◎ 【二月二十一日 ある死刑囚の記録】2013年2月21日 死刑執行された加納(旧姓武藤)恵喜(けいき) ? からの続き ↓
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】殺人者からの手紙
中日新聞2014年1月11日
半世紀前に建てられた赤屋根の礼拝堂は周囲の家々に溶け込んで、あまり目立たない。二〇〇二年五月四日、名古屋市東区の「日本福音ルーテル復活教会」。礼拝堂わきの小さな執務室で、牧師の戸田裕は郵便受けから取り出したばかりの手紙の封を切った。宛先には教会の名前しか記されていない。「武藤恵喜」。差出人の名にも覚えはない。
B5の便箋二枚、黒のフェルトペンで書かれた中身を読み進めると、すぐに目が留まった。
「私は殺人という大罪を犯し中警察署で取り調べを受けています…」
このとき、戸田は六十八歳。牧師になって四十年近く。二年後には所属教団の定年を迎える。十年近い米国での伝道も含め、これまで、信徒からの数え切れない相談に応えてきたが、殺人者からの手紙は初めてだった。
*開口一番「神頼みですよ」
牧師の戸田裕が封を切った手紙。後に差出人の武藤恵喜(ぶとうけいき)自身が戸田に明かしたところでは、出したのは「聖書の一冊でも、もらおうかという安易な気持ち」で、戸田の教会を選んだのも「たまたま」だった。
確かにこのころ恵喜は名古屋・中署の留置場で同房だったクリスチャン沢田竜一(仮名)の聖書に興味を覚え、読みふけっていた。自分の一冊が欲しかったのかもしれないが、それにしては随分と心中を吐露している。
「逮捕時は何も考えず、たんたんとした日を過ごしていたのですが、気持ちも落ち着き、自分のしたことやこの先を考え始めました(中略)私のような人の道をはずした人間にも、生きていく希望を見い出す事ができるのでしょうか。残された人生の過ごし方、私の犯した罪に対しての考え方などご指導いただければ幸いです」
一カ月半前、名古屋・栄で二人目の犠牲者となるスナックママを殺(あや)め、逮捕された恵喜のことを戸田は知らなかった。「殺人」や「死刑」。戸田が尊さを説き続けてきた「命」と表裏の重い言葉が身を駆り立てた。
手紙を読んで一週間足らず。戸田は返信よりも先に中署五階の留置場の面会室へと足を運ぶ。アクリル板の向こうの男はボサボサの髪を肩近くまで垂らしていた。
「困ったときの神頼みですよ」。開口一番、恵喜はぞんざいに言い放った。困ったとき、つまり、都合の良いときだけ助けてほしい、とも取れる。教えを請う相手への一声としては失礼すぎるが、戸田は逆に恵喜と向き合う糸口をつかんだ気がした。
窮地に陥り「神も仏もあるもんか」と捨て鉢になる−。そんな人間は大勢見てきたが、目の前の男は違う。どうやら「神頼み」の気力ぐらいはあるらしい。
「良かったですね、あなたには困ったときに頼れる神様がいて」。老牧師と殺人者、二人の問答がこうして始まった。
=続く (敬称略)
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】軽さ感じた「命で償う」
中日新聞2014年1月12日
恵喜との交流を振り返る牧師の戸田=名古屋市東区のルーテル復活教会で=写真
梅雨のはしりか、二〇〇二年五月半ばの名古屋は連日、雨に見舞われていた。
こんなときはけんしょう炎の両手がひどく痛む。ゆっくりしかワープロをたたけないのがもどかしい。
「あなたは独りじゃない」。牧師の戸田裕は面会した数日後、武藤恵喜(ぶとうけいき)へ宛て、まずはそんなことをつづった。
五月二十二日、恵喜から返信が届く。
「何の罪のない人の命を奪った。自分の命をもって償いをすることが、被害者の家族にとって、それにも増して自分でも一番納得がいくと思う」
その二カ月前、名古屋・栄でスナックのママを殺(あや)めて以来、恵喜は初めて「償い」という言葉を使った。
一読、殊勝に思える。だが、戸田はこう感じた。
「軽い…」
実は恵喜はこのころ、取り調べでも殊勝な態度を続けていた。
「会話中に腹が立ち、殺してしまった後で金を盗んだ」。逮捕直後はこう主張した恵喜だが、わずか一週間で簡単に変える。
「金を奪うため、殺すしかないと思った」
殺した後で金を盗んだのか、金を奪うため殺したのか。結果は同じようでも、裁判では大きく意味が異なる。殺人と窃盗なら有期刑もあるが、後者は強盗殺人となり、法が定めるのは無期懲役か死刑しかない。恵喜が一九八三年、長野県の旅館で女将(おかみ)を絞殺した事件で、判決が懲役十五年だったのは前者と認められたゆえだった。
罪を正直に認め、償いのため、もう死刑でいいと考えたのだろうか。
戸田の答えは否。ある日の面会でこう尋ねた。
「あなたは償いのために自らの命を差し出すと格好良くいうが、あなたにとって命はそんなに重いのか。だったら、そんな人の命をなぜ簡単に消したんだ」
恵喜は黙り込んだ。
命の重みと本当に向き合っているのか。「反省の情を示して刑を軽くするためか、単にやけになっているだけじゃないのか」。そんな疑念がぬぐえなかった。
五月二十八日、名古屋地裁で迎えた初公判。「殺してやる」。恵喜は被害者の残された「家族」から峻烈(しゅんれつ)な怒りを浴びる。 =続く (敬称略)
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】「殺してやる」夫が怒りの拳
中日新聞2014年1月13日
前代未聞だろう。
二〇〇二年五月二十八日、武藤恵喜(ぶとうけいき)の初公判が開かれた名古屋地裁九〇三号法廷で“事件”は起きた。
開廷前、須藤正夫(仮名)は傍聴席の最前列で身じろぎもせず、待っていた。事実婚とはいえ、二十年以上連れ添った二歳下の妻、千葉春江(61)を手にかけた男がじきに現れる。
春江が殺されて二カ月半。幾度も検察に足を運んでは「必ず死刑に」と願い出た。当時、二十九歳だった正夫の長女も血のつながらない「母」への思いをこう訴えていた。「私の子も、母さんを見て『ばあば』と呼んでいました。孫の成長を楽しみにしていた母さんの人生をすべて奪った。私たち家族からかけがえのない大切な人を奪った」
それが、いったいどんな男なのか。正夫はずっと考え続けていた。
法廷に、刑務官に挟まれた恵喜が連れられ、目の前の被告人席に座る。髪は伸びっぱなし。背筋を張るでもなく、なで肩が一層、だらんとして見える。
これが? こんなだらしなく、根性も無さそうな男に? 春江、なぜ逃げられんかった…。
「間違いありません」。検事が朗読した強盗殺人のあらましを恵喜はすべて認めた。さらに詳しくあの日の一部始終が読み上げられる。「首にマイクコードを二回巻き付け…わいせつ目的と偽装するためスカートの裾をまくり上げ…」
あの朝、現場に駆けつけ、その目で見た光景がよみがえる。雑居ビル、階段、店の入り口、さえぎろうとする警官、床に転がった女房、変わり果てた姿。正夫は混乱した。
「てめえ、ばかやろう、おれが殺してやる」
叫んだ。左手で拳をつくる。傍聴席の柵から身を乗り出し、一メートル先に座る恵喜の左頬を背後から殴りつけた。騒然とする廷内。審理は中断し、裁判長は正夫の退廷を命じた。
恵喜にけがが無かったからか、正夫の暴行事件は不起訴とされた。恵喜は後日、牧師の戸田裕への手紙にこう記している。
「私が原因で罪人をつくったのでは、泣いても泣ききれません。ほっとしています」
正夫はその後も公判に通い、被告人席をにらみ続けた。恵喜が正夫と目を合わせることは一度もなかった。 =続く (敬称略)
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】「生きたい」願い強まる
中日新聞 2014年1月14日
左腕で首を絞めていた。はっきりとした感触がある。覚えのある感触だ。なのに相手が分からない。いったい、だれを…。
ハッと目が覚めた。目が覚めたはずなのに背後からこんな声がした。「あんたは神様に救われるかもしれないが、殺された私はどうなるんだ」
自らの手で絞殺したスナックママ、千葉春江(61)。その夫に殴られるという前代未聞の名古屋地裁での初公判から二カ月余り。二〇〇二年、うだるような猛暑の八月初め、武藤恵喜(ぶとうけいき)は牧師の戸田裕への手紙で忘れられない一夜の夢を打ち明け、こうつづった。
「あの首を絞めた時の感触は、この先どのくらい生きれるかわかりませんが、死ぬまで背負って行く事が被害者への償いと思っています」
恵喜はこのころ、一連の取り調べが終わり、名古屋・中署から名古屋拘置所へと移管されていた。長い髪を短く切りそろえ、十階の広さ四畳、独居房での暮らし。独りの時間、何を思い、すごしたか。「死んで償いたい」。戸田との面会や手紙で繰り返した言葉を使わなくなる。
代わりにこんなことを書く。日付は八月十日。「逮捕直後は極刑で楽になりたいという気持ちが強かったが、今は、何とかして生きて出て教会で神に感謝の祈りをささげたい」
やがて夏がすぎ、十月八日、四回目の公判だった。
恵喜は弁護士に相談もせず、法廷で突如、それまでの発言を翻す。「被害者を殺した後に金を奪うことを考えた」。死刑の可能性が高まる強盗殺人ではなく、殺人だという主張だ。逮捕から一週間後には強殺を認めたはずが「夜遅くまでの取り調べが続き、もうどうでもいいと思った」と説明した。
その半面、長野と名古屋、二度の人殺しの手口が酷似している点を検事に問われ、こう答える。「まるっきり同じことをしたということは、またあるんかなという気持ちを持っていることは確かです」
刑を軽くしようとしながら、再犯の可能性に言い及ぶ−。ある意味、支離滅裂。ただ、ひとつ確実なことは、この後、恵喜は「生きたい」という願いを強めていく。=続く(敬称略)
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】塀の中「先生」と呼ばれて
中日新聞 2014年1月15日
名古屋拘置所での武藤恵喜(ぶとうけいき)の一日は午前七時半の朝の点呼で始まる。十階にある四畳の独居房。起床すると入り口に向かって正座し、刑務官の呼び掛けを待つ。
「二百四十番」。二〇〇二年七月、名古屋・中署の留置場から移管されてからそれが恵喜の呼び名だった。ただし、囚人仲間たちは番号ではなく、こう、呼んだ。「先生」−。
塀の中では外の世界と人を測る、もの差しが違う。
ある日、十階の廊下で三十代ぐらいの暴力団員の男がふと恵喜に話し掛けた。
「おっさん、何やったの」
「殺しだよ」。男はすぐに深々とこうべを垂れた。顔色が少し変わっていた。
このときまで四半世紀近くを塀の中で暮らしてきた恵喜はベテランの罪人だ。しかも二人を殺(あや)めている。囚人仲間から一目置かれ、恵喜の房には、しばしば悩みごとを相談する手紙まで舞い込んだ。
中署の留置場で同房だった十歳下の沢田竜一(仮名)も恵喜を慕った一人。偶然だが、沢田も恵喜に続き、名古屋拘置所の十階へ移された。気掛かりは当時、小学三年生の長男。「中学の入学式には出たい」。所内で袖すり合うわずかな時間、そんなことも話した。
恵喜はあえて手紙で告げた。「早く仮出所するには、中に知り合いがいては印象が良くない。話し掛けてはいけない」
四年後、沢田はぎりぎりで仮出所し、入学式に出席する。礼を言いたくて、恵喜に三度、面会を申し入れるが、三度断られる。返事はやはり手紙。「親子三人、今の生活を守るには、くどいようだが、過去を忘れて生きることです」。沢田にとって恵喜は「優しい人」だった。
「先生」と慕われ、衣類や本など牧師の戸田裕からの差し入れで身の回りにも不足はない。名古屋拘置所の居心地は決して悪くなかっただろう。
「出所できたら本を書きたい」。戸田に対し、将来の夢を語り始め、裁判も終幕近くの二〇〇三年一月には「先生」らしく自らの刑も予想した。
「岐阜刑務所に入ると思います。二十年近い務めに入ることは間違いない」
二人を手にかけた男。五月十五日、名古屋地裁での一審判決は−。=続く(敬称略)
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】一審無期「生きながらえた」
中日新聞 2014年1月16日
二〇〇三年五月十五日、名古屋地裁九階の九〇三号法廷。「助かりたい」。武藤恵喜(ぶとうけいき)は不安におびえていた。「死刑はない」と高をくくっていたはずが、いざ証言台に立つと「万が一…」の恐れがどうしようもなくあふれてくる。
もしも「死刑」ならば大抵、主文は後回しにされるのだが、三人いる裁判官の真ん中、黒い法服を着た裁判長、伊藤新一郎はいきなり宣告する。
「被告人を無期懲役に処する」−。
恵喜は後に牧師の戸田裕への手紙で判決直前の不安と直後の安堵(あんど)の気持ちをつづった。「もう少し生きながらえることができそうです」
一年余り前、名古屋・栄のスナックでママ千葉春江(61)を絞殺し、八千円を奪った恵喜。裁判の途中「殺した後で金を奪うことを考えた」といい、いったんは認めていた金目当ての強盗殺人を否定する。
判決で伊藤は恵喜のそんな態度や、長野での一人目の殺人にも触れ「反省、悔悟の情に乏しい。再犯の可能性を否定しがたい」「極刑も考えられる」と断罪した。ただ、現場にあったカラオケのマイクコードで首を絞めた手口に計画性は認めず、命を奪う「究極の刑罰」に決めるには「疑いが残る」と語った。
伊藤は今、六十六歳。一二年秋、定年を迎え、法服を脱いだ。四十年近くの裁判官生活で死刑の判決文を書いたことは一度もない。伊藤は恵喜の裁判に関して「判決文がすべて」と口を閉ざすが、一般論として言う。「裁判は被告人が社会に戻るための出発点。閻魔(えんま)さまに極楽か地獄行きかどうか印鑑をもらう所ではない。自分で考えてもらう手続きが大事だ」
恵喜への判決の言い渡しは「終生、贖罪(しょくざい)に当たらせることが相当である」と結んで終わる。
殺された春江の事実婚の夫で、初公判のとき、恵喜に殴りかかった須藤正夫(仮名)は、傍聴席で身を震わせた。「こんなもんか…」。恵喜だけでなく、伊藤への怒りで、だった。
弁護士の勧めもあってか、恵喜は有期刑への減軽を求めて控訴する。どの道、その二日後には検察も。正夫は担当検事の言葉を今も覚えている。「絶対に死刑にしてみせます」=続く(敬称略)
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】予期せぬ宣告「耐え難い」
中日新聞 2014年1月17日
武藤恵喜(ぶとうけいき)はすぐには返答しなかった。検察の死刑求刑に対し、名古屋地裁が下した「無期懲役」。その判決から二カ月がすぎた二〇〇三年七月、名古屋拘置所の面会室で弁護士の太田寛は初めて顔を合わせた恵喜にこう助言した。「強盗殺人の事実関係を争うのはやめましょう」
名古屋高裁での控訴審の開始を控え、新たに国選で付いた弁護士が太田だ。当時、脂の乗った四十五歳。環境問題などの民事を得意としてきたが、仕事の幅を広げようと国選の刑事裁判も進んで引き受けていたころ。初めての死刑求刑事件はキャリアを積む好機とも感じていた。
一審の途中、恵喜は金目当てではなかったと強盗殺人を否認している。しかし、判決はそんな態度を「反省の情に乏しい」と切り捨てた。ならば高裁では反省を示せばいい−。太田は有期刑への減軽を狙って、そう戦略を練った。
恵喜にとっては一審での否認がうそだったことになる。しばしためらったが、間もなく「それでお願いします」とうなずく。
特段の争点がない控訴審はその秋、わずか二回の公判で結審する。
太田は恵喜が牧師の戸田裕へあて「死んで償いたい」などと記した手紙を法廷に出した。直前には恵喜が須藤正夫(仮名)へ初めての手紙を書く。自ら殺(あや)めたスナックママ、千葉春江の事実婚の夫への一通は贖罪(しょくざい)の心の証しと主張した。
一方、逆転「死刑」を目指す検察は恵喜への憎しみと一審判決への不満という遺族の思いを文書にまとめ、対抗した。正夫は「今でも考えるのは春江のことばかり」といい「絶対に死刑に」と求めた。恵喜から届いた手紙は鼻をかんで捨てていた。
そして〇四年二月六日、高裁判決が出る。
「死刑」−。
そのころ世間では「厳罰化」の流れが強まってはいたのだが、恵喜も太田も予想だにしない結果だった。
判決後、法廷を出た恵喜は、廊下で目まいに襲われた。「恐怖と不安の入り交じった、耐え難い気持ちになった」。三日ほどぼうぜんと過ごし、戸田への手紙にそうしたためた。
「無償でいいから弁護を続けたい」。太田の強い勧めもあり、恵喜は最高裁に上告する。以降、恵喜は刑死の恐怖と不安を感じ続けることになる。そして、意外なことにぬくもりを…。=続く(敬称略)
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】家族を裏切り、求める
中日新聞 2014年1月18日
二本のろうそくが、十字架と武藤恵喜(ぶとうけいき)の顔をほんのりと照らしている。名古屋拘置所の会議室に即席でしつらえた祭壇の前、恵喜の頭に三度、聖水が浴びせられ、短く刈りそろえた髪から、したたった。 名古屋高裁で死刑を宣告されてから六日後の二〇〇四年二月十二日。恵喜は塀の中の洗礼式で「パウロ」という名を授かる。信徒を迫害する罪を犯しながら、イエスとの出会いで回心した聖人。恵喜が自ら欲した名だった。
恵喜は牧師の戸田裕に洗礼を望んだ理由をこう説明している。「長野での一度目の殺人のとき、全て忘れて生まれ変わろうとしたら、本当に全てを忘れた。こんどは、忘れないために」。イエスのしもべとして、わが身に罪を刻む、そんな思いがあったらしい。
洗礼の前後から恵喜のもとには、新たに交わりを結ぶ信徒仲間がだんだんと増えていく。
当時、恵喜と同い年、五十三歳の小川健司も週二回は面会に足を運ぶようになり、本の差し入れや、衣類の洗濯まで引き受けた。戸田を「おやじ」と慕ってきた恵喜は、小川を「兄貴」と呼ぶようになる。
だが、そんな小川にも恵喜はうそをつく。「故郷には別れた妻と子どもがいる」。恵喜が結婚したことは無い。「両親はもう死んだ」。父は一九九〇年代半ばに亡くなっているが、母は今も健在だ。
恵喜は「両親から、もう長野に戻って来るなと言われた」と話したこともある。長野で旅館の女将(おかみ)を殺(あや)め、岐阜刑務所に服役中のころだといい「家族に不信感をもった」とも。実際には、母はそのころ、獄中の息子へ改心を願う手紙を送り続け、四国を遍路して犠牲者の冥福を祈っていた。
若いときから刑務所暮らしを繰り返し、果ては二度の人殺しまで。更生を信じる家族を裏切り続けた恵喜。それなのに、いや、それだからか。「兄貴」の小川はこう振り返る。「あの人は見返りなく自分のために何かをしてくれる相手を求めていた。家族へのあこがれがあった」
高裁での死刑判決は、そう大きくはないが全国ニュースになった。ある日、名古屋拘置所の恵喜に関西から一通の手紙が届く。恵喜の心に深く入り込み、文字どおり家族となる「加納」という女性からだった。 =続く
(敬称略)
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】返信した、ただ一通
中日新聞 2014年1月26日
武藤恵喜にとって数十通の手紙の中、その一通だけが「温かかった」という。
名古屋高裁で死刑を宣告された恵喜の元には見知らぬ相手から支援を申し出る手紙が続々と届くようになっていた。事務的なものや、中には支援してやる、というふうに感じられるものもあったのだろう。キリスト教の信徒仲間で、「兄貴」と慕った小川健司に後日明かしているのだが、恵喜はほとんどに「反感」を覚えて読み捨てた。返事をしたためたのは一通のみ。
差出人は「加納真智子(名は仮名)」。女性だろうが、年齢も詳しい経歴も分からない。「出そうか出すまいか、さんざん迷った」。恵喜への励ましに加え、文面には書き手の心情がにじんでいた。
間もなく真智子から返信が届き、恵喜は一読して目を見張る。
*「手紙、本当に嬉しく…」
「人付き合いばかりか、何をするにも人より何倍も日数の要する人間ですから、手紙をいただいた時は本当に嬉(うれ)しく、心からお礼申し上げます」
二人を殺(あや)めた恵喜。真智子はそんな男に向けて丁寧に感謝の言葉を並べた。恵喜こそ嬉しかったに違いない。「兄貴」小川健司に打ち明けている。「たった一通出した人が加納さんのような人で驚きです」
真智子は当時、恵喜と同学年にあたる五十四歳。兵庫県に暮らす主婦だった。
仲の良かった友人らによると、津軽平野の真ん中、青森県五所川原市に生まれた。リンゴ農家の四姉妹の三女。一度、見合いで結婚したが別れ、地元のホテルで働いていた四十代半ば、兵庫県から旅行に来た高校の数学教師と出会う。山野で白く小さな花を付けるヒトリシズカの話をしたのをきっかけに親しくなり、間もなく夫婦になった。
実家とはもともと折り合いが悪く、再婚で故郷を去ると、もう寄り付くことはなかった。しかし、新天地での暮らしも思い通りとはいかない。ふだん優しい夫は心が不安定なところがあったといい、真智子は徐々にすきま風を感じるようになる。後に友人への手紙に夫への愚痴をつづり、こう続けた。「家庭というものに縁がないのかもしれません」
ちょうど五十の年、真智子はキリスト教の信徒になる。所属する教会で、ハンセン病の元患者や死刑囚の支援にも取り組み始めた。
「人生に課題を持って生きたい」。よくそんなことを周りに言った。
新しい課題のひとつ。恵喜に手紙を出したのも、はじめはそんな気持ちだったのかもしれない。
名古屋高裁での死刑判決から三カ月がすぎた二〇〇四年五月、ひんぱんな手紙のやりとりを経て、二人は名古屋拘置所で初めて顔を合わせた。
家族を裏切り続け、そのきずなを失った男と、理想の家族をつくれなかった女性。どんな言葉を交わしたのか、今となっては手掛かりはない。ただ、面会からわずか二カ月後、二人は養子縁組を結び母子になる。 =続(敬称略)
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】殺人者支える“母親” (18)
中日新聞 2014年1月27日
二〇〇四年五月、ちょうど名古屋拘置所で武藤恵喜(ぶとうけいき)と初めて顔を合わせたころ、恵喜との養子縁組を心に定めた加納真智子(名は仮名)が、ある女性を訪ねている。
大阪市の小さな教会で牧師をしていた当時、六十五歳の向井武子。武子によれば、出会いはあまり印象に残っていない。一五〇センチそこそこの背丈で、奥二重の優しそうな目。一見、もの静かだが、いったん口を開くとよくしゃべる。確か、弾んだ口ぶりで、こんなことも言った。「向井さんのような生き方をしたいわ」
殺人者を家族として支える−。武子はその数少ない“先輩”だった。一九八五年、神戸市などで二軒の民家に押し入り、幼子を含む計三人を殺害、〇三年に四十二歳で死刑執行された向井(旧姓前原)伸二。武子はこの男を養子とし、十七年にわたり、向き合ってきた。
「母さんと一緒に生きていきます」。そんなことを言ったかと思えば、「利用価値がないから離れます」と豹変(ひょうへん)する。「息子」に代わって遺族に頭を下げ、裁判所では見知らぬ人から罵倒された。心身ともに疲れ果て、数カ月、床に伏したこともある。武子が「全身全霊」でぶつかった息子との歩みは本にもなり、真智子も読んでいた。
「のめり込みすぎだ」。たびたび、そんな批判も浴びた武子だが、その実、踏みとどまった一線がある。「償いと向き合わせるという宗教者としての目的意識は忘れなかった。それを忘れ、母親の情に流されるだけでは、泥の中にはまってしまう」
幾度目かの来訪で、真智子から養子縁組の証人を頼まれたとき、武子は快諾する。恵喜のことはよく知らなかったが、真智子は同じクリスチャン。恵喜とどう向き合っていくのか、さほど心配はしなかった。
〇四年七月、恵喜の母となった後も真智子は足しげく武子のもとへ通い続ける。ある日、思い詰めたように武子に耳打ちした。「恵喜さん、わたし以外にも女性と文通してるみたい」
まだ、漠然とではあったが、武子は二人の関係に少し「危うさ」を感じた。=続く(敬称略)
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】弱い者同士と願って (19)
東京新聞 2014年1月28日
恵喜の母となった二〇〇四年の夏から半年はすぎていた。加納真智子(名前は仮名)は夫との仲がこじれ、新大阪駅からひと駅のワンルームマンションで独り暮らしを始める。
近所の女友だちが廊下の窓から顔をのぞかせ、玄関をうかがう真智子を目にしたことがある。
「何してるの」
「郵便屋さんを待ってるの」。真智子は毎日のように恵喜から届く手紙を心待ちにしていた。
ただ、牧師の向井武子や友人に悩みを吐露するようになったのもこのころ。「恵喜さん、わたし以外にも女性と文通してるみたい」。思い余った真智子は面会で涙ながらに迫ったという。「最後まで面倒を見てくれるのは誰だと思うの」
恵喜は「心配かけてごめん」と謝った。
友人たちは情に流されていると、たしなめたが、〇五年十二月、真智子はついに名古屋へと引っ越す。拘置所から一キロちょっとのマンション。新幹線を使っても二時間ほどかかった二人の距離は自転車で数分に縮まった。
面会は連日に。恵喜の衣類を洗濯し、恵喜の好んだ甘い菓子を差し入れた。
貯金を取り崩しながらの暮らしは無論、楽ではない。友人への手紙に記している。名古屋で初めて迎えた春。恵喜用のついでに自分のためのTシャツも「買っちゃった」。四つ葉のクローバーをあしらった千円のやつ。「たまに新品のは気分いいです」
真智子は自らを「弱い」と公言していた。そして恵喜も「弱い」のだと。「狭い独房の中では生きていることの方がつらいかもしれない。そのつらさも償いのうちに入ると思う」といい、恵喜のために願った。「弱い者同士、寄り添いつつ共に生きていきたい」
が、それもむなしく〇七年一月、真智子は名古屋での暮らしを一年ほどで終え、大阪へ戻ることになる。体調を崩し、検査入院した名古屋の病院で告げられた。「がん」。既に乳房から肝臓に転移しており、完治は難しかった。
真智子は大阪へ転院する一週間前の面会まで恵喜に黙っていた。「もう来られないから、誰かいい人がいたら、その人と縁組して」
「それをしたら、武士の一分が立ち申さん」。冗談めかした恵喜の返事に真智子は泣きながら笑った。 (敬称略)
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◇ 谷垣法相の命令により 死刑執行 小林薫(奈良女児誘拐殺害)・金川真大(荒川沖駅)・加納恵喜の3死刑囚 2013-02-21 | 死刑/重刑/生命犯 問題
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