【二月二十一日 ある死刑囚の記録】面会室のむうちゃん
中日新聞 2014年2月11日
「むーすーんで、ひーらーいて」。ふっくらしたほっぺを上下させ、あどけない声を張り上げる一歳半の女の子。小さなこぶしをグーしてパー。振り付けだって決まっている。
まことにほほ笑ましい。無表情を良しとする立ち会いの刑務官が思わず顔をほころばせたのも、やむを得ないだろう。
二〇〇八年秋のある日、名古屋拘置所の東館二階に並ぶ面会室のひとつ。女の子の伸ばした手の先、アクリル板の向こうでは死刑囚、加納恵喜が、じっと耳を澄ませていた。
女の子は愛称を「むうちゃん」という。
恵喜が“母”真智子を亡くして半年余り。肉親とのきずなはとうに断たれている。このころ、五十八歳。家族のいない恵喜はむうちゃんを「孫」と呼び、面会を心待ちにするようになっていた。
恵喜は二〇〇八年春に真智子を失った後、支援者への手紙で心の内を明かしている。「この先どうなるかと死にたい、死にたいと思っていたんですよ」
独りぼっちで、ただ死を待ち続ける−。真智子には想像できたのだろう。「恵喜さんのこと、お願いします」。生前、自分の亡き後を託した夫婦がいる。
市原信太郎とその妻、誉子(しょうこ)。夫妻が恵喜と知り合ったのは真智子と同じころ。〇四年二月の名古屋高裁での死刑判決の前後、恵喜の支援者だった友人を通じ、面会や、手紙のやりとりを始める。三十九歳の信太郎は、名古屋のミッション系短大の学校付き牧師。一歳下の誉子はふつうの主婦だった。
誉子ははじめ、真智子のことを「大丈夫かな」と不安に思っていたという。たまにボランティアで路上生活者を手助けしていた誉子は支援に熱心すぎると得てして、冷めるのも早いことを見知っていたからだ。だが、真智子は違った。今でも感心する。「加納さんへの献身は最後までとてつもなく大きなものでした」。病魔に侵された真智子が名古屋を去ると、洗濯や衣類の差し入れ役を快く引き継いだ。
最高裁で上告が棄却され、恵喜の死刑が確定して十日ほど。〇七年四月、夫妻は初めての子を授かる。「むうちゃん」である。
出産から二カ月後、誉子は初めてむうちゃんを手に抱き、恵喜と面会した。命の尊さを感じてほしい、なんて大層な願いがあったわけではない。「ただ、加納(恵喜)さんが出産を楽しみにしてたし、預けるところも無かったから」
はじめのころ、むうちゃんはアクリル板の手前にある幅三十センチのカウンターですやすやと眠っていた。
一歳になってすぐに真智子が亡くなる。むうちゃんは手をつき、立てるようになっていた。面会のペースは週一回から二回へ。誉子は「けいきおじさんだよ」と教えてきたが、むうちゃんは口が回らない。人生で二人を殺めた死刑囚は「けっけちゃん」と呼ばれるようになった。
むうちゃんが「むすんでひらいて」を披露したあの日、けっけちゃんが、市原夫妻に手紙をしたためている。むうちゃんから「夢や喜び、癒やしをもらいました」と。 =続く (敬称略)
*前回まで(1〜27)
人生で二人目、名古屋のスナックママを殺(あや)め、名古屋高裁で「死刑」を宣告された武藤恵喜(ぶとうけいき)は、一通の手紙をきっかけに関西の主婦、加納真智子(名は仮名)と養子縁組する。高裁判決は過去の判例に照らして異例と言える厳しいもの。厳罰化の流れの中、恵喜は「死刑は必要」「もう死刑でいい」と投げやりにもみえる態度を繰り返すのだった。「生きて償ってほしい」と願う真智子は一時、名古屋に引っ越してまで恵喜を支えるが、やがて、がんを発症してしまう。
二〇〇七年三月、最高裁で上告が棄却され、間もなく恵喜の死刑が確定。それから一年余りで最後まで恵喜を案じながら真智子が逝く。大切な人を失う痛みを知った恵喜は刑死を待つ日々をどう生きていくのか。
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】やることがない
中日新聞 2014年2月12日
あちらをそろえれば、こちらがそろわず。六面立体のパズル、ルービックキューブを完成させるのは大変だ。 二〇〇八年秋ごろ。加納恵喜(けいき)は名古屋拘置所内で届けを出して買った、このパズルに熱中していた。
養子縁組した母、真智子(仮名)がその年五月に病で逝った後、恵喜の支えになっていた市原信太郎一家への手紙につづっている。冷たいコンクリートの壁に背を預け、長いときは四時間ほど、ぶっ続けでカチャカチャ。六面そろったら一家の一人娘、むうちゃんへプレゼントしたいという。手と頭を存分にひねっても「難しい」が、それがいい。退屈が紛れる。恵喜は自身を「暇人」といい、パズルのほか「やることが無い」と愚痴った。
名古屋拘置所では死刑囚になると他の囚人と区別するため、下二桁「〇〇」の新しい呼称番号を付け、西館の七〜九階に収容するのが決まりだ。
〇七年四月、死刑が確定した恵喜は「一三〇〇」と呼ばれ、五年過ごした西館十階から九階へと独居房を替わっていた。
午前七時に起床、午後九時に就寝。三度の食事と週に二、三回の風呂や運動以外はすべて自由時間だし、土日は房の中でテレビも見られる。パズルをしたり、差し入れの本を読んだり、日々の暮らしは案外、快適そうだ。
ただ、死刑囚になると、面会や手紙のやりとりが親族や「心情の安定に資する」と認められた五人ほどに制限される。その一人で連日、手紙をくれた真智子はもういない。文通に割く時間が減り、一日が長い。
もともと恵喜は手紙やはがきに絵を添えることがよくあったのだが、真智子に代わり、支援者の市原一家が一番の文通相手になってから、そのタッチが変わっていく。白黒の写実的な鉛筆画から、蛍光ペンを使い、カラフルなイラスト風に。一歳をすぎた、むうちゃんの気を引きたかったのだろう。アンパンマンやキティちゃんも描けるようになった。
新しい絵柄の会得もいい暇つぶしになったに違いない。だが、恵喜も分かっていた。市原一家への手紙にこんなことを書いている。「四六時中、部屋に座っていますと、大声でさけびたくなる事があります」。それは退屈のせいではなかった。=続く(敬称略)
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】5ミリ先が遠すぎる
中日新聞 2014年2月13日 Thu.
(写真)名古屋拘置所の個室運動場。死刑囚は他の囚人から隔離され、運動も一人で行う=名古屋市東区で
名古屋拘置所の四畳ほどの面会室は中央のアクリル板で二つに隔てられている。厚さは五ミリぐらい。そう大げさなものではない。
二〇〇八年十二月二十四日のクリスマスイブ。加納恵喜(けいき)は交流する市原信太郎一家へ出した手紙で、少し前の面会のことを振り返っている。
信太郎に手を引かれてきた一人娘のむうちゃんはそのころ一歳八カ月。立ったり、座ったり、せわしなく、キャッキャッとよく笑う。
十五分の面会時間の締めくくり。恵喜がアクリル板に手のひらをくっつけた。むうちゃんもあちらからペタリ。板を挟んでの“握手”。むうちゃんは「けっけ、けっけ」と恵喜の名を呼んだという。
恵喜はうれしかっただろう。そして、たぶん、寂しくもあった。
その年五月に亡くなった養子縁組した母、真智子(仮名)が死の一カ月前、恵喜に手紙で自慢したことがある。「私、むうちゃんを抱っこしたよ」と。冗談めかして「参りました」と返信したが、後日、市原一家に明かす。恵喜は少し「嫉妬」していた。
手に触れたい。「たかい、たかい」をしたい。そう願っても、死刑囚には、たった五ミリが遠すぎる。
〇八年秋、死刑廃止を訴える市民団体が全国の死刑囚を対象にアンケートを行い、恵喜も答えている。「死刑囚としての処遇は、何も不自由のない生活を送っています」。ただし、獄中で最も苦しいのは何かとの問いには、こう回答した。
「一人の孤独感」
真智子を失い、初めてのクリスマス。毎年、真智子はメロディー付きのカードを送ってくれた。房の外まで響く「でかい音」に慌てたこともあったが、そんな心配も、もういらない。
大みそか。昼間に配られた年越しのカップそばをすすった後、恵喜はすぐに眠ろうとした。除夜の鐘を聞きたくない。これも市原一家への手紙に記しているが、鐘の音は寂しさとむなしさ、そして後悔を呼び覚ますのだという。午後七時には布団にもぐり込んだが「いろんなことが思い出されて眠れなくなりました」。
恵喜は独り、震えていた。塀の中にいる限り、決して拭えない孤独に。それと、迫り来る死の影にも。=続く (敬称略)
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】(31)コンベヤーが迫る
中日新聞 2014年2月14日
加納恵喜(けいき)の日記によると、二〇〇八年十一月五日のことだ。
ふだん通りに朝食を取り、午前中の運動の時間を待つ緩慢なひととき。数人と思(おぼ)しき足音が恵喜の房の前で止まる。フロア担当のなじみの刑務官はいない。ついに来たか。「執行ですか。少し、部屋を片付けるので待ってください」
だが、違った。死刑囚に対する「捜検」だという。畳までひっくり返す房内の抜き打ち検査のことをそう呼ぶ。以前からあったが、名古屋拘置所ではその秋、なぜか、月一から週一へと回数が増えていた。従来なら、まだ先のはずだったから、早とちりもする。
「心臓にも悪いし、頭もへんてこになります。(中略)いじめのようなものです」。交流する市原信太郎一家への手紙で、恵喜は珍しく怒りをあらわにした。
刑事訴訟法では、死刑の確定後、半年以内の執行が定められているが、そのころで七〜八年かかるのがふつうだった。恵喜の死刑確定は〇七年四月。はた目にはまだ、余裕があったが、恵喜の心境は違っていた。
〇八年九月の市原一家への手紙にこうある。「私の思っているより(死刑囚の執行が)早く進んでいますから、私もそれほど遠いとは思っていません」
無理もない。〇八年に死刑が執行されたのは十五人と、それまでの三十年で最多を数えた。
うち十人の執行命令に法相としてサインしたのが、鳩山邦夫。〇七年九月、「死刑を自動的に執行できる方法はないか」という、いわゆる「ベルトコンベヤー発言」で物議を醸した。鳩山は「(執行時期を定めた)法律が守られていないのは正義に反すると言いたかった」と当時を振り返り、「今でも正しいと思っている」と断言する。
「もう死刑でいい」と言い放ってきた恵喜だが、〇八年春に鳩山へ苦情を申し立てている。支援者への手紙に記しているが、死刑囚が執行後に臓器を提供できる制度づくりなどを求めた。「救ってあげられる人がいたら、自分の贖罪(しょくざい)にもなる」。ただコンベヤーに載せられ、流れ作業のように死を迎えたくはない−。そんな思いが大臣に届いたかどうか。鳩山は恵喜の名に「覚えはない」という。=続く(敬称略)
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】「人は変われますよね」
中日新聞 2014年2月15日 Sat.
養子縁組した母、真智子(仮名)が亡くなって一年になろうかという二〇〇九年四月半ば。加納恵喜(けいき)はその日もとりとめのないことを、しゃべり続けていた。名古屋拘置所の西館にある六畳の和室。そこにアクリル板はない。古い聖書が置かれた座卓の向かいで教誨(きょうかい)師の野村潔がはい、はいと聞き入っていた。
教誨師とは囚人たちの心を安んじるボランティアの宗教者のこと。野村はキリスト教の牧師として、一九九五年から名古屋拘置所でその役を務めてきたベテランだ。当時、恵喜より二つ下の五十七歳。恵喜を担当して丸六年近くになる。
月一回、四十分ほどではあるが、塀の外の人間でただ一人、じかに向き合える野村との個人教誨を恵喜は「楽しみ」にしていた。
野村は教誨相手との会話を口外しないが、恵喜が支援者へ送った手紙によると、その日、こんなことを話したという。「どんな性悪でも、出会う人によって人間は変われますよね」。野村は目尻を下げて、うなずいた。「はい」
野村には忘れられない死刑囚がいる。八九年二月、岐阜市で前妻の両親と妹の三人を手にかけた宮脇喬。〇〇年、五十七歳で刑を執行されるまで五年間、教誨を受け持ったのが野村だ。
死刑囚に労役はないが、封筒づくりの作業を願い出て、わずかなカネを災害の被災者らに寄付する。罪を忘れないため、真冬でも靴下をはかず、足はひび割れたまま。恵喜と同じく、獄中でキリスト教の洗礼を授かり、周囲に「生まれ変わって、真っ先に教会にいく」と繰り返したという。野村には、そんな宮脇が「死を望んでいる」と見えた。
野村は神ならぬ人が命を奪う死刑制度には反対だ。だが、心を安んじ、贖罪(しょくざい)の思いが育てば、進んで刑死を受け入れてしまう。「自分のすることが、彼らの死を早めてはいないか」。野村にはそんな不安がある。
「はい」と「良かったですね」「そうですか」。祈りの言葉を除き、恵喜との教誨で野村が発したのは大抵、その三語だけだという。獄中の孤独を発散する恵喜のしゃべりに水を差したくなかったし、その方が心の内がよく見える。
恵喜は変わったのか。野村はやはり多くを語らないが、ひと言ぽつり。「いい人たちに出会えて良かったんじゃないでしょうか」
恵喜は生きたいと願い始めていた。 =続く(敬称略)
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〈来栖の独白 2014.2.15 Sat. 〉
朝、上記事を読んで、「野村潔」との文字に薄い記憶があった。どこかで見たお名前、と暫し考えたが分からなかった。野村潔牧師・・・、誰だったか。どこかで聞いたお名前・・・。
お昼も過ぎて、やっと微かに思い出した。勝田清孝が刑確定して間もなく、「キリスト教の教誨を受けようかと思う」と云ったのだった。それでお願いしたのが、日本聖公会の野村潔牧師だった。死刑確定者の身分となって、さまざまに考えるところがあったのだろう。しかし、野村牧師による教誨は、たった一回きりで終わりとなった。清孝は「俺が何を云っても、頷いてばかりや。俺は悪いことをした人間や。はっきり生き方を示してほしい。こんな教誨では意味がない」と、私に云った。
上記事を読んで、腑に落ちるものがあった。野村牧師は、「自分のすることが、彼らの死を早めてはいないか」と恐れるが、何らモノをはっきり言わず相槌を打つだけの教誨で、刑死を受け入れるほどに悟れるとは思えない。寂しさを紛らわすだけで事足りるのなら、それでいいが。加納死刑囚や宮脇死刑囚は満足したのだろうが、勝田は満足できなかった。聖書は言う。
「あなたは、冷たくも熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている。あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」(ヨハネの黙示録3章15節‐17節) 勝田は最後まで生きたいと望んだ。点訳でほんのわずかでも人の役に立ちたいと望んだ。一方、自分の所業が分かっていないわけではなかった。自己の悪の所業をしっかりわかったうえで、どのように生きる(死ぬ)のか、明快な指針を示してほしかった。リードしてほしかった。自分が「生きたい」と望んでも、近い日、必ずやってくる「死」であるから、それに備えたかった。そんな死刑囚に、野村牧師の応対は満足のいくものではなかったろう。清孝は「何の自由もありませんが、『考える』自由だけは、幾らでもあります」と云ったことがあった。突き詰めて考える人であった。考え抜く人だった。考えないではいられなかったのだろう。深く苦い悔いの淵から、自己の人生の意味を考えないではいられなかった。
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