<消えない狂気の記憶>(1) 娘の夢、奪った教団
中日新聞 2014/6/22 朝刊
六月にしては蒸し暑い夜だった。静かな住宅街に漂う霧状のガスは、市民八人の命を無差別に奪った。その一人、安元三井(やすもとみい)さん=当時(29)=は信州大医学部六年生で、医師になる夢を追っている最中だった。オウム真理教の常軌を逸した犯行動機に、遺族の心は事件から二十年がたっても慰められることはない。
安元さんは長野県松本市内のマンション四階の自室で一人、英文を翻訳していた。信州では珍しく夜十時を過ぎても気温二〇度を超え、湿度90%はあった。窓を開けていたことが悲劇を招いた。
「オウムはまったく関係ない三井を殺した。誰でもいいという感覚で」。開業医の父、三郎さん(79)=富山市=は割り切れない思いを抱え続ける。
自慢の娘だった。多忙な父を見ていたためか「医者の生活がそんなにいいと思わない」と早稲田大政経学部に進学したが、思い直して卒業してから信州大医学部に入った。
母親の雅子さん(77)が振り返る。「主人はすごく喜びました。自分の仕事を三井が認めてくれたって」。高校を出たばかりの同級生とは年齢が離れていたが「みいさん、みいさん」と慕われた。早大では旅行サークルで世界を飛び回って、英語も得意。臨床実習の報告をすべて英語で行い、教授を驚かせたことが語り草になったほどだ。
医学部六年の最終学年を迎えていた。「精神科かな、と言っていたな。内科がいいと勧めたが、三井は守備範囲が広くてとてもできんとか言っていた」と三郎さん。
事件がなければ、どんな医師になっていただろう。生きていれば四十九歳。同級生の松本康史医師(48)=仙台市=は「ゆっくり人の話を聞ける人でした。精神科なので、患者さんに安心感を与えられる医者になっていたのでは」と惜しむ。
事件から九カ月後、オウム真理教は東京の地下鉄でサリンを撒(ま)き、十三人を無差別に殺害。松本では初め謎だったサリンの発生源はオウムに直結し、事件から一年一カ月を経て教団代表麻原彰晃死刑囚(59)=本名・松本智津夫=らの再逮捕につながった。
安元さんら松本サリン事件の四遺族は、刑事裁判に先立ち、教団を相手に民事訴訟を起こした。
「麻原をひっぱたくとか何かしてやりたいけど、できない。敵(かたき)を討ちたかった」と雅子さん。この事件はいったい何なのか。「全容を分かりたいがための裁判でもあった」
証拠集めなどに苦労した末に勝訴し、刑事裁判も麻原死刑囚ら教団幹部十三人の死刑が確定。主だった裁判が終わったが、「結局、復讐(ふくしゅう)にはならなかった」と雅子さんの心の穴はふさがらない。「本当は死にたかったんです。三井の後を追って…」
傍聴した法廷で見た麻原死刑囚は「おぞましい」という記憶しかない。証言台で雄弁な実行犯も、自分に都合の悪いことは言おうとしない。教祖は意味不明の言葉をつぶやき、笑い、居眠りする。二十年たっても、言葉が出ないほどに怒りを覚える。
公安調査庁の観察によると、アレフと名称を変えた教団は今も、そんな教祖を信奉するという。いずれ刑は執行されるだろうが、そのときまでに、と三郎さんは願う。「悔い改めてほしい。悔い改めてから、死んでほしい」
松本サリン事件から、二十七日で二十年になる。反社会的な教義を極めていったオウム真理教による無差別テロだったが、捜査は難航し、九カ月後には東京都心で再びサリンを使った凶行が繰り返された。狂気に気付くチャンスは何度もあったのに、社会は教団の暴走を許した。カルトの恐怖は決して昔話ではない。
<松本サリン事件>
1994年6月27日深夜、オウム真理教ナンバー2の村井秀夫幹部=翌年刺され死亡=ら信者7人が、松本市の住宅街でサリンを散布、近所の住民8人を殺害した。
サリンはナチス・ドイツが開発した化学兵器。麻原死刑囚が「東京に大量のサリンを撒いて国家権力を倒し、オウム国家を建設するため」と部下に製造させた。松本に散布したのは実際に効くかどうかを試すため。当時教団の民事訴訟を担当していた長野地裁松本支部の官舎が標的だった。
この事件を含め、麻原死刑囚が起訴された地下鉄サリン事件、坂本弁護士殺害事件など13事件で計29人が死亡、6000人以上が負傷。10年にわたる裁判で、麻原死刑囚が事件の真相を語ることはなかった。
<消えない狂気の記憶>(2) あの時説得できてたら
中日新聞2014/6/23 朝刊
松本サリン事件が起きる三年前の一九九一年夏。オウム真理教を脱会した元信者が、茨城県内の秘密の建物に監禁状態にした青年に向かい、脱会するよう説得を続けていた。一カ月に及ぶ説得にまるで聞く耳を持たず、青年は自ら教団に逃げ帰った。
この青年こそ後に教団の化学班キャップとして大量殺人兵器の毒ガス「サリン」を作った土谷正実(つちやまさみ)死刑囚(49)。そして説得していた元信者は永岡辰哉さん(45)。オウム真理教被害対策弁護団とともに「脱会カウンセリング」に当たっていた永岡さんは、今も悔やみきれないという。
「あの時に説得できていたら。サリンはできず、松本や東京の事件はなかったかもしれない。六千人の被害者が出ることはなかったと思うと…」
土谷死刑囚は筑波大大学院化学研究科にいた八九年に入信。二年後に家族が教団から連れ出した時には、すっかり洗脳されていた。
「オウムは論理的に破綻してますよね」。茨城で説得に使っていた十畳ほどの部屋にはベッドが一つ。永岡さんは床に座り、ベッドの上であぐらをかく土谷死刑囚を見上げ、ひたすら教義の矛盾を説いた。
教団代表だった麻原彰晃死刑囚(59)=本名・松本智津夫=に目をかけてもらっているとの自負が強い土谷死刑囚は、「おまえたちから学ぶことはない」とさげすむように言い放つばかり。教団は土谷死刑囚を取り戻そうと人身保護を裁判所に請求。裁判手続きのため家族が東京都内へ連れて行ったところで、土谷死刑囚は隙をついて逃げた。
教団に戻った翌年、麻原死刑囚の指示で土谷死刑囚は化学班に入り、サリン生成にまい進した。
元信者の永岡さんは、大学キャンパスで入信勧誘をしてきたことの「罪滅ぼし」の気持ちもあり、脱会カウンセリングに携わった。約三十人を脱会させることができたが、教団を信じて疑わない信者や、わが子を取り戻そうと必死な家族の姿に、かつての自分を重ね合わせていた。
オウムを知ったのは八七年、都内の大学一年生のときだった。たまたま書店で手にした教団の本で、神秘的な体験談や、チベット仏教の指導者と麻原死刑囚が肩を並べる写真を見て、「面白そう」と軽い気持ちで入信した。
修行で白銀の光が見える体験をして、のめり込んだ。出家して道場で生活していた九〇年一月、原因不明の記憶喪失になった。今思えば幸運だった。記憶のないまま意味不明な選挙運動などの「修行生活」にはついていけず、幼少から高校ごろまでの記憶が戻ってきたときに父親に電話。家に帰ることができた。
静養するうちに信仰の記憶がよみがえり、教団に戻ろうかと迷った。そこで立ちはだかったのが、「被害者の会」を組織して教団と戦い始めていた父親だった。
「僕の心を取り戻してくれたのは父。教団にあのままいたら、自分も今は死刑囚になっていたかもしれない」。あのときは「被害者」の一人として救出し損ねた土谷死刑囚のように…。
<信者家族とオウム真理教>
オウムは設立3年目の1986年、現世における一切の関わりを断って代表の麻原死刑囚に心身を委ねる「出家制度」をつくった。家族との連絡を絶った信者らに麻原死刑囚は「本当の親は私」と説き、教団の結束を高めていった。
わが子と連絡が取れなくなった家族らは89年10月、「被害者の会(現家族の会)」を設立。オウム問題に取り組む坂本堤弁護士に相談、情報交換するなどして会員は100家族を超えた。勢いづく活動に、教団は翌月、坂本弁護士一家を秘密裏に殺害した。弁護士有志でつくる被害対策弁護団はその後も家族側を支援。被害者の会とオウムは、信者の出家、脱会をめぐって激しい攻防を繰り広げた。 *リンクは来栖
<消えない狂気の記憶>(3) 終わらない家族の戦い
中日新聞 2014/6/24 朝刊
息子をオウム真理教から脱会させた永岡弘行さん(76)は、猛毒ガスの「VX」でオウムに殺されかけた後遺症で手を震わせながらも、今なお得体(えたい)の知れない教団相手に戦う姿勢を崩さない。松本サリンなど凶悪事件の記憶は遠くなりつつあるが、「まだまだ悩んでいる家族がいる」と語る。
息子の辰哉さん(45)を取り戻そうと一九八九年に他の信者家族とつくった「オウム真理教被害者の会」はその後、教団が無差別テロを犯してから「自分たちが被害者と名乗るのはおこがましい」と「家族の会」に名前を変えた。いまだに家族のもとに帰らない信者は多い。
オウムから改称した「アレフ」や「ひかりの輪」の新たな入信勧誘の動きに対抗して、家族の会は今年四月、インターネット上に初めてホームページをつくった。埋もれたトラブルや信者家族の掘り起こしを目指す。
早速二件の相談が寄せられた。弘行さんは「お年寄りが入信させられているんです。年金があるから」と、弱者に付け込んでくる手口に怒りを新たにする。
七十余の会員家族が今も現役信者の子を抱える。会員男性(62)の三十代の娘は中学三年で入信し、完全には信仰を捨てていない。精神状態に波があって今も説法のCDを聴くときがあるが、精神科のカウンセリングが効き目をみせ、穏やかに家族と会話を交わせる日も増えてきた。
男性は「ここまで粘り強く娘と向き合ってこられたのは、会のアドバイスのおかげ」と話す。
息子を奪還してから二十年以上も会を引っ張り続けるわけを、弘行さんは「大人の責任」と説明する。「辰哉が入信した理由の一つは父親である私だった」
家庭より仕事を優先し、厳しく叱るばかり。辰哉さんも「父には力でも理屈でも勝てない。僕は病気がちで体力もなく、それで超能力とか神秘的なものに興味が向いた」と振り返る。
出家後、原因不明の記憶喪失になった辰哉さんは九〇年一月、家に戻ってきた。しかし回復して信仰の記憶を取り戻して心が揺れだした時、父親は粘り強い対話を心がけた。
信仰の根底に、チベット仏教の指導者ダライ・ラマ十四世が、麻原彰晃死刑囚(59)を「最終解脱者」と認めたという“事実”があると分かった。すぐに息子を連れてインドへ飛んだ。
ダライ・ラマの側近はその“事実”を完全否定。オウムが宣伝に使うダライ・ラマと麻原死刑囚が肩を並べる写真も、高額な寄付金のお礼代わりと分かった。「自分はどんなにバカだったんだ」。辰哉さんははっきり悟った。
帰国から十日後、弘行さんはインドでつかんだウソの証拠を麻原死刑囚本人にぶつけた。家族の会などでも公表。一方の辰哉さんは、元信者の立場を生かして脱会カウンセリングの活動に打ち込んだ。
オウムの大きな脅威となった父子。松本サリン事件から七カ月後の一九九五年一月、教団はVXで弘行さんを襲撃。奇跡的に命を取り留めたが「警察は自殺だろうとか言って捜査もろくにしてくれなかった」と弘行さんは警察不信を今もぬぐえない。
<オウム真理教のだましの手口>
麻原死刑囚がダライ・ラマと並んだ写真のほか、座禅を組んだ信者が空に浮いているかのような写真が、オウムの出版物にたびたび載った。修行によって「空中浮揚」できるようになると宣伝していたが、被害対策弁護団の滝本太郎弁護士は自ら座禅を組んだまま跳躍した一瞬を撮影した写真を公表。空中浮揚はウソだと訴えた。
オウムには「イニシエーション」と呼ばれる儀式があり、信者は麻原死刑囚や幹部からグラスを手渡されて、液体を飲み干す。幻覚症状などが起き、教祖の力で神秘体験したと思わせていた。教団内でLSDなどの幻覚剤や、覚せい剤を密造していたことが後の捜査で分かり、こうした薬物が儀式に使われていた。
<消えない狂気の記憶>(4) 報道は暴走見過ごした
中日新聞 2014/6/25 朝刊
松本サリン事件から九カ月たった一九九五年三月二十日。第一通報者の河野義行さん(64)は、長野県松本市内の弁護士事務所で多くの記者に囲まれていた。
自分を犯人視した誤報を取り消すようマスコミに要請してきたが、一向に改善されないため、まず新聞社一紙を提訴したのだった。
取材に応じていたその場で、新聞、テレビの記者を呼び出すポケベルが一斉に鳴りだした。東京で地下鉄サリン事件が起きたことの連絡で、記者たちは河野さんの取材もそこそこに引き揚げていった。
「私たちの訴えはかすんでしまい、置き去りにされた変な感じだった」。河野さんを支えた永田恒治弁護士(77)は振り返る。後に中日新聞を含めた報道各社が謝罪することになるが、「河野さんの事件」だった松本サリン事件がようやくオウムの仕業だと扱われ始める瞬間だった。
警察は実は、山梨県のオウム真理教の施設周辺の土壌から、松本サリン事件と同じ毒ガス「サリン」の副生成物を検出し、九四年十一月ごろからオウムに対する内偵捜査を進めていた。
三月二十二日は警察がオウムの施設を一斉に強制捜査するXデーに定めていて、オウムはそれを察知して捜査かく乱のため地下鉄サリン事件を起こしたとされる。捜査当局と、警察内にスパイ信者もいたオウムの水面下の攻防があった。
オウムの嫌疑を警視庁などの事件記者は知っていたが、強制捜査の前には証拠もなく、松本サリンとオウムを関連づけて報じるマスコミはほとんどなかった。
すべて後で分かることだが、オウムは八九年十一月に坂本堤弁護士=当時(33)=一家三人を殺害。九四年五月に被害対策弁護団の滝本太郎弁護士をサリンで襲撃し、六月に松本サリン事件、九五年一月に「被害者の会」の会長を毒ガス「VX」で襲撃していた。
教団施設と近隣住民のトラブルを取り上げる報道は一部であったが、真の凶悪性は見過ごされ、オウム幹部たちはテレビ番組に頻繁に出演し、お茶の間に知られた顔となっていた。
河野さんの冤罪報道を検証し続けるテレビ信州(長野市)の倉田治夫専務は、宗教団体を扱う難しさを指摘する。「電波法、放送法の下にあるテレビ局は特に、憲法の保障する信教の自由を尊重しなければならない。信者と家族のトラブルだと扱うのが難しい。明確な刑事事件にならないと、問題を取り上げにくい」
オウムの異常さに気付いていた信者家族は、早くからマスコミに救いを求めて働き掛けていたが、一部週刊誌を除いてまともに取り上げる社はなかった。
「新聞はオウムを放置していました」。坂本弁護士にオウム問題を相談したジャーナリストの江川紹子さん(55)の批判は厳しい。
オウム問題に立ち上がってくれた坂本弁護士が妻子ともども姿を消し、江川さんらは警察、新聞にオウムの関与を訴えたが、真剣な反応はなかったという。
「警察が動かないと新聞は書かない。なぜ警察は捜査しないのかという記事もなかった」と江川さん。当時のオウムを取り巻く社会の甘さをこう語る。「オウムの実態を訴えるイベントを開いても話を聞いてもらえない。変わった教団には、関わり合いになりたくないという感じだった」
<テレビを利用したオウム>
坂本弁護士が失踪した89年ごろから、オウムの問題を報じるテレビのワイドショー番組に、反論するオウム幹部が長時間出演するようになった。
90年の総選挙に麻原彰晃死刑囚と信者24人が出馬して惨敗したが、奇妙な運動ぶりが評判になった。以降、疑惑報道は減り、麻原死刑囚ら幹部のテレビ出演が増えた。「話題の宗教家」として麻原死刑囚が人気の討論番組や、バラエティー番組の人生相談コーナーなどに登場。タレントらと親しく対話するところを見せつけた。 *リンクは来栖
<消えない狂気の記憶>(5) カルトに潜む危険意識
中日新聞 2014/6/27 朝刊
「転換期に入ってませんか。お顔が気になります」
東京郊外の私鉄駅前で、三十代くらいの女に声を掛けられ、その場で手相を見られた。「もっと詳しく見たい」。勧められるまま事務所へ通うようになり、先祖や家系を学ぶセミナーに参加。そのうち「先祖供養に十二万円必要」と言われるようになって−。
狂信的な「カルト宗教」問題に取り組むジャーナリスト鈴木エイトさんに、メールで寄せられた女性からの相談だ。いろいろな団体との、さまざまなトラブルの相談が寄せられる。
街頭や大学のキャンパスで、教団の多くは正体を隠して入信を勧誘する。かつてのオウム真理教も、他団体の活動をまね、大学内に入り込んでいった。
これら活動に共通するのは「親切ないい人」がやっている、ということ。鈴木さんは指摘する。「勧誘する人に悪意はまるでない。救ってあげたいという気持ち。カルトの恐ろしさは善意で悪を働くことです」
学生時代に勧誘に関わった近畿在住の男性(39)も「自分が知った真実の教えを、多くの人に教えたい。すごく純粋な気持ちでした」と振り返る。「ウソをついて勧誘しても、その人のためになると考えていた。オウムのように、人を殺すことさえ正当化する考えに似ている。宗教的な信念が社会規範より優先するのです」と既に脱会した仏教系の教団を総括した。
世界終末戦争(ハルマゲドン)を教祖の預言通り実現しようとしたオウムが破綻した後も、さまざまな新興宗教が自分たちの教えを広めようと活発だ。
日本脱カルト協会代表理事の西田公昭・立正大教授が二年前に行ったアンケートによれば、全国十一大学の学生二千四百人の16%が、不審な団体から怪しい勧誘を受けていた。教授はその数字以上に学生の警戒心のなさを心配する。「カルトが危ないって言うけど、話してみたらいい人だった、などと危機意識がない」
インターネット上で「やや日刊カルト新聞」というサイトを運営するジャーナリスト藤倉善郎さん(39)はトラブルの多い団体を取材し、若者たちにカルト的な実態を知らせる。
「まじめだけでは見てもらえない。おもしろく」が編集方針。入信体験したり、奇抜なユニホームで宗教団体の講演会に乗り込んだり。教義や行動の「異常さ」「ばかばかしさ」を浮かび上がらせる。
「宗教はタブー」と目をつむること。それこそが凶悪犯罪をオウムというカルト教団に許した原因だと藤倉さんは考えている。
「人の見ていない閉鎖空間こそカルトの温床」が藤倉さんの持論。「差し当たりサリンを撒(ま)きそうな団体はない」とみるが、油断はしていない。「世間が見ていない、犯罪もばれなければメディアに報じられないとなると、オウムのようにエスカレートする。防ぐには、世間は見ているぞと意識させるしかない」
松本サリンの五年も前に起きた弁護士一家殺害事件など、オウムの狂気に気付く機会はいくつかあったが社会は見過ごしてきた。教団はその間に勢力を拡大し、武装化を進めていった。この反省を「昔話」にしてはならない。
=おわり(連載は長野支局・小西数紀、松本支局・勝股大輝、北村希、林修史が担当しました)
<カルト>
祭祀(さいし)、儀礼を意味するラテン語に由来する英語。「狂信的な崇拝」の意味で使われる。オウム真理教のように反社会的な団体を「カルト宗教」と呼ぶが、その呼称に明確な定義はない。ジャーナリストの藤倉さんは、定義をつくるよりも「予防的な意味」で幅広く怪しい宗教団体を取材対象にする。(1)一人の教祖・代表を絶対視する(2)信者の心を支配して反社会的行為をさせる(3)高額な寄付を強要する(4)「地獄に落ちる」などと脅して容易に脱会させない−をカルト的な教団の特徴とみている。
◎上記事の著作権は[中日新聞プラス]に帰属します
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