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2013年2月21日 死刑執行された加納恵喜(けいき)死刑囚 ? 「償いにはならないが」 最終回

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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】(38)最期の祈り 消えた
 中日新聞 2014年2月26日 Wed.
 二〇一三年二月二十一日午前。牧師の市原信太郎は出張先の宮崎県へ向かうため、東京・羽田空港の搭乗口近くで間もなくの出発を待っていた。ブブブ−。スマートフォンが震え、着信を知らせる。妻の誉子(しょうこ)からだった。
 「加納さんが、執行されたみたい…」。いつも冷静な妻の少し上ずった声。「えっ」。出発案内が始まり、信太郎は呆然(ぼうぜん)としたまま、搭乗口へ向かった。
 死刑囚は執行の直前、希望すれば最期の祈りのひとときを得られる。宗教者である教誨(きょうかい)師と面会し、少しでも心を落ち着けて踏み板に向かうためだ。信太郎は名古屋拘置所の教誨師ではないが、恵喜は「執行の日が来たら(信太郎に)最期の祈りに立ち会ってほしい」と拘置所へ願い出ていた。信太郎もそれを望んでいたのだが…。「何の連絡もないなんて」。信太郎は機上で歯がみした。
*命は重い。だから…
 名古屋拘置所の関係者によると、加納恵喜(けいき)の刑の執行が事前に塀の外へ伝えられることは一切なかった。ふつう、最期に面会する拘置所の教誨(きょうかい)師には二〜三日前に立ち会いの依頼があるのだが、恵喜の場合、担当教誨師の野村潔がたまたま海外に出張中で、それすらなされていない。
 恵喜は生前、執行前の市原信太郎との面会について刑務官から「期待に沿いたい」と言われたと、信太郎への手紙でうれしそうに知らせている。が、いち刑務官にそんな判断ができるはずもない。
 獄中でキリスト教の洗礼を授かり、それを縁に大勢の人々と出会った恵喜。最期の祈りに立ち会ったのは、見知らぬ仏教の教誨師だったという。「どんな思いで逝ったのか」。信太郎は今も納得がいかない。
 執行後、つまり、すべてが終わった後、拘置所から恵喜が所属するキリスト教会に連絡があり、その関係者が市原家の居間の電話を鳴らした。
 受話器を取った信太郎の妻、誉子(しょうこ)は簡単な受け答えで切った。隣にいる娘、むうちゃんに内容をさとられたくなかった。
 「どんな人の命でも重い」。誉子はそう思う。「その命を奪うことは絶対に許されない」。だから、重い命を二つも奪った恵喜の罪は許されるものではない。人を殺(あや)めるという罪がどうすれば贖(あがな)えるのか、誉子には分からない。
 ただ、これは分かる。面会でアクリル板越しに、娘と向き合う恵喜はただの「好々爺(こうこうや)」だった。赤ん坊のころから、立ち、歩き、話し、歌い、踊るようになっていった、むうちゃん。その成長を見たがった恵喜の姿が偽りのはずがない。その命を奪うしかなかったとは、どうしても思えない。
 執行の翌日、二十二日の夕暮れ。誉子が家のポストをのぞくと恵喜が二日前に出した最後の手紙が届いていた。取り出したのは、むうちゃん。いつもの白い封筒を開き、いつもと変わらぬ内容を、いつも通り読み聞かせた。
 でも、いつもの面会はもう二度とない。「けっけちゃん、具合が悪くなって死んじゃったんだって」。そう告げたのは執行から一週間がすぎたころ。まだ五歳。死ぬ、という意味がよく分からなかったのか、むうちゃんはただ、きょとんとしていた。 =続く (敬称略)
 ◎上記事の著作権は[中日新聞]に帰属します 
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】早く出会えていたら
 中日新聞 2014年2月27日
 肉親との縁はとうに断たれ、養子縁組した母、真智子(仮名)も既にない。加納恵喜(けいき)の遺体は名古屋拘置所が火葬し、遺骨は所属したキリスト教会に引き取られた。
 執行から二週間余り。名古屋市内の教会で小さな葬送式があった。参列したのは、獄中の恵喜と向き合ってきた二十人ほど。もちろん、十年近く交流してきた牧師の市原信太郎一家もいる。祭壇には一家の一人娘、むうちゃん手書きの恵喜の似顔絵が飾られた。「2月21日にしんじゃった 62さいにしんじゃった」。たどたどしい文字に囲まれ、恵喜は笑っていた。
 式の途中、あいさつに立った信太郎は真智子やまな娘を例に挙げ、こう言った。「恵喜さんを変えたのは彼が(死刑という)罰に直面したからではなく、多くの人々との出会いがあったから」
 名古屋でスナックママを殺(あや)めた事件後、恵喜が獄中からの最初の一通を出した牧師の戸田裕(80)は式場で、恵喜との問答を思い返していた。「命をもって償う」「そんなに重い命なら、なぜ簡単に消したんだ」。数年前に教会の仕事は引退。二〇〇七年春、恵喜が死刑囚となり、外部との交流が制限されてからは疎遠になっていた。「彼は命の重みを分かったのだろうか…」。答えは出ない。
 逮捕直後の恵喜と留置場で同房となり、恵喜がキリスト教と出会うきっかけになったクリスチャンの沢田竜一(54)=仮名=は式に出ていない。塀の外へ出て七年。今は仕事を得て、家族三人でささやかに暮らす。出所後、面会を求めても「過去を忘れて生きてほしい」と恵喜はあえて拒絶した。その死は執行翌日のニュースで知った。ショックだった。「刑務所で何十年もすごした経験を伝えるのも償いの一つではないか。生きていてほしかった」
 参列者には恵喜が「仙人」と呼んだ男性(70)もいた。恵喜とは時期も場所もかぶっていないが、仙人も塀の中にいたことがある。五十歳を過ぎて出所後、更生施設で暮らしながら仕事を見つけて自立した。今は死刑囚やホームレス支援に携わり、死刑確定前の恵喜とも面会を重ねてきた。二度の殺人を犯した恵喜に同情はしない。ただ「どこかで、だれかに相談していれば…」とは思う。
 獄中で触れた、さまざまな人のぬくもり。「もっと早く出会いたかった」。恵喜はよく言っていた。 =続く (敬称略)
 ◎上記事の著作権は[中日新聞]に帰属します
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】もっと変われたはず
 中日新聞 2014年2月28日
 弁護士の湯山孝弘は二〇一三年二月二十一日、牧師の市原信太郎からの連絡で加納恵喜(けいき)の刑の執行を知った。恵喜の上告審を担当した国選弁護人。〇七年三月の上告棄却で本来の役目は終わったが、東京から恵喜のいる名古屋拘置所へ通い続けた。
 「彼はやんちゃなワル。平気でうそを言う」。そう感じながらも、一人の人間として向き合うことをやめなかった。
 「もう死刑でいい」。恵喜はそう言い放つ一方で、執行を恐れていた。恵喜と養子縁組した母、真智子(仮名)が亡くなって半年余の〇八年十二月、湯山はそれを感じ取り、恩赦を出願した。恐れがいくらか和らいだように見えたのもつかの間、〇九年五月には恵喜から再審請求を望む手紙が届く。湯山にすれば、まだ恩赦の結果が出ていないし、再審請求となれば新証拠が必要となるため軽々には踏み切れない。面会でよくよく尋ねれば、いっときの気分で言っただけで、本心から望んでいたわけではなかった。
 一〇年九月に恩赦が不相当とされると、すぐ二度目の出願。今度は、信太郎の上申書を添えた。「いまの加納さんはそのときとは全く違う人に変えられ、新しい命を生きています」。が、それも一二年九月には退けられる。執行はその五カ月後だった。
 恵喜に「振り回されたこともある」と湯山。それでも見極めたいことがあった。面会のたび、こう訴えた。「自らの罪を真正面から受け止めなきゃだめだ」
 それは真智子が死の直前まで願ったことであり、自らの死後、湯山に託したことでもある。恵喜にとっては考えたくないことだったかもしれない。ただ、恵喜は湯山のことを「友だち」と呼び、少なくとも、その言に耳を閉ざすことはなかった。
 が、恵喜は本当に罪と向き合い、反省したのか。九年近く付き合った湯山にして、今も分からない。
 ただ、もしも…と思うことはある。例えば、信太郎の一人娘むうちゃんが恵喜の事件を理解できるまで成長し「どうして人を殺したの」と尋ねたらどうか。恵喜は罪から目をそらすことができただろうか。「もし、もっと生きていたら、もっと変わった。その可能性がある人を殺してしまった」。湯山はそう思う。 =続く (敬称略)
 ◎上記事の著作権は[中日新聞]に帰属します 
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】執行しやすい条件
 中日新聞 2014年3月1日 Sat.

      

 〈写真 黒塗りで情報公開された恵喜(右)と金川の執行の報告書。5番目の心情・遺言を記す欄の幅が大きく違う〉
 二〇一三年二月二十一日。幼子の成長に目を細め、「生きたい」と願い始めていた加納恵喜(けいき)と同じ日、「死にたい」と望んだ男が死んでいる。東京拘置所で執行された金川真大(まさひろ)(29)。二〇〇八年三月、茨城県土浦市で無差別に九人を連続殺傷し、二年後、水戸地裁での死刑判決が確定していた。
 裁判で金川は凶行の理由を「死刑になるため」と言い放った。この世はつまらない、生きている意味はない、でも自殺は痛い、それなら国に殺してもらおう−。異様な論理を振りかざし、死刑を宣告されると、笑みをこぼした。判決後、弁護人は控訴したが、すぐに本人が取り下げている。
 金川の国選弁護人だった山形学(45)はその言いざまが「本音だった」と振り返る。「女の子と付き合ったことないだろ」「面白いゲームが出るかもよ」。何とか生への未練を引きだそうとしたが「死」への執着は揺るがなかったという。
 だれを執行するか。法務省が持つ死刑囚リストの備考欄に再審請求や、恩赦の出願中とあれば、執行は敬遠される傾向がある。昨年十二月時点で、確定死刑囚百二十九人のうち、八十五人が再審請求を、二十六人が恩赦を求めている。執行が滞れば、死刑囚の人数は増え続ける。法務省刑事局の元検事は「事務方としては年に二、三回は執行したい気持ちがある」と打ち明ける。
 死を強く望んだからだろう。金川の執行は確定から三年一カ月。当時、五年半ほどだった平均より随分と早い。山形は言う。「彼にとって死刑は罰ではない。ああいう人間を生み出さないため、どうすればいいのか、きちんと研究するべきだった」
 恵喜の執行は二度目の恩赦が不相当とされてから半年とたっていなかった。もう一人、奈良女児誘拐殺人の小林薫(44)も同じ日に執行されているが、恩赦や再審請求を退けられ、新たに再審を求めようと準備中だった。
 情報公開された法務省の執行の報告書には死刑囚の心情や遺言を記す欄がある。すべて黒塗りで内容は分からないが、分量を比べると、恵喜は金川の四倍はある。獄中で多くの人々と触れ「人のぬくもりを知った」という恵喜には言い残したいこと、言い残したい相手があった。だが、執行する側からみれば、金川も、小林も、そして恵喜も同じ、執行に支障のない死刑囚だった。 =続く (敬称略)
 ◎上記事の著作権は[中日新聞]に帰属します
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】(42)寂しさ埋まらぬまま
 中日新聞 2014年3月2日
 加納恵喜(けいき)の刑が執行された二〇一三年二月二十一日。須藤正夫(74)=仮名=は、それを知り、何を感じたか、よく覚えていないという。
 〇二年三月、恵喜がその人生で手にかけた二人目の犠牲者、名古屋のスナックママ、千葉春江。籍こそ入れていなかったが、二十年以上、夫婦として連れ添ったのが正夫だ。現場に駆け付け、変わり果てた女房を目の当たりにした。事件から二カ月後の初公判では傍聴席から恵喜に殴りかかった。恵喜の死刑が確定した七年前、春江が眠る故郷、群馬県の寺へ出かけ、墓前に報告もしている。ようやく迎えた望み通りの結末、「死」−。
 その日、夕刻に立ち寄った料理屋かどこかで、ふと手に取った夕刊の、白抜き見出しが目に飛び込んだ。「3人の死刑執行」「栄のスナック強殺」。自宅に戻り、コンビニで買い込んだ何紙かの記事をハサミで切り抜きした。うれしかったのか、満足したのか、それとも…。「おれの方が先に死なんかったな」。うっすら、そんなことが頭をよぎった気はする。
 恵喜が獄中で記した多くの手紙やはがきの中で、正夫に宛てたのはたった一通しかない。正夫は鼻をかんで捨てた。恵喜は養子縁組した母、真智子(仮名)に促され、春江の妹へ手紙を書いたこともあるが、真智子が病で倒れたこともあり、出すことはなかった。
 「死刑で当然」。今も正夫の考えに変わりはない。女房の命を奪い、まともに反省したとも思えない。ただ、近ごろは怒り続けることに少し疲れた。「振り返るのがつらい」
 春江が死に、二人の娘も独立した。二階建てのがらんとした家での一人暮らし。ほそぼそと金融の仕事を続けているが、人と会う機会も減った。足腰が衰えぬよう、昼前に散歩するのが日課だ。春江の妹もまた、知人によると「もう忘れたい」と言い、事件を振り返ろうとしない。恵喜の執行は半年以上たってから、知ったという。
 「春江というかけがえのない一人が殺されたことがすべて。何があっても今さら、それは変わらん」と正夫。散歩コースの公園で、同じ年ごろの夫婦が散歩したり、孫を連れているのをよく見かける。たまらなく寂しい。恵喜の死がそれを埋めてくれることはない。 =続く (敬称略)
 ◎上記事の著作権は[中日新聞]に帰属します
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】(43)一粒の麦になろう
 中日新聞 2014年3月3日
 藤井は恵喜との交流を「宝物でした」と話す=大阪市東淀川区の淀川キリスト教病院で(写真=略 来栖)
 加納恵喜(けいき)の死刑執行から一年余の今年二月二十三日、小柄な女性が一人、恵喜が籍を置いた名古屋市内の教会を訪ねた。礼拝で冥福を祈ると、安置されている恵喜の骨つぼから一片の骨をそっと手に取る。「一生懸命生きられたんですよね」。か細く震える声で、そう語りかけた。
 恵喜と養子縁組した母、真智子(仮名)の最期をみとった大阪市内の淀川キリスト教病院付きの牧師藤井理恵(54)。がんを発症し、死を予感した真智子に「少しでも支えてあげてほしい」と頼まれ、二〇〇七年春ごろから恵喜と文通を続けてきた。長年ホスピスで末期患者に寄り添い、死を間近に見てきた藤井だが、死刑囚と接するのは初めてだった。
 〇八年一月のことだ。藤井は阪神大震災でアパートが全壊して亡くなった兵庫県芦屋市の米津漢之(くにゆき)という小学一年生の男の子の日記のコピーを手紙に同封したことがある。震災の前日、家族でカレーを作り置きしたという男の子は「あした、たべるのがたのしみです」とつづっていた。
 人生で二人もの「あした」を奪い、刑死を待つ恵喜と、天災で「あした」を奪われた男の子では「死」の意味を比べようもない。しかし、執行の恐怖に震える恵喜はいたく心打たれたようだった。被害者や遺族からすれば、身勝手にすぎる理屈だが、藤井への手紙にこう感想を記した。「自分の命すら自分でコントロールできない。死ならず生も思い悩むことはない」
 実は、日記のコピーを恵喜に送るよう発案したのは当時、小学六年生の藤井の一人娘だった。あの男の子の担任だった先生が、そのころ、偶然、娘を受け持っていた。日記は命の大切さを伝える教材として語り継がれ、それが娘から藤井へ、そして恵喜へ。恵喜は藤井にこうも伝えた。「人の人生は他の人の心の中で生き続けていくんでしょう。善悪共にです」
 恵喜の死後、藤井は遺品の聖書を引き取っている。赤いしおりひもが挟まれていたページに恵喜が好んだ一節がある。「一粒の麦は地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」
 恵喜は「一粒の麦」のように自らの死に意味を見いだそうとしていた。その運命は自身の罪が招いたものだったが…。=続く(敬称略)
 ◎上記事の著作権は[中日新聞]に帰属します 
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】(44)死の意味に向き合う
 中日新聞 2014年3月4日
 加納恵喜(けいき)と文通していた淀川キリスト教病院付きの牧師藤井理恵(54)には娘が一人いる。女の子では珍しいが、彼女が自分のことを「わし」と言うので、恵喜から「わしさん」と呼ばれていた。
 恵喜が死刑執行された二〇一三年二月二十一日、わしさんはまだ雪深い山形県のキリスト教系の高校にいた。実家のある兵庫県芦屋市を離れ、テレビもケータイもない寮生活。夜、寮の管理人宅で、母からの電話を取った。「恵喜さんが天国に行きました」
 夜通し泣きじゃくった。ベッドの中、極端な思いがわき上がる。「大切な人が奪われた。殺した相手を殺したい」。翌日の朝刊。執行を伝える記事に添えられた写真の法相をにらんだ。それから数日は寝込み、授業にも出られなかった。
 わしさんにとって恵喜は「友人」だった。小学生のころから母の文通相手として知っていた。高校に入ると、家にあった恵喜からのすべての手紙を読み、母に代筆してもらう形で、自らも文(ふみ)のやりとりを始めた。
 獄中で刑死を待つ男は「優しくて、賢い、しょうもない冗談も書くおっちゃん」だった。ただし、その身に「死」が迫る。「死をどう受け止めればいいのか。自分はどう生きるべきか」。思春期らしい悩みを重ね、そうつづったら、恵喜が返した。「生と死は背中合わせですから遠いものではありません。(中略)出会いの喜び、別れの悲しみを知って成長してほしい」
 「友人」を殺した死刑制度を認める気にはなれない。ただ、時が気付かせてくれたこともある。
 わしさんは恵喜の事件のことを直接、尋ねたことも、詳しく調べたこともなかった。その人生で何の罪もない二人を殺(あや)めたのが他ならぬ「優しい、おっちゃん」だ。この不都合な事実を「無意識に避けていたのかもしれない」という。自身でさえ、そうなのだから、被害者の遺族が「殺したい」と憎むのも「当然」だと徐々に思えるようになった。
 三年生になったわしさんは迷っていた進路を大学に定めた。「私は狭い世界にいる」。昨秋、大学の推薦入試の論文に、恵喜のことを記し、こう願った。「死刑について、命や人間について、他者と思いを伝え合って、より本質に近づきたい」
 まだ十八歳。この春、大学生になる。=続く(敬称略)
 ◎上記事の著作権は[中日新聞]に帰属します 
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【二月二十一日 ある死刑囚の記録】(45)償いにはならないが
 中日新聞 2014年3月5日
 今年の二月二十一日の朝。市原誉子(しょうこ)(48)が自宅の居間のカーテンを開けると、一年前と同じような青空が広がっていた。ミッション系の幼稚園に通う一人娘のむうちゃん(6つ)が、制服姿で二階から下りてくる。
 「去年の今日、けっけちゃん死んじゃった日だよ。幼稚園でお祈りする?」
 「うん」
 誉子は窓際にある鉢植えのピンクのマーガレットを二輪、空き瓶にさし、むうちゃんに持たせた。登園したむうちゃんは、園の祭壇に花を供え、小さな手を合わせると、足早に教室へ向かった。
 けっけちゃんこと、加納恵喜(けいき)が刑を執行されるまで十年近く交流してきた市原一家。生後二カ月、誉子に抱かれて初めて面会室にやってきた、むうちゃんを見て、恵喜は手紙にこう、つづった。「無垢(むく)でいいですね。このくらいにかえれたら…」
 誉子の夫、信太郎(49)は、恵喜のこんな言葉が今も耳に残る。むうちゃんが二歳くらいだったか。「もし、むうちゃんが何かされたら、この壁をぶち破って相手を罰したい。でも、それは自分にも当てはまるんですよね…」。たぶん、恵喜は自らの人生を振り返り、罪を悔いていたのだろう。だが、その罪と向き合い、償おうとしたのか。
 「死んで償う」。しばしばそんなことを言い、死刑を望んだこともあった恵喜。信太郎は言う。「自分ではどうしようもない状態から目を背けていただけじゃないか」。その死が償いになったとは思えない。
 恵喜は手紙や日記で、しばしば事件を振り返ったり、被害者の冥福を祈っているが、時がたつに連れ、そうした記述が減っていたのも事実だ。二人の命を奪った男がその罪を心から反省し、贖罪(しょくざい)の気持ちを抱いて逝った−。そんな美しいストーリーは描けない。ただ、養子縁組した母、真智子(仮名)や、むうちゃん…。「交流した人たちに『ありがとう』と、感謝して亡くなったと思う」。誉子は恵喜が「ふつうのおじさん」になって死んでいったと信じる。
 「むうちゃんのランドセルを買ってください」。恵喜が残したお金で、市原夫妻は水色のランドセルを注文した。もうじき、むうちゃんはそれを背負って小学校に通う。
 その人生も、獄中での思いも、ほとんど語られたことのない死刑囚だった恵喜。生前、市原夫妻にこう尋ねたことがある。「もし、むうちゃんが自分のやったことを知っても、それでも会いにきてくれるでしょうか」。誉子はいつか、恵喜のことをその罪も含め、語り聞かせるつもりだ。恵喜のために祈り続けるかどうか。そのうえで、むうちゃん自身が決めればいい。(敬称略)=終わり
 ◎上記事の著作権は[中日新聞]に帰属します 
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 〈来栖の独白 2014/3/6 Thu. 〉
 キリスト者の独り善がりには、反吐が出る。死刑囚の周りに集うキリスト者の多くは、当記事の様である。こんな独善を私は嫌というほど見てきた。もう、沢山だ。
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◇ 【二月二十一日 ある死刑囚の記録】 2013年2月21日 死刑執行された加納(旧姓武藤)恵喜(けいき)死刑囚 ?  
2013年2月21日 死刑執行された加納(旧姓武藤)恵喜(けいき)死刑囚 ? 殺人者支える“母親”  
◇ 2013年2月21日 死刑執行された加納(旧姓武藤)恵喜死刑囚 ? 弁護士 湯山孝弘
2013年2月21日 死刑執行された加納(旧姓武藤)恵喜死刑囚 ? 「俺の死刑のボタンは遺族に押させてやってくれ」  
2013年2月21日 死刑執行された加納(旧姓武藤)恵喜死刑囚 ? 死へ進み始めた2人 / 失う痛み初めて知る  
2013年2月21日 死刑執行された加納恵喜(けいき)死刑囚 ? 面会室/ 孤独/ コンベヤーが迫る/ 教誨  
2013年2月21日 死刑執行された加納恵喜(けいき)死刑囚 ? 法相 千葉景子氏 小川敏夫氏
2013年2月21日 死刑執行された加納恵喜(けいき)死刑囚 ? 下された法相命令 / 「開かずの扉」に消えた 
2013年2月21日 死刑執行された加納恵喜(けいき)死刑囚 ? 「償いにはならないが」 終り
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