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メディアによる憲法改正反対の声は喧しいが、サイレント・マジョリティ(国民の声なき声)は、どうか。

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新しい憲法の制定目指す大会
 NHK NEWS WEB 5月1日 19時41分
 新しい憲法の制定を目指す大会が1日に開かれ、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認の議論は憲法改正に要する時間の問題からやむをえないとしつつも、そのことで憲法改正の動きにブレーキがかかってはならないなどとして、新しい憲法の制定に一層努力するという決議が採択されました。
 新しい憲法の制定を目指す超党派の国会議員らで作る団体が1日、都内で開いた大会には自民党、民主党、日本維新の会、公明党、みんなの党、結いの党の国会議員らが参加しました。
 この中で、団体の会長を務める中曽根元総理大臣は「国民が納得する立派な憲法を作ることがわれわれの責任であり、国民的な合意が得られるよう全力を尽くさなければならない」と述べました。
 自民党の船田憲法改正推進本部長は「国際情勢や国内の社会情勢に照らして憲法のおかしい部分は変えていくことを基本に、できるだけ多くの政党が賛成する憲法改正原案を作りたい」と述べました。
 民主党の長島元防衛副大臣は「集団的自衛権の行使を巡る問題は長年、積み残された宿題であり、国会での議論を通じて国民と共に考え、憲法改正に向けた確かな一歩を刻みたい」と述べました。
 そして大会では、憲法解釈の変更による集団的自衛権の行使容認の議論は憲法改正に要する時間の問題からやむをえないとしつつも、そのことで憲法改正の動きにブレーキがかかってはならないなどとして、新しい憲法の制定に一層努力するという決議が採択されました。
 ◎上記事の著作権は[NHK NEWS WEB]に帰属します
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憲法改正、2年後実現目指す=「環境権」創設に照準−自民
 時事通信 2014/05/02-14:48
 憲法改正手続きを定めた国民投票法改正案の今国会成立が確実な情勢となったことを受け、自民党は改憲スケジュールの具体化に乗り出す。同党は最短で2年後の2016年に初の国民投票実施が可能とみており、「環境権」創設など公明党や野党が同調しやすいテーマに絞り進める方針だ。
 「8党合意の枠組みを使い、できるだけ多くの皆さんが賛成する中で改憲案を作っていきたい」。自民党憲法改正推進本部の船田元・本部長は1日、東京都内で開かれた改憲派の集会でこう強調し、同改正案を共同提出した民主党や日本維新の会、みんなの党などとともに改憲論議を本格化させる意向を示した。
 同改正案は、投票年齢を4年後に「20歳以上」から「18歳以上」に引き下げることが柱。同推進本部では、国民投票までの道のりについて、(1)積み残しの公職選挙法の選挙権年齢引き下げを15年の通常国会で実現(2)各党間で改憲案の議論を開始(3)16年の通常国会で改憲発議−という段取りを描いている。投票年齢に関しては、前倒しで「18歳以上」とすることを目指す。
 自主憲法制定が自民党の党是だが、最初の国民投票では「環境権」などに限定し、実績づくりを狙う。改憲の発議には96条の規定により衆参両院それぞれで「3分の2以上」の賛成が必要で、9条改正などはハードルが高すぎると判断した。
 与党の公明党は平和憲法の理念などは維持しつつ、時代に合わせて新たな条項を加える「加憲」の立場。山口那津男代表は2日、都内で街頭演説し、「人類が地球という環境の下で生存を全うできる権利を、基本的人権として位置付けてはどうか」と述べ、加憲の例として環境権を挙げた。維新、みんな両党は改憲に積極的だ。
 一方、党内に改憲派と護憲派を抱える民主党の立場は複雑。党幹部は、安倍晋三首相が集団的自衛権の行使容認を目指していることを理由に「憲法解釈変更などと言っている限り(改憲の)協議に入ることすらできない」として、改憲論議の進展をけん制している。
 衆院での改憲勢力は3分の2を大きく上回る。しかし、参院の3分の2超が162なのに対し、自民、維新、みんな各党に公明党を加えた議席は計156。カギは基本的に、参院で58議席を持つ民主党が握ることになる。
 国会が改憲を発議すれば、初の国民投票が実施され、過半数の賛成で憲法改正に至る。ただ、否決されるような事態になれば「国会への不信任に等しい」(自民党閣僚経験者)。このため自民党は、憲法に関する対話集会などを通じ、国民的な改憲機運を高めたい考えだ。(2014/05/02-14:48)
 ◎上記事の著作権は[時事通信]に帰属します
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〈来栖の独白〉
 朝日新聞などメディアは、憲法改正反対、9条維持で喧しい。大きな声だ。しかし、サイレント・マジョリティは、どうか。往時の安保条約改正のときも、そのようであった。「反対」の声ばかりが大きかった。 
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 憲法改正で「日本」を取り戻せ 誤った歴史観を広めるメディア・教育界に風穴を 『Voice』4月号 2013-03-24 | 読書 
  『Voice』4月号2013/3/9(毎月1回10日発行)

      

  憲法改正で「強い日本」を取り戻せ いまこそ誤った歴史観を広めるメディア・教育界に風穴を開けるときだ
 対談「渡部昇一(わたなべしょういち・上智大学名誉教授)×百田尚樹(ひゃくたなおき・作家)」
〈抜粋〉
p45〜
■サイレントマジョリティの声を聞けるか
百田 同じように、戦後長らく左翼的な勢力が跋扈しているのが、新聞やテレビなどメディアの世界、そして教育界です。(略)
 まずメディアについていえば、第1次安倍内閣は『朝日新聞』をはじめとする新聞やテレビに過剰なまでにバッシングされ、短い期間で残した実績が国民に十分に伝わらないまま、退陣に追い込まれてしまいましたね。
渡部 ベストセラーになった『約束の日 安倍晋三試論』(幻冬舎)で小川栄太郎さんが書いているのですが、昨年11月に亡くなった政治評論家の三宅久之さんは、かつて朝日新聞社の主筆だった若宮啓文氏に「どうして『朝日』はそこまで安倍さんを叩くんだ?」と尋ねたところ、「社是だからだ」といわれたそうです。
百田 ただ、いまでは「安倍たたき」をするか否か、メディアも少し慎重になっているようにもみえます。リベラルな論調を出すことで読者が減るのではないか、と懸念しているのでしょう。
渡部 1月にはアメリカの『ニューヨーク・タイムズ』紙が安倍さんを「右翼の民族主義者だ」と強く批判しました。『ニューヨーク・タイムズ』の東京支局は、朝日新聞社と同じビルにあります。これは邪推かもしれませんが、『朝日新聞』の記者が、自分たちの発言力が落ちていることに危機感を抱き、『ニューヨーク・タイムズ』の記者をけしかけて、社論を書かせたと解釈することもできます。
百田 ここ数年でインターネットが発達し、とくに若い世代を中心に「マスコミの情報が必ずしも正しいわけではない」という意識が芽生え始めたのも大きいですね。
p46〜
渡部 2012年から現在にかけては、脱原発運動の旗振り役になり、いかにも国民全体が「脱原発」の意見をもっているかのような記事を掲載した。しかし先の総選挙では、「日本未来の党」をはじめとする、脱原発政党は軒並み議席を減らしています。マスコミのいうことと、「サイレントマジョリティ」の意見は違うということが露呈しました。
百田 60年安保のときと状況はよく似ています。当時も日本全国が「安保反対」のような気運でしたが、自然成立とほぼ同時に岸内閣が倒れ、その数か月後に行われた総選挙で自民党が圧勝した。メディアの声はあくまでも「大きい声」にすぎず、それが大多数の声を代表しているとは限らないということです。
(略)
百田 岸信介はいみじくも、安保デモを前に「私には国民の声なき声が聞こえる」と発言しました。それは正しかったんです。いくら国会を群集が取り囲んでも、私の両親のような大多数の庶民は、そのような問題に何ら関わりはありませんから。サイレントマジョリティの声を聞くというのは、政治家の大きな資質の1つだと思います。 *強調(太字・着色)は来栖 
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 『日本を貶めた戦後重大事件の裏側』菅沼光弘著 第4章 安保闘争と左翼陣営の舞台裏 2013-11-30 | 読書 

     

(抜粋)
 第4章 安保闘争と左翼陣営の舞台裏
p148〜
 評論家の西部邁(にしべすすむ 1939-)さんは、1960年の安保闘争のころは、全学連の最高幹部として、安保闘争を指導していました。彼があちこちでよく言っていますが、「あの当時、日米安保条約の条文なんか誰も読んでいなかった」。安保闘争は、言うならば「反米闘争」だったと言っています。
p152〜
 あの当時の多くの国民はみんな安保反対だったのだけれども、しかし、よくよく考えてみると、前の日米安保条約というのは、サンフランシスコ講和条約調印のとき、吉田首相がただ一人、密室で調印した不平等条約でしたから、岸さんが変えようとしたのは無理もないのです。
 その条約では、アメリカは日本を守る義務がない。要するに、ただ「占領中の現状のまま米軍の基地を日本に置く」ということを約束した条約なのですから。そこで岸さんは、「これじゃいかん」というので、「日本を米軍が守る」ということを意味する条文を入れたわけです。だからこれは、本当は日本にとってはいい改定だったのです。反対する理由はない。
 では、当時なぜああいう反対運動になったのかというと、やはり反米感情です。あのころの一番若い、学生世代が、戦争中の体験をした最後の世代です。
 その上の世代で戦争に参加した人たちは、戦争の悲惨さというのを身近に考えているものだから、安保条約が戦争につながるということを信じていたかもしれない。一番若い世代の学生は、もう単純な反米です。誰も安保条約そのものを読んではいないのですから。しかし、だからこそ、あれだけ盛り上がったのです。
 岸信介さんは、東条内閣の商工大臣をやったり、満州でいろいろ活動したりしていましたが、物凄い秀才でした。(略)60年安保のころの世論では、岸さんがどういう人かということをいっさい考えないで、単に、東条内閣の閣僚だった、戦争犯罪人だったというのが先に立つものだから、大変だったのです。 *強調(太字・着色)は来栖
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 孫崎亨著 『アメリカに潰された政治家たち』  第1章 岸信介 / 第2章 田中角栄と小沢一郎 2012-10-28 | 
 (抜粋)
●序章  官邸デモの本当の敵
1960年安保闘争との違い
p13〜
 60年安保闘争と現在の野田政権打倒デモは、反政府デモという意味では同じですが、中身はまったく異なります。
 60年安保闘争では、運動に参加している人たちは日米安保条約の条文など読んでおらず、冷戦下の世界情勢のなかでどのような意味をもつのかも理解していませんでした。運動は組織化され、学生は主催者が用意したバスに乗り込み、労働者は労働組合の一員として参加し、女子学生が亡くなったことで激化しました。
 安保闘争の初期は新聞等のマスメディアも運動を支持していましたが、1960年6月17日、朝日、讀売、毎日等新聞7社が「その理由のいかんを問わず、暴力をもちいて事を運ばんとすることは、断じて許されるべきではない」という異例と言える「新聞7社共同宣言」を出すと、運動は一気に萎んでいったのです。

●第1章 岸信介と安保闘争の真相
  1.安保闘争神話の大ウソ
「岸信介=対米追随」の誤り
p21〜
 しかし、これほどの反対運動にもかかわらず、5月20日未明に衆議員で強行採決された新安保条約案は、参議院の議決がないまま6月19日に自然成立し、批准を阻止することは出来ませんでした。
 一方で、この混乱の責任を取って岸信介内閣は7月15日に総辞職します。この運動は、もともとは日米安保改正阻止から始まりました。しかし、運動が盛り上がっていく過程で徐々に、A級戦犯として訴追されながら政界へ復帰し、“昭和の妖怪”とまで呼ばれた岸信介の政権を打倒することへ目的が変質していきました。そのため、岸内閣の退陣により、ある種の達成感が生まれ、急速に運動は萎んでいくのです。
P22〜
「アメリカは自分の力を借りに来る」
 ここでは、その暗闘を、岸信介を主人公としてストーリーを語ることで、明らかにしていこうと思います。
 まず岸信介とはどんな人だったのでしょうか。
 岸は東京帝国大学法学部を卒業後、1920年に農商務省に入り、1936年に満州国にわたり、国家運営の要職を歴任しました。1941年には東条英機内閣に商工大臣として入閣。日米開戦時の大臣であり、戦時中は物資動員の責任者も務めました。
 そのため、岸は1945年9月11日にA級戦犯として逮捕され、巣鴨拘置所に拘置されます。戦犯として有罪判決を受けて処刑されるのを待つだけの身に置かれていたのです。
 巣鴨に拘置されている間に、岸がとんでもない切れ者だったことを示すエピソードが残されています。
P23〜
 岸が拘置所内で書いた『獄中日記』の1946年8月10日のページには、こう記されています(口語訳)。
「パリ講和会議におけるソ連外相モロトフと米国国務長官バーンズの対立は、冒頭の演説からたがいの悪口の言い合いとなった。ソ連の機関紙『プラウダ』は『バーンズの挑戦』という見出しをつけ、全ページを使ってその全訳を掲載し、国民の注意を呼び起こそうとした。(略)ソ連は平和会議をわざと長びかせ、そのあいだにバルカン半島や地中海方面に勢力を伸ばしてしまおうという計画を立てており、一日も早く平和的な国際関係を樹立しようと望む米国や英国とは完全な対立関係にある」
 さらに、『岸信介証言録』には、巣鴨拘置所内に収監されていた当時の心境がこう述べられています。
「冷戦の推移は、巣鴨でのわれわれの唯一の頼みだった。これが悪くなってくれば、首を絞められずに(死刑にならずに)すむだろうと思った」
 米ソの冷戦が深刻化すれば、自分の命は助かるだろうと予見しているのです。
p24〜
 当時の日本は、終戦直後で経済も崩壊し、皆食べるのに精いっぱいの状態で、一般の日本人は海外の動静など知る由もありません。まして東西冷戦が始まりつつあることを知っていた人はほとんどいませんでした。
 それにもかかわらず、岸は拘置所にいながら、「アメリカとソ連の対立が深まれば、アメリカは日本を利用するために、自分の力を刈りに来るだろう」と正確に予測し、そこに望みを託しているのです。“昭和の妖怪”とまで称される岸の凄味の片鱗が、ここに現れています。
 現実は岸の読み通りに進みます。
p25〜
 しかし、アメリカの戦略目的が冷戦の勃発によって「ソ連と対抗すること」に変化すると、アメリカは対日政策を180度転換し、「日本の経済力・工業力を有効利用する」という方針に変更しました。
p26〜
 占領地で次々と共産政権を築くソ連への対抗は急を要する事態でした。そのため、戦時中の指導者を含む戦犯らが次々に釈放され、岸信介も1948年12月24日に釈放されます。サンフランシスコ講和条約の発効にともない、政治家や将校たち25万人以上の公職追放が解除され、岸も政治的権利を回復しました。
 占領終結後の1952年10月に行われた最初の国会議員選挙では、衆議院の議席の42%を追放解除者が占めることになりました。
 岸は1952年4月に「自主憲法制定」「自主軍備確立」「自主外交展開」を掲げて日本再建連盟を設立し、会長に就任します。その後、自由党に入党し、公認候補として衆議院議員に当選しました。しかし、対米追随路線を進む吉田茂首相と衝突し、自由党から除名され、1954年に鳩山一郎とともに日本民主党を結成し、幹事長に就任します。そして、同年12月、吉田茂の「バカヤロー」発言で内閣総辞職、鳩山一郎内閣が誕生し、翌年2月の総選挙で日本民主党が第一党となり、改めて岸が幹事長を務める鳩山一郎内閣が発足しました。
 ここで注意していただきたいのは、岸はこの段階からすでに明確に「自主路線」を志向していることです。しかも、対米協調を基本とする吉田茂に反発して党を割っています。
p27〜
安保という不平等条約
 新たに誕生した鳩山内閣は、ソ連との国交回復を政権の重要課題としながら、同時に日米間の重要課題として、「防衛分担金」の負担軽減を掲げます。
 当時の日本の国家予算は1兆円ですが、そのなかから在日米軍維持費に毎年550億円も支払っていました。日本にとっては極めて重い負担だったのです。なぜこのようなことになったのかというと、鳩山一郎の前の吉田首相が、アメリカからの要求を無抵抗に受け入れていたからです。
 鳩山内閣は防衛負担金削減を目標に掲げただけでなく、実際に行動しました。(略)
 鳩山内閣の次の目標は、日本に駐留している米軍そのものの削減でした。しかし米軍の削減は分担金減額に比べればはるかに難題でした。
 というのも、冷戦の深刻化によってますます日本に駐留する米軍の存在は重要になっていたからです。(p28〜)そもそもアメリカが日本を占領した目的は、「日本国内に自由に軍隊を置くこと」で、1951年に、吉田茂が密室で調印した「旧安保条約」第1条にはこうあります。

第1条「アメリカ合衆国の陸軍、空軍および海軍を日本国内およびその付近に配備する権利を、日本国は、許与し、アメリカ合衆国は、これを受諾する」 

p30〜
岸信介CIA工作員説の真相
 実はこの政界の動きには、アメリカの諜報機関CIAが密かに関与していました。
 米国のジャーナリスト、ティム・ワイナーは、著書『CIA秘録』で、アメリカのダレス国務長官は自由民主党結党の3か月前に、岸信介・日本民主党幹事長に会い、「もし日本の保守政党が一致して共産主義者とのアメリカの戦いを助けるなら、(経済的)支援を期待してよい」と明言したと述べています。(略)
 このことをもって、岸信介という人は長らく「CIAのエージェント(工作員)だ」「対米追従路線だ」と信じられてきました。
p31〜
 首相就任2か月後の参議院内閣委員会で、岸は「日米安保条約、日米行政協定は全面的に改定すべき時代にきている」と宣言します。後で述べますが、ここで岸は旧安保条約だけでなく「日米行政協定」にも言及していることを覚えておいてください。
 岸は安保改定の交渉を進めるため、まずマッカーサー駐日大使(マッカーサー元帥の甥)と会談し、次のような考えを述べます。
「駐留米軍の最大限の撤退、米軍による緊急使用のために用意されている施設付きの多くの米軍基地を、日本に返還することなども提案した。
 さらに岸は10年後には沖縄・小笠原諸島における権利と権益を日本に譲渡するという遠大な提案を行った」(岸信介証言録)
p35〜
 在日米軍の削減だけでなく、沖縄・小笠原諸島の返還にまで踏み込んでいるのです。
 同年6月には訪米し、ダレス国務長官に次の点を主張します。
「抽象的には日米対等といいながら、現行の安保条約はいかにもアメリカ側に一方的に有利であって、まるでアメリカに占領されているような状態であった。これはやはり相互契約的なものじゃないではないか」(同前)
 岸の強い態度に今度は逃げられないと思ったのでしょうか。ダレスは「旧安保条約を新しい観点から再検討すること」に合意します。
 ここから岸がとった戦略は次のようになります。
 先ほど、岸は旧安保条約だけでなく、「日米行政協定」にも触れていると述べました。行政協定というのは、条約に付随し、政府が立法機関である国会の承認を必要とせずに、外国と締結できる協定のことです。
 旧安保条約は5条から成りますが、基本的には抽象的な理念が述べられているに過ぎません。一方の日米行政協定は29条から成り、在日米軍や分担金、裁判権などに関する具体的な取り決めはこちらに記されています。
 日米行政協定にはこう書かれています。
p36〜

「日本国は合衆国に対し、安全保障条約第一条にかかげる目的の遂行に必要な施設および区域(=基地)の使用を許すことに同意する」

「日本国および合衆国は、(略)前記の施設および区域を日本国に返還すべきこと、または新たに施設および区域を提供することを合意することができる」 

 アメリカは日本国内に自由に基地を設置できるが、返還については「合意することができる」と言っているだけで、嫌なら合意しないだけの話です。
 本丸は行政協定にあるのです。
 岸は「二段階論」を考えていました。つまり、安保条約を改定して、その後、行政協定を改定する方針です。行政協定は国会の承認が不必要ですし、条項の多さを考えれば、この方針は理に適っています。安保条約を改定した後、米側と「在日米軍削減」について、じっくりと協議すればいいのです。
 ところが、この方針に真っ向から反対したのが、池田勇人(国務省=副総理級)、河野一郎(総務会長)、三木武夫(経済企画庁長官)の3人で、全員が「同時大幅改定」を主張したのです。しかし、行政協定まで同時に大幅に改定することは、現実問題として実現不可能でした。
 なぜこの3人は岸に無理難題をふっかけたのでしょうか。
p40〜
 もう一つの謎は、財界のトップから資金が出ていることです。なぜ学生運動に財界が手を貸したのでしょうか。
 実際に財界から資金提供を受けたと証言しているのが元全学連中央執行委員の篠原浩一郎で、『60年安保 6人の証言』でこう述べています。
 「財界人は財界人で秘密グループを作っていまして、今里広記・日本精工会長さんたちが、とにかく岸さんではダメだということで岸を降ろすという勢いになっていたんですね。(略)」
 財界は、学生たちの純粋な情熱を、“岸降ろし”に利用したということです。
p41〜
 ここで私が注目するのは、中山素平と今里広記の2人です。彼らは経済同友会の創設当初からの中心メンバーですが、(略)
 経済同友会といえば池田勇人の首相時代を支えた財界四天王のひとり、フジテレビ初代社長の水野成夫も経済同友会で幹事を担っていました。池田勇人は大蔵官僚出身で石橋政権時代から岸内閣でも大蔵相だったこともあり、財界とは密接な関係を築いていました。
 国際政治という視点から見れば、CIAが他国の学生運動や人権団体、NGOなどに資金やノウハウを提供して、反米政権を転覆させるのはよくあることです。“工作”の基本と言ってもよく、大規模デモではまずCIAの関与を疑ってみる必要があります。
 1979年のイラン革命、2000年ごろから旧共産圏で起きたカラー革命、アメリカから生まれたソーシャルメディアを利用したつい最近のアラブの春など、アメリカの関与を疑わざるを得ない例はいくらでもあります。
岸政権打倒のシナリオ
p42〜
 確証がある訳ではありませんが、私が考えた1番ありうるシナリオは、次のものです。
1、岸首相の自主自立路線に気づき、危惧した米軍およびCIA関係者が、政界工作を行って岸政権を倒そうとした。
2、ところが、岸の党内基盤および官界の掌握力は強く、政権内部から切り崩すという通常の手段が通じなかった。
3、そこで経済同友会などから資金提供をして、独裁国に対してよくもちいられる反政府デモ後押しの手法を使った。
p43〜
4、ところが、6月15日のデモで女子東大生が死亡し、安保闘争が爆発的に盛り上がったため、岸首相の退陣の見通しも立ったこともあり、翌16日からはデモを抑え込む方向で動いた。
 安保闘争がピークに達した6月17日に、一斉に「暴力を排し議会主義を守れ」と「7社共同宣言」を出した新聞7社も、当然のことながらアメリカの支配下にあったことは疑いようがありません。(略)
 岸が軽く見ていた60年安保闘争は、外部からの資金供給によって予想以上の盛り上がりを見せ、岸はそれに足をすくわれることになりました。
 岸の望んだ形ではなかったかもしれませんが、それでもこの時締結された新安保条約は、旧安保条約に比べて優れている点がいくつかあります。
p44〜
 一方で、安保条約と同時に、日米行政協定は日米地位協定へと名称を変えて締結されましたが、「米軍が治外法権を持ち、日本国内で基地を自由使用する」という実態は、ほとんど変わっていません。岸が本当に手をつけたかった行政協定には、ほとんど切り込めず、しかもその後50年にわたって放置されてきたのです。
 いわば60年安安保闘争は、岸ら自主路線の政治家が、吉田茂の流れを汲む対米追随路線の政治家とアメリカの反政府デモ拡大工作によって失脚させられ、占領時代と大差ない対米従属の体制がその後の日本の歴史にセットされた事件だったといえるのではないでしょうか。
 しかし、岸は改定された安保条約に、将来の日本が自主自立を選べるような条項をしっかりと組み込んでいました。
p45〜
 60年安保改定で、安保条約は10年を過ぎれば、1年間の事前通告で一方的に破棄できるようになったのです。自動継続を絶ち、一度破棄すれば、条約に付随する日米地位協定も破棄されることになります。おそらくここには自主路線の外務官僚も一枚かんでいたのでしょう。必要であれば、再交渉して新たな日米安保条約を締結し直せばいいわけです。(略)
 岸はこう述べています。
 「政治というのは、いかに動機がよくとも結果が悪ければダメだと思うんだ。場合によっては動機が悪くても結果がよければいいんだと思う。これが政治の本質じゃないかと思うんです」(『岸信介証言録』)
p46〜
 2.岸信介とCIAの暗闘
CIAは岸を警戒していた
 岸という人は、これまで世間ではまったく誤解されてきましたが、アメリカからの自立を真剣に考えた人でした。アメリカを信用させ、利用しながら、時期を見計らって反旗を翻し、自主自立を勝ち取るという戦略に挑みました。その意志に気づいたアメリカ側は、「岸降ろし」を画策し始めます。
 では、日本が安保闘争で揺れていた時代、アメリカ側では何が起きていたのでしょうか。今日では、さまざまな資料から、当時のアメリカの様子が窺えるようになっています。
 岸が第1に採った戦略は、アイゼンハワー大統領と直接的な関係を築くことでした。
p47〜
 岸は1957年6月に訪米して、アイゼンハワー大統領を表敬訪問しています。ここでアイゼンハワーは岸をゴルフに誘います。ダレス国務長官はゴルフをやりません。このときの様子を岸はこう述べています。
 「ワシントンのヴァ―ニングトリーという女人禁制のゴルフ場にいったのです。プレーのあと、ロッカーで着替えをすることになって、レディを入れないから、みな真っ裸だ。真っ裸になってふたりで差し向かいでシャワーを浴びながら、話をしたけれど、これぞ男のつきあいだよ」(『岸信介の回想』)
 こういった裸のつきあいは外交上でも大きな意味をもちます。このゴルフ以降、岸は大統領との直接的なつながりをもち、非常に親密な関係を築くことに成功しました。
 それまで、日米関係はダレス国務長官が牛耳っていましたが、岸がアイゼンハワーと数時間の間でもダレス抜きで直接言葉を交わし、個人的な関係でつながったので、それ以降、ダレスは岸にあまり強く切り込めなくなったのです。現実の外交の現場では、こうした人間的なファクターが影響することは、意外に多いものなのです。
 しかし、いくら大統領の支持を得て、CIAから資金提供を受けていようとも、、徐々にアメリカ側は岸の真意に気づき始めます。期待を裏切って、対米自主路線を突き進む岸に対して、アメリカは慌てます。その様子が当時のさまざまな記録から見えてきます。
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