*管理人の便宜上、2つのカテゴリー「地震/原発」「 仏教/親鸞/五木寛之・・・」でエントリ
「8・15からの眼差し〈1〉」日本経済新聞2011/08/03
山河破れて国あり 公に不信、亀裂は深刻--五木寛之氏
---3月11日以降の状況をどう感じているか。
「12歳で迎えた敗戦は大事件だった。その前と後では、ものの見方が変わってしまった。今回、津波の被害を受けた町の惨状や、福島第1原発の建屋の姿を見るにつけ、原子爆弾の被害を受けた都市や、絨毯爆撃を受けて一面瓦礫となった東京の姿がダブって見える。
ものの考え方、感じ方も、3月11日以前と以後とでは、がらっと変わった。何をするにも必ず1つの色が入り込んできて、その色を通してしか周囲が見えない、という実感がある。だから私は、『第2の敗戦』と受け止めています」
*汚染 目に見えず
---では、何が異なるのか。
「66年前の敗戦の時は、杜甫の詩の『国破れて山河あり』という状況だった。国は敗れたが、日本の里はあった。段々畑も森もあり、川も残っていた。いま私たちに突きつけられているのは、『山河破れて国あり』という現実ではないか。歌にもうたわれたお茶の葉からも放射能が検出されるようになった。何より悲劇的な問題は、汚染が目に見えないことだ。依然として山は緑で海は青い。見た目は美しくて平和でも、内部で恐ろしい事態が進行している。平和に草を食んでいる牛さえも内部汚染が進んでいるかもしれない。かつてこんな時代はなかった」
---「国あり」とは。
「『山河破れて国なし』と言う人もいるかもしれない。ただ、原発の再開も、復興の予算も今も国が決定する。今も国はあるんです。ただ、今ほど公に対する不信、国を愛するということに対する危惧の念が深まっている時代はない。戦後日本人は、昭和天皇の玉音放送のように、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、焼け跡の中から復興をめざし国民一丸となってやってきた。今、大変な大きな亀裂が、ぽっかり口を開けている」
---原発事故で安全を強調する政府の発表に、不信を強めた人も多い。
「それについては驚かなかった。国が公にする情報は、一般人がパニックになることを恐れた上での、1つの政策なんだ、ということを、私は朝鮮半島からの引き揚げ体験の中で痛感していた。
敗戦の夏、中学1年生で平城にいた。当時ラジオは『治安は維持される。市民は軽挙妄動をつつしみ、現地にとどまれ』と繰り返し放送していた。それが唯一の公の情報だった。平城の駅では、家財道具を積んで38度線へと南下する人であふれていたらしい。ところが国策に沿って生きていた私たち家族は、何の疑いもなく現地にとどまっていた。
やがてソ連が侵攻してくる。自宅は接収される。着のみ着のままで追い出される。敗戦1カ月で母を亡くした。難民倉庫のようなところで、引き揚げを待ったが再開されない。冬は零下20度を下回る寒さで、毎晩襲ってくるソ連軍の暴行と飢餓と不安の中で約2年間なすこともなく、日を過ごした。そのときの教訓が大きな後遺症となって自分の中に残っている。
*動物的感覚で
---今、日本人はどういう場所に立たされているのか。
「私たちは、原発推進、反対を問わず、これから放射能と共存して生きていかざるを得ない。たとえ全部の原発を停止しても使用済み核燃料を他国に押しつけるわけにはいかない。放射能を帯びた夏の海で子供と泳ぎ、放射能がしみた草原に家族でキャンプをする。その人体への影響の度合いは、専門家によってあまりにも意見の開きがある。正直、判断がつきません。
だから、政府の情報や数値や統計ではなく、自分の動物的な感覚を信じるしかない。最近出した『きょう一日』(徳間書店)という本に込めたのは、未来への希望が語れないとすれば、きょう1日、きょう1日と生きていくしかないという実感です。第1の敗戦の時はまだ明日が見えた。今は明日が見えない。だから今この瞬間を大切に生きる。国は私たちを最後まで守ってはくれない」(この連載は編集委員宮川匡司が担当します)
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