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≪権力「縛る」だけが憲法か≫ 「憲法は権力を縛るもの」は誤り 護憲派に都合のいいレトリック 

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〈来栖の独白〉
 下段の「中日春秋」に典型的に表されているように、「憲法は権力を縛るもの」との信仰が広く流布している。文字どおり「鰯の頭も信心から」で、こういった人々は、自分の信仰の書にはない字面の並んだ論には、目も向けず、聞く耳を持たない。病膏肓に入るといった状態である。
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中日春秋 2014年5月15日
 どうも、この国の政治家には分かっていない人が増えているようだが、民主主義国家において憲法とは、国民一人一人の自由を権力の乱用から守るためにある▼米建国の父トーマス・ジェファソンは言ったという。「権力に関わる事柄で、もはや人間への信頼を語るのはやめよう。悪さなどしないよう、権力者を憲法という鎖で縛るのだ」。権力は必ず腐敗し、乱用される。そう冷徹に現実を見据えての至言だ▼今、権力の乱用は人々の目に見えぬ形で進められているようだ。米国は同盟国を動員して世界中の人々の通信の秘密を侵し、逃げられぬ監視網を築いている。きのう出版された『暴露 スノーデンが私に託したファイル』(新潮社)が暴く実態は驚くべきものだ▼米情報機関は、通信サービス会社から際限なく顧客情報を取得している。米国から輸出されるサーバーなどには情報を盗み見るための仕掛けが組み込まれる。スパイ活動のノウハウと資金は日本にも提供されている…▼機密文書を持ち出して告発したスノーデン氏は人生を棒に振る覚悟を口にしつつ、こう言っていたそうだ。「ひとつだけ恐れていることがあります。それは、これらの文書を眼にした人々がただ肩をすくめ、そんなことだろうと思っていたよ、興味ないね、とやり過ごしてしまうことです」▼無関心が、権力を縛る鎖をほどいてしまうのだ。
 ◎上記事の著作権は[中日新聞]に帰属します 
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【正論】「国民の憲法」1年 広がる奇妙な改正反対論を正す
 産経ニュース 2014.5.8 03:14 麗澤大学教授・八木秀次
 理科系の研究倫理が問題となっているが、文科系も大いに問題だ。ここでは憲法に関わる、メディアや識者の間に広がっている奇妙な理屈を取り上げてみよう。
 4月15日付朝日新聞社会面に、若手弁護士らが「おいしく、ゆるーく憲法を知ろう」と飲食店などで憲法の出前講座を開いているとする写真入りの大きな記事が掲載されている。
 ≪権力縛るためだけにあらず≫
 記事は、女性弁護士が憲法とは「国家権力の乱用を抑制し国民を守るもので、国民が守らないといけない法律とは違うんですよ」と説明すると、参加者は「へぇー」とうなずいたとし、友人と参加した40代のパート勤務の女性の「憲法と法律の違いもわからなかった」との感想を紹介している。次いで、活動の事務局長を務める女性弁護士の、きっかけは一昨年4月に発表された自民党の憲法改正草案で、「国家権力を縛るためのもの」と教わった憲法が「国民を縛るためのもの」に変わってしまうという危機感を抱いたことにあったとする発言を紹介している。
 憲法は「国家権力を縛るもの」で、「国民を縛るためのもの」ではない−この種の憲法観がここ数年、静かに広がっている。
 出処は弁護士の伊藤真氏らの主張のようで、同氏の『憲法は誰のもの?−−自民党改憲案の検証』(岩波ブックレット、2013年)は、「憲法とは、人権を守るために国家権力を縛るための法です」とし、「だからこそ、現行憲法99条は、公務員だけに『憲法尊重擁護義務』を課しています」としながら、「その半面、現行憲法はそれ(憲法尊重擁護義務)を国民には課しません。国民はむしろ『憲法を守らせる側』にいるからです。国民は憲法を守らせる側であって、守る側ではない、というのが、立憲主義なのです」と述べている。同書は表紙に「立憲主義を見失った改憲論議は、危うい」とも書いている。
 ≪国民に尊重・擁護義務あり≫
 しかし、東大法学部教員による解説書(『註解日本国憲法 下』有斐閣、1954年)は、憲法99条が国民の憲法尊重擁護義務を明記していない点について、「国民のこの憲法を遵守する義務を否定したのでないことは、言を俟(ま)たない」と指摘し、「(憲法の)制定者であり、主権者である国民が、国家の根本法たる憲法を尊重し擁護しなければならないことは、理の当然であって、自ら最高法規として定立したものを、制定者自身が、破壊することを予想するのは、自殺行為といわねばならないであろう」と断じている。
 国民にも憲法尊重擁護義務は課されているのであり、その意味で憲法は「国民を縛るためのもの」でもある。納税、保護する子女に普通教育を与える、勤労といった義務を国民に課して縛ってもいる。伊藤氏らの主張では、日本国憲法は「憲法」ではなく「立憲主義」に反しはしないか。
 憲法を「国家権力を縛るためのもの」とする考えは、近代初期の「近代立憲主義」と呼ばれるもので、国家の役割を制限することで国民の自由・権利を保障していくという夜警国家、「小さな政府」時代の産物だ。しかし、その後、選挙権が拡大して国家が大衆の要求に応ずる必要が生じ、近代憲法の保障する人権が単に形式的な自由と平等を保障するにとどまり、真に人間らしい生活を保障する役割を果たしていないとの主張を社会主義思想が広めるに従って、国家の役割も憲法観も大きく変わっていった(長谷部恭男著『憲法』新世社、1996年参照)。
 ≪「反知性主義」はどちらか≫
 ドイツのワイマール憲法、フランスの第4共和政憲法など第一次世界大戦以降の各国の憲法では、労働基本権や最低生活の保障、勤労権、教育権など、その実現のため国家の積極的な介入を要求するような権利がうたわれるようになった。国家権力を縛るのではなく、逆に活用して国民の福祉を図るという考えになったのだ。
 これは福祉国家を目指す考え方で、「現代立憲主義」と呼ばれている。日本国憲法も基本的にこの考えに立脚し、最高裁も「憲法は、国の責務として積極的な社会経済政策の実施を予定している」(小売市場事件判決、昭和47年11月)と判示している。
 以上は、これまであまりに当然のこととされてきた説明だが、奇妙なのは、にもかかわらず、「憲法は国家権力を縛るためのもの」とする理屈がメディアや識者に広がり、一定の影響力を持ちつつあることだ。しかも、「上から目線」で安倍晋三首相や自民党は「憲法が何たるか分かっていない」だの、「反知性主義」だのと批判している。
 しかし、そう主張する人たちは一方で、社会主義を信奉したり、「格差社会」をもたらした、と「小さな政府」論を批判してきてはいなかったか。「反知性主義」はどちらの方なのか。言論の倫理に関わる問題でもある。(やぎ ひでつぐ)
 ◎上記事の著作権は[産経新聞]に帰属します 
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96条改正反対論のウソを見抜け ≪権力「縛る」だけが憲法か≫ 百地 章 2013-05-28 | 政治〈領土/防衛/安全保障/憲法/歴史認識〉 
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