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「人はなにを求めているのか」阿満利麿 / 互いに関連しあって世の中というものができている…松原泰道さん

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人はなにをもとめているのか[上]
 「むなしい」はなんのサイン? 「ほんとうの道」が欲しい 阿満利麿(あま としまろ)
 中日新聞2014/7/11 Fri. 朝刊(人生のページ)
 あるとき、定年を迎えたサラリーマンのなげきを紹介する新聞記事を目にした。彼は、定年後しばらくは「毎日が日曜日だ」と自由な時間を手にしたことを喜び、かねて希望していた海外旅行やゴルフに日々を送っていた。だが、5年ほど経過したとき、「やりたいことは全部やってみたが、なにかむなしい、これでいいのだろうか」と妻に訴えたという。
 私が注目したのは、「やりたいことは全部やってみたが、なにかむなしい、これでいいのだろうか」というせりふであった。私もくりかえし、つぶやいてみた。すると、どういうわけか、宮沢賢治の「学者アラムハラドの見た着物」という未完の短編が思い出されたのである。
         *
 短編の舞台は、シルクロードの古代王国を思わせるところで、アラムハラドという学者が王国の有力者の子弟たちを教育している、という筋書きだ。そのなかで、アラムハラドは子供たちに、およそつぎのように問いかける。
 火は熱く、ものを乾燥させる力があり、水は冷たく湿らせるといったように、ものには定まった性質があると説明した後で、「小鳥が啼かないでいられず、魚が泳がないでいられないように、人はどういうことがしないでいられないだろう。人がなんとしてもそうしないでいられないことは一体どういうことだろう。考えてごらん」と。
 1人の子供は、「歩いたりものを言ったりすることです」と答える。またある子供は、「歩くことより、ものを言うことより人がしないでおられないことは、いゝことです」と答えた。
 すると別の子供が、「人はほんとうのいゝことがなんであるかを考えないでいられないと思います」と答える。
 そこでアラムハラドは、その子供をほめて、「うん。そうだ。人はまことを求める・・・ほんとうの道を求めるのだ・・・それが人の性質だ」と教える。
          *
 なぜ、もとサラリーマンの「なにかむなしい」という言葉から、この短編を思い出したのか。
 それは、短編の言葉を借りていえば、「ほんとうの道を求めたい」という切迫した気持ちが「なにかむなしい」という言葉を言わせたのではないか、と思われたからだ。
 たしかに、もとサラリーマンの「なにかむなしい」という言葉は、気ままで自由な時間があり、経済的にも恵まれた暮らしのなかで生まれた、いわば贅沢ななげきでしかないのかもしれない。あるいは、私たちが普段の暮らしのなかでしばしば口にする、「人生には深刻に考えねばならないような意味なんてないさ」という、自嘲とも傲慢ともつかぬ言葉の変種にすぎないのかもしれない。
 だが賢治が指摘している、「ほんとうの道を求める」気持ちはすべての人にそなわっているはずだという立場からいうと、いら立ちや不安が生まれてくるのは、肝心の「ほんとうの道」がはっきりと分からないからであろう。そのいら立ちや不安こそが、一見「ニヒル」に見える言葉を吐かせているのではないか。
 いいかえれば、「むなしい」という言葉は、実際は、「ほんとうの生き方」を手にしたいという気持ちを示すサインなのだ。こうしたサインは簡単に見過ごしてはならないはずなのだが、私たちはそれに気付かないことも多い。
 現にこの記事によると、もとサラリーマンは、共働きの妻から、そんなことなら私のお弁当を作ってよ、といわれて、朝早くから弁当作りを始め、目下はそれに生きがいを感じているということであった。だが、きっとまた「なにかむなしい」と訴えるにいがいない。「ほんとうの道」を求める気持ちは、本人が意識している以上に強く、また切迫しているのだから。
          *
 それにしても「ほんとうの道」とはどんな生き方をいうのであろうか。もとサラリーマンの言葉から推測できるのは、当面の欲望を満たすことで得られるものでないことだけは確かだ。そのヒントは賢治の短編の後半にある。
<筆者プロフィール>
 あま・としまろ
 1939年、京都市生まれ。京都大学教育学部卒。NHKチーフディレクターを経て明治学院大教授。現在、同大名誉教授。「連続無窮の会」同人。著書は『行動する仏教』『宗教の深層』(ちくま学芸文庫)『親鸞』『法然入門』(ちくま新書)など多数。

人はなにをもとめているのか[中]
 世界は相互依存の関係 人のために生きる 阿満利麿(あま としまろ)
 中日新聞2014/7/18 Fri. 朝刊(人生のページ)
 人が人であるのは、「ほんとうの道」を求めるからだ、というのが宮沢賢治の結論である。では、「ほんとうの道」とはなにか。それを記すのが「学者アラムハラドの見た着物」の後半である。
        *
 アラムハラドが子供たちをつれて、林へ遠足に出かけたときのこと。子供たちがナツメの木を見つけて、その実をほしがるが、高すぎて採れない。そのとき、アブラハラドはつぎのような話を子供たちに聞かせた。
 昔ある王がいた。彼は人から乞われれば、なんでも施す人であった。ただその与え方が尋常ではなく、ついに国の宝である白象までも与えてしまった。国家の行方を心配した家臣や人民は、王を追放することにした。追放された王とその家族が深い山中をさまよっていると、飢えた子供が樹上になる木の実を見つけた。しかし、高すぎて手に入らず子供は、なげくばかり。すると、樹木が実のついた枝を自ら垂らしてして、子供たちに与えた。
 ここまで話したアブラハドは、奇跡に見えることも、王が日ごろから、施しを大切にしてきた結果だ、と子供たちに教えた。
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 王の行為は、「布施」とよばれる。「布施」は、今の日本では、僧侶に対する謝礼を意味するが、本来は、仏教徒にとって最も重要な行為なのである。その理由は、私の見るところ二つある。
 1つは、困っている人の苦しみを軽減するために、自分の財産や能力をさしだす場合だ。このとき、しばしば、「布施」をする人は、その結果(「利益」や「功徳」)を期待しがちだ。 
 だが、仏教が「布施」を強調するのは、「功徳」や「利益」のすすめにあるだけではない。世界の一切が、複雑極まりない関係のなかにあり、すべては相互依存をしながら存在している、という事実を教えるため、なのである。
 だからこそ、アラムハラドは、王の「布施」が深山の木々にまで及んでいるという例を持ち出したのである。それは、いかにもおとぎ話に見えるが、単なるおとぎ話なのではない。「布施」という行が成立するのは、すべての存在が、濃淡は別にして、つながりあっているからである。そうでなければ、「布施」は独り相撲に終わってしまう。
 それにしても、世間では、人生はなによりも自分のためにあるのであり、「自己実現」こそが人生の目的だ、と考えられがちだ。だが、それは、相互依存の関係という事実を無視した、エゴの妄想でしかないのではないか。
 相互依存の関係を巨大な網に例えると、「私」はその網の一つの結び目でしかない。そうと分かれば自分という一つの網目だけの突出をはかるよりも、互いに網目の関係にあることを認めて助け合って生きる方が、自然な生き方であることが了解されてくるであろう。自分のためではなく、「人のために」生きることが、人の「ほんとうの生き方になるのである。
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 「布施」の2つ目の意義は、自分がどのような人間であるかが分かる点にある。人は、他人のことはよく分かるが自分のことはよく分からない。それは、ふくれあがったエゴのせいだ。エゴはいつも、自分が一番エライと考えている。だから、どんなに内省してみても、自分の本当の姿を知ることはできない。
 だから、仏教では「布施」を教えるのである。日ごろ立派な発言をしている人でも、あるいは、財物に困っていない人でも、いざ困っている人に施すとなると、途端にケチになるものだ。自分の器量を知るためには、人に施しをするのが一番近道なのである。(中略)
 前回紹介した、もとサラリーマンの感じた「むなしさ」は、自分のためばかりに生きようとして、「人のために」という契機が欠けていたところから生じてきたのであろう。

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