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【70年目の夏 大戦の記憶】元軍人の方々はいずれも高齢になられており、その体験を…

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【編集日誌】危機感から始まった「大戦の記憶」
 産経ニュース 2014.8.10 09:09 
 9日付から、連載「70年目の夏 大戦の記憶」が始まりました。15日で終戦から70年目という節目を迎えるに当たり、戦地に赴いた元軍人や戦没者の家族らを記者が訪ね歩き、戦中、戦後の体験をうかがってまとめたものです。
 元軍人の方々はいずれも高齢になられており、その体験をきちんと記録できるのは、あと何年も残されていないかもしれない。この連載はそんな“危機感”から始まりました。
 戦地での激しい命のやりとり、夫を戦争で失った家族の厳しい生活…。取材した記者にはもちろん戦争の体験などありませんが、彼らが書いた記事には、いずれも生々しい体験が満ちています。
 この連載を、国のために戦った方々、そしてその家族の心に寄り添うきっかけにしていただければ幸いです。(社会部次長 白浜正三)

【70年目の夏 大戦の記憶(1)】「戦った父がいたから今の自分がいる」 靖国に思う「自立した日本を」
 産経ニュース 2014.8.9 14:07 
 あの時から70年近い歳月を隔てても、胸に秘めた思いが色あせることはない。
 「祖国のために命をささげたあなたは英雄です」「もう一度あなたの子供として生まれ、一緒にうまい酒を飲みたい」
 来年8月15日に戦後70年を迎えるのを前に、靖国神社遊就館(東京都千代田区)が企画した「英霊に贈る手紙」。先の大戦で亡くなった兵士の遺族を対象に今年2月から8月末まで募集しているが、その数はすでに300通に迫る。
 差出人の約半数が遺児で、残りは兄弟や妻、孫、おいなど。「これまで父親のいる友達に負けるものかとずっとがんばってきました。父の元に行ったらほめて下さい」。記憶のかなたに浮かぶ父親、兄弟、夫らに宛ててつづられた思いは、いずれも切実だ。今回の企画を提案した展示課主典の後藤智司さん(33)は、「いずれの文面からも、『戦争で戦った父たちがいたからこそ今の自分たちがいる』という共通した感謝の思いが伝わってきます」と話す。
 手紙は、来年春に行われる靖国神社での慰霊祭で神前に供えられる。その靖国には、英霊とともに戦った“同期の桜”が今も足を運び、慰霊を続けている。
*「慰霊こそ私の義務」
 「祖国の行く末を信じ、勇戦奮闘した仲間を思うと、その御霊(みたま)を慰めることこそが生き残った私の義務であると考えています」
 元海軍大尉、市來(いちき)俊男さん(95)=さいたま市南区=は、毎年6月17日に靖国神社に参拝している。海軍兵学校67期卒にちなみ、この日に決めた。もちろん、数少ない同期生も一緒だ。
 鹿児島県出身で、昭和10年に海兵に入学。67期248人のうち、終戦時の生存者は88人。亡くなった160人の大半が戦死だった。
 市來さんは大戦の口火を切った16年12月の米ハワイ真珠湾攻撃に駆逐艦「陽炎(かげろう)」航海長として参加。その後も多くの海戦や輸送作戦に従事した。兵士約1万人が餓死するなどし、敗戦への分岐点となったとされるガダルカナル島(ソロモン諸島)の戦い(17年8月〜18年2月)では、機銃掃射を受けながら増援部隊や補給物資を輸送した。
 この戦いで今でも記憶に残るのは、陸軍士官学校52期卒だった中尉の面影だ。海兵卒の市來さんとは、卒業年次でいえば同期に当たる。「士官室で夜更かししながら『上陸したら(ガダルカナル島を)取り返すぞ』などと話し込み、艦長に注意されたこともあった」。対立関係が取り沙汰された陸軍と海軍だが、現場での“同期生”の絆の強さは組織の違いを超えていた。
 市來さんは戦後、海上自衛隊、防衛研究所などに勤務し、47年に退官。その後も戦史研究と執筆に取り組んできた。
 戦後の東京裁判でA級戦犯とされた東条英機元首相ら14人が53年に合祀され、60年の中曽根康弘首相(当時)による公式参拝以降、中国、韓国が反発を強めているが、市來さんはこう喝破する。「国のために戦って亡くなった軍人を慰霊するのはどこの国でも当然の行為。内政干渉だ」
*生き残り「私だけ…」
 東京の夏の風物詩として親しまれ、毎年約30万人の参拝者でにぎわう靖国神社の「みたままつり」。今年も7月13〜16日、英霊への感謝と平和を祈念して大小3万超のちょうちんが境内に掲げられた。その中に、「第二師団第十六連隊」という連隊名とともに、個人名が記された33個のちょうちんがあった。
 「新潟県新発田市にあった歩兵16連隊での同年兵の数と、自分の出陣のときの番号です。今や同年兵の中の生き残りは、私だけになってしまいました」
 ちょうちんを献灯したのは東京都大田区の●屋(すみや)久平さん(92)。33個のちょうちんに込めた思いを、こう語った。
 新潟県魚沼市出身。17年11月に南洋のニューブリテン島(パプアニューギニア)に出征後、フィリピン、シンガポール、ビルマ、中国で任務に就いた。
 ニューブリテン島では苦戦していたガダルカナル島への出撃に備えていたが、直前になって中止に。その代わりに担当したのが、野戦病院での遺体処理だった。
 火葬にすると敵の爆撃目標になるので土葬にしたが、深さ5メートルほどの穴を掘っては遺体を埋めるというつらい作業の連続だった。「戦友たちに土をかけ終わるまで涙が止まらず、埋葬後も戦友たちの家族に思いをはせると再び涙が出た」
 戦後は都内で修理業や食肉販売店などを営んだが、くじけそうになるたびに「戦場で亡くなった戦友に申し訳ない」と歯を食いしばって耐えてきた。靖国神社に参拝すると、戦友の面影を思い浮かべながら平和の尊さをかみしめる。
*「自立した日本を」
 戦後日本の平和の礎となった英霊たち。国の行く末を案じながら亡くなった彼らの思いを、どう受け継ぐべきか。
 市來さんにとって、国防を忌避する風潮を強める戦後日本の光景は「平和ボケ」と映る。「戦争を嫌う気持ちは誰にもある。しかし、自分たちが自分の国を守らなくてどうするのか」
 史上最大の戦艦「大和」の副砲長としてレイテ沖海戦に参戦するなどした元海軍少佐、深井俊之助さん(100)=東京都世田谷区=もこう口にする。
 「今の世代に言い残したいことは、とにかく、自立した日本を取り戻してほしいということだ」
 日本の安全保障環境が厳しさを増す中、英霊の思いを代弁する元軍人たちの言葉は重い。 (花房壮)
          ■
 8月15日、先の大戦が終結してから70年目を迎える。国のために戦い生還した人々や戦没者の遺族は、ますます高齢化している。薄れゆく大戦の記憶を語り継ぐため、生存者を訪ねた。
【用語解説】靖国神社
 明治政府が明治2年、戊辰戦争での官軍の戦死者を弔うため、東京・九段に東京招魂社を創建、12年に現在の名称となった。「国を靖(安)んずる」の意味で、明治天皇が命名した。先の大戦はもとより日清戦争(明治27〜28年)、日露戦争(37〜38年)などの戦没者のほか、坂本龍馬や吉田松陰ら幕末の志士も合祀されている。祭神総数は246万6千柱余に上る。
  (●=「角」の中央のたて棒を伸ばす)

【70年目の夏 大戦の記憶(2)】硫黄島の戦い 「伝える役目、終わったか」
 産経ニュース 2014.8.10 10:25 

    

 海軍特別年少兵になったころの大越晴則さん(大越さん提供)
 「あの日は暑かったんだろう。だが、今はそのことも思い出せない」
 昭和20年8月15日。大越晴則さん(86)=横浜市港北区=はこの日、米ウィスコンシン州のマッコイ捕虜収容所で、多くの仲間とともに憤怒の表情を浮かべていた。当時17歳。3カ月前は、本土防衛の最前線として激戦が繰り広げられた硫黄島(いおうとう)で、わずかに生き残った戦友と薄暗い壕(ごう)の中に潜んでいた。
 米国で迎えた終戦の日。「天皇の話を読み上げる」と言って玉音放送の内容を記した紙を広げようとする米将校を、大越さんらは怒りをあらわに押し返した。「みんな、負けたことを信じられなかった」
 復員船から富士山を眺め、初めて敗戦を受け入れ、以降は戦友の供養と遺族への説明を続けてきた。「それが、生き残りの責任だ」。そう考えてきた。
*殺すか殺されるか
 14歳で、海軍が中堅幹部養成を目的に採用した「海軍特別年少兵(特年兵)」に志願した。「14歳で志願できたのは特年兵だけ。家族の幸福や国家の安泰を信じる純粋な気持ちだった」
 海兵団で教育を受けるなどした後、香取海軍航空隊(千葉県旭市、匝瑳(そうさ)市)の搭乗整備員として輸送機に乗り込み、硫黄島への物資輸送などを行っていた。19年8月、米軍機に撃墜され、漁船に助けられた後に硫黄島へ移動、南方諸島海軍航空隊の分隊長として着任した。島では栗林忠道陸軍中将の下、米軍の侵攻に備え、全体を要塞化すべく、地下壕づくりに邁進していたころのことだった。
 半年後の20年2月19日、米軍が上陸作戦を開始したときは、元山飛行場そばにあった海軍の本部壕にほど近い壕に潜んでいた。
 「映画の描写とは比べものにならない」ほどの激しい砲撃に耐え、3日後、斥候(せっこう)として初めて壕を出た。目に飛び込んできたのは海を埋め尽くす米軍の艦船。米兵と鉢合わせたのは、それから間もない2度目の斥候の時だった。
 一瞬気付くのが早かった大越さんは手榴弾を投じ、米兵に組み付いて抱き合う形になった。「殺すか、殺されるか」。とっさに手に持っていた銃剣を米兵の背中に突き立てると、刃は米兵の体を貫通、勢い余って自らの腹を傷つけた。「もう、自分が生き残ることしか考えられなかった」。当時を、そう振り返る。
 持久戦を狙った日本軍だが圧倒的な物量にものを言わせる米軍の攻勢に、徐々に後退を余儀なくされた。3月8日、海軍が総攻撃を実施。大越さんも参加したが、奇跡的に生き残った。
 その後、日本兵が多く潜む壕に合流した。壕には武器も食料もほとんどない。息を潜め、地獄のような飢えと、のどの渇きとの戦いを続けた。
 ある日、壕に突然、液体が流れ込んできた。「水だ!」。思わず駆け寄る日本兵たち。しかし、その正体は海水に混ぜられた油。米軍のわなだった。火炎放射器が火を噴き、仲間が次々に火だるまとなった。
 生き残ったのは10人足らず。「どうせ死ぬなら、太陽の光を見てから死のう」。他の日本兵とそう話し、壕からはい出た。待ち構えていたのは銃を構えた米兵たち。鋭い銃声の後、右足に鋭い痛みが走った。「ノータッチ!」。思わず海兵団で習った英語が飛び出す。背後を見ると、戦友たちが次々と姿を見せていた。「そこからの記憶はない」。気付いたときには米軍の野戦病院のベッド上だった。5月17日、栗林中将が大本営に玉砕を伝えてから2カ月後のことだった。
*もう荷物下ろそう
 今も硫黄島では1万を超える日本兵の遺骨が眠っている。政府は、飛行場の下にも遺骨が眠っているとして、平成24、25年度に地中探査レーダーで飛行場を調査。その結果、遺骨の可能性がある反応が千以上もあった。今年度、アスファルトをはがすなどして遺骨を収容する予定だ。
 「夜になると、あのときの戦いを思い出す」。戦後は睡眠薬がなければ眠れない日々を続けてきた。まだ、あの島に残る戦友がいる。だからこそ、あの戦いを伝えなければという思いを抱いてきた。
 ただ、特年兵の仲間による戦友会は昨年解散した。あの戦いから70年目の夏。「背中に負った荷物は下ろそう。役目は終わったんじゃないか」。今は、そう思っている。(豊吉広英)
【用語解説】硫黄島の戦い
 東京とサイパン島のほぼ中間に位置する戦略上の重要拠点だった硫黄島(面積約22平方キロ)をめぐる戦い。昭和20年2月19日に米軍が上陸開始。当初、5日で陥落できると見込んでいた米軍に対し、日本軍は陸海軍計2万1200人の将兵が、栗林忠道陸軍中将の指揮の下、全長約18キロに及ぶ地下壕を構築して持久戦を展開。3月26日に栗林中将が総攻撃を行うまで、36日間にわたって抵抗を続けた。この結果、日本軍は約2万1千人、米軍は約2万8千人に及ぶ死傷者を出し、先の大戦屈指の激戦と呼ばれた。

【70年目の夏 大戦の記憶(3)】激戦のルソン島「なぜ自分が生き残ったのか」
 産経ニュース 2014.8.12 14:28 

     

 陸軍少尉だったころの大井彰三さん(大井さん提供)
 昭和19年11月。陸軍鉄道第8連隊の将兵を乗せた数隻の貨物船が、フィリピン・ルソン島のマニラ湾に到着した。当時、同連隊の中隊長として200人以上を率いていた元陸軍中尉、大井彰三さん(94)=静岡県牧之原市=は、目の前に広がる風景に、驚きを隠せなかったという。
 湾の海面から飛び出した多数のマストや煙突。いずれも湾内で沈められた日本の艦船だった。前任地のスマトラ島では、そこまでの戦況悪化は伝えられなかった。「中尉といっても、当時は本当のことは何も教えてもらっていなかったということだ」
 しかし、それは、これから始まる地獄の戦いの序章にすぎなかった。最終的に21万人を超える戦死、戦病死者を出したルソン島の戦い。生き抜くにはあまりにも厳しい戦場だった。
*「バレテは死の山だ」
 鉄道連隊は戦地で鉄道の建設、修理などを行い、兵員、物資の輸送活動を行うことなどが主な任務だ。大井さんらも、ルソン到着後は、決戦のため次々と揚陸される各部隊を鉄道で連日輸送していた。
 しかし20年1月6日、米軍の激しい艦砲射撃で火ぶたが切られると、いや応なく前線へ。その後、「第10師団の指揮下に入れ」との命令が下った。行き先は島内陸部のバレテ峠。島の南北をつなぐ要衝で、米軍の北上を防ぐ重要拠点だった。
 激しい戦いが始まった。樹木の生い茂るジャングルでは、小銃弾は樹木などの障害物で10メートルも真っすぐ飛ばなかった。「これで戦えるのか」と思ったが、杞憂だった。米軍の激しい砲撃はジャングルを丸裸にしていったからだ。木々が吹き飛ばされることで開ける視界。同時に、多くの部下の命が奪われた。
 戦局が厳しくなると、日本軍で、ある戦法が頻繁に行われるようになった。小銃や手榴弾(しゅりゅうだん)を手に、敵の陣地に忍び寄って攻撃する「切り込み」だ。「多くの兵を失って誠に申し訳ない。自分は敵陣に切り込み一矢を報いる覚悟」。大井さんもこう記した紙を残して切り込みに向かったが、途中で米軍に発見され、激しい銃撃を受けた。
 負傷したのは、連隊長から帰隊指令が届き、一時退いた直後のこと。1発の砲弾がすぐそばで着弾、破片が左脇腹に食い込んだ。軍医はいたが、治療する器具も薬もない。破片は運良く肋骨で止まっていた。「もう少し深ければだめだった」。軍医はそう言い、三角巾を傷にあててくれた。
 連隊は残存兵を再編、大井さんに数十人の兵士を渡し、配置につくよう命令を下した。いつの間にか、敵の追撃を受ける殿(しんがり)部隊となっていた。もはや食べ物はない。河原でサワガニを捕まえたが、集まったのは飯盒に半分程度。それを全員で分けた。誰もがどんどん衰弱し、餓死者も出た。弱った者は、その場に置き去りにした。「そうせざるを得なかった」。終戦を知り、武装解除に応じたのは玉音放送から1カ月が経過した9月16日。この時残っていたのは大井さん以下、わずか6人だけだった。
 翌17日、投降した他の日本人将校とともに、米軍のトラックで南部へ向かった。途中、休憩で止まったのはバレテ峠の頂上。「俺たちは、ここで戦った」。英語を話せる日本人将校が警備の米兵に話しかけた。すると米兵は敬意を込め、大声で告げたという。「バレテは死の山だ。諸君は幸運だ。よく生きてきた」。そして、大井さんらにたばこを1箱差し出した。
*「帰国させたかった」
 今も思い浮かぶ光景がある。バレテ峠に到着する前夜のことだ。明日からは過酷な世界と考え、部下に「今晩は無礼講だ」と伝えたところ、ある兵隊が歌を歌い出した。
 〈思えばあの日は雨だった 坊やは背(せな)でスヤスヤと 肩を枕に眠っていたが 頬に涙が光ってた〉
 日本に残した子供を思い出していたのだろうか。当時の人気歌手、音丸の歌として知られる「皇国(みくに)の母」の一節だった。
 このとき、改めて一つの重大なことに気付かされたという。「彼らには、親兄弟や妻子がある。みんな無事に帰国させたい。しかし、この戦況では−」。こらえきれない感情とともに、見上げた夜空は朧月夜だった。
 「なんで自分が生き残ったのか…。今もわからない」。70年の記憶をたどった元指揮官の、深く刻まれた目尻のしわから、一粒の涙が滑り落ちていった。(豊吉広英)
【ルソン島の戦い】
 昭和20年1月6日から終戦まで、フィリピン・ルソン島で山下奉文(ともゆき)陸軍大将率いる日本軍と、ダグラス・マッカーサー元帥率いる米軍との間で繰り広げられた戦い。レイテ島沖海戦やレイテ島の戦いで制空権と制海権を握った米軍は、1月9日にリンガエン湾から上陸。対する日本軍は、本土防衛の態勢を整えるまでの時間稼ぎを目的に持久戦を展開した。米軍は3月に首都マニラを制圧。補給路を断たれた日本軍は餓死者が相次ぎ、戦死・戦病死者は21万人を超えたとされる。

【70年目の夏 大戦の記憶(4)】決死の学徒出陣「復興に尽くすのが生き残ったものの務め」
 産経ニュース 2014.8.13 13:59 
 勇ましく、そして悲しみに満ちた言葉だった。スタンドでは6万5千人の女学生らが涙をぬぐい、銃剣を掲げた制服姿の男子学生らは泥だらけのグラウンドにたたずんだ。
 昭和18年10月21日、東京の明治神宮外苑競技場(現国立競技場)で行われた「出陣学徒壮行会」。東京帝国大(現東大)文学部2年だった江橋慎四郎さん(94)は、この会場で戦地に向かう学徒を代表し、答辞を読んだ。「生(せい)等(ら)今や、見敵必殺の銃剣をひっさげ」と出陣への決意を語り、生きて帰るつもりはないとの意味を込め、「もとより生還を期せず」と述べた。当時24歳。ペンを捨て国のため家族のため、身を投げ出す覚悟だった。
 「なぜ終戦の道が選ばれなかったのか。いまではバカなことだと思う。ただ、あのころは国家危急存亡のとき、いよいよわれわれが立たなくてはならないという純粋な思いだった」と振り返る。
 成績優秀でも軍国青年でもなかった。水泳部のマネジャーをし、背が高かったことから大学側から「学徒代表に」と声がかかった。「押し出しが強いと思われたのかもしれない。流れ弾に当たったようなものだ」。原稿は一晩で書き上げた。それを教授が添削した。悲壮感に満ちたこの言葉はニュースを通じて全国を駆け巡り、各地の出陣学徒の鼓舞に使われた。
 言葉に嘘はなかったが、終戦までの1年9カ月間、自らが激戦地に赴くことはなかった。陸軍配属後、三式戦闘機「飛燕」の整備兵として国内の基地を転々とした。
 「一日で除隊した」「裏取引があった」。戦後にはさまざまなデマが流されたが、反論はしなかった。「多くの先輩、同僚が戦地に向かう途中で死んだ。そんな中で生き残った者が、何も言えないじゃないか」
*死んだら靖国で会おう
 関西大経済学部2年だった塩崎博さん(92)も死の覚悟を背負って出陣した学徒の一人だ。在学中に徴兵検査を受け、18年12月に海軍に入った。「最初に『お前たちは消耗品だ』とたたき込まれた。いやも応もない。まさに命が最も軽い時代だった」
 通常4年の士官訓練を1年で終え、少尉として青森県の大湊海軍警備隊に赴任。東京大空襲で10万人が犠牲になった翌月の20年4月、サイパン島への特攻作戦に志願した。当時サイパンは米軍のB29爆撃機の出撃拠点。日本の爆撃機に15人が乗り込み敵前に着陸し、手(しゅ)榴(りゅう)弾(だん)を腰に巻き、出撃前のB29を破壊する−という無謀ともいうべき作戦だった。
 「学徒組の士官7人が参謀室に呼ばれた。『志願するものは一歩前へ』という。すると、7人が7人ともすっと前に出た。俺がやらなきゃ誰がやると、少なからずみんな思っていたんだろう」
 志願後、7人は下級士官のみが入室を許された砲台下のガンルームに集まり、遺書を書いた。「青くなっている者、叫び声を上げる者、サーベルを抜いて剣舞を舞う者もいた。『死んだら靖国神社で会おう』と。精神が高揚して、みな普通じゃなかった」
*壮行会場で平和の祭典
 しかし、乗り込むはずの爆撃機が米軍の攻撃で破壊され、8月末に作戦は延期。決行されることなく15日の終戦を迎えた。
 塩崎さんは戦後、太泉スタジオ(現東映)に入社し、映画製作の責任者になった。23年には娯楽映画『タヌキ紳士登場』を発表。イベント見学にきた女子高生、佐久間良子さんをスカウトして女優に育て、日本初のアニメ映画『白蛇伝』やテレビ映画『白馬童子』を手がけた。「映画は戦後唯一の娯楽。夢を与え、復興に尽くすのが生き残ったものの務めだった」
 江橋さんは学生時代に目指した教育改革を実践するため、文部省(現文部科学省)に入省。「軍事訓練の延長としての体育でなく、人生を豊かにするための体育教育を目指したい」と鹿屋体育大学(鹿児島県鹿屋市)の設立に尽力し、初代学長に就任した。
 時代は流れ、2020年には戦後2度目となる東京五輪が開かれる。舞台となるのは、あの壮行会が開かれた国立競技場だ。「戦後日本は東京五輪で飛躍した。経験を忘れず、夢のある大会にしてほしい」。江橋さんは「平和の祭典」の成功を祈った。(伊藤鉄平)
【学徒出陣】
 戦況の悪化に伴い、不足する兵力を補充するため、昭和18年10月、将来の日本を支えるエリート人材として在学中の徴兵が猶予されていた学生・生徒(学徒)のうち、文科系を中心に猶予措置を停止、戦地に送り出した。激戦地に赴き、多くの戦死者が出た。出陣学徒の総数は10万人ともされるが、正確な数は分かっていない。

【70年目の夏 大戦の記憶(5)】戦没者遺族「『面倒をたのむ』夫の遺書の言葉、支えに」
 産経ニュース 2014.8.14 14:18 

     

 夫の飯塚實平さんが、戦地から時子さん宛てに送った遺書
 終戦から3年がたったころだろうか。山梨県山梨市の飯塚時子さん(92)は自宅でラジオの「尋ね人の時間」を聞いていた。戦時中に行方不明になった人を捜す番組だ。ふいに聞き慣れた名前が耳に入った。
 「飯塚實平(じつへい)さんの安否を確かめたい」
 戦死した夫の名前だ。すぐにラジオ局に連絡し、しばらくして依頼人の男性が自宅を訪ねてきた。男性はフィリピンでの夫の戦友だったが、途中で離ればなれになったという。男性は、戦地での交流を語った。
 「『娘が生まれた』と、ご自宅から届いた写真を見せてもらいました。『かわいいだろう』と喜んでいたんですよ」
 だが、實平さんが実際に長女を抱くことはなかった。わずか1年5カ月の結婚生活の後、時子さんは、家を、娘を、守ってきた。
*木箱に石が1つだけ
 時子さんは昭和17年5月、實平さんと結婚した。實平さん31歳、時子さん20歳。元軍人の父の勧めによる見合いの後、實平さんに会うのは結婚式が2度目だった。
 夫は20歳の徴兵検査で甲種合格だったが、くじ引きの結果、入隊を免れる「くじ逃れ」で国鉄(当時)の変電所に勤めていた。翌年に長女を身ごもり、実家から餅が届いた。「こんな時代だから、お祝いするわけにもいかないね」。姑と話していたそのとき、夫に召集令状が来た。
 「軍人の娘なんだからメソメソしないように」。夫からこう言われ、泣くこともできなかった。9月、夫が自宅を出るときは、集まった親類へ「出征祝い」の赤飯を振る舞うのに忙しく、何も話せなかった。
 数日後、入隊した相模原市の陸軍東部第88部隊に面会に行った。「『どこに行くかは分からない。後はよろしく頼む』と。それが最後の会話でした」
 長女が生まれ、20年に入ると、山梨にも毎晩のように空襲が来た。時子さんは逃げやすいよう着物を着たまま寝た。焼夷弾を見て「花火、きれい」と笑う長女が哀れだった。嫁入り道具の着物を農家に持ち込んで米や野菜と交換し、食いつないだ。
 終戦。玉音放送を聞き「空襲も終わる、實平さんも帰ってくると思い、ほっと力が抜けた」という。
 戦地からの手紙によると、夫は満州からフィリピンに渡っていたはずだった。周囲の家にはぽつぽつと復員兵が帰ってきたが、夫の姿はない。フィリピンで米軍と激しい戦闘があったことは終戦後に知った。それでも、いつでも夫が帰れるよう、夜も家の戸を開け、待ち続けた。
 21年12月。届いた戦死公報は「20年5月21日、比島ルソン島バレテ峠」という無機質な字とともに、木箱に石が1つ、入っていただけだった。
 夫の勤務先だった国鉄からの給与は止まった。残されたのは2歳の娘、姑と3人。「父も戦中に亡くなり頼る人はいない。死ぬよりほかないと悩みました」
*自分には責任がある
 思いとどまらせたのは夫の言葉だった。戦地から届いた時子さん宛ての「遺書」を読み返した。
 「愈々(いよいよ)任地に向ふ 不幸の子供をなぐさめる事も出来ず残念に思ふ 皆んな元気で希望をもつて生活する様に 母の面倒をたのむ」
 自分には「責任」がある−。時子さんは和裁の師範の資格を生かし、知人の衣服を仕立て直して代金を得て生計を立てた。月謝数百円で和裁教室も始めた。授業は昼と夜の2回、生徒が帰った後は知人の分。教室が休みのときは、長女をおぶって10キロ以上離れた親類宅まで歩き、炊事に使う炭を譲ってもらった。
 「日付が変わる前に眠れたことはありませんでした。本当に夢中で働きました」
 亡き夫の言葉に支えられ、戦後の混乱期を生き抜いた時子さん。長女の光子さん(70)は「きょうだいがなく寂しかったが、父がいないことで不自由に思ったことは一度もなかった」と回想する。
 夫の供養のため、時子さんは毎年、終戦の日は山梨県の護国神社に足を運ぶ。「食べものは豊富になり、生活にも困らない。自分はこんな時代まで長生きできて…。苦労をした昔を思えば、今は極楽です」
 戦争や紛争のニュースには、今も敏感という。自分と同じような思いをする人々がいなくなることを願っている。(伊藤弘一郎)

【70年目の夏 大戦の記憶(6)完】減少する戦友会 失われる証言と慰霊の心
 産経ニュース 2014.8.15 14:40 
 「大隊長を左遷したあの人事は本当にけしからん」「山頂を取り合う戦いではもう少し休息を挟むなどゆとりのある作戦が必要だったと思う」…。
 7月24日午後、強い日差しが照りつける靖国神社(東京都千代田区)にほど近いオフィス街の一角。元陸軍将校や陸上自衛隊元幹部の親睦団体である公益財団法人「偕行(かいこう)社」が入るビルの一室に、約70年前の激戦を生き抜いた元軍人たちが集まり、戦地での出来事を昨日のことのように語り合っていた。
 会合の名称は「第二師団勇(いさむ)会有志会」。中国南部・雲南やビルマ(現ミャンマー)方面での戦闘に加わった元軍人らによる月1回の昼食会だ。
 この日参加した元軍人は計5人。いずれも90代前半だ。会合の冒頭、全員が起立して黙祷し、献杯の唱和とともにビールをのどに流し込み戦友を悼んだ。
 雑談形式の会合での話題は多岐にわたり、途切れることはなかった。九死に一生を得た熾烈な戦闘体験、飢えに苦しんだ食糧事情、亡くなった戦友の思い出…。気がつけば、予定の3時間をオーバーしていた。
 「いつも時間がなくなり、最後は追い出されるんですよ」。世話人で工兵第二連隊出身の水足(みずたり)浩雄さん(92)=東京都杉並区=は、そういってメンバーに会合の終了を告げた。
  ×  ×  ×
 勇会有志会メンバーの元憲兵、磯部喜一さん(95)=東京都江戸川区=は会合への参加を生きがいにしている一人だ。「高齢なので出歩くこともないが、この会だけは例外。次回も必ず来ますよ」と笑みを浮かべた。
 軍人の犯罪を取り締まる憲兵だった磯部さんは戦地への赴任を志願し、昭和19年5月にビルマの地を踏んだ。与えられた任務は英軍の侵攻情報の収集だった。未経験の任務だったが、軍服を脱ぎ現地人に扮装した磯部さんは独学でビルマ語を習得し、民家に身を潜めながら現地人から敵情を探った。
 英軍の情報員も多く、誰が敵かが容易に判別できない混沌(こんとん)とした状況下。「入手した情報がわなだったり、現地人に警戒されて英軍に通報されれば部隊の全滅にもつながりかねない。情報収集はいつも決死の覚悟だった」と振り返る。
 約33万人が投入され約19万人が亡くなったビルマ戦線。大半の死因は栄養失調や熱帯病などだった。磯部さんもビルマ特有の猛烈な雨に打たれる中、飯盒(はんごう)でゆでたタケノコをかじりながら飢えをしのぐ日々を送った。「とにかく『死んでたまるか』との一心で体を鼓舞した」と振り返る。
 あれから約70年。「ビルマで苦しみながら亡くなった19万人の代弁者のつもりで、戦場での実態を伝えていきたい」。磯部さんの胸に秘めた思いは変わらない。
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 しかし、戦争体験を語り合い、亡くなった戦友を慰霊する会合は、元軍人たちの高齢化や他界により減少の一途をたどっている。
 京都大大学院の高橋由典(よしのり)教授らでつくる「戦友会研究会」によると、戦友会の設立のピークは昭和40年代で、最盛期には数千あったとされる。ただ、同会が把握した3625の戦友会の世話人を対象に平成17年にアンケートを実施したところ、888団体から回答が寄せられ、そのうち存続していたのは224団体だけだった。時の経過とともに、戦友会の減少は避けられない情勢だ。
 勇会有志会の母体となった戦友会も会員の減少などを理由に19年に解散したが、戦史に興味を抱く若い世代に門戸を開き、今では世代を超えた懇親会として存続しているまれなケースだ。ビデオカメラで会合の様子を毎回撮影している相模原市の会社員、伊牟田(いむた)伸一さん(46)は「貴重な証言を将来の世代に引き継ぐ橋渡し役になりたい」と参加理由を語った。
 戦友会などの組織存続には世話人の若返りが欠かせないが、戦争を感情的に忌避する風潮が戦後長く続いたこともあり、そうした動きはまだ広がっていない。
 15日で69回目の終戦の日を迎えた戦後日本。元軍人たちが仲間内で語り合ってきた戦争体験の記憶や戦没者への慰霊の心は、風化しようとしている。戦後の平和の礎を築いた元軍人たちの思いをどう引き継ぐかが今、戦後世代に問われている。(花房壮)
        =おわり
【戦友会】 主に部隊や戦地ごとに結成された元軍人や遺族による任意団体。教育機関や艦艇などの名称を付けたケースもある。会員は数人から数百人単位までさまざまで、1人が複数の会に入る場合も少なくない。戦没者の慰霊祭のほか、戦場での体験を語り合う親睦会などを定期的に開催している。会報や部隊史、戦闘の証言集を作成する団体も多い。
 ◎上記事の著作権は[産経新聞]に帰属します
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