『日本を貶めた戦後重大事件の裏側』菅沼光弘著 2013年7月5日初版第1刷発行 KKベストセラーズ
*作品アウトライン
中国海軍レーダー照射問題、下山事件、オウム真理教事件、警察庁長官狙撃事件……戦後、世相を揺るがせた数々の重大事件を取り上げ、その背後には本当はいったい何があったのか、なぜ事件当時は、あのような解決のされ方をしたのか、それぞれの事件では、場合によっては外国と我が国との間でどのような情報戦争(インテリジェンス・ウォー)があったのかを、元公安調査庁調査第2部長の著者が詳らかにする驚愕の書。インテリジェンス戦争の実態は一般人の目には触れないようにできている。なぜか?ただ、ひとつだけ言えるのは、常に「真相は世論とは逆!」ということだ。
*菅沼光弘(すがぬま・みつひろ)
東京大学法学部卒業後の1959年、公安調査庁入庁。入庁後すぐ、ドイツ・マインツ大学に留学、ドイツ連邦情報局(BND)に派遣され、対外情報機関の実情の調査を行う。帰国後、対外情報活動部門を中心に旧ソ連、北朝鮮、中国の情報収集に35年間従事。対外情報の総責任者である調査第2部長を最後に1995年に退官する。現在、アジア社会経済開発協力会を主宰しながら、評論活動を展開する。著作に、『この国はいつから米中の奴隷国家になったのか』『この国の不都合な真実』『この国の権力中枢を握る者は誰か』(以上、徳間書店)、『守るべき日本の国益』(青志社)、『誰も教えないこの国の歴史の真実』(KKベストセラーズ)、共著に『この世界でいま本当に起きていること』(徳間書店)などがある。
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(抜粋)
第4章 安保闘争と左翼陣営の舞台裏
p148〜
評論家の西部邁(にしべすすむ 1939-)さんは、1960年の安保闘争のころは、全学連の最高幹部として、安保闘争を指導していました。彼があちこちでよく言っていますが、「あの当時、日米安保条約の条文なんか誰も読んでいなかった」。安保闘争は、言うならば「反米闘争」だったと言っています。
p152〜
あの当時の多くの国民はみんな安保反対だったのだけれども、しかし、よくよく考えてみると、前の日米安保条約というのは、サンフランシスコ講和条約調印のとき、吉田首相がただ一人、密室で調印した不平等条約でしたから、岸さんが変えようとしたのは無理もないのです。
その条約では、アメリカは日本を守る義務がない。要するに、ただ「占領中の現状のまま米軍の基地を日本に置く」ということを約束した条約なのですから。そこで岸さんは、「これじゃいかん」というので、「日本を米軍が守る」ということを意味する条文を入れたわけです。だからこれは、本当は日本にとってはいい改定だったのです。反対する理由はない。
では、当時なぜああいう反対運動になったのかというと、やはり反米感情です。あのころの一番若い、学生世代が、戦争中の体験をした最後の世代です。
その上の世代で戦争に参加した人たちは、戦争の悲惨さというのを身近に考えているものだから、安保条約が戦争につながるということを信じていたかもしれない。一番若い世代の学生は、もう単純な反米です。誰も安保条約そのものを読んではいないのですから。しかし、だからこそ、あれだけ盛り上がったのです。
岸信介さんは、東条内閣の商工大臣をやったり、満州でいろいろ活動したりしていましたが、物凄い秀才でした。(略)60年安保のころの世論では、岸さんがどういう人かということをいっさい考えないで、単に、東条内閣の閣僚だった、戦争犯罪人だったというのが先に立つものだから、大変だったのです。 *強調(太字・着色)は来栖
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孫崎亨著 『アメリカに潰された政治家たち』 第1章 岸信介 / 第2章 田中角栄と小沢一郎 2012-10-28 | 読書
●序章 官邸デモの本当の敵
1960年安保闘争との違い
p13〜
60年安保闘争と現在の野田政権打倒デモは、反政府デモという意味では同じですが、中身はまったく異なります。
60年安保闘争では、運動に参加している人たちは日米安保条約の条文など読んでおらず、冷戦下の世界情勢のなかでどのような意味をもつのかも理解していませんでした。運動は組織化され、学生は主催者が用意したバスに乗り込み、労働者は労働組合の一員として参加し、女子学生が亡くなったことで激化しました。
安保闘争の初期は新聞等のマスメディアも運動を支持していましたが、1960年6月17日、朝日、讀売、毎日等新聞7社が「その理由のいかんを問わず、暴力をもちいて事を運ばんとすることは、断じて許されるべきではない」という異例と言える「新聞7社共同宣言」を出すと、運動は一気に萎んでいったのです。
●第1章 岸信介と安保闘争の真相
1.安保闘争神話の大ウソ
「岸信介=対米追随」の誤り
p21〜
しかし、これほどの反対運動にもかかわらず、5月20日未明に衆議員で強行採決された新安保条約案は、参議院の議決がないまま6月19日に自然成立し、批准を阻止することは出来ませんでした。
一方で、この混乱の責任を取って岸信介内閣は7月15日に総辞職します。この運動は、もともとは日米安保改正阻止から始まりました。しかし、運動が盛り上がっていく過程で徐々に、A級戦犯として訴追されながら政界へ復帰し、“昭和の妖怪”とまで呼ばれた岸信介の政権を打倒することへ目的が変質していきました。そのため、岸内閣の退陣により、ある種の達成感が生まれ、急速に運動は萎んでいくのです。
p34〜
岸は安保改定の交渉を進めるため、まずマッカーサー駐日大使(マッカーサー元帥の甥)と会談し、次のような考えを述べます。
「駐留米軍の最大限の撤退、米軍による緊急使用のために用意されている施設付きの多くの米軍基地を、日本に返還することなども提案した。
さらに岸は10年後には沖縄・小笠原諸島における権利と権益を日本に譲渡するという遠大な提案を行った」(『岸信介証言録』)
在日米軍の削減だけでなく、沖縄・小笠原諸島の返還にまで踏み込んでいるのです。
同年6月には訪米し、ダレス国務長官に次の点を主張します。
「抽象的には日米対等といいながら、現行の安保条約はいかにもアメリカ側に一方的に有利であって、まるでアメリカに占領されているような状態であった。これはやはり相互契約的なものじゃないではないか」(同前)
岸の強い態度に今度は逃げられないと思ったのでしょうか。ダレスは「旧安保条約を新しい観点から再検討すること」に同意します。
p40〜
もう一つの謎は、財界のトップから資金が出ていることです。なぜ学生運動に財界が手を貸したのでしょうか。
実際に財界から資金提供を受けたと証言しているのが元全学連中央執行委員の篠原浩一郎で、『60年安保 6人の証言』でこう述べています。
「財界人は財界人で秘密グループを作っていまして、今里広記・日本精工会長さんたちが、とにかく岸さんではダメだということで岸を降ろすという勢いになっていたんですね。(略)」
財界は、学生たちの純粋な情熱を、“岸降ろし”に利用したということです。
p41〜
ここで私が注目するのは、中山素平と今里広記の2人です。彼らは経済同友会の創設当初からの中心メンバーですが、(略)
経済同友会といえば池田勇人の首相時代を支えた財界四天王のひとり、フジテレビ初代社長の水野成夫も経済同友会で幹事を担っていました。池田勇人は大蔵官僚出身で石橋政権時代から岸内閣でも大蔵相だったこともあり、財界とは密接な関係を築いていました。
国際政治という視点から見れば、CIAが他国の学生運動や人権団体、NGOなどに資金やノウハウを提供して、反米政権を転覆させるのはよくあることです。“工作”の基本と言ってもよく、大規模デモではまずCIAの関与を疑ってみる必要があります。
1979年のイラン革命、2000年ごろから旧共産圏で起きたカラー革命、アメリカから生まれたソーシャルメディアを利用したつい最近のアラブの春など、アメリカの関与を疑わざるを得ない例はいくらでもあります。
岸政権打倒のシナリオ
p42〜
確証がある訳ではありませんが、私が考えた1番ありうるシナリオは、次のものです。
1、岸首相の自主自立路線に気づき、危惧した米軍およびCIA関係者が、政界工作を行って岸政権を倒そうとした。
2、ところが、岸の党内基盤および官界の掌握力は強く、政権内部から切り崩すという通常の手段が通じなかった。
3、そこで経済同友会などから資金提供をして、独裁国に対してよくもちいられる反政府デモ後押しの手法を使った。
p43〜
4、ところが、6月15日のデモで女子東大生が死亡し、安保闘争が爆発的に盛り上がったため、岸首相の退陣の見通しも立ったこともあり、翌16日からはデモを抑え込む方向で動いた。
安保闘争がピークに達した6月17日に、一斉に「暴力を排し議会主義を守れ」と「7社共同宣言」を出した新聞7社も、当然のことながらアメリカの支配下にあったことは疑いようがありません。(略)
岸が軽く見ていた60年安保闘争は、外部からの資金供給によって予想以上の盛り上がりを見せ、岸はそれに足をすくわれることになりました。
岸の望んだ形ではなかったかもしれませんが、それでもこの時締結された新安保条約は、旧安保条約に比べて優れている点がいくつかあります。
p44〜
一方で、安保条約と同時に、日米行政協定は日米地位協定へと名称を変えて締結されましたが、「米軍が治外法権を持ち、日本国内で基地を自由使用する」という実態は、ほとんど変わっていません。岸が本当に手をつけたかった行政協定には、ほとんど切り込めず、しかもその後50年にわたって放置されてきたのです。
いわば60年安保闘争は、岸ら自主路線の政治家が、吉田茂の流れを汲む対米追随路線の政治家とアメリカの反政府デモ拡大工作によって失脚させられ、占領時代と大差ない対米従属の体制がその後の日本の歴史にセットされた事件だったといえるのではないでしょうか。
しかし、岸は改定された安保条約に、将来の日本が自主自立を選べるような条項をしっかりと組み込んでいました。
p45〜
60年安保改定で、安保条約は10年を過ぎれば、1年間の事前通告で一方的に破棄できるようになったのです。自動継続を絶ち、一度破棄すれば、条約に付随する日米地位協定も破棄されることになります。おそらくここには自主路線の外務官僚も一枚かんでいたのでしょう。必要であれば、再交渉して新たな日米安保条約を締結し直せばいいわけです。(略)
岸はこう述べています。
「政治というのは、いかに動機がよくとも結果が悪ければダメだと思うんだ。場合によっては動機が悪くても結果がよければいいんだと思う。これが政治の本質じゃないかと思うんです」(『岸信介証言録』)
p46〜
2.岸信介とCIAの暗闘
CIAは岸を警戒していた
岸という人は、これまで世間ではまったく誤解されてきましたが、アメリカからの自立を真剣に考えた人でした。アメリカを信用させ、利用しながら、時期を見計らって反旗を翻し、自主自立を勝ち取るという戦略に挑みました。その意志に気づいたアメリカ側は、「岸降ろし」を画策し始めます。
では、日本が安保闘争で揺れていた時代、アメリカ側では何が起きていたのでしょうか。今日では、さまざまな資料から、当時のアメリカの様子が窺えるようになっています。
岸が第1に採った戦略は、アイゼンハワー大統領と直接的な関係を築くことでした。
p47〜
岸は1957年6月に訪米して、アイゼンハワー大統領を表敬訪問しています。ここでアイゼンハワーは岸をゴルフに誘います。ダレス国務長官はゴルフをやりません。このときの様子を岸はこう述べています。
「ワシントンのヴァ―ニングトリーという女人禁制のゴルフ場にいったのです。プレーのあと、ロッカーで着替えをすることになって、レディを入れないから、みな真っ裸だ。真っ裸になってふたりで差し向かいでシャワーを浴びながら、話をしたけれど、これぞ男のつきあいだよ」(『岸信介の回想』)
こういった裸のつきあいは外交上でも大きな意味をもちます。このゴルフ以降、岸は大統領との直接的なつながりをもち、非常に親密な関係を築くことに成功しました。
それまで、日米関係はダレス国務長官が牛耳っていましたが、岸がアイゼンハワーと数時間の間でもダレス抜きで直接言葉を交わし、個人的な関係でつながったので、それ以降、ダレスは岸にあまり強く切り込めなくなったのです。現実の外交の現場では、こうした人間的なファクターが影響することは、意外に多いものなのです。
しかし、いくら大統領の支持を得て、CIAから資金提供を受けていようとも、、徐々にアメリカ側は岸の真意に気づき始めます。期待を裏切って、対米自主路線を突き進む岸に対して、アメリカは慌てます。その様子が当時のさまざまな記録から見えてきます。
p51〜
「中国との関係改善」は虎の尾
しかし、なぜ岸はこれほどアメリカから警戒され、嫌われたのでしょうか。
実はアメリカの“虎の尾”は、「在日米軍の撤退」以外にもう1つあります。「日本と中国の関係改善」です。
日米戦争が勃発したのは、日本が中国大陸に侵攻して利権を独り占めにしようとしたことが1つの原因です。第2次大戦が終結した後、中国は共産主義国になり、ソ連と国交を結んでしまったために、結局、アメリカは中国に手を出せなかったのです。日本にとって中国は隣国なので、日本国内には常に中国との関係改善をめざし、利益を得ようとするベクトルが存在します。
しかし、アメリカは中国を潜在的なライバルとみなしており、中国が共産主義的な色彩を帯びたときは封じ込めようとし、軍事力が強くなれば対抗しようとしてきました。
p52〜
中国をめぐっては、日米対立が起きやすい構造があるのです。
p53〜
それでも岸は、中国との関係改善に突き進みます。1957年7月、岸内閣は「中国への貿易を規制する中国特別措置を遵守することはできない」と表明。翌年3月には、中国との間で「第4次日中民間協定」を結び、民間通商代表部の設置に合意します。日中貿易の拡大に進み始めるのです。
p54〜
対米追従路線の池田首相でも、対中国の関係改善を図ろうとすると、アメリカの逆鱗に触れてしまうのです。中国問題で、日本が独自に先行することはアメリカにとっては許しがたい行為なのです。
p55〜
「在日米軍の削減」と「中国との関係改善」という2つの“虎の尾”を踏んだ岸に対しては、アメリカが総攻撃をかけて、政権の座から引きずり下ろしたということが、これで納得いただけるのではないでしょうか。
第2章で詳しく述べますが、田中角栄が失脚させられたのも、アメリカを出し抜いて日中国交正常化を実現したことが1つの原因でした。鳩山由紀夫首相も「東アジア共同体構想」で中国重視の姿勢を示していました。
中国問題が相変わらずアメリカの“虎の尾”であることは、現代においてもなんら変わっていないのです。
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憲法改正で「日本」を取り戻せ 誤った歴史観を広めるメディア・教育界に風穴を 『Voice』4月号 2013-03-24 | 読書
『Voice』4月号2013/3/9(毎月1回10日発行)
憲法改正で「強い日本」を取り戻せ いまこそ誤った歴史観を広めるメディア・教育界に風穴を開けるときだ
対談「渡部昇一(わたなべしょういち・上智大学名誉教授)×百田尚樹(ひゃくたなおき・作家)」
〈抜粋〉
■在日コリアンの影響下に置かれていた民主党政権
p44〜
百田尚樹 民主党は与党になってから2年以上、代表選で在日コリアンを含むサポーター(党友)にも投票権がありました(2012年より日本国籍を有する者に限定)。つまり日本の首相を選ぶに際して、外国人の票が影響力をもっているということです。こんなおかしなことはありません。
渡部昇一 それは明確な憲法違反ですね。さかのぼっていえば、民主党と在日コリアンの関係が密接であるのは、戦後の55年体制で最大野党であった社会党出身者も少なくない。社会党を支えたのがまさに在日コリアンなのです。たとえば1951年に日本がサンフランシスコ条約に署名し、国際社会に復帰した時には、強硬に反対したが社会党でした。占領下の日本は在日外国人にさまざまな特権を与えており、彼らにとって非常に居心地がよかったからです。闇市で食糧を調達するときも、日本人はすぐ摘発されるのに、彼らは警察に取り締まられることはなかったほどですから。
これは作家の吉屋信子が書いていることですが、戦後間もなく菊池寛と一緒に京都に向かう汽車の中で、菊池が「今度の選挙で社会党は金がなくて大変だろうな」と口走ったところ、たちまち屈強な在日コリアンの男たちに囲まれ、因縁をつけられたそうです。彼らの本質がわかるエピソードです。
百田 日の丸や君が代に反対する文化人は少なくありませんが、そのなかには在日コリアンがいるともいわれています。厄介なのは、彼らが「自分たちは在日である」ということを標榜せず、日本人のふりをして意見を述べているということ。本来、外国人に日の丸や君が代について意見をいわれる筋合いはないですね。
渡部 日本人風のいわゆる「通名」を名乗っているコリアンの人に「元の名前は?」と聞くと、「名誉棄損で訴えるぞ」と怒りだすそうです。祖国にプライドをもっているにもかかわらず、なぜ本来の名前を聞かれるとそうした反応を示すのか。その意味でも非常に屈折しているといわざるをえません。
p45〜
■サイレントマジョリティの声を聞けるか
百田 同じように、戦後長らく左翼的な勢力が跋扈しているのが、新聞やテレビなどメディアの世界、そして教育界です。(略)
まずメディアについていえば、第1次安倍内閣は『朝日新聞』をはじめとする新聞やテレビに過剰なまでにバッシングされ、短い期間で残した実績が国民に十分に伝わらないまま、退陣に追い込まれてしまいましたね。
渡部 ベストセラーになった『約束の日 安倍晋三試論』(幻冬舎)で小川栄太郎さんが書いているのですが、昨年11月に亡くなった政治評論家の三宅久之さんは、かつて朝日新聞社の主筆だった若宮啓文氏に「どうして『朝日』はそこまで安倍さんを叩くんだ?」と尋ねたところ、「社是だからだ」といわれたそうです。
百田 ただ、いまでは「安倍たたき」をするか否か、メディアも少し慎重になっているようにもみえます。リベラルな論調を出すことで読者が減るのではないか、と懸念しているのでしょう。
渡部 1月にはアメリカの『ニューヨーク・タイムズ』紙が安倍さんを「右翼の民族主義者だ」と強く批判しました。『ニューヨーク・タイムズ』の東京支局は、朝日新聞社と同じビルにあります。これは邪推かもしれませんが、『朝日新聞』の記者が、自分たちの発言力が落ちていることに危機感を抱き、『ニューヨーク・タイムズ』の記者をけしかけて、社論を書かせたと解釈することもできます。
百田 ここ数年でインターネットが発達し、とくに若い世代を中心に「マスコミの情報が必ずしも正しいわけではない」という意識が芽生え始めたのも大きいですね。
p46〜
渡部 2012年から現在にかけては、脱原発運動の旗振り役になり、いかにも国民全体が「脱原発」の意見をもっているかのような記事を掲載した。しかし先の総選挙では、「日本未来の党」をはじめとする、脱原発政党は軒並み議席を減らしています。マスコミのいうことと、「サイレントマジョリティ」の意見は違うということが露呈しました。
百田 60年安保のときと状況はよく似ています。当時も日本全国が「安保反対」のような気運でしたが、自然成立とほぼ同時に岸内閣が倒れ、その数か月後に行われた総選挙で自民党が圧勝した。メディアの声はあくまでも「大きい声」にすぎず、それが大多数の声を代表しているとは限らないということです。
(略)
百田 岸信介はいみじくも、安保デモを前に「私には国民の声なき声が聞こえる」と発言しました。それは正しかったんです。いくら国会を群集が取り囲んでも、私の両親のような大多数の庶民は、そのような問題に何ら関わりはありませんから。サイレントマジョリティの声を聞くというのは、政治家の大きな資質の1つだと思います。
p47〜
■教科書には「事実」を記述すべき
渡部 第1次安倍内閣の果たした政策のうち、とくに私が評価しているのは、教育基本法の改正です。道徳や倫理観に関する基本的な教育方針を変えたことで、ようやく日本人が日本人であることに誇りをもてる教育ができるようになりました。
百田 日教組の教職員は子どもたちに、「日本は侵略戦争を行い、アジアの人々を傷つけた」「日本人であることを恥ずべきだ」ということを教えてきましたからね。そのような誤った知識を死ぬまで持ち続ける日本人も多い。広島県のある高校は修学旅行で韓国に行き、生徒たちに戦時中の行為について現地の人に謝罪をさせたとも聞きます。世界中を見渡しても、そのような教育をしている国はどこにもありません。
渡部 「日本が侵略戦争を行った」というのは、東京裁判の検察側プロパガンダの後継者です。しかし東京裁判以外に、日本を正式に批判した公文書は存在しません。マッカーサーもアメリカ上院の公聴会で、「日本が行ったのは自衛戦争だった」と証言している。東京裁判史観をいまだに尊重していることが、いかに意味のないものかがわかります。(略)
百田 「侵略戦争」といっても、日本人は東南アジアの人々と戦争をしたわけではない。フィリピンを占領したアメリカや、ベトナムを占領したフランス、そしてマレーシアを占領したイギリス軍と戦ったわけです。日本の行為を「侵略」と批判するなら、それ以前に侵略していた欧米諸国も批判されてしかるべきでしょう。
p48〜
渡部 私の娘はジュネーブの日本人学校で教えているのですが、日本から来た子どもたちが「日本人は悪いことをした」と洗脳されているのを解くのが大変だ、といっていました。「日本はほんとうは立派な国なのだ」と教えると、ほんとうに誰もが喜ぶそうです。
百田 だからこそ政府にいま求められるのは、日本人の歴史観を正しいものに変えるため、ロビー活動、啓蒙活動を行っていくことですね。
渡部 安倍さんは首相就任以前より、教科書問題に関心を抱き、大手出版社の社長に「こんなことを書いていたのか」と迫ったり、教育学者の藤岡信勝氏らが設立した「新しい歴史教科書をつくる会」で講演を行っていたと聞きます。安倍さんの改革によって、いまの教育界にさらなる風穴があくことを期待しましょう。
■日本の軍備がアジアの平和に繋がる
p49〜
百田 日本の人口1億人に対して、自衛隊の隊員数は25万人です。海外と比較をすると、スイス軍は人口780万人に対して、軍隊は21万人もいます。しかも現役を退いたら、60歳ぐらいまでは予備役として登録される。一家に1丁自動小銃が配布されており、日常は普通の仕事をしていても、事が起きれば戦場に赴く。歴史的には「永世中立国」として200年以上戦争をしていないわけですが、軍隊をもつことは、戦争に対するもっとも有効な抑止力であり、平和の維持にはそれだけの労力がかかることを理解しているわけです。
渡部 なかでも核兵器はもっとも有効な抑止力ですね。もし原子爆弾が開発されていなかったら、第3次世界大戦が起きていても不思議ではなかった。歴史上、2000年以上にわたって戦争が絶えなかったヨーロッパで、現在60年以上戦争が起きていないのは、1955年に西ドイツ(当時)がNATOに加盟し、アメリカとともに核兵器を発射できる資格を得たからです。そのため冷戦下で対立していたソ連も、西側諸国には手出しできなかった。逆にいま、もっとも戦争の危険性が高いのはアジアですが、日本が核兵器を保有していないことが大きいでしょうね。p50〜
■日本国憲法は「占領基本法」にすぎない
百田 だからこそ安倍政権では、もっとも大きな政策課題として憲法改正に取り組み、軍隊創設への道筋をつくっていかねばなりません。世界の約200か国のうち、軍隊をもっていない国は、モナコやバチカン市国、ツバルといった小国をはじめとする27か国しかない。日本のような経済大国がそれに当てはまるのは異常なことです。
渡部 同感です。安倍さんは第1次内閣で防衛庁を防衛省に昇格させ、内閣に安全保障の責任者が不在という歪な状態を解消させることに成功しました。第2次内閣では、さらにもう一歩踏み込んだ取り組みに期待したいですね。
百田 世間では、「憲法は神聖で侵さざるべきものである。改正するなんてもってのほかだ」という、「憲法改正アレルギー」のような意識が蔓延しているようにも感じます。しかし世界中のどの国も、憲法改正はごく普通に行っている。アメリカは18回、フランスは24回、ドイツは58回、メキシコに至っては408回も改正しており、世界最多の回数といわれています。(略)
p51〜
渡部 日本国憲法は「アメリカの占領が続く」という前提のもとに作られた、いわゆる「占領基本法」と呼ぶべきものなんです。もし1950年に朝鮮戦争が起きなければ、アメリカは50年ぐらい日本の占領を続けるつもりだったのですから。そのため日本国憲法の前文には、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。日本人の安全と生存を諸外国に委ねるなんてとんでもない話であり、このような代物がほんとうの「憲法」であるといえるはずがない。
百田 アメリカも大東亜戦争で痛い目に遭っていますから、もう二度と日本が立ち向かえないようにした、ということですね。9条で「交戦権の放棄」を押し付けたのもそうです。いまの日本には自衛隊がありますが、9条を厳密に解釈すると、相手に銃を向けられて引き金に指がかかってもいても抵抗できない。向こうが撃ってくれば初めて反撃できますが、それも最低限のものに限られ、たとえば一発撃たれて十発撃ち返したら、過剰防衛として処罰される。こんな馬鹿なことはないでしょう。
p52〜
百田 ドイツも同じく、占領されているときに連合国軍に憲法を押し付けられましたね。でもドイツ人はそれを「憲法」とみなしておらず「ボン基本法(ドイツ連邦共和国基本法)」と呼んでいます。占領が解けてから50回以上も条文を改正し、自分たちの憲法をつくっていったのです。*強調(太字・着色)は来栖
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