池田信夫blog 2013年12月27日12:38
靖国神社に「政教分離」はありえない
安倍首相の靖国参拝を批判する人は口をそろえて「憲法の政教分離の原則に反する」というが、靖国神社は本来の意味での宗教施設ではない。きのうの記事でも書いたように、国家神道は天皇制を神聖化するために明治政府の偽造した政治的イデオロギーで、およそ宗教といえるようなものではないので、安倍氏は特定の宗教を支持したわけではない。
宗教は国家権力を支える精神的権威だから、ユダヤ教でもイスラム教でも宗教的な律法が国家の法律であり、中国でも儒教が皇帝の正統性を支える国教だった。特に中世ヨーロッパでは、皇帝の権力は精神的権威に依存していたので、教皇との長い叙任権闘争の後、国家が教会を支配下に置くようになった。
しかし近代の市民革命のほとんどは(アメリカ独立革命を除いて)カトリック教会への反逆に始まった。彼らは国家と教会の癒着を批判し、個人は信仰のみによって救済されるというパウロ主義への回帰を主張した。カトリックは国家権力と一体になってこれを弾圧したので、ルターは「二つの王国」論で教権と俗権の分離を主張した。
そして内乱の続いた17世紀のイギリスで、それを収拾するために出てきたのが政教分離だった。それは宗教戦争を停戦するための寛容の原則だったのである。それを論じたジョン・ロックの『寛容についての手紙』は、「国家は個人を強制できるが救済できないから、世俗的権力は個人の内面に介入すべきではない」と論じた。
結果的には、このように複数の宗派の共存を認めたことが、キリスト教の求心力を弱め、無神論が広まった。共和制は宗教的権威なしで国家権力を支える実験だったが、イギリスは立憲君主制という形で象徴的な中心を置き、アメリカやフランスも大統領という元首を置いた。それはかつてのような絶対性はないが、一種の精神的権威として国民を統合している。
靖国神社は、このような西洋の政教分離の伝統とは無関係な、天皇制のイデオロギー装置である。それが戦争に大きな役割を果たしたのは、もともと政治の一部だったのだから当たり前だ。したがって靖国に政教分離なんてありえない。そこには「政」と分離して存在する「教」がないからだ。
「どこの国でも戦争のために命を落とした英霊を慰霊するのは当然だ」という話もよくあるが、ちっとも当然ではない。戦争では非戦闘員も大量に殺されるのに、なぜ兵士だけが慰霊施設にまつられ、遺族は年金をもらうのか。それは戦争という個人的には不合理な(しかし国家的には必要な)行動を奨励する装置なのだ。
靖国神社から「A級戦犯を分祀する」なんてナンセンスだ。それは国家神道の中で名簿を書き換えるだけで、靖国そのものが政治的装置なのだから意味がない。A級戦犯だけが戦争を起こしたわけではない。戦争をあおったマスコミも、それに熱狂して旗を振って兵士を戦場に送った国民も含めた無責任体制が、あの戦争の原因である。
その伝統は今も残っている。責任の所在を明確にしないで、みんなで相談して何となく「空気」で決める意思決定が、日本の政治や経済の行き詰まる原因だ。リーダーにはそれを突破する合理的な指導力が必要だが、安倍氏は支持層に忠誠を誓う非合理主義を世界に表明してしまった。これでいちばん喜ぶのは、外交的に行き詰まっていた中国や韓国だろう。
今度の事件で安倍政権が「戦争に向かって暴走する」とは、私はまったく思わない。アメリカという強力なブレーキがあるので、よくも悪くも日本は単独で戦争はできない。憂うべきなのは、戦前の無責任体制の象徴である靖国に首相が忠誠を誓ったことだ。そこにまつられているのは、かつて戦争への道を開き、今も日本人を呪縛する「空気」なのである。
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◇ 「靖国参拝という非合理主義」池田信夫 / 【靖国参拝】「隣国の国民感情を傷つける行動すべきでない」台湾 2013-12-26 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉
池田信夫blog 2013年12月26日17:00
靖国参拝という非合理主義
安倍首相が靖国神社を参拝したことで騒ぎが起きているが、これはもともと招魂社という天皇家の私的な神社であり、国家の戦死者をまつる神社ではなかった。国家神道という国定宗教をでっち上げ、靖国神社をその中心にしたのは明治政府である。
この奇妙なカルトが、天皇制を支えた。それを福田恆存は近代社会の「空虚を埋めるためにもちだされた偶像」だといったが、丸山眞男も同じ指摘をしている。拙著『空気の構造』87〜8ページから引用しておこう。
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天皇は、幕末にはほとんど実態のない地位になっていたが、尊皇派は幕藩体制の割拠的な性格を克服して「日本」という国家的な統合を体現するために、儒教のイデオロギーを利用し、形骸化していた天皇を皇帝の地位に置いた。伊藤博文は帝国憲法制定の際に、天皇を中心にすえる目的を次のように述べている。
欧州に於ては憲法政治の萌せる事千余年、独り人民の此制度に習熟せるのみならす、又宗教なる者ありて之か機軸を為し、深く人心に浸潤して、人心此に帰一せり。然るに我国に在ては宗教なる者其力微弱にして、一も国家の機軸たるへきものなし。[中略]我国に在て機軸とすへきは、独り皇室あるのみ。(丸山「日本の思想」)
ここでは欧州に比べて日本の弱点は、宗教的な「機軸」がないことだという自覚があり、国家を統一するためには法律や官僚組織だけではなく宗教が必要だということが意識されている。明治以降の「一君万民」型の天皇制は、このように列強の宗教(キリスト教)に相当するものをつくるために明治初期に意識的に設計されたものであり、日本の自然な伝統ではない。
それは明治維新のイデオロギーだった尊皇思想の中では、儒教的な「一君万民」の思想として学問的な実体をそなえていたのだが、明治政府によって国民統合のイデオロギーとして利用され、それが大衆化するに従って正体不明の無責任の体系になったのだ。その根底には、神道(と呼ばれる固有信仰)にも通じる「無限抱擁」的な日本の伝統がある。
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国家神道は伊藤など明治憲法の創設者がつくったキリスト教のイミテーションだが、それはできそこないだった。神との契約で世俗的な権力を拘束するキリスト教の合理主義は法の支配の原型になったが、国家神道の中身は不明で、国家がそれをどう利用してもよかった。「現人神」だったはずの天皇には、開戦の拒否権さえなかった。
靖国神社は、日本を無責任体制に陥れた国家神道という非合理主義の中心だった。特攻隊員は「靖国で会おう」といって出撃して行った。それを首相が参拝するのは「日本はあの非合理主義に戻りたい」という意思表示と受け取られてもしょうがない。中国や韓国がそれを非難するのは感情論だが、安倍氏も「英霊」がどうとかいう感情論では議論にならない。
私は国家安全保障会議や秘密保護法などの安倍政権の戦略的政策を支持するが、靖国参拝はそういう合理的な政策を台なしにし、アジア外交を感情的攻撃の応酬に引き戻すものだ。これでしばらく外交も経済交流も止まるだろう。その代償に、日本は何を得るのだろうか。
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【首相靖国参拝】台湾「隣国の国民感情を傷つける行動すべきでない」
産経ニュース2013.12.26 17:39
台湾の外交部(外務省に相当)は26日、安倍晋三首相の靖国神社参拝に関し、「日本政府や政治家は史実を正視し、歴史の教訓をくみ取り、隣国の国民感情を傷つける行動をすべきではない」とする声明を発表した。(台北 吉村剛史)
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