死刑 当面執行せず 法相意向
2011年9月3日 東京新聞 朝刊
平岡秀夫法相は二日夜、初登庁後の記者会見で、死刑執行について「国際社会の廃止の流れや、必要だという国民感情を検討して考えていく。考えている間は当然判断できないと思う」と述べ、当面執行しないとの認識を示した。
平岡法相は「大変厳しい刑。慎重な態度で臨むのは当然だ」とも指摘。法務省内に設置された死刑に関する勉強会の議論を引き継ぎ、整理した上で判断すると説明した。
死刑をめぐっては、千葉景子元法相が昨年七月二十八日、民主党政権下で初めて二人の刑を執行。その後、法相に就任した柳田稔、仙谷由人、江田五月の三氏は一度も執行しなかった。
また取り調べの録音・録画(可視化)の導入論議について、平岡法相は「目指すべきは全事件・全過程可視化だ」とした上で「ただ費用や効率などの課題を総合的に考えるべきだ」とも述べた。
特捜部については「独走するようなやり方は改善すべきだが、特捜部が果たした役割は非常に大きい」として今後も存続すべきとの立場を明らかにした。
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〈来栖の独白2011/09/03〉
聞き飽きた、もう。法相が代わるたびに「考えていく」である。「死刑」は、まるで法相と国民のための教材、「後回し」「先送り」可能な大人しい(永遠の)教材のようだ。だが、この人権と命に関する高邁な命題は、ポピュリズム(政治家や国民)が考え、判断する事柄ではないのではないか。「和をもって尊しとなす」(談合)精神風土の我が国にあっては、死刑についていくら考えても、感情を超克した「撤廃」などという結論は芽すら出ないように思えてならない。
フランスのごとく、秀でて優れた人物が国民世論をリードして決断(英断)する以外、解決を見ないのではないか。
「死刑に関して国民的議論を起こす契機に」と元法相千葉景子氏は2010年7月28日死刑執行し、8月には刑場の公開もしてみせた。が、メディアも国民も、死刑廃止論者の法相が執行命令書に判を押したことに騒ぎ、そして東京拘置所刑場を怖いもの見たさで眺めただけだった。どこからも死刑制度に関する真摯な議論はわかなかったように思う。そして直ぐに忘れられた。
死刑は、教材ではない。。
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死刑執行 法相は職責から逃げるな
産経ニュース2011.9.5 02:55
野田佳彦内閣の平岡秀夫法相は就任会見で、死刑執行について「国際社会の廃止の流れや、必要だという国民感情を検討して考えていく。考えている間は当然判断できないと思う」と語った。
当面、執行はしないと述べたに等しい。だが、刑事訴訟法は死刑確定から6カ月以内に刑を執行することを定めており、「死刑の執行は法務大臣の命令による」と明記している。
法相に就任してから考えるのでは遅い。職責を全うできないなら、最初から大臣就任の要請を受けるべきではなかった。
民主党政権の法相は2年の間に千葉景子、柳田稔、仙谷由人(兼任)、江田五月の各氏に続き、平岡氏で5人目となる。この間に死刑が執行されたのは、千葉氏が法相当時の2人だけだ。
最後の執行以降に16人の死刑が確定しており、死刑囚は過去最多の120人に達している。
退任間際に執行命令にサインした千葉氏は死刑の執行にも立ち会い、「改めて死刑について根本からの議論が必要と感じた」と語った。千葉氏は執行後、死刑の存廃も含めた制度の在り方を研究する勉強会を法務省内に設置した。刑の執行が、勉強会設置のための政治的パフォーマンスに使われたように受け取れた。
在任中に一度も執行しなかった江田氏は7月、「悩ましい状況に悩みながら勉強している最中だ。悩んでいるときに執行とはならない」と発言した。
平岡法相の就任会見の言葉と酷似している。平岡法相もまた、死刑の執行を見送り続けるのではないかと危惧する理由だ。
国民参加の裁判員裁判でも8件の死刑判決が言い渡され、すでに2件で確定している。
抽選で審理に加わり、死刑判決を決断した裁判員らは、究極の判断に迷いに迷い、眠れぬ夜を過ごした苦しい日々と胸の内を、判決後の会見などで語ってきた。
国民に重い負担を強いて、その結論に法務の最高責任者が応えられない現状は、どう説明がつくのだろうか。
法相の勝手で死刑が執行されないことは、法や制度そのものの否定だ。裁判員の努力に対する愚弄だといわれても仕方あるまい。
刑は粛々と執行されるべきものだ。法相はその職責から逃げてはならない。
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◆死刑 進まぬ議論/法相に執行を拒む権限はあるのか/法務大臣には死刑執行の法的義務は存在しない2011-08-13 | 死刑/重刑/生命犯 問題
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◆法務大臣には死刑執行の法的義務は存在しない=安田好弘/死刑執行1年、千葉景子元法相決断の背景2011-07-29 | 死刑/重刑/生命犯 問題
今回、千葉さんが、「死刑執行するのは法務大臣の義務だ」と言っています。実は、過去、法務省はそのようには言っていませんでした。これを言い始めたのは、後藤田元法相です。彼が1993年3月に死刑執行を再開した後に、自己の行為の正当化のために言い出したことです。彼に対しては、志賀さんや倉田哲治弁護士などが直接会って、執行をしないようにと話をし、彼はそれに対してよく考えてみるとか、団藤さんの本も実際に読んでみるとか、言っていたわけです。ところが彼は死刑を執行し、法務大臣には死刑執行をする法的義務がある、だから執行しないのは怠慢だし、執行しないならば法務大臣を辞めるべきだと、そもそも執行しない者は法務大臣に就くべきではない、と言い出したのです。今回の千葉さんも、詰まるところ同じことを言っているのです。
私たちはその当時から、法務大臣には死刑執行の法的義務はないのだと言い続けてきました。これはスローガンとして言っていたわけではなく、法的根拠を持って言ってきたわけです。刑事訴訟法の475条第1項を見ていただければわかりますが、死刑執行は法務大臣の命令による、としか書いてないわけです。法務大臣が死刑執行をしなければならない、とは書いていません。これは法務大臣以外の者が死刑執行を命令してはならないという制限規定です。第2項に6ヵ月以内に執行命令を出さなければならない、となっていますが、これは法務省自らが訓示規定と言っているわけでして、絶対に守らなければならないというものではないわけです。
法務省が言っていますが、法務大臣の死刑執行はどういう法的性質のものかというと、死刑執行を法務大臣の権限としたのは(権限です。義務とは言っていない)、死刑執行は極めて重要な刑罰なので、政治的責任を持っている人間しか命令してはならないものだ。法務大臣は政治的責任を負っているのだから、いろいろの社会的状況を考慮して、政治的な決断として執行を命令するのだ、という言い方をしています。ここからは義務だという発想は出てこないのです。法務省設置法という法律がありまして、法務省の責任や役目を示したものですが、3条、4条にはっきり書いてありますが、法務省の任務に、「基本法制の整備」、「刑事法制に関する企画立案」とあります。彼らの責務として法体制を改革したり改善したり、法律を新しく制定したり、法律を改正したり、ということがあるわけです。ですから法務大臣は死刑執行をすることが義務ではなく、死刑制度について改善したり、新しい死刑制度に関する企画を出したり、その企画が通るまで死刑執行を停止すると、いったようなことが法務大臣の義務としてあるわけです。千葉さんの発言は、これを完全に無視した発言であるわけです。
さらに言いますと、官吏服務紀律という勅令がありまして、昭和22年に一部改正されており、国務大臣はこれに従わなければならないとされています。その1条には「国民全体の奉仕者として誠実勤勉を主とし法令に従い各職務をつくすべし」とあって、権限を行使する場合は、公僕として法律に則って職務を果たせという職務規範はあっても、死刑執行を命令しなければならないというような、羈束(キソク=つなぎとめる、拘束する)的に、必ず一定の行為を行わなければならないというような職務規範は予定されていないわけです。このように、法の規定からしても、また過去の法務省の理解ないしは解説からしても、法務大臣に死刑執行命令をする義務があるというのは、間違い以外何ものでもないと考えます。この点についても議論しなければならないと、私は思っています。
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死刑執行1年、千葉景子元法相決断の背景
神奈川新聞2011年7月28日
昨夏の死刑執行と刑場初公開から1年経過するのを前に、千葉景子元法相が神奈川新聞社のインタビューに応じ、決断の背景を語った。千葉氏が死刑廃止論者だったため、波紋が広がった執行。「それまでの延長からすれば執行しないのが素直な選択だったかもしれないが、それでは他の課題も一歩も先に進まない気がした」と、刑場公開などを進めるため批判覚悟で決断したことを明かした。異例の立ち会いは、「明確な責任者が誰もいない状況で、国家の権能として死刑を執行するのは非常に無責任ではと感じていた」と説明した。
*批判覚悟で踏み出す
千葉氏は一昨年9月、法相に就任。執行は参院選で落選後の昨年7月28日だったが、「法相就任時から、私は執行しませんと言って終われるのか、それでいいのかと思っていた」。
本格的な検討を始めたのは昨年1月ごろ。実際に執行されることになる2人の記録の読み込みなどを始め、副大臣らとも議論を重ねた。いずれ執行を決断しなければならないと覚悟を固めつつあった。法務官僚から催促されることはなかった。
このころ、想定外の事態が起きた。小沢一郎氏の政治とカネの問題が急展開し、法相が持つ検事総長への指揮権の発動に、与党内からも意見が来るなど忙殺され、落ち着いて検討する余裕がなくなった。
選挙も近づいてきた。「死刑の問題を騒然とした選挙の中で扱われるのは本意ではない」。選挙後に最終判断をすべきと考えていた。
落選により刑場公開なども実現できぬまま法相を退任すると思っていたが、菅首相は当面の続投を指示。これを受けて結論を出し、執行の手続きを進めたいと担当部署に伝えた。続投決定から数日後のことだった。
執行時は法相として初とみられる立ち会いも行った。「死刑は裁判所が判決を出し、大臣が執行命令を出すが、執行にあたっての責任は誰が負うのか。少なくとも最終判断者が状況を知らないのは無責任、国家権力として責任があいまいという違和感がベースにあり、執行を決断した場合には立ち会わねばならないと考えていた」
執行当日に所感を問われたときは言及を避けたが、1年後の今、こう語った。
「法に基づき、形式的には厳粛な形をつくっているにもかかわらず、ああいう非人間的で無機質な死に方、命の絶たれ方とは、何なのだろうと、非常に違和感を覚えた」
*国民的な議論深めて
昨夏の死刑執行命令とほぼ同時に、千葉景子元法相は刑場の初公開と死刑制度の存廃を含めたあり方を検討する勉強会の設置を指示した。背景には裁判員裁判の存在もあった。千葉氏は神奈川新聞社の取材に、「市民が死刑判決に関わるのだからこそ、裁判員だけが悩むのではなく、真っ正面から国民的な議論をしなければいけないと思った。そのための一つの資料が刑場公開だった」と語った。
昨年1月ごろ、複数のメディアが法務省に刑場公開を求めてきた。関係幹部は困難との認識を示し、千葉氏と副大臣らも個別の請求は断るしかないとの認識で一致。ただ、「何もしないで、いいというわけにはいかない」と話し合った。千葉氏は何らかの公開が考えられないか関係幹部に持ち掛けた。が、反応を見て、そのままでは進展しないだろうと感じた。
千葉氏が刑場公開と勉強会設置を指示したのは昨年7月。執行する意向の伝達とほぼ同時だった。死刑廃止論者だった千葉氏の命令による執行に対し、新聞の見出しでは「変節」などの文字が躍った。批判を受けるのが確定的な中、なぜ、踏み切ったのか。
「論理的には執行しないまま、刑場の公開や存廃も含めて死刑制度を検討することはありうるが、現実的には一つ一つの課題を明確に区別し解決するのは難しいと感じた。全体的に動かし始めないと、一つも進まないと思った」
「刑罰は国家の根幹、国家の意思そのもの。死刑制度を動かすには、法相としての責務を棚上げにしたままでは進まないと思った。信条に矛盾するが、法相として死刑問題を問いかけるには決断が必要と思った」
勉強会は執行の9日後に開催、刑場公開は1カ月後に実現した。千葉氏は9月に退任、後を託した。以来、法相は交代が相次ぎ、法務省は大阪地検特捜部の不祥事を受けた改革に追われるなど、死刑論議は進展していない。一方、裁判員裁判では少年に対しても含め、8件の死刑判決(うち横浜地裁2件)が出た。
「刑場公開などは動きだす契機になったと思うが、ようやく歩みだした段階だ。裁判員裁判では死刑にするかどうかの判断を市民が回避できるようにすることや、評決の仕方を検討する必要があるのではないか。勉強会は閉鎖的に終始せず、さまざまな意見や情報を国民に提供しながら議論を進めてほしい。議会も対立的な意見を乗り越え議論しようという努力がいささか欠けていたと、反省している」
決断から1年。元法相は今、こう考えている。
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◆死刑 悩み深き森/千葉景子さん「執行の署名は私なりの小石」(朝日新聞2010/11/20Sat.)
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「死刑とは何か〜刑場の周縁から」より
中公新書『死刑囚の記録』
ただ、私自身の結論だけは、はっきり書いておきたい。それは死刑が残虐な刑罰であり、このような刑罰は禁止すべきだということである。
日本では(略)死刑の方法は絞首刑である。刑場の構造は、いわゆる“地下絞架式”であって、死刑囚を刑壇の上に立たせ、絞縄を首にかけ、ハンドルをひくと、刑壇が落下し、身体が垂れさがる仕掛けになっている。つまり、死刑囚は、穴から床の下に落下しながら首を絞められて殺されるわけである。実際の死刑の模様を私は自分の小説のなかに忠実に描いておいた。
死刑が残虐な刑罰ではないかという従来の意見は、絞首の瞬間に受刑者がうける肉体的精神的苦痛が大きくはないという事実を論拠にしている。
たとえば1948年3月12日の最高裁判所大法廷の、例の「生命は尊貴である。一人の生命は全地球より重い」と大上段に振りあげた判決は、「その執行の方法などがその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬ」として、絞首刑は、「火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆで」などとちがうから、残虐ではないと結論している。すなわち、絞首の方法だけにしか注目していない。
また、1959年11月25日の古畑種基鑑定は、絞首刑は、頸をしめられたとき直ちに意識を失っていると思われるので苦痛を感じないと推定している。これは苦痛がない以上、残虐な刑罰ではないという論旨へと発展する結論であった。
しかし、私が本書でのべたように死刑の苦痛の最たるものは、死刑執行前に独房のなかで感じるものなのである。死刑囚の過半数が、動物の状態に自分を退行させる拘禁ノイローゼにかかっている。彼らは拘禁ノイローゼになってやっと耐えるほどのひどい恐怖と精神の苦痛を強いられている。これが、残虐な刑罰でなくて何であろう。
なお本書にあげた多くの死刑囚の、その後の運命について知りたく、法務省に問い合わせたところ刑の執行は秘密事項で教えられないとのことであった。裁判を公開の場で行い、おおっぴらに断罪しておきながら、断罪の結果を国民の目から隠ぺいする、この不合理も、つきつめてみれば、国が死刑という殺人制度を恥じているせいではなかろうか。
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「『神的暴力』とは何か(上)死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い」より
暴力を抑止する贈与こそは、「神話的暴力」を克服する「神的暴力」の原型だと言ったら、言いすぎだろうか。チンパンジーなど大型霊長類の分配行動(贈与)は、物乞いする方が至近で相手の目を覗きこむといった、スキンシップにも近い行動によって誘発される。森達也が教誨師や(元)刑務官から聞き取ったところによれば、死刑囚は、まさにそのとき、一種のスキンシップを、たとえば握手や抱きしめられることを求める。死刑の暴力の恐怖を、身体を接触し分かち合う感覚が中和しているのである。
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◆「目には目を」の報復、すべきでない/6割以上が死刑賛成という世論に迎合せず、仏大統領は死刑を廃止した2010-10-14 | 死刑〈国際〉
死刑制度:フォール駐日仏大使に聞く 「死刑廃止は民主主義の一部」
◇ミッテラン大統領の信念 決定後は存続派少数に
今月10日は「世界死刑廃止デー」。欧州連合(EU)は同じ民主主義国として日本や米国の死刑制度に厳しい目を向ける。フランスのフィリップ・フォール駐日大使に、同国が死刑を廃止した経緯などを聞いた。【専門編集委員・西川恵】
−−大使の父(モーリス・フォール氏)は死刑を廃止する社会党のミッテラン政権の最初の法相でした。
・ミッテラン氏が81年5月に大統領に当選すると、死刑廃止を打ち出すため父を法相に任命した。しかし父は死刑廃止には賛成だったが優先課題ではなく、1カ月でポストを去った。代わって弁護士のロベール・バダンテール氏が法相になり、死刑廃止を打ち出す。
−−ミッテラン大統領の死刑廃止は信念ですか。
・大統領は選挙中から最優先の社会政策として死刑廃止を公約した。第一に死刑は犯罪の抑止にはならないこと。第二に、これはフランス人道主義の系譜だが、国家は野蛮な行為に対し野蛮な行為で応えるべきでないとの信念だ。犯罪には罰を与えなければならないが、目には目をの報復はすべきでないとの考えがある。最近、日本でも冤罪事件があった。万一、死刑に処した人間が冤罪だったら取り返しがつかない。第三に死刑廃止論者であるバダンテール氏の影響だ。同氏はフランスで最後の死刑囚となる2人の被告人の弁護をしたが、いつ死刑が執行されるかおびえながら過ごす非人間的な残酷さを大統領に説明し、大統領も深く納得した。
◇世論に迎合せず
−−当時、フランスでは世論の60%以上が死刑賛成でした。
・大統領にはドゴール(元大統領)に通じるものがあった。それは世論に迎合しない姿勢だ。死刑廃止は不人気のテーマで、人々は「我々は死刑廃止のために彼を選んだのではない」と言っていた。しかし大統領は選ばれたばかりで支持率は高く、廃止できると踏んだのだろう。
−−廃止法は大統領当選5カ月後の81年10月に公布されました。
・国民議会(下院)で363対117で可決された。興味深いのは死刑賛成だった世論は、廃止が決まると少数になった。政権が代わったら死刑復活を図るのではとの観測もあったが、そういうこともなかった。07年、政府が憲法を改正し、死刑廃止を条文に盛ることを諮った時、上下両院合同議会は828対26の圧倒的多数で認めた。死刑廃止はもはや不可逆だ。
−−EUは日本の死刑制度を批判しています。
・欧州にとって死刑廃止は、表現や集会の自由と共に民主主義の一部。日本に政治的圧力をかけるつもりはなく、友人としての勧告だ。ただ日本のような民主主義国で、死刑に対する疑問が生じないのは不思議だ。議論が起こることを望んでいる。
−−日本の世論の多数は死刑賛成です。
・政治家の勇気ある行動がなければ、何も起こらない。「さあ、やろう」という政治家が出ることが大事だ。そうでなければ世論は変わらない。
◇EU、日米に圧力強め
民主主義、人権の価値を共有する日本とEUにとって、死刑制度はノドに刺さった骨となってきた。日本は「死刑制度の是非は各国が判断すること」とするが、EUは日本や米国に暫定措置として、一定期間の死刑執行停止を求めている。
EUにとって人権秩序の構築は重要な外交目標で、死刑廃止要求はその一環だ。EUに加盟するには死刑廃止は条件で、トルコも加盟交渉を前にした02年、有事の時の国家に対する裏切り行為を除き死刑廃止を決定。世界的にも死刑廃止は広がりつつある。
こうした中で、EUが厳しい目を向けるのが民主国家の日本と米国。EUは昨年、民主党政権で、死刑廃止論者の千葉景子氏が法相に就任したことを歓迎。フランスなど何カ国かの大使は同法相と面会し、死刑執行の停止を求めた。それだけに今年7月28日、2人の死刑囚の刑が執行された時、EUは失望を隠さなかった。
人権問題で指導的役割を果たす欧州47カ国参加の欧州会議(本部・ストラスブール)で日本と米国はオブザーバーだが、死刑制度で改善がなければオブザーバー資格をはく奪することなども時折、検討されている。EUの死刑廃止圧力は今後さらに強まりそうだ。
毎日新聞 2010年10月14日 東京朝刊
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◆人権と外交:死刑は悪なのか2010-11-26 | 死刑〈国際〉
人権と外交:死刑は悪なのか/1 姦通罪で石打ち刑、イラン再検討
◇死刑廃止へ国際圧力 孤立する日本、論議自体を拒絶
女は肩まで、男は腹まで地中に埋められ、5〜10人のイスラム教信者に死ぬまで石を投げつけられる。罪状が重いと石は小さくなる。大きすぎると、即死してしまうことがあるからだ。逃げられたら死なずに済むが、助かった話を聞いたことはない−−。
パリで会った亡命イラン人のムスタフェ弁護士は、苦い表情で石打ち刑の様子を説明した。非公開なので執行現場を見たことはないが、遺体を確認しに刑場へ入ったことがある。血まみれの石や人肉が散乱していた。
7年前にイラン国内で石打ち刑反対の活動を始めた。以来、7人は刑を執行されたが、10人の判決をむち打ち刑などへ変更させ、現在14人が石打ち刑の執行を待つ身だ。
サキネさんもその一人。恋愛関係になった男が夫を殺害。殺人には関与していなかったが、姦通(かんつう)罪で石打ち刑を言い渡された。
ブログや英紙を通じたムスタフェ氏の訴えに、欧州で反響が広がった。身の危険が迫ったムスタフェ氏は8月、ノルウェーに亡命して活動を継続。カーラ・ブルーニ仏大統領夫人が「フランスは見捨てない」と署名を呼びかけ、サルコジ大統領も外交演説で非難し、クシュネル外相(当時)は欧州連合(EU)全加盟国で圧力をかけるよう求めた。
◇反イスラム警戒
反発していたイランが、適用する刑の再検討を明らかにしたのは10月。ムスタフェ氏は「イランは欧米のイスラム嫌いが広がるのを気にしている。政府は石打ち刑廃止の法改正も検討しているが、いずれは死刑廃止につながっていくのが怖いのだ」と解説する。
姦通罪も石打ち刑も宗教に基づく法律も、日本とは別世界の出来事に映る。同じ死刑のある国とはいえ、日本の場合は罪状といい司法手続きといい処刑方法といい、全く異質だ。だが、その差をどう言い表せばいいのか考えると、実は難しい。イランよりは文明的な死刑……。はるかに人権を尊重した死刑……。
死刑廃止をめざす欧州の非政府組織(NGO)の集まりで、01年から3年ごとに世界大会を開いているECPM(本部・パリ)。事務局長のシュニュイアザン氏が語った。
「死刑は犯罪者より市民を怖がらせるためにある。イランの街角で人々の声を集めると、実は死刑反対が多い。国家が抑圧に利用していると理解しているのだ。核問題で国際社会が圧力をかけると、政府は世論の反発をあおって国粋主義に走るが、人権問題では国内世論の後ろに隠れることができない」
イランは特異な死刑国家として、集中的に死刑廃止の国際圧力にさらされるが、外交の駆け引きを通じて、死刑の正否を自問している。日本が「世論の支持・安定した運用」を盾に、世界の廃止論議とほとんど没交渉なのとは対照的だ。
日本でも裁判員裁判で死刑への関心が高まったかに見えるが、評決に加わる一般人のストレスを気遣うくらいで、死刑の是非をめぐる論議が起きているとは言い難い。
◇「特殊な国」
一方、欧州では、嫌でも死刑廃止運動の世界的な勢いを実感する。今年だけでも、
2月=ジュネーブで第4回死刑廃止世界大会。約100カ国の約1900人が参加。日本の死刑も議論に。
5月=ピレー国連人権高等弁務官が訪日し、千葉景子法相(当時)に死刑の一時停止を要請。2カ月後、千葉氏は死刑を執行。
8月=石打ち刑を巡り、イランとフランスなどEUが応酬。
10月10日=世界死刑廃止デー。各地で集会。
11月=国連人権理事会(ジュネーブ)の定期審査で、EU諸国が米国に死刑廃止を勧告。国連総会第3委員会(ニューヨーク)で、2年ぶり3回目の死刑執行の一時停止決議(日本は反対)。
「死刑外交」と呼ぶべき世界があり、日本は廃止論議自体を拒絶している。「死刑は内政問題。自国のことは自国で決める」という立場だが、これは人権問題で非難される国が釈明する時の決まり文句にほかならない。
廃止運動の側からも「日本は死刑が文化に浸透している」(シュニュイアザン氏)「社会の風景になっており、議論がないので別の観点で見ることができない」(仏社会学者ガイヤール博士)と半ば突き放した言葉が漏れる。
死刑反対派と称していた千葉前法相による唐突な死刑執行は、事後に十分な説明や議論がないこともあって、「話が通じない特殊な国」という日本異質論に輪をかけた。
「死刑国家の中の優等生」の座に安住するうち、日本は世界の流れの外に置かれている。論理は正しくても、持説に固執するあまり変化をとらえ損ねると、孤立していくのが外交の現実だ。
日本の常識は、世界の潮流とどうすれ違っているのか。「死刑外交」のうねりと向き合えるのか。理解と議論の糸口を探る。【ジュネーブ伊藤智永】=つづく
毎日新聞 2010年11月22日 東京朝刊
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人権と外交:死刑は悪なのか/2 世論の85%以上が死刑支持
◇「日本に説得力なし」 西欧廃止派「議論ないことの表れ」
85%を超える世論の圧倒的な支持−−。日本が死刑を維持する最大のよりどころだが、国際的な死刑廃止論議では、ほとんど説得力を持っていない。
死刑が廃止か停止されている世界の3分の2の国で、「有権者の大半を喜ばすために死刑を廃止するなどということは、起きたこともないし、あり得ない」(仏社会学者ガイヤール博士)からだ。
フランスの経験が示唆に富む。今でこそ死刑廃止運動の旗振り役を自任するフランスが、廃止に踏み切ったのは1981年、ミッテラン社会党政権が誕生した時。世論は死刑維持に賛成6割、反対3割だったが、新大統領は死刑廃止論で著名なバダンテール弁護士を法相に起用し、2人の政治リーダーシップで廃止を断行した。
以後18年間、各種世論調査で死刑廃止賛成が反対を上回ったことは一度もない。むしろ凶悪事件の後など事あるごとに、死刑復活法案が約30回も議会に提出されてきた。世論は絶えずぶれる。
◇仏でも長い議論
99年に初めて賛否が並び、やがて死刑反対5割・賛成4割と逆転してからは、傾向が定着。07年、憲法に死刑廃止が明記された時、議会は世論の賛否比率を大きく超える圧倒的大差で承認した。今後フランスで死刑が復活することはない。
「まず社会での議論だ。普通の人々がお茶を飲み食事をしながら、死刑の賛否を話題にするくらいでないと始まらない。死刑賛成が6割に減ったら、次は政治の勇気。廃止されても、死刑反対が多数になるには教育が必要で、1世代はかかる。85%という数字は、まだ議論が行われていないことの表れだ」(ガイヤール氏)
他の西欧諸国も、ファシズムによる大量処刑の反省(ドイツ)など、廃止のきっかけはまちまちだが、議論を基に政治が断行し、世論がためらいながら後を追う流れは共通している。米国でも、最近の廃止例は州知事の政治決断だった(ニューメキシコ州)。
理不尽な仕打ちに報復したい、暴力に暴力で応えたいというのは、ある意味で自然な感情だ。残虐事件が起きると死刑支持論がぶり返すのは、死刑廃止国でも変わらない。
◇感情と司法ズレ、政治が懸け橋に
「世論は胸と腹で考えるが、司法は頭で考えないといけない。被害者と遺族はいかにひどい目にあったか社会に認知を求めている。そのために死刑が役に立たないと分かるには時間がかかる」(パリ第10大学のデジヌ教授)
渡るのに長い年月を要する感情と司法のずれ。そこに橋を懸け、世論が渡るのを待つのも、選良たる政治家の役割だという。
死刑廃止の道筋は、日本の民主主義が迷路にはまっている世論の不確かさと政治のリーダーシップの関係に、ある試練の機会を投げかけているようだ。
「議論を起こすための死刑執行」という千葉景子元法相の言い分は、議論と政治と世論の役割関係をごちゃ混ぜにしている点が、西欧の死刑廃止派を驚かせ、あきれさせた。それは日本の死刑廃止運動が、西欧の理屈を移植するだけで、日本の民主主義政治の問題として考えてこなかった底浅さの帰結でもある。【ジュネーブ伊藤智永】=つづく
毎日新聞 2010年11月23日 東京朝刊
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人権と外交:死刑は悪なのか/3 途上国で広がる死刑廃止
◇背景に弾圧、抵抗の歴史
「中心課題は三つ。中国は、少数だが死刑廃止の模索が動き出している。米国も廃止する州の数は増えていく。一番難しいのはイスラム原理主義国だ」
10月10日の世界死刑廃止デーに合わせて8日開かれたパリ弁護士会館の集会で、死刑廃止運動のシンボル的な存在であるバダンテール元仏法相は熱弁を振るった。
中国の模索とは、反体制運動のことではない。司法界の中枢に、成長を続ける経済大国として、司法の近代化や社会の開放が進めば、死刑廃止も視野に入れなければならないという考えが生まれていることを指す。
フランスは中国の司法官100人を招いて研修を行った。バダンテール氏は訪中した際、元検事総長から「機は熟していないが、将来は廃止へ向かう」と説明されたという。
死刑判決はすべて最高人民法院が再審理し(07年)、死刑適用の罪の数を減らす(10年)といった微々たる変化も表れている。
そもそも死刑の全容と実態が不明なので、「改革など信じられない」(アムネスティ)という反応はもっともだが、死刑廃止が政治主導で進む以上、死刑廃止運動にとって中国は、硬直した日本より変化の兆しが見えるという評価になる。
「驚くことに、死刑廃止と民主主義の成熟度には、比例関係があまりない。独裁国で廃止されたり、民主主義が発達しすぎて廃止できないこともある」。ジムレ仏人権大使の指摘は興味深い。
死刑廃止国が世界の3分の2に上るのは、南米やアフリカで広がったのが大きい。植民地からの独立、独裁者の交代といった政治の転換が起きると、死刑廃止は「前時代との決別」を印象づけるのにうってつけだ。新しい権力者たちは、死刑が権力の道具に使われる危険を知っている。
「死刑は私的レベルでは報復だが、国家の力という本質も持つ」(仏社会学者ガイヤール博士)。弾圧や抵抗といった厳しい政治体験を通じ、市民が死刑に「国家の力」を見て取るか、報復という私的な次元にとらわれているかによって、死刑に関する議論も政治も世論も大きく違う。
韓国は死刑制度は残るが、金大中政権以来13年間、執行がない。軍部による弾圧の経験が国民に生々しく共有されているからだが、凶悪犯罪に世論が憤激して死刑を叫ぶのは日本と変わらない。
日本の死刑支持率が高止まりし、政治の動きも鈍いのは、死刑の理解が私情のレベルに偏っていて、国家の力を見て取る思考が貧しいからだ。しかし世界の現実は、死刑論議が各国の国際感覚や政治レベルを試す先鋭的な問題に他ならないことを示している。【ジュネーブ伊藤智永】=つづく
毎日新聞 2010年11月24日 東京朝刊
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人権と外交:死刑は悪なのか/4止 フランス、授業で死刑議論
◇「廃止は文明化の過程」
「どうして大統領は何もしなかったの」
「検事はなぜそんなにしつこく攻めるの」
10月8日、パリ近郊の公立中学校。米国人女性キリヤンさんが、殺人罪で2度死刑を求刑され、服役16年目に冤罪(えんざい)と分かって釈放された体験を語ると、13〜15歳の生徒たちから率直な質問が飛んだ。憲法に死刑廃止が明記されている国とはいえ、日本では想像しにくい授業風景だ。
「議論や教養、思想がなければ、自動的に死刑賛成になる。死刑廃止は文明化の過程の一つ。文明化とは教育だ。死刑廃止に教育は欠かせない」(社会学者ガイヤール博士)
授業の後、生徒たちに意見を聞くと、「フランスの死刑廃止を誇りに思う」「国が殺すのは考えられない。人間的でない」「発展している国は廃止すべきだ」などの答えが多く、「日本には死刑があるの」と驚かれた。
先進国で死刑を続けるのは今や日米だけ。日本に「死刑外交」での孤立感が薄いのは、どこかに「米国だって……」という甘えがあるからではないか。だが、日米の実情にはかなりの落差がある。
米国の死刑廃止論議は欧州より古い。現在、全米で15州が廃止、残る35州のうち12州は10年以上執行がない。州議会や市民レベルで死刑の是非や処刑、公開の仕方について議論の積み重ねがある。
72年に連邦最高裁が「死刑は残虐な刑罰に当たる」と違憲判決を出し、全米で執行が停止されたこともある(4年後に合憲判決)。02、05年には欧州での判例を根拠に、知的障害者と18歳未満の死刑に違憲判決が出された。
「私個人も含め多くの米国人が死刑に反対し、死刑が制限されるよう提唱してきた」
11月5日、ジュネーブの国連人権理事会で、欧州各国が米国に国全体での死刑廃止を迫ると、元米国務次官補のコー米国務省法律顧問は当たり前のように答え、耳目を引いた。米国は執行停止にも同意していないが、「死刑外交」での態度は、拒絶一辺倒の日本とは明らかに異なる。
死刑廃止か存続か。論理を突き合わせても、なかなか黒白はつかない。それでも廃止論に勢いがあるのは、人間の理性と進歩を信じる限り、必ずや死刑廃止に行き着くべきもの、という理想に依拠しているからだ。
新興国も途上国も世界の大勢は、これから発展しようと勇んでいる。先進国で流行の保守主義は理性と進歩の過信を疑うが、否定もできない。死刑廃止論は、理性と進歩を信じて変化を求めるうねりに乗って広がり、衰退気分に浸る日本は「今まで通りではダメなのか」と抵抗する側に押しやられている。
文化や宗教、経済発展の違いはあっても、人権尊重は今や世界中が目指す理念となり、死刑廃止は人権普遍化のシンボルの一つになりつつある。【ジュネーブ伊藤智永】=おわり
毎日新聞 2010年11月25日 東京朝刊
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犯罪とゆるし アーミッシュの寛容
自動車や電気を拒み、非暴力を貫く米国のキリスト教の一派、アーミッシュ。06年秋、彼らの学校を男が襲い、女児5人を射殺した。惨劇の直後、彼らは自殺した犯人の家族を訪ね、「ゆるし」を伝える。不寛容が襲う世界を驚かせた行動は何を教えるのか。ノン・フィクション作家、柳田邦男さんと、米国の研究者、ドナルド・クレイビルさんが語り合った。(⇒)
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◆アフリカ東部ソマリア 死ぬまで石を投げ付ける「石打ちの刑」による公開死刑2009-11-20 | 死刑〈国際〉
「石打ち」で女性を公開処刑=ソマリア
【ロンドン時事】アフリカ東部ソマリアのイスラム系武装勢力アル・シャバブの支配下にある村でこのほど、姦通(かんつう)罪で有罪を言い渡された女性(20)に対し、死ぬまで石を投げ付ける「石打ちの刑」による公開死刑が執行された。
英BBC放送によると、離婚後に未婚男性と関係を持ったとされるこの女性は17日、約200人の群衆の目前で石を投げられ、死亡した。男性は100回のむち打ちに処されたという。
アル・シャバブの支配地域では厳格なイスラム法が適用されており、アル・シャバブの解釈では、離婚後でも不倫と見なされる。支配地域で姦通罪で石打ちの刑が執行されたのは昨年以降で少なくとも4例目。(時事通信2009/11/19-06:28)
*女性失明事件の加害者に「目には目を」の刑執行へ イラン
2009.02.20 Web posted at: 12:21 JST Updated - CNNワールド イラン テヘラン(CNN)
イランの裁判所で、女性の顔に酸をかけて失明させたとして有罪となった加害者が、イスラム法の「目には目を、歯には歯を」の原則に従い、同じ方法で失明させる刑罰を受けることが確定した。女性の弁護士によれば、数週間以内に執行される見通しだ。
被害を受けたのはアメネ・バハラミさん(31)。2002年、大学で電子工学を学んでいた24歳の時、同じ大学に通う当時19歳のマジド・モバヘディ受刑者に出会った。モバヘディ受刑者はバハラミさんに近づこうとしたが、拒否されるといやがらせを繰り返し、「結婚を承諾しなければ殺す」などと脅迫した。
2004年11月、勤務先の会社から帰宅しようとバス停へ向かっていたバハラミさんを同受刑者が襲い、顔に酸を浴びせた。バハラミさんは重傷を負って視力を失った。同受刑者は2週間後に自首して犯行を自供。2005年に有罪を言い渡され、以来収監されている。バハラミさんの弁護士によると、同受刑者に反省の色はみられず、「愛しているからやった」などと話しているという。
イランでは通常、被害者が加害者に「血の代償」と呼ばれる賠償金の支払いを求めることができるが、バハラミさんはその代わりに、モバヘディ受刑者の目に酸をかけて失明させる刑罰を要求。昨年末に地裁がこれを認める判決を下し、同受刑者が控訴していたが、高裁が今月、棄却を決めた。
一部の人権団体などからは「残酷すぎる」と批判の声が上がっているが、バハラミさんは「復しゅうが目的ではない。今後同じ思いをする人がないようにとの願いから決めたこと」と説明している。
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(マタイによる福音書5、38〜) “目には目を、歯には歯を、と命じられている。しかし、わたしは云っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。(略)求める者には与えなさい。あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と命じられている。しかし、わたしは云っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。(略)あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全な者となりなさい”
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平岡秀夫法相 死刑執行は「考えていく」/ 死刑は教材か/「目には目を」の報復、すべきでない
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