【二月二十一日 ある死刑囚の記録】下された法相命令
中日新聞 2014年2月20日 Thu.
二〇一二年秋。加納恵喜(けいき)の死刑が確定してから五年半がすぎていた。このころ、恵喜はキリスト教への入信をきっかけに面会や手紙のやりとりを続けてきた市原信太郎一家の一人娘、むうちゃんのことを「むうさん」と呼ぶようになっていた。
幼稚園の年中組で一番背が高くなった五歳のむうさんと面会した後、こんなことを一家への手紙につづっている。「どんなことがあっても、むうさんがランドセルを背負うまで、あと一年半、がんばります」
「孫」と呼ぶ女の子の成長に目を細め、日増しに「生きたい」との思いを募らせる恵喜。だが、残された時間は多くはなかった。
法務省の刑事局付検事が冤罪の可能性などを精査した後も、死刑の執行までにはいくつものふるいがある。
法務省刑事局の元事務官は上司の参事官から、確定順に死刑囚が一センチ幅に並んだリストを見せられ、備考欄のチェックを命じられたことがある。名前や罪名のほか、再審や恩赦の請求の有無や、心身の状態が記されていた。リストは常に更新され、原則として備考欄が空白の死刑囚が、執行対象となる。
執行の間隔は長すぎず、短すぎず。国政選挙中や、政治情勢が不安定なときの執行も好ましくない。こうした諸条件も踏まえ、刑事局長や総務課長、参事官らが協議を重ねる。ある元参事官の場合、着任後すぐにリストを確認したという。「お膳立てが整い、相対的に確定時期が早い死刑囚を協議に諮った」。そこで了解された死刑囚が大臣に執行を打診される。
一二年末、自民党が政権に返り咲き、法相には死刑執行に前向きな谷垣禎一が就く。当時、死刑囚の刑の確定から執行までの平均は五年半ほど。ちょうど恵喜ぐらい。恵喜には精神面での問題も無かった。
年が替わり、二月十八日の月曜日。A4判五十枚以上の書類が法務省内で回覧された。恵喜ら三人の死刑囚の執行に関する起案書や命令書だった。法相の谷垣を含め、七人が決裁し、その日のうちに、三日後の執行が名古屋拘置所などに伝達された。
恵喜は二十日、それとは知らず、最後の一通を市原一家へ送っている。「桜の開花は例年より早いようです。みなさん、お体に気を付けてお過ごし下さい。又(また)、書き描きます。お元気で、感謝!」
拘置所の地下では、刑務官たちが執行の準備を始めていた。=続く (敬称略)
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】(37)「開かずの扉」に消えた
中日新聞 2014年2月21日
二〇一三年二月二十一日。加納恵喜(けいき)は前年末に移った名古屋拘置所西館八階の八二九号房でその朝を迎えた。いつも通り午前七時半に朝食。麦飯にみそ汁、おかず三品のメニューもふだんと変わりはない。およそ一時間後、刑務官に呼び出されるまで、恵喜はきょうも平穏にすぎると思っていたことだろう。
西館八階からエレベーターで二階へ。渡り廊下を東館へ向かい、その先の階段を下りると所内で「開かずの扉」とも呼ばれる、地下の刑場へ続く扉がある。
偶然だが、入所者の一人がその日、四、五人の刑務官に囲まれ、渡り廊下を歩く恵喜を目にしている。「どけっ、後ろを向け」。刑務官に怒鳴られながら、その入所者が垣間見た恵喜は暴れるでもなく、おとなしい様子だったという。開かずの扉からは、刑場に焚(た)かれる線香らしき香りがうっすらと漏れていた。
名古屋拘置所の関係者によると、恵喜は最期までひどく取り乱しはしなかったらしい。ならば執行はこんなふうに進んだはずだ。
目には布の目隠し。後ろ手に手錠をされ、一メートル四方の踏み板に乗る。ナイロンでできた直径三センチのロープを首にかけられる。刑場の隣の小部屋には板を開くためのボタンが三つ、刑務官が三人。誰のボタンが開けたのか、分からぬよう、三人がいっせいに押す。
体は四、五メートル下まで落ち、人によって表現は違うが「ダンッ」や「ドンッ」とロープが張る音がする。吊(つ)り下がったまま、医師が心停止を確認し、さらに五分ほど置いて、ようやくロープから外される。
もし、執行の日が来たら…。恵喜は面会や手紙のやりとりを続けてきた市原信太郎一家への手紙にこう記したことがある。「死刑がつらくて泣くのではありません。別れがつらくて泣くでしょう」
最期のとき、恵喜が泣いたかどうかは分からない。拘置所関係者によると、恵喜は「死を待ち続ける生活に疲れました」と言い残した。養子縁組した母、真智子(仮名)が生前差し入れてくれたお金がまだ幾らか。市原一家の一人娘、むうちゃんへ、ランドセル代三万円を渡してほしいとも遺言したという。
人生で二人の罪無き命を奪った男。獄中でさまざまな人々と出会い「他人を思う心」を知ったという男。幼子の成長に目を細め「生きたい」と願い始めた男が死んだ。死刑確定から五年十カ月。六十二歳だった。 =続く(この連載は2月26日に再開予定です) (敬称略)
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◇ 谷垣法相の命令により 死刑執行 小林薫(奈良女児誘拐殺害)・金川真大(荒川沖駅)・加納恵喜の3死刑囚 2013-02-21 | 死刑/重刑/生命犯 問題
奈良・女児殺害の小林死刑囚ら3人死刑執行
2013年2月21日(木)11時24分配信 読売新聞
法務省は21日、2004年に奈良県で起きた女児誘拐・殺害事件で死刑が確定した小林薫死刑囚(44)ら3人の刑を同日午前、大阪、東京、名古屋の各拘置所で執行したと発表した。
死刑執行は昨年9月27日に2人が執行されて以来で、昨年末に誕生した自民党の安倍政権下では初めて。この日の執行で、死刑確定者は134人となった。
死刑執行は民主党政権下で減少し、11年は19年ぶりにゼロだった。しかし、昨年3月に1年8か月ぶりに再開され、昨年は7人を執行。谷垣法相も就任約2か月で執行に踏み切った。
死刑が執行されたのは、小林死刑囚のほか、08年3月に茨城県土浦市のJR常磐線荒川沖駅などで2人を殺害、7人に重軽傷を負わせた金川(かながわ)真大(まさひろ)死刑囚(29)、02年3月に名古屋市のスナックで経営者の女性(当時61歳)を殺害し、現金を奪った加納(旧姓・武藤)恵喜(けいき)死刑囚(62)。
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〈来栖の独白 2013 2/21 Thu. 〉
3月末(今年度末)の執行も止むを得ないか、と谷垣法相の就任以来の表情から予想はしていた。が、就任2カ月に満たない時点での死刑執行である。早い。迷いの一つもない、法相自らの強固な意志を感じさせる。内閣の支持率は高い。支持浮揚の企図ではない。
ところで「執行」に至る手順であるが、大臣の裁可を受けた「死刑執行命令書」は、刑事局付の検事の手で直接拘置所所長の手許に運ばれる。執行は命令書の日付から5日以内というのが法の制約である。今回の執行は本日21日(木曜日)、法務大臣の裁可は18日(月曜日)だったか。
「死刑執行企案書」は膨大なチェック作業ののち作成、完成され、その後、法務省刑事局・矯正局(※)・保護局(※)各内部でのチェックを経てのち、刑事局長の手によって法務大臣官房にまわされる。法務大臣官房では秘書課長、官房長、法務事務次官のルートで「企案書」は上げられる。そして、それぞれの決裁を受けると秘書課長が大臣室へ持参、ここで初めて法務大臣の机の上に置かれることになる。ここまでの期間がほぼ半年。「死刑執行は判決確定の日から6カ月以内」という法制度をにらんでの作業ということで、この推移を考えるとき、谷垣法相の今回の執行命令が如何に慌ただしかったか、その異常さに驚かざるを得ない。
今回の執行は、恐らくは事務方からの要請というよりも、大臣のほうからの意向、指示によるものではないだろうか。事務方としては恐らく通常通り、早くとも大臣就任3ヵ月を経たあたりで大臣のデスクへ上げるべく企案書を整える心づもりではなかったか、と私は思う。安倍内閣の組閣は昨年12月26日であった。2月18日の死刑執行命令であるなら、如何にも慌ただしい。大臣就任から2カ月に満たない時点でのサインである。これほどに急ぎ、執行した。
(※)矯正局は拘置所からの報告を逐一受け、確定者一人ひとりの健康状態・精神状態を、また保護局は恩赦事務を掌握している部署である。
(2013-02-21 13:39:33 up)
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