役にも立たない。むしろ余計な人的・物的資源を切り捨てる機動力が競争力の鍵だ。そのためには労働市場を流動化するだけではなく、企業買収・売却によって経営者も資本も流動化しなければならない。
しかし終身雇用の人間関係で固まった日本企業は流動化をきらい、雇用を守るために企業買収を拒否する。その結果、企業全体がグローバル競争から置き去りにされ、国内に閉じこもるしかなくなる。新しい企業は日本を捨てて海外に立地し、最新鋭の工場はアジアに建てられる。
このように日本から投資機会が失われ、企業が国内に投資しなくなった結果がゼロ金利と「デフレ」である。これを原因と取り違えて「デフレ脱却」などという政策を掲げても、日本経済は立ち直らない。
「半沢」は、このようにグローバル競争から取り残された日本企業の縮図である。こういう社内政治に勝ち残ることがサラリーマンの憧れだとすれば、彼らの未来に待っているのは「倍返し」どころか、半分に縮んだ日本経済だろう。
*上記事の著作権は[JBpress]に帰属します
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「半沢直樹」の不在
2013年09月23日01:42 池田信夫blog
ちょっと前に食事中に30分ぐらい見ただけでアホらしくなって見てなかった「半沢直樹」について、ツイッターで藤沢数希氏が「何が面白いかわからない」と書いているので「私もそう思う」と書いたら、すごい反響がきてびっくりした。
そこで念のため、そのとき録画したビデオを早送りで見たが、印象は同じだ。原作はバブル期の話で、それを現代に舞台を移しているのだと思うが、今どきあんな単純な不良債権でメガバンクが大騒ぎになるはずがない。90年代に私も不良債権の現場をたくさん取材したが、最大の違いはドラマのように個人の責任は問わないということだ。
原作者は元銀行員だから、それを知って脚色していると思うが、日本の会社では不祥事の責任は関係者全員で負うのだ。もちろん実際には責任者がいるが、それは外部にはわからない。90年代に100兆円もの不良債権が出たのに、役員が刑事訴追されたのは日債銀や長銀などごくわずかで、それも無罪になった。有罪になったのはイトマンの河村社長ぐらいで、日住金の庭山社長は何も刑事責任を問われなかった。
現実はドラマとは逆に、半沢みたいな現場が暴走して過剰融資し、それも何年も先送りしてあちこち飛ばすので、本当の責任者は誰かわからないことが多い。その責任を役員が形式的にとるが、ほとぼりがさめると復帰することも多かった。大蔵省でも、日住金の破綻処理を阻止して住専問題の原因になった寺村銀行局長は、なんと全銀協に天下りした。これが『「空気」の構造』でも論じた実質的権力と形式的権威の分離による無責任の体系である。
「半沢直樹」はドラマとしてはおもしろいのかもしれないが、日本の銀行の実態を真逆に描いている。最大の問題は、役所でも銀行でもどこに責任があるかわからない構造なのだ。政府も国会も実態調査をせず、日銀が部外秘で報告書をつくったらしいが、非公開だから実態も責任者も結局わからない。これから国債バブルが崩壊したときも、同じような迷走がまた始まるだろう。
一般視聴者は、日本の会社をだめにしているのはああいう悪い役員で、半沢のような現場がそれを追及すればよくなると思うのだろうが、残念ながらそういうヒーローは存在しえない。日本の会社では「みんなで決める」ので、追及すべき責任者がいないからだ。それが日本企業がグローバル競争で負け続ける最大の原因である。
*上記事の著作権は[池田信夫blog]に帰属します
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「半沢直樹」の不在 / グローバル競争の負け組 世界から置き去りにされる日本企業の社内政治 池田信夫
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