◎ 【二月二十一日 ある死刑囚の記録】 2013年2月21日 死刑執行された加納(旧姓武藤)恵喜(けいき)?
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】逃げちゃだめ、生きて (20)
中日新聞 2014年1月29日
加納真智子(名は仮名)は二〇〇七年一月、名古屋を去り、大阪市内のマンションに落ち着く。「夏まで持てば…」。通院先の医師にそう告げられた。抗がん剤治療のため髪の毛が抜け、顔はむくんでいく。一日中、床に伏すことも増えたが、恵喜(けいき)への連日の手紙や、週に一度の面会はやめようとしなかった。
苦しみながらも生き続ける−。それが恵喜の償いと信じる真智子は自らの病を知ってなお、恵喜を案じていた。
最高裁での上告審が続く中、真智子には恵喜が「死刑」に逃げようとしているように思えたからだ。
大阪に戻ってしばらく、真智子はこんな手紙を出している。「先にとらわれず、今生きていられることに感謝して、すごしていこうねって話し合っています」
宛先は東京の弁護士、湯山孝弘。四十九歳と真智子より七つ若いが、恵喜が生きていくことを願う“同志”だった。
さかのぼること二年半。名古屋高裁での死刑判決から半年がすぎた〇四年八月、体を壊した前任の太田寛に代わり、上告審での恵喜の国選弁護を引き受けたのが湯山だ。
「ふつうのおじさんだなぁ」。名古屋拘置所の面会室で初めて恵喜と会った湯山はそんな印象を覚えたという。
ノートパソコンを開き、恵喜の話を打ち込んでいく。「償いが一番つらいし、生きていくのがつらい…」。二人を殺(あや)めた「おじさん」は随分と投げやりに見えた。
確かによほどの新証拠でも出ない限り、上告審で高裁の死刑判決が覆ることはほとんどない。あきらめ、だろうか。面会を重ねるに連れ、恵喜はしばしば「もう死刑でいい。上告を取り下げたい」と口にするようになる。
そのたび「そんなのやめて」と懇願したのが真智子。湯山も叱った。「反省が足らん。生きて償いましょうよ」
もちろん、湯山とて、この上告審が厳しい闘いであることは重々承知していた。だが、負けたくない。
三千ページは超える裁判資料。弁護が決まってから毎夜、日付が変わるまで読み込んだ。
信じられなかった。「なんでこれで死刑なのか」 =続く
(敬称略)
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】やむを得ないのか…
中日新聞 2014年1月30日
ところどころに付箋が貼られた恵喜の裁判記録。湯山は深夜まで読み込んだ(一部画像処理)
「変な弁護士だなぁ」。二〇〇四年八月、加納恵喜(けいき)は初めて面会した湯山孝弘を値踏みしかねていた。恵喜が後に湯山本人に明かしている。
カネにはならず、勝ち目もありそうにない最高裁での国選弁護を引き受けた東京のセンセイ。髭面(ひげづら)で、丁寧とはいえない口ぶりでこんなことを言う。「弁護士じゃなくて、俺という人間とちょっと話そうや」
やがて恵喜は面会に立ち会う刑務官にこの「変な弁護士」を「友だち」と紹介するようになる。
二十代のころ、友人の劇団に参加していた湯山は主役に照明を当てるピンスポットがうまかったそうだ。三十歳で弁護士になると、花形の企業法務で辣腕(らつわん)をふるい、三年で独立、若手弁護士二人を従えて、都心に事務所を構えた。
ITバブルの寵児(ちょうじ)と評された企業の顧問も務めたが、カネのためのいざこざに奔走する日々に疲れ、ふと気付く。「別にひとりでもいい。自分の好きなことをやっていこう」。ライトは浴びるより当てる方が性に合う。
そんな湯山が恵喜の裁判記録に目を凝らして感じたのは名古屋高裁での死刑判決の不可解さだった。
死刑が求刑された事件で裁判官が必ず参考にする「基準」がある。十九歳の永山則夫が四人を射殺した事件で、一九八三年に最高裁が示した「永山基準」。殺害の手口は残忍か、前科はあるか、被害者は何人か、遺族の感情はどうか、など九つの要素をにらみ「やむを得ない」場合だけ、死刑を選べる、とされた。
別段、何人殺せば死刑、といったふうに明瞭な線引きができたわけではないが、この後、死刑の選択にあたり、量刑の相場が形づくられていく。
湯山が恵喜の弁護人となって間もない〇四年十月、日弁連が永山基準が示されて以降の判例を研究した報告書をまとめている。例えば、犠牲者が一人の殺人事件。誘拐や保険金目当てなど計画性が高いか、以前に無期懲役刑で服役し、仮釈放中に起こした場合をのぞき、死刑を宣告された事例は皆無だった。
もっとも、調査期間は〇三年まで。〇四年二月、初めての例外が起きていた。恵喜のケースだった。
=続く
(敬称略)
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】生死を分かつ「厳罰化」
中日新聞 2014年1月31日
恵喜(けいき)に死刑を宣告した二〇〇四年二月の名古屋高裁判決だが、無期懲役だった名古屋地裁と比べ、判断の根拠がさほど異なっているわけではない。
名古屋のスナックママを殺(あや)めた恵喜。身勝手で、残忍で、遺族の感情は悲痛極まりない−。どちらの判決も似通ったことを言っている。半面、ママにすきがなく、もう逃げられないと追い詰められたゆえの凶行であり、事前の計画性は無い、としたところも同じ。
地裁ではこれが刑を減じる要因となったが、高裁判決は「しかし…」と続く。一九八三年にも長野で旅館の女将(おかみ)を手にかけ、刑務所を出た後も無銭飲食などを繰り返した懲りない男。追い詰められたのは「自業自得」だとし、死刑を回避する事情には当たらないと断罪した。
死刑選択の「永山基準」が八三年に示されて以降、一人を殺したケースでは計画性が無いなら死刑も無いのが相場だった。例外は無期懲役の前科があり、仮釈放中にまた起こした場合だけ。恵喜が長野の事件で処せられたのは懲役十五年、つまり有期刑だが、高裁判決は「改善の兆しがみられない」ことを重んじ、その点もくみ取らなかった。
当時の高裁の裁判長で、〇六年に退官した小出●一(じゅんいち)は今も「個別の事件については話さない」と口をつぐむが、弁護士の湯山孝弘には「事実関係の争いではなく、裁判官の評価で変わった判決」と思える。
無期から死刑。刑の重さでは一段上がるだけだが、その間には生死を分かつ最後の一線が横たわる。湯山には納得できなかった。「はざまにあるのなら、死刑にしちゃいけない」
ただ、そんな湯山をよそにそのころ、重罪に手を染めた者の厳罰化が世のすう勢だった。一連のオウム真理教事件が契機とされるが、治安への不安が広がり、時の首相、小泉純一郎が「世界一、安全な国」を掲げ、犯罪対策の強化や司法改革を訴えたのが〇三年。
恵喜を含め、〇四年は全国の裁判所で永山基準が出てから最多の四十二人に死刑が宣告された。内閣府の世論調査で死刑存続を求める意見が初めて八割を超えたのもこの年だ。
何しろ、湯山は身近でこんな声も耳にした。「死刑はあった方がいい。俺みたいな極悪人は社会から排除するべきだ」。恵喜がそう言った。=続く(敬称略)
(注)●は金ヘンに享
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1983年7月8日最高裁第二小法廷(裁判長裁判官大橋進)宣告
主文
原判決を破棄する。
本件を高等裁判所に差し戻す。
理由
〔一〕第一審判決は、犯行の動機に同情すべき点がなく、ピストルに実包を装填して携帯する計画性があり、その態様も残虐で、四人の生命を奪った結果が重大で、遺族らは精神的、経済的に深刻な打撃を受け、「連続射殺魔」と報道されて社会的影響が大きく、被告人に改悛の情の認められないことを総合すれば、生育環境、生育歴に同情すべき点があり、犯行当時は少年であったことを参酌しても、死刑の選択はやむをえないとした。
〔二〕第二審判決は、不利な情状を総合考慮すれば、死刑判決は首肯できないではないとしながら、被告人にとって有利な情状を考慮し、第一審判決を破棄して、無期懲役に処した。
〔三〕死刑は残虐な刑罰にあたるものではなく、死刑を定めた刑法の規定が憲法に違反しないことは、当裁判所大法廷の判例にあるが、生命そのものを永遠に奪う冷厳な極刑で、究極の刑罰であることにかんがみると、その適用が慎重におこなわれなければならないことは、第二審判決の判示するとおりである。
しかし、犯行の罪責、動機、態様、殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性、殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情状などを考察したとき、その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも、一般予防の見地からも、極刑がやむをえないと認められる場合には、死刑の選択も許される。
本件犯行についてみるに、犯行の罪質、結果、社会的影響はきわめて重大である。殺害の手段方法は、凶器としてピストルを使用し、被害者の頭部、顔面などを至近距離から狙撃して、きわめて残虐というほかなく、名古屋事件の被害者・佐藤秀明が、「待って、待って」と命乞いするのを聞き入れず射殺し、執拗かつ冷酷きわまりない。
遺族らの被害感情は深く、佐藤秀明の両親は、被害弁償を受け取らないのが息子に対する供養と述べ、東京プリンスホテル事件の被害者・村田紀男の母も、被害弁償を固く拒み、どのような理由があっても被告人を許す気持ちはないと述べており、その心情は痛ましいの一語に尽きる。
被告人にとって有利な情状は、犯行当時に少年であったこと、家庭環境がきわめて不遇で、生育歴に同情すべき点が多々あり、第一審の判決後に結婚して伴侶をえたこと、遺族の一部に被害弁償したことなどが考慮されるべきであろう。幼少時から赤貧洗うがごとき窮乏状態で育てられ、肉親の愛情に飢えていたことは同情すべきであり、このような環境的な負因が、精神の健全な成長を阻害した面があることは、推認できないではない。
しかし、同様の環境的負因を負う兄弟は、被告人のような軌跡をたどることなく、立派に成人している。犯行時に少年であったとはいえ年長少年で、犯行の動機、態様からうかがわれる犯罪性の根深さに照らしても、十八歳未満の少年と同視することは困難である。そうすると、犯行が一過性のもので、精神的な成熟度が十八歳未満の少年と同視しうるなど、証拠上明らかではない事実を前提として、国家・社会の福祉政策を関連づけることは妥当でない。
第一審の死刑判決を破棄して、被告人を無期懲役に処した第二審判決は、事実の個別的な認定および総合的な判断を誤り、はなはだしく刑の量定を誤ったもので、これを破棄しなければ、いちじるしく正義に反するものと認めざるをえない。
〔四〕よって第二審判決を破棄し、本件事案の重大性、特殊性にかんがみ、さらに慎重な審理を尽くさせるために、東京高等裁判所に差し戻すこととし、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
一九八三年七月八日
最高裁第二小法廷
裁判長裁判官 大橋 進
裁判官 木下忠良
裁判官 鹽野宜慶
裁判官 宮崎悟一
裁判官 牧 圭次
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◇ 光市事件20日判決 元少年、今の心境/永山基準転倒=とにかく死刑だ、無期にするためにはそれなりの理由 2012-02-20 | 光市母子殺害事件
「凶悪犯罪」とは何か 光市裁判、木曽川・長良川裁判とメルトダウンする司法
2、光市事件最高裁判決の踏み出したもの
僕も全く同じ考えを持っています。光市の最高裁判決は、永山判決を踏襲したと述べていますが、内容は、全く違うんですね。永山判決には、死刑に対する基本的な考え方が書き込んであるわけです。死刑は、原則として避けるべきであって、考えられるあらゆる要素を斟酌しても死刑の選択しかない場合だけ許されるんだという理念がそこに書いてあるわけです。それは、永山第一次控訴審の船田判決が打ち出した理念、つまり、如何なる裁判所にあっても死刑を選択するであろう場合にのみ死刑の適用は許されるという理念を超える判決を書きたかったんだろうと思うんです。実際は超えていないと私は思っていますけどね。でも、そういう意気込みを見て取ることができるんです。ところが今回の最高裁判決を見てくると、とにかく死刑だ、これを無期にするためには、それなりの理由がなければならないと。永山判決と論理が逆転しているんですね。それを見てくると、村上さんがおっしゃった通りで、今後の裁判員に対しての指針を示した。まず、2人殺害した場合にはこれは死刑だよ、これをあなた方が無期にするんだったらそれなりの正当性、合理性がなければならないよ、しかもそれは特別な合理性がなければならない、ということを打ち出したんだと思います。具体的には、この考え方を下級審の裁判官が裁判員に対し説諭するんでしょうし、無期が妥当だとする裁判員は、どうして無期であるのかについてその理由を説明しなければならない羽目に陥ることになると思います。
ですから今回の最高裁判決は、すごく政策的な判決だったと思います。世論の反発を受ければ裁判員制度への協力が得られなくなる。だから、世論に迎合して死刑判決を出す。他方で、死刑の適用の可否を裁判員の自由な判断に任せるとなると、裁判員が死刑の適用を躊躇する方向に流されかねない。それで、これに歯止めをかける論理が必要である。そのために、永山判決を逆転させて、死刑を無期にするためには、それ相応の特別の理由が必要であるという基準を打ち出したんだと思います。このように、死刑の適用の是非を、こういう政策的な問題にしてしまうこと自体、最高裁そのものが質的に堕落してしまったというか、機能不全現象を起こしているんですね。ですから第三小法廷の裁判官たちは、被告人を死刑か無期か翻弄することについて、おそらく、何らの精神的な痛痒さえ感じることなく、もっぱら、政治的な必要性、思惑と言っていいのでしょうが、そのようなことから無期を死刑にひっくり返したんだと思います。悪口ばっかりになってしまうんですけど。
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1981年8月21日東京高等裁判所刑事二部(裁判長裁判官船田三雄)言い渡し。
主文
原判決を破棄する。
被告人を無期懲役に処する。
原審における未決勾留日数五〇〇日を右刑に算入する。
理由
被告人は、窃取したピストルを使用し、一九六八年十月十一日から、わずか一カ月足らずの間に、東京、京都、函館近郊、名古屋において、合計四人を次々に射殺して、新聞、テレビ、ラジオを通じて「連続射殺魔」と呼ばれ、マスコミを賑わせた。
捜査当局は、広域重要一〇八号事件として全国的な捜査体制を取り全力を投入したが、原宿事件の直後に被告人を逮捕し、ようやく終結を見た。原宿事件は殺害にいたらなかったが、被告人によって四人の貴重な生命が奪われ、東京プリンスホテル事件、名古屋事件においては、二十歳代の春秋に富む真面目な独身の勤労青年の生命が奪われた。本人の無念さはいうに及ばず、最愛の息子を被告人に奪われた両親の無念さは察するに余りあり、事件後十余年を経過した現在、なお被告人の提供する慰藉の気持ちとしての印税をかたくなに拒否して、せめてもの息子への供養である旨の言葉に、悲痛な親の心情がよく表現されている。
被告人は、一九六九年五月二十四日に起訴され、原審において審理を受けたが、七一年六月十七日に死刑の論告求刑を受け、当時の私選弁護人(第一次弁護団)を解任し、第二次弁護団は解任または辞任して、第三次弁護団は辞任し、第四次弁護団(三人の国選弁護人)の弁護を受け、七九年七月十日、ようやく判決宣告にいたった。
起訴から判決まで、十余年を経過しているが、その長期化は被告人の法廷闘争に原因があり、深層心理において死刑への恐怖があったとしても、とうてい許されない訴訟行為である。原審当時における被告人の行動は、いかなる面から検討しても、許すべからざるものといわなければならない。
各犯行当時、被告人が狭義の精神病に罹患していたとは認められない。情意面の偏りはある程度認められ、分裂病質ないしアメリカの精神医学にいう「精神神経症状態」をみとめるにやぶさかではないが、是非弁別、行動統制能力は存在しており、いちじるしく減退していたとは認められないから、原判決に事実の誤認はなく、法令適用の誤りもない。
以上の情状を総合考慮するとき、原審が被告人の本件各犯行に対する刑事責任として、死刑を選択したことは、首肯できないわけではない。
しかしながら、死刑はいうまでもなく極刑で、犯人の生命をもってして、犯した罪を償わせるものである。このような刑罰が、残虐な刑罰として憲法三六条その他の関連条文に違反するものでないことは、最高裁判所も同様の見解である。
右のように、死刑が合憲であるとしても、その極刑としての性質にかんがみ、運用については慎重な考慮が払われなければならず、ことに死刑を選択するにあたっては、他の同種事件との比較において、公平性が保障されているか否かにつき、十分な検討を必要とする。
ある被告事件について、死刑を選択すべきか否かの判断に際し、審理する裁判所の如何によって結論を異にすることは、判決を受ける被告人には耐えがたいことであろう。もちろん、わが刑法における法定刑の幅は広く、同種事件について判決する裁判所によって、宣告される刑期に長短があり、執行猶予が付せられたり、付せられなかったりすることは、望ましいことではないが、裁判権の独立という観点からやむをえない。
しかし、極刑としての死刑を選択するときは、かような偶然性は、可能なかぎり避けねばならない。ある事件につき死刑を選択するときは、その事件について、いかなる裁判所がその衝にあっても死刑を選択するであろう程度の情状がある場合に、限定せらるべきものと考える。
立法論として、死刑の宣告には裁判官全員一致によるべきものとすべき意見があり、その精神は現行法の運用にあたって考慮に値する。最近における死刑宣告事件数の逓減は、以上の思考を実証するものといえる。
右の見解を基準として、被告人の情状につき、再検討を加えてみよう。
第一に、本件犯行は、被告人が少年のときに犯されたものであることに、注目しなければならない。六八年十月十一日から十一月五日まで、一ヵ月足らずでおこなわれた一連の射殺事件は、一過性の犯行当時、被告人は十九歳の少年であった。
少年法五一条によれば、十八歳に満たない少年に対しては、死刑を科し得ないことになっている。被告人は十九歳であったから、法律上は死刑を科すことは可能である。しかし、少年に対して死刑を科さない少年法の精神は、年長少年に対しての判断に際しても、生かされなければならない。
被告人は、出生以来きわめて劣悪な生育環境にあり、父は賭博に狂じて家庭を省みず、母は生活のみに追われて被告人らに接する機会もなかった。幼少時に母が、被告人らを見放して実家に戻ったため、兄や姉の新聞配達の収入などにより辛うじて飢えをしのぎ、愛情面においても経済面においても、きわめて貧しい環境に育ってきた。人格形成に最も重要な幼少時から少年時にかけて、右のように生育してきたことに徴すれば、犯行当時十九歳であったあったとはいえ、精神的な成熟度においては、十八歳未満の少年と同視しうる状況にあったと認められる。
かような成育史をもつ被告人に対し、犯した犯罪の責任を問うことは当然であるとしても、責任をすべて被告人に帰せしめ、その生命をもって償わせることによって事足れりとすることは、酷に過ぎないであろうか。
劣悪な環境にある者に対し、早い機会に救助の手を差しのべることは、国家社会の義務であって、その福祉政策の貧困も原因の一端というべきである。換言すれば、本件のごとき少年の犯行について、社会福祉の貧困も、被告人とともに責任をわかち合わなければならない。
第二に、被告人の現在の環境に、変化があらわれたことである。
一九八〇年十二月十二日、かねてから文通で気心を知った大城奈々子と婚姻し、人生の伴侶を得たことがあげられる。同人について、当審において証人として尋問したが、その誠実な人柄は法廷にもよくあらわれ、たとえゆるされなくても被害者の遺族の気持ちを慰藉し、被告人とともに贖罪の生涯を送ることを誓約している。
誠実な愛情をもって接する人を身近に得たことは、被告人のこれまでの人生経験で、初めてのことであろう。当審における被告人質問には素直に応答し、その心境の変化が、如実にあらわれているように思われる。
第三に、被告人は本件犯行後、獄中にて著述を重ね、出版された印税を被害者の遺族におくり、慰藉の気持ちをあらわしている。
村田紀男、佐藤秀明の遺族は、受領するに至っていないが、佐川哲郎の遺族に対しては、七一年五月十八日から七五年八月十二日まで、合計四百六十三万一千六百円を、鶴見潤次郎の遺族に対しては、七一年八月五日から七五年一月十日まで、合計二百五十二万四千四百円を送った。
永山奈々子は、被告人の意をうけて、弁護人と共に、佐藤、佐川、鶴見の三遺族を訪れた。佐藤秀明の遺族は金員の受領は拒んだけれども、永山奈々子に快く応対して、激励の言葉すら述べていることが窺える。また、村田紀男の墓参をして衷心から弔意を表し、佐藤秀明、村田紀男の遺族に対しても、将来その受領が認められるならば支払いをするために準備し、永山奈々子、被告人ともども、印税をその支払いにあてるべく誓約している。
一連の犯行により、家族を失った被害者の遺族の気持ちは、これらで償えるものではないけれども、永山奈々子の行動で、村田紀男の遺族を除く三遺族の気持ちは、多少なりとも慰藉されているように認められる。
以上のとおり、原判決当時に存在した、被告人に有利ないし同情すべき事情に加えて、当審によって明らかになった、さらに有利な事情を合わせて考慮すると、死刑を維持することは酷に過ぎ、各被害者の冥福を祈らせつつ、その生涯を贖罪に捧げしめるのが、相当というべきである。
よって、刑訴法三九七条、三八一条により、原判決を破棄し、同法四〇〇条により自判する。
一九八一年八月二十一日
東京高等裁判所刑事二部
裁判長裁判官 船田三雄
裁判官 櫛淵 理
裁判官 門馬良夫
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