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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】 2013年2月21日 死刑執行された加納(旧姓武藤)恵喜(けいき)?

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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】「ら」に埋もれた最期
 中日新聞 2013年12月17日
 二〇一三年二月二十一日午前八時すぎ。名古屋は気温一・三度と平年より少々冷え込んでいた。
 その男は刑務官に呼ばれ、名古屋拘置所の自身の房を出た。窓から真っ青な空がのぞいている。
 「死を待ち続ける生活に疲れました」
 男は拘置所の関係者にそんなことを言い残し“奈落”へ続く踏み板の上に乗ったという。
 加納(旧姓武藤)恵喜(けいき)、六十二歳。第二次安倍晋三政権の発足後、初めて刑を執行された死刑囚三人のうちの一人だ。
 〇二年、名古屋・栄でスナックの女性経営者(61)を殺害し、八千円を奪った。強盗殺人罪で一審無期懲役、二審死刑を経て〇七年、最高裁で死刑が確定していた。それ以前、一九八三年には長野県の旅館で女将(おかみ)(64)を殺害後、二万円を盗み、懲役十五年で服役してもいる。
 罪無き二人の命を奪った恵喜。本紙は彼が支援者たちと交わした九百通を超える手紙や絵はがきを入手した。
 その中で彼はこう自問している。「償いとは何なのか」。二月二十一日、果たして答えは出たのだろうか。手紙や関係者の証言でその人生の記録をひもとき、考える。
    ◇
 もう屋上の運動場から名古屋城の桜を見ることもない。加納(旧姓武藤)恵喜(けいき)に春はやって来ない。

    

 恵喜が獄中で記した手紙などの一部
 二〇一三年二月二十一日。名古屋拘置所・西館八階にあったという房を出た恵喜をフロア中央のエレベーターホールで四〜五人の刑務官が待ち構えていた。
 エレベーターで二階へ降りた後、地下一階の刑場までは階段を下る。一歩、また一歩…。
 さかのぼること十一年前。名古屋・栄でスナック経営者を殺(あや)めてから二カ月後、獄中の恵喜は知り合ったばかりの牧師にあて、こんなことを手紙に記している。
 「天涯孤独でけっこうと言いながら、心の中では親兄弟に会いたいし、真から話のできる友が今回程ほしいと思った事は有りません」
 かつて養蚕で栄えた長野県北部の街。妙高、斑尾(まだらお)など北信五岳を遠く眺める地で、恵喜は青果店を営む両親の間、三人兄弟の真ん中で生まれた。
 家が近所で、同じ小学校の一年先輩というギンジ(仮名)はこう語る。「ああ、よくいっしょに遊んだよ。元気にしてんのかなぁ…」。恵喜の刑死をいまだ知らない。
 無理もない。
 恵喜たち三人の死刑囚の刑の執行が発表されたのは午前十一時ちょうど。法相の谷垣禎一が会見場でたんたんと伝えた。直後、各メディアが三人の名前を速報した。例えば、ある民放キー局のテロップはこうだ。「奈良女児誘拐殺人の小林薫死刑囚、土浦連続殺傷の金川真大(まさひろ)死刑囚ら三人」
 小林といえば〇四年、七歳の女児を殺し、遺体の画像を母親に送り付けた男。金川は〇八年、無差別に九人を殺傷し「死刑になりたかった」と言い放った。
 ともに世を震撼(しんかん)させたといえるほどの殺人者。あえて比べるなら、ありふれた死刑囚といえる男は「ら」の中に埋もれ、大抵のニュースはその死をついでのように報じた。小林、金川に比べ、翌日以降の続報も皆無に近い。
 長野県で暮らす恵喜の実兄(66)がその死に気付いたのもたまたま、だった。(敬称略)
 ◎上記事の著作権は[中日新聞]に帰属します 
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】ウソつき きんごろー
 中日新聞2013年12月18日
 二〇一三年二月二十一日。加納(旧姓武藤)恵喜(けいき)の死刑が執行されたその日の昼どき、恵喜の実の兄(66)は長野県の自宅の居間で何となくテレビを眺めていた。
 「かのう、旧姓『むとう』けいき…」
 「えっ」
 アナウンサーが旧姓も読んでくれなかったら、聞き逃したかもしれない。
 執行に先立つこと九年前、恵喜がある支援者夫妻の養子となり、武藤姓を捨てたことを兄は知らなかった。
 「本当は『ぶとう』なんだが」
 短いニュースの中、名字の読みすら間違えられた弟だが、ふびんと思うのも煩わしい。
 「やろう、死刑になったわ」
 「ああ、そうかい」
 近ごろ、体が弱り、伏せりがちの母がそれだけ、ぽつり。
 実家の青果店は恵喜が中学校へ進む前、母の病をきっかけに廃業となったが、父は鉄工所などで汗を流し、一家にひもじい思いはさせなかった。
 よく笑い、よく笑わせる。恵喜はそんな少年だった。
 近所でのあだ名は「きんごろー」。明治から昭和にかけ「爆笑王」とたたえられた落語家・柳家金語楼が由来というから、その口達者ぶりがうかがえる。
 が、それも度が過ぎては笑えない。当時を記憶する幾人もが口をそろえる、きんごろーの質(たち)。「ウソつき」
 すし屋に偽の出前を頼んだり、開くあてのない数十人の宴会を予約する。
 「もうしません」。父に叱られるたび涙ながらに謝るが、すぐにまた…。兄はやがて理解した。「自分を大きく見せようとでたらめ言って、収拾がつかなくなる」
 恵喜は獄中からの支援者への手紙で母のこんなエピソードを記している。
 いわく戦時中、満州と呼ばれた中国東北部へ渡った母が引き揚げ途中、生後三カ月の赤ちゃんを亡くした。母は作家藤原ていの戦後のベストセラー小説「流れる星は生きている」のモデルになった−。本当は母が満州へ渡ったことなどない。
 きんごろーのころからそうだった。大した意味も無く、すぐにばれるウソをつく。
 恵喜は中学を出ると実家を離れ、住まいや職を転々とする。二十代半ばから食い逃げや盗みで出ては戻りの刑務所暮らし。そして、三十二歳の時、ついには人を殺(あや)めることになる。(敬称略)
 ◎上記事の著作権は[中日新聞]に帰属します 
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】一人目。旅館の女将
 中日新聞 2013年12月19日
 山あいにある長野県諏訪市の冬は、氷点下にこごえるのが常だ。
 一九八三年二月五日。その日、諏訪湖では、湖面に張った氷がせり上がってできる神の道「御神(おみ)渡り」の具合を見て、一年の吉凶を占う神事が執り行われていた。
 湖畔から歩いて五分の「山彦旅館」には三日前から、やせた男の客が一人。熱心な見物客ではない。三十二歳の武藤恵喜(ぶとうけいき)だった。
 このころ、有り金が尽き、東京で無銭飲食を繰り返していた恵喜は、塀の中で知り合った暴力団員を頼り、この地へ流れ着いた。
 部屋数六つの小さな宿には九年前に夫と死別した六十四歳の女将(おかみ)、伊藤美遊登(みゆと)しかいない。「怖いから、知らない人は泊めたくない」。常々、口にしていたはずが、なぜか、いちげんの恵喜を迎え入れた。
 その日、恵喜はあてにした暴力団員から仕事の口利きをしてもらえず、昼を過ぎても二階の「羽衣の間」でテレビを見ていた。
 「映りが悪い」
 「代金を払ってから文句は言って」
 カッとなった恵喜が突き倒す。女将は近くにあった靴べらを握り、必死に振り回した。恵喜はうまく避けて背後に回ると、首に手をかけた。すぐにぐったりしたが、恵喜は念を入れ、電気コタツのコードで絞め直した−。判決文による事件のあらましだ。
 帳場から二万円と預金通帳を盗んで逃げた恵喜は指名手配され、二週間後、東京・浅草の喫茶店で警官に見つかる。所持金は三十九円。コーヒー一杯も飲めない額だった。
 八三年十月、長野地裁は殺人、窃盗罪などで懲役十五年(求刑二十年)の判決を下した。
 国選弁護人を務めた御園広実(77)は判決後の接見でこう語りかけたという。
 「刑務所で悪知恵を付けるんじゃないぞ。出てきて街で会ったら声を掛けてこい」
 そのときの姿が忘れられない。「もっと早く先生と出会っていれば…」。恵喜は涙ながらに言った。
 本気で悔やんでいる…。御園は信じた。
 事件を知った母は四国を遍路し、女将のために祈り続けた。月に一度、獄中の息子へ送った手紙に改心を願う母心をつづった。
 しかし、恵喜は服役した岐阜刑務所時代の心境を、後の支援者への手紙で打ち明けている。「はじめは本当に反省の気持ちが強かったのですが、次第に薄れていったのです」(敬称略)
 ◎上記事の著作権は[中日新聞]に帰属します 
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】うそ、罪 うそ、罪…
 中日新聞 2013年12月20日
 JR岐阜駅近く。二十人も入れば満席の小さな居酒屋だった。隅っこの二人掛けのテーブルにはビールや小料理が大して口を付けられずに残っている。
 「よくしゃべるなぁ…」。中日新聞岐阜総局(当時)で県警を担当していた記者、市川真(31)は半ば、あきれていた。
 一九九八年七月二十二日夜。向かいに座る男は「むとう、のりよし」と名乗った。
 姓名の読みは変えていたが、もちろん、武藤恵喜(ぶとうけいき)である。長野県諏訪市で旅館の女将(おかみ)(64)を殺害、懲役十五年の刑期を終え、三カ月前に岐阜刑務所を仮出所したばかりだった。
 恵喜は岐阜総局への電話で信用調査会社員だと自らを売り込み、二年前に岐阜県御嵩町で起きた町長襲撃事件の情報を提供したいと市川を呼び出した。
 「電車賃を出してくれ」「情報料だ。三千円でいいから」。延々と噂(うわさ)に毛の生えた程度の話をした後、カネの無心を始め、断ってもしつこく粘った。
 後日、市川は旅行会社から身に覚えのない欧州旅行の代金七十万円を請求される。だれが申し込んだか人相を聞けば、あの男。カネにありつけなかった腹いせに、市川の名刺を悪用したらしい。
 「豊橋(愛知県)の保護司に世話になり、仕事をしている」。仮出所の直後、恵喜は故郷、長野県の母あての手紙にこうつづっている。確かにこのころ本籍地を豊橋市に移しているが、その住所は保護司ではなく、暴力団員の居宅だった。まともに仕事を続けた形跡もない。
 結局、恵喜は岐阜刑務所を出て一年半後の九九年十月、スナックでママのバッグを盗んだ疑いで名古屋・中署に逮捕される。
 大手企業のエリート社員や画廊経営者、有名タレントの知り合い…。本当の自分とはほど遠いだれかに化け、飲食店でカネを盗んだり、代金を踏み倒したりと、似た手口の余罪が四十件ほど。名古屋地裁の判決は懲役二年二カ月だった。
 そして、五度目の刑務所暮らしを終え、また、たった二カ月であの夜がやってくる。
 二〇〇二年三月十三日。前日、誕生日を迎え、恵喜は五十二歳になっていた。
 いつものようにカネが尽き、いつものように夜の街をぶらつく。従業員も客も人が少ないところがいい…。
 名古屋・栄の雑居ビル三階、店名「パティオ」。古ぼけた木のドアを開くと、初老のママがひとり、目に映った。=続く(敬称略)
 ◎上記事の著作権は[中日新聞]に帰属します 
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】狙われた幸せの“中庭”
 中日新聞 2013年12月21日
 前年からの暖冬で、近くの公園の桜は、つぼみがほころびかけていた。IT不況からの回復はまだ緒に就いたばかりで、名古屋有数の歓楽街、栄四丁目も盛況とはいかない。
 二〇〇二年三月十三日夜。雑居ビルの三階にあるスナック「パティオ」ではママの千葉春江(61)が、あまり使わないボックス席で暇を持て余していた。
 春江は、かかあ天下とからっ風で聞こえる上州、群馬県桐生市の生まれだ。下に妹が一人。四歳で迎えた終戦の年に父が亡くなった。
 母と姉妹、女ばかり三人の暮らしは楽ではない。幼いときから、炊事に洗濯と病気がちな母を支え、中学に入ると、学業の傍ら、織物工場で働き、家計を助けた。二十代になると地元の結婚式場で、客あしらいを覚えながら、独学で調理師免許を手にしている。
 自分の店を持ちたい−。そんな夢を描き、名古屋で水商売の世界に飛び込んだのが三十路(みそじ)に入ったころ。一度目の結婚に失敗したすぐ後だった。
 クラブのホステスとしては初々しく、それでいて鷹揚な物腰。ひいきにしてくれる客はすぐついた。二つ年上で、金融関係の仕事をしていた須藤正夫(仮名)もその一人。
 三年ほどこつこつためた金と、正夫の力添えで念願の店をオープンしたのが一九七九年のことだ。
 「こんなに早く店が持てるなんて」。春江は正夫の前で子供のように喜んだ。スペイン語で「中庭」を意味する店は、居心地の良さで常連客をつかみ、二十周年を祝うまで歳月を刻んだ。
 籍こそ入れなかったが、いつからか正夫と同居を始め、前妻との間の娘二人もわが子のようにかわいがった。ささやかだが「幸せ」を手にした、そんなころ。
 武藤恵喜(ぶとうけいき)が店のドアを開ける。
 「何時までやってますか」
 時計の針は午後十一時を指そうとしていた。ふだん、店は午前零時で終わり。いちげん客も入れない。売り上げの落ち込みが気にかかったのだろうか。
 「時間は気にしなくていいから、飲んでいってくださいよ」
 恵喜はカウンターに腰掛け「安藤」と名乗った。
 日付が変わり、店を閉めた向かいのスナックのママ田中しげ子(52)が「パティオ」から漏れる男の歌声を聞いている。「千葉さん、きょうは遅くまでお客さん入って、良かったわ」。そんなことを思った。=続く(敬称略)
 ◎上記事の著作権は[中日新聞]に帰属します 
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】二人目。スナックママ
 中日新聞 2013年12月22日
 日付が変わって一時間はすぎた。
 二〇〇二年三月十四日。ホワイトデーを迎えた名古屋・栄のスナック「パティオ」で、武藤恵喜(ぶとうけいき)は少し、焦り始めていた。
 売上金を盗もうとしても、ママ千葉春江(61)にすきがない。
 「たばこ、無くなっちゃったな」
 「たばこは置いてないのよ」。外へ買いに行くよう仕向けても軽くいなされ、春江は腰を上げない。
 「ちょっと、仲間を迎えに行ってくる」。逃げようかと表へ出たが、後をつけてきた春江に腕を絡めて引き戻された。
 春江はトイレに立ったときでさえ、ドアを半開きにしてこちらをうかがっているように感じる。
 夜は深まり、もう午前三時。懐のカネではここの支払いも、できない。また、刑務所には戻りたくない。いっそのこと…。
 恵喜は、隣に腰掛けていた春江の椅子に手を掛け、一気に後ろに引き倒した。
 「初めからおかしいと思ったんだ」。そう叫ぶ春江の口を押さえ、起き上がらせると、後ろから首に左腕を回して力を込めた。
 「ぐうっ」。春江の口からくぐもった声が漏れる。恵喜はカウンターの上にあったカラオケマイクをつかみ、その首にコードを巻き付けた…。
 後の裁判で明らかにされたところでは、その夜、恵喜はこうして人生で二人目となる命を奪った。
 当時、名古屋市立大で春江の司法解剖を担当した法医学者長尾正崇(まさたか)(52)は、恵喜がどうやって春江を絞殺したのか再現してみた。
 コードを二重に回し、簡単にほどけないよう首の後ろで、しっかり結んであった。春江の首の左側には自らの爪で引っかいたような傷が二つ。引きはがそうと、もがく春江を冷静に絞め続けたのだろう。
 「殺そうとして殺している。人の命を奪うことに迷いがない」。千体以上の解剖を手掛けてきた長尾の経験がそう告げた。
 恵喜は春江を殺害した後、グラスやカウンターの指紋を丁寧にぬぐった。暴行目的を装い、春江の衣服の一部を脱がしてもいる。
 そうして奪った売上金は八千円だった。
 事件が起きた午前三時ごろ、春江と同居する須藤正夫(仮名)が、帰りが遅いのを心配して春江の携帯や店へ電話している。だれも出ない。眠れぬまま迎えた朝、正夫は店へ駆けつけた。 =続く (敬称略)
 ◎上記事の著作権は[中日新聞]に帰属します 
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】女房の無念のみ込んだ
 中日新聞 2013年12月23日
 見慣れた店がまったく様変わりしていた。
 二〇〇二年三月十四日午前九時すぎ。名古屋・栄の雑居ビル三階にあるスナック「パティオ」には制服姿の警官が慌ただしく出入りしている。
 須藤正夫(仮名)が警官の制止を振り切り、店に入ると、変わり果てた「女房」が床にごろりと転がっていた。
 その後のことを正夫はよく覚えていない。腰が抜けたか、捜査員に抱きかかえられ、店を出た気がする。
 殺されたママ千葉春江(61)。籍は入っていなかったが、正夫は確かに夫だった。
 出会ったのは、お互い三十代半ばをすぎたころ。二つ年下の春江は、栄のクラブでピアノの生演奏に合わせて歌っていた。仕事の金融業が順調だったころで足しげく通い詰めたが、まったくこびようとしない。
 二年ほどで、正夫は家族に春江を引き合わせることになる。前妻との間の小学生、中学生二人の娘たち。名古屋市内の肉料理店での会食は緊張で身が縮こまった。
 ある日、正夫は母親のいない台所で、娘が不慣れな手つきで、フライパンになみなみと油を注ぐのを目にした。ひどく危なっかしい。
 そんなことに背を押された。春江となら家族になれると思った。
 「いっしょに暮らしてくれんか」
 春江はうなずいた。
 四人で食卓を囲む日々。手づくりのみそ汁で朝が始まる。
 休みのたび、温泉やスキーにも出掛けた。例えば、富山・宇奈月温泉に出かけたときは大雪で列車が立ち往生し、四人でスナック菓子を分けながら、すきっ腹に耐えた。
 娘二人が独立し、こんどはのんびり小料理屋でもやろうか、そんな話もしていた。それなのに…。
 事件から二日がすぎた三月十六日。春江の葬儀が名古屋市内の斎場で営まれた。
 焼き場から出てきた亡きがら。
 これからもいっしょだ−。
 正夫は骨片を左手でひとつかみすると、口に押し込み、バリバリとかみ砕きながらのんだ。手のひらが焼けるように熱かった。
 その直後、正夫の携帯が鳴る。
 「犯人、逮捕したで」
 武藤恵喜(ぶとうけいき)…。捜査員が口にしたのは一度も耳にしたことのない名前だった。
 春江を殺(あや)めてなお、無銭飲食をしながら名古屋市内にとどまっていたという。=続く(敬称略)
 ◎上記事の著作権は[中日新聞]に帰属します 
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】死を予感 最初の一通
 中日新聞 2013年12月24日
 使ったグラスやテーブルの上をタオルで入念に拭う。衣服は少し乱した。これで暴行目的に見えるだろう。
 二〇〇二年三月十四日未明、名古屋・栄のスナック「パティオ」。ママの千葉春江(61)を絞殺した武藤恵喜(ぶとうけいき)は、凶行の後始末を終え、店を出た。
 早く遠くへ逃げよう、とは思わず、まずはタクシーで名古屋駅近くへ。サウナに入店し、ひと眠りした。恐らく、この時点で春江を殺(あや)めて得た八千円は半分以上が消えたはずだ。
 後始末をうまくやれたと思い込んだ恵喜は、その後も、無銭飲食や盗みを繰り返しながら名古屋をうろつく。
 実はパティオで飲んだビール瓶に指紋の拭き残しがあり、愛知県警は早々にその名を割り出していた。二日後の十六日夕、名古屋・金山の駅前で恵喜は捜索中の警官に呼び止められる。
 このとき五十二歳。うち二十三年十カ月が刑務所暮らし。まだ恵喜は知らなかったが、以降、二度と塀の外を歩くことはなかった。
 恵喜の十歳年下で、同じころ、詐欺事件で捕まった沢田竜一(仮名)は逮捕直後の恵喜を最もよく知る男だ。この年の四月半ばから七月まで名古屋・中署の留置場の同じ房ですごした。
 沢田はクリスチャン。古ぼけた一冊の聖書を持ち込んでいた。
 恵喜はそれに興味を覚え、暇があると耽読した。「牧師ってどういう人がなれるんだい」。沢田にそう尋ねたこともある。
 恵喜は後に支援者にこんなエピソードを明かしている。
 「愛のない言葉は人の心に届かない」。中学生のころ、家のラジオで聞いた宗教番組のこんな言葉が忘れられない−。
 事件後、昔の記憶を呼び覚まし、自身の罪を心から反省したのだろうか。
 そうでもない。恵喜は沢田に事件のことをこう語っている。「債権回収に行ったら、ママと口論になり、何かの拍子に倒れて気絶した…」。相変わらずのうそ。
 ただ、何を思ったか、恵喜は一通の手紙を書く。
 五月四日、名古屋市の牧師、戸田裕(80)がその封を開けた。「私は殺人という大罪を犯し、中警察署で取り調べを受けています(中略)死刑に近いところにいます…」
 刑死の気配が忍び寄る塀の中で、新たな人々と交わり、揺れ動く心中をつづった九百通余の最初の一通だった。
 =続く (この連載は一月中旬に再開します) (敬称略)
 ◎上記事の著作権は[中日新聞]に帰属します 
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続き⇒ 【二月二十一日 ある死刑囚の記録】2013年2月21日 死刑執行された加納(旧姓武藤)恵喜(けいき)? 2014-01-28 | 死刑/重刑/生命犯 問題
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谷垣法相の命令により 死刑執行 小林薫(奈良女児誘拐殺害)・金川真大(荒川沖駅)・加納恵喜の3死刑囚 2013-02-21 | 死刑/重刑/生命犯 問題 
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