なぜ人を殺してはいけないのか 小浜逸郎(批評家、国士舘大学客員教授)
PHP Biz Online 衆知 2014年08月12日 公開 《PHP文庫『なぜ人を殺してはいけないのか』より》
この本では、次のような倫理にかかわる10個の難問を設定している。
第1問 人は何のために生きるのか
第2問 自殺は許されない行為か
第3問 「私」とは何か、「自分」とは何か
第4問 人を愛するとはどういうことか
第5問 不倫は許されない行為か
第6問 売春(買春)は悪か
第7問 他人に迷惑をかけなければ何をやってもよいのか
第8問 なぜ人を殺してはいけないのか
第9問 死刑は廃止すべきか
第10問 国民は主権を持つのか
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ここで扱われた問いは、時代状況的な要請を受けているため一定の具体的な枠組みに制約されてはいるが、少し吟味してみれば、すべて人間の生き方の根幹に触れるものばかりであることが納得されよう。ところがこれらの倫理学的な問いは、何かの事件や社会現象が浮上するたびに人々の頭に宿り、そのつど「話題」に上りはするものの、表層のスピードに流されたままいつの間にかそっぽを向かれ、徹底的に突き詰められたためしがない。しかし私たちは、それらが「永遠の課題」であるからという理由で、いつまでも棚上げにして済ませているわけにはいかないのである。「永遠の課題」をまさに現在の生きた具体的状況との接点において引き受け考え抜くこと、それがこの本で私が自分に課したことである。
(「はじめに」より抜粋))
なぜ人を殺してはいけないのか
*一見、大人をギクリとさせる問い
この問いは、以前、オウム真理教事件や少年の小学生殺害事件などをきっかけにしてわき起こった議論の空気のなかで、ある若者が公開の場で何気なく発し、その場に居合わせた知識人がうまく答えられなかったことで有名になった。一見、大人をギクリとさせる、ある意味でたいへん気のきいた問いであると言えるかもしれない。そのためか、知的ジャーナリズムで一時もてはやされ、雑誌が特集を組んだりもした。誠実に子どもや若者に向き合おうと思っているまじめな人ほど、この種の問いに心を揺さぶられやすい。親や教師は、子どもに訊かれたら、何と答えればよいのか──こうした不安心理に乗じて、この問いは若者の間でよりも、むしろ大人たちの間で一種のブームになったと言ってよい。
個人的な感想になるが、私はあまり愉快な気持ちがしなかった。この問いそれ自体に対してではなく、この問い(倫理の根幹に触れる問い)が、よくよく考えられた末に提出されたわけでもないのに、安易な流行現象になったことに対してである。
いっとき人は新しいゲームやおもちゃに夢中になるように、この種のことをもてあそぶ。問いがあどけない見かけを持っていればいるほど、妙に「子どもや若者の真剣な問い」と買いかぶって、過剰に「答える責任」を引き受けようとする。そして、文学者、心理学者、哲学や社会学の大学教授、精神科医など、いろいろな人がもっともらしいこと、気のきいたこと、ひとひねりひねったことを言ってみて、最終的な答えなど見つからないままに、そのうち立ち消えになる。それは、社会現象をめぐるすべての言論ブーム現象と同じ経過である。私はひそかにそう思っていた。そしてそのとおりになった。
あとからきて、意地の悪い憎まれ口をたたいているだけのように聞こえるかもしれない。たしかに私自身も、この場合のようにいきなり意表を突く形で問われたら、うまく答えられずにうろたえた可能性がある。しかし、私がいっときの「倫理問答ブーム」に対する不愉快な気持ち、皮肉な気持ちを今ここでわざわざ表白するのは、普通に平和な秩序に支えられて生きている大多数の人にとって、こんな問いを突き付けられてうろたえ、確かな答えを見出だそうと真剣に思い詰める必要などないと思うからである。必要もないのにそんなことにあえて精を出せば、それは必然的にただの議論ゲームや言葉遊びとなる。
こういう問いを切実に必要としている人は限られている。本当に人を殺してしまったか、未遂ではあったものの、深刻な殺意を抱いたことがあって、そのことを内在的に問うようなモチーフを持った人、倫理的な問いや哲学的な問いに深くつかまってしまう傾向を持ち、その問いにどこまでもくらいつくに十分な心構えと思考力を持った人、などである。
私には、この問いを発した若者自身や、それを持ち上げ支えた周囲の若者たちが、これらの動機を持っているとは考えられなかったし、またその問いに対して自力で答えをひねり出そうとするだけの気力の持ち主であるとも思えなかった。おそらくただ、倫理規範が揺らいでいるという時代の気分に後押しされて、ナイーブに、または大人を軽く挑発する意図から、ふとこんな問いを出してみた、といったところが真相だろう。
だから私は、この話を聞いた時、逆に、若者に2つのことを問い質してみたかった。
(1)君は、本当に君自身の切実な必要からその問いを絞り出しているのか。だとすればそれはどんな必要か。君はどんな経験的な契機や精神的な契機からその問いにぶつかったのか。それを聞いたうえで、それに応じた答えを考えることにしよう。
(2)君は、その問いを発した者として、倫理や道徳の起源と系譜について真剣に考え続けていくだけの心の用意があるか。もし本当にあるなら私と一緒に考えていくことにしよう。
事実この問いは、本気で発せられたのなら、こうした問い質しを行って、きちんと考えていくための共通了解を持つ必要のある問いである。だがそれが持てないのなら、初めからこんな問いを出すのはやめたほうがいい。人は普通、別にこんな問いを突き詰めなくても、ある共同体の中に「汝、殺すべからず」という掟が実質的に機能していさえすれば、その共同体の成員として掟を守ることで十分に生きていけるのである。現在の私たちの社会の内部でも──たとえ多くの人の意識にこの疑問が浮かぶことがあるとはいえ──もし殺人が行われれば、その善し悪しなどを問うこと以前に、無条件で「法の正義」が機能し始めるのである。警察官や検察官や裁判官で、実際の殺人を扱う時に、「なぜ人を殺してはならないのだろう」などと悩んで、自分の職務を遂行することを躊躇する人などはいない。
だが次のように心配する向きもあるだろう──子どもは何気なく素朴な気持ちからこの種の問いを発することがある。そうした場合、いちいち質問者にしかつめらしい哲学的な心構えなど強要するわけにはいかない。実際に子どもに聞かれたらとっさに何と答えればよいのか……。
子どもの年齢、質問の発せられた場や前後の文脈にもよるだろうが、一般的には、「それは大事なきまりとなっているからで、このきまりを破ってもいいことになるとみんなが互いに殺し合いをするようになりかねず、そうすると社会が目茶苦茶になってしまうからだ」と当たり前に答えておけば十分である。実際、ただこの問いに真正面から答えようとするなら、後にも述べるように、これ以上適切な答えはありえない。
*一見いい答えに見えながら不十分な答えの例
「なぜ人を殺してはいけないのか」──この問いに対して当時出されたどの答え方も、本当には満足のいくものと思えなかった。一見いい答えになっているように見えながら、不十分と感じられる例を2・3、挙げて、どこが不十分なのかを検討してみよう。
●「君は殺されたくないだろう、また君の愛する人を殺されたら君は怒り悲しむだろう。だから君も人を殺してはいけないのだ」──しかし、自分が殺されたくなかったり、自分の愛する人を殺されたくないと思う気持ちと、自分の憎む人を殺したいと思う気持ちとは、現実には矛盾なく両立しうる。さらに言うなら、たとえば敵が襲ってきた場合のように、自分が殺されたくなかったり、愛する人を殺されたくないからこそ、人を殺さなくてはならない、殺したほうがよいという場合さえある。
なお、平和時をいいことに「自分は人を殺すよりは自分が殺されたほうがましだと思う人間だ」などと広言する人を時折見かけるが、想像力の欠落した、偽善的な物言いだと思う。人は一般に、殺意が何らかの意味によって支持されていて、相手に対して特別の思い入れを持たず、しかも殺すか殺されるかどちらかを選ばなくてはならない時には、殺されるよりは殺すほうを選ぶものだと思う。このことは、むしろ当然と言える。無理心中などでも、相手を殺して、自分が死にきれずに自首するなどという例が多い。
●「人を殺すと、それまで作ってきた自分が壊れるからだ」──この答えは、「自分」を特定の関係に深く根拠づけられている存在と考える限りでは、論理的に正しい。しかし必ずそうなるとは言い切れないのであって、「自分」を構成している関係とは無縁な他者を殺害する場合には通用しない。「自分」を壊さずに人を殺せる人はけっこういるのである。この答えは、人間全体を性善説でとらえすぎている傾向があって、実際に人を殺したら「自分」が本質的に壊れてしまうような歓迎すべき良心の持ち主に対してしか効力を持たない。どんな状況下でも人を殺してはならないという道徳心が、その人の「自分」を構成する無意識の大きな要素となっている人に対しては、この答えは、「なるほどそうだ」という納得をもたらすかもしれない。しかし、親鸞が見抜いたとおり、「わが心のよくて殺さぬにはあらず」、人はある状況下では、「自分」など壊さずに人を殺すことがありうる。
もちろん多くの場合において、後味の悪さを深く引きずるだろうが、それとても環境条件を変え、その中で生き続けてさえいれば、時間の経過とともに自然に感情が平らかになっていく。人間は浅ましいもので、初めの生々しい罪悪感をそっくりそのまま持続することは難しいのである。
このように考えてくると、「人を殺すと、それまで作ってきた自分が壊れるからだ」という答えからは、人間社会が殺人行為に「罰」を科してきた理由が導き出せないことがわかる。というのも、人を殺せば誰でも「自分」が自動的に壊れて、回復不能になるなら(つまり、殺人を犯した当人を、あれはああやって「自分」を壊してしまったのだと周りが認めるなら)、殺したことでその人は十分に罰を受けていることになり、外から改めて罰を科す必要はないからである。
もちろんドストエフスキー著『罪と罰』(新潮文庫)のラスコーリニコフのように、実際にやってみてしまった結果、それまで自分を作っていた誇りやプライドや信念が崩壊して、自分を救われるに値しない人間であると考えることは大いにありうる。それはそれで、取り返しのつかないことをした者がそうした運命を引き受けることとして深い文学的な意味がある。しかし、それは、やってしまったからこそ初めて生じた実存の状態である。殺人者が事後にある特有の実存的な状態に落ち込むからといって、そのことは、あらかじめ「だから人を殺してはならないのだ」と決める理由にはならない。事態はじつは逆であって、人々の中に「人を殺してはならない」という掟の観念が深く根を張っているからこそ、殺人を行ったときに多くの人が自己崩壊の状態を経験するのである。
●「むしろ、人は人を殺せないのである。迫ってくる他者の目の向こうに自分と同じ人間主体を認めるならば、そのことによってだけでも、殺意はひるむだろう。人が人を殺せるのは、相手を人間と思わない時に限るのだ」──この答えにも甘さがつきまとっている。というよりも、これでは、肝心の問いに少しも答えたことになっていない。
たしかに戦争における殺戮のように、「相手を人間と見なさない」ことは、殺人を容易にする。しかし怨恨殺のように、むしろ相手の「人間主体」を濃厚に感じ取るがゆえにこそ殺すことがいくらでもありうる。
またたとえこの説のとおり現実の殺人の多くが仮に「相手を人間と思っていないからこそできる」のだとしても、実際には現に「人間」を殺しているのであるから、そういう多くのケースについてこそ、「なぜ殺してはいけないのか」という倫理問題をかぶせる必要がある。人は本当は、人を「人間」としては殺せないはずだなどという希望的観測に逃げ込むならば、倫理とか掟といった「強制性」のある概念を人間がなぜ手にしているかが理解できなくなってしまう。
*なぜ不十分なのか
これらの答えは、それなりに当を得ているように見えながら、なぜ不十分なところを持つのか。それには2つの理由があると思う。
1つは、これらの答えがみな、疑問を持つ主体の「内面心理」の部分だけに狙いを定めて、そこから納得を引き出そうともくろんでいる点である。こういう答えの出し方には、相手に対してある暗黙の設定を共有することが期待されている。その設定とは、「もしあなたや私が人を殺す羽目になってしまったらあなたや私はどう感じるだろうか」という問いの範囲内でのみ答えを模索しようとしていることである。「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いの意味を、そのような心理的な枠組みの中に封じ込んでしまっている。だからこれらの答え方は、初めからそれぞれの人の「良心」に訴えているのである。この問答は、「良心」が問いかけ、「良心」が答え、それをまた「良心」が受け止めるという構造になっている。
ところが、この問いを本質的に考えるなら、それはそもそも「良心」のやり取りの範囲をはみ出す部分を持っていることに気づくはずである。つまり、この問いには、本当は「人間の世の中では、なぜ人を殺してはならないことになっているのか」という問いも、可能性として含まれている。もし問いのこの部分に着目すれば、この問いが倫理道徳の根拠や系譜そのものを問うているのに、問答としては、すでに倫理感情のできあがった人だけを期待してやり取りがなされている、その限界が見えたはずである。
もちろん私たちは常識的に、「汝、殺すべからず」という掟を承認し、それに伴う道徳的な理性や感情を共有している。無残な殺人が行われれば、自分に直接関係がなくても大なり小なり眉をしかめたり義憤を感じたりするであろう。これはたぶん、問いを出した若者自身とて同じだと思う。しかし、もしこの問いが、道徳的な理性や感情の根拠それ自体を問うていると見なされるなら、その共有されている理性や感情は、「括弧に入れられる」べきなのだ。言い換えると、互いの良心のありどころそのものの由来を問わないようなやり取りの構造をいったん壊すべきなのだ。
このことが、もう1つの理由と結びついている。上記のようないくつかの答えが不満に感じられる第2の理由は、それらが問いそのものを直接に引き受けてしまっているために、問い方に対して疑いを抱いていない点である。それはおそらく「何で人を殺しちゃいけないんですか」と聞かれた応答者がショックを感じたからである。応答者は、この問いに対して「いけないからいけないんだ!」とつっぱねずに誠実に答えるべきだと思ったにちがいない。しかし、それは一種の「善意」に金縛りになっていることを意味する。言い換えると、倫理の「当たり前」が、若い世代に当たり前として感じられていない事態にうろたえているのである。そのために、答える姿勢そのものが、「いけない」理由を一生懸命説教的にあれこれ考えて、思わず穿たれた穴を何とか埋めようという意識に固定されてしまっている。問いの形に拘束されているために、結局「いけない」ことそのものは疑われていないのである。
だがすでに述べたように、この問いはもともと、倫理そのものの根拠と系譜(なぜ人間は自らに掟を課すようになったか、どうして攻撃性の発揮のあとに罪悪の意識や良心のやましさを抱くようになったのか)を問題にしようとする傾向を、萌芽的に含んでいる。そのことをはっきりさせるためには、この問い方が一方で求めているような「説教」的な枠組みの外に出なくてはならない。この問いが持っているあいまいな二重性を捨てて、別の問い方に言い直したほうがいい。そこで、次のように問うのが適切である。
人はなぜ人を殺してはならないと決めるようになったのか。
このように言い直すことで、歴史上、人類が限りなく人を殺してきた冷厳な現実をそのものとして問いの中に繰り込み、その事実との相対的な関係において倫理の根拠と系譜とを考えるきっかけが生まれる。「なぜ人を殺してはならないのか」という問いの直接的な期待の部分にとどまる限りでは、現実に人が殺人を繰り返してきたこと自体をどう考えるのかという問題をはっきり俎上に載せることができないのである。
*なぜ人を殺してはならないと決めるようになったのか
人はなぜ人を殺してはならないと決めるようになったのか。
人は人を殺すのである。怒り、憎しみ、嫉妬などの個人感情の高揚や、金銭欲や、国家の命令や、正義の理念や、自己保身や、耐え難い圧力の排除や、権力抗争や、荒ぶる攻撃本能の発露そのもの、また、残酷な趣味、冷ややかな好奇心によってさえ。それらの現実が現実としてあることそのものは、「いけないこと」もヘチマもない。まずそう考えておかなくてはならない。
正当な殺人と許されない殺人とが初めからあったのではない。あったのは、さまざまに条件づけられたさまざまな殺人だけである。だがある理由から、人は、それらの殺人を「正当」なものと「許されない」ものとに腑分けするという着想を得た。何が人間をして、そのような着想に至らせたのだろうか。
それは、ひとことで言うなら、共同体の成員にとっての共通利害である。一共同体の成員にとって共通利害に適うと見なされることは、たとえ殺人であろうと「正当なもの」とされ、それどころか、たとえば他の部族との戦争のように、時によっては積極的に推奨されさえした。これに対して、その殺人が、共同体全体の実質的な、および象徴的な力を削ぐものと感じられた場合には、「許されないもの」とされたのである。
共同体は、その権威の永続性を自らに保証するために、個々のいかなる成員をも超越した観念的な権威、すなわち「神」や「祖霊」のような宗教的な表象を創造した。「正当なもの」と「許されないもの」との区別は、この共同体全体によって祭られた神の託宣をとおしてなされ、すべての成員は──とくに権威ある者、すなわち「神」により近い者は率先して──これに服さなければならなかった。ユダヤ教においてモーセが果たしたといわれる「ヤハウェとイスラエル人との契約」などは、その最も端的な例である。
「神」や「祖霊」などの宗教的な表象は、もともと個人の倫理的心情を支える存在として一人ひとりの内面に存在したのではなく、共同体の秩序と成員の日々の生活を守る柱として打ち立てられた集合的な表象である。それはいったん建てられると、聖なる権威として君臨し、各人は、この集合的な表象の権威との関係において、自らの行為の価値を測ったのである。かつて個人と共同体とは、私たちが今そうであるほど互いに独立していず、もっと融合しており、共同体の運命がそのままその成員の運命を左右した。
だから初めに純粋倫理とか、良心それ自体といったものがあったのではない。成員の心理として現実的だったのは、ある行為(たとえばある殺人)が、共同体の成員として適格な行為であるかどうか、それをなせば共同体全体の共通利害に反しないかどうか、聖なる権威を汚すがゆえに追放されてしまわないかどうかにかかわる「不安」であって、ある行為がそれ自体として「良心」という個人の心的な構築物に適うかどうかということではなかった。現に、古代の神話的記述、たとえばわが国の『古事記』(岩波書店「日本古典文学大系」)やキリスト教の聖書などは、いたるところ殺害の物語で満たされている。それらは、ただ神聖な事実の記録にすぎず、けっして良心に反する行為として銘記されているものではない。
このように、共同体の秩序を保とうとする意識こそが、人々の行為の結果のよしあしを決する鍵を握っていた。たとえば、「謀反」や「反逆」は、伝統的権威を打ち倒す行為であり、共同体の既成の秩序が信じられている限りにおいて、この不安を最もかき立てる行為であるから、禁を犯す勇気を最も必要とした。そしてそれが実際に諮られて失敗した時には、秩序を乱すものはこうなるとばかりに、見せしめのための残虐な刑が執行されたであろう。また成功して政権が移った時には、一時的に秩序が攪乱させられたことによる民衆の不安をなだめ、秩序が再建されたことを納得してもらうために、穢れを打ち払う大きな禊の儀式が必要とされたであろう。
また、私的な関係の葛藤から生ずる殺人は、無限の報復の可能性を生み、それは秩序の内的な混乱と、共同体全体の力の減衰に帰着する。そこで、それを防止する何らかの知恵が必要とされた。その知恵とは、超越者がこれを裁き、それによって、実行者がどんな罰に値するかを人々の意識にたたき込むことである。
以上のことからわかるのは、殺人などにかかわる「良心」とは、個人の心の中に先験的に存在したのではなく、共同体から見放される不安と、また実際に他の成員がなした秩序破りの経験とが人々の意識のうちに負の記憶として蓄積され、徐々にできあがっていった心の構えだということである。秩序の混乱や復讐の反復や権力者による見せしめの恐怖が、人々をして共同体全体の滅亡を予感させ、その恐怖に身をすくませる感覚が、やがて「むやみに殺人をなさないこと=よいこと」という倫理的な共通了解に発展していったのである。
ひとたびそうした共通了解が確立されると、それはあたかも初めから人間の心のうちに存在したプリンシプルであるかのように機能する。人は、いったん普遍性を獲得した原理の前では、その成立過程の痕跡を消そうとするからである。
このように考えなければ、人々が歴史上、共同体の承認が得られることが確実に思えるような条件下では進んで「殺人」をなし(たとえば戦争や、逆臣の粛清)、孤立や放逐や刑罰が予想されるような性格の「殺人」に限ってとくに「良心」の機能を強く働かせてきた理由が説明できない。いかなる「殺人」も無条件で悪と考える「良心」が初めから存在したのであれば、どんな英雄神話も成り立たないことになる。
*現実的な根拠を与えるために必要なこと
ところで、このように述べてくると、お前は道徳的な理性や感情の無根拠説あるいは外部原因説を説くことによって、現に成り立っている道徳原理を相対化してしまい、結局は、状況次第では人は殺人をしてもかまわないと言っていることになるのではないか、それは道徳の解体をもくろむニヒリズムではないのかと非難されるかもしれない。本当にそういうことになるかどうか、検討してみよう。
私は、「なぜ人を殺してはならないのか」という問いが表面上問いかけているその枠組みに拘束されている限りは、この問題の真に重要な部分にきちんと向き合えないと指摘した。それでは決定的な答えが見出だせないだけではなく、人類が現に大量の殺人を行ってきて、これからも行うであろう現実を正しく繰り込むことができないからである。そして、事実、この問い方に拘泥し続ける結果、なぜなのかについて答えることができず、むしろ「人を殺してはいけない」という掟の無根拠性があらわになる地点で話がストップしてしまうのだ。
この論理的な手詰まりの状況のほうこそ、ニヒリズムであることは明らかである。それを抜け出すには、まずいったん、この問いが掟の無根拠性をあらわにしてしまう事実を徹底的に認めなくてはならない。そして、そのうえで、無根拠のはずであるにもかかわらず、人はいかなる現実的な理由から、このような倫理を常に建てようとしているのかと問い直すことが必要になってくる。そこで私は、人は、自らその成員である共同体の共通利害を承認するところから、「人をむやみに殺さないほうがよいのではないか」と感じるようになり、その感覚をしだいに道徳的な理性や感情の形で根づかせてきたのだと考えた。
このように考えるなら、人間は実際には簡単に殺人をやめられないにもかかわらず、一方では、できればそれをやめようと努力し続けてきた現実的な理由を持つことになる。つまり、人を殺してはいけないという倫理がもともと絶対の根拠を持って存在するとか、将来そのような倫理が絶対的に確立されなければならぬとかいったように無理な想定をしなくても、「人は、なるべくなら人を殺すべきではない」という心構えを大多数の人が抱いている事実が、再び現実的な根拠を与えられる可能性が開けることになる。そうではないだろうか。
そこでさらに、この可能性がより現実的になるためには、何が必要かと問うことができる。この問いに答えることは、もはや、さほど難しいことではない。
私たちが、なるべくなら人を殺さないほうがよいと感じるかろうじての根拠は、私たち自身が共同体の一員として共有している利害に反する行為をすると共同体から排除されてしまうという「不安」や「恐れ」である。だとするなら、そのような不安と恐れが広く現実のものとなってしまうことがないようにするために、むやみに人を殺さなくても済む共同体のあり方とはどんなものかを模索していけばよいのである。
こうして、「人を殺してはならない」という倫理は、倫理それ自体として絶対の価値を持つと考えるのではなく、また、個人の内部に自らそう命じる絶対の根拠があると考えるのでもなく、ただ、共同社会の成員が相互に共存を図るためにこそ必要なのだという、平凡な結論に到達する。私はそれで十分だと考える。
私たちが生きている共同体とは、近代法治国家である。近代法治国家は、原則として神のような宗教的表象をその柱とせず(実際には多かれ少なかれ神的なものに依存しているが)、成文化された法と、人々の心の中に普遍的に存在すると考えられる道徳とを頼りにして成り立っている。しかし時代が爛熟すると、私たちの意識の中で、そういうものが強い力で私たちの生を拘束しているのだという実感が薄らいでくる。すると、法と道徳という社会の両輪がうまくはたらいていないように思えてくるのだ。「なぜ人を殺してはいけないのか」というような問いが一見リアリティを持って迫ってくるのも、そのあらわれである。
だが、現在の私たちの社会にいろいろガタがきていることは確かであるものの、肝心のところではまだ法は機能しているし、法を機能させるための動因である道徳も廃れきったというわけではなく、必要に応じて動いている。ただ時代が個人主義的な方向に変化しているために、既成の法観念や道徳観念をただ機械的に動員するだけでは、新しい現実を包括しきれなくなっているのだ。したがって私たちは、こうした問いを、新しい社会に適合する法観念や道徳観念がどんなものかについて考えるためのきっかけと見なせばよいのである。
<著者紹介>
小浜逸郎(こはま・いつお)
1947年、横浜市生まれ。横浜国立大学工学部卒業。批評家、国士舘大学客員教授。家族論、教育論、思想、哲学など幅広く批評活動を展開。また2001年より連続講座「人間学アカデミー」を主宰。著書に『「死刑」か「無期」かをあなたが決める「裁判員制度」を拒否せよ!』(大和書房)『人はなぜ死ななければならないのか』『人はなぜ働かなくてはならないのか』(以上、洋泉社新書y)『死にたくないが、生きたくもない。』『日本の七大思想家』(以上、幻冬舎新書)『大人問題』『子供問題』『男はどこにいるのか』(以上、ポット出版)『「弱者」とはだれか』『言葉はなぜ通じないのか』『やっぱり、人はわかりあえない(共著)』(以上、PHP新書)『人はひとりで生きていけるか』(PHP研究所)など。
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