関連;小沢一郎が語った「原発/国家のリーダー(衆愚の中からは衆愚しか)/マスコミは日本人の悪いところの典型」2011-09-19
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悲哀!角栄の"晩年"にそっくり小沢一郎の落日 勝てないから見切られて、人が離れていく。焦っても、かつてほどの力(カネ)がない。 そして「どじょう」に寝返るユダが止めを刺す
2011年09月23日(金)週刊現代
かつて田中角栄は、「頂上を極めるためには敵を減らすことだ」と語った。だが弟子は、その言葉を実践することができなかった。政界一の憎まれ役になった末、政治家・小沢一郎の黄昏が迫っている。
*腹心たちが見放した
「小沢はもう終わりだな」
「決まってるじゃないですか。終わりですよ」
野田佳彦内閣が発足した直後のことである。今回の組閣で政務三役に抜擢された議員2人が、密かにそんな会話を交わしていた。
2人は小沢一郎元代表に対抗する民主党内の非小沢勢力・・・・・・ではない。彼らはともに、小沢グループでは中核と目されるメンバーだ。
自他ともに認めるバリバリの小沢系---にもかかわらず、2人は小沢に対する憤りを隠さず、すっかり見限った様子だった。
「なぜ小沢は、代表選の前に野田と会っていたんだ。あれは俺たちに対する重大な裏切り行為だよ」
民主党代表選が告示される直前、8月下旬のこと。小沢はかつての同志・細川護煕元首相を介し、野田首相との極秘会談を行った。
細川の証言によれば、小沢と野田の会談時間は約40分。ともに幹部として長く同じ党に属していたにもかかわらず、両者がサシで話をするのは、これが初めてだったという。
会談は終始、和やかな雰囲気だったようだ。細川によれば、野田が代表選で披露した?どじょう演説?に対し、小沢は「よかった」と電話で感想を伝え、さらに側近の輿石東参院議員会長が党幹事長に就任したことについても、「とても良い人事だ」と、野田を手放しで褒めたという。
だがこの極秘会談は、小沢を支えるべく、野田や前原誠司政調会長、仙谷由人政調会長代行ら「反小沢勢力」との闘争を繰り広げてきた小沢の側近たちにとって、「許しがたい裏切り」にしか思えなかった。
小沢グループのベテラン議員の一人は、忌々しげにこう語った。
「野田だけではない。小沢は我々には何も言わず、仙谷とも会っていた。結局、代表選が終わったら野田・仙谷にスリ寄って裏で手を結ぶつもりだったんじゃないか」
冒頭で「小沢は終わり」と言い放った政務三役の一人も、こう吐き捨てた。
「これじゃあ来年9月(の代表選)も、野田が続投するのは決定的だな。小沢はもう終わったんだよ。今後、たとえ裁判がうまくいって無罪になったとしても、総理を目指すなんてとても無理だ。せいぜい野田の下で、副総理止まりだろうよ」
2年前の政権交代の時点で、小沢とその「軍団」の力は、まさに他を圧倒していた。当時の鳩山由紀夫首相以下、閣僚も党役員も、小沢?大?幹事長に逆らうことはできなかった。
その影響力は、小沢が政治の師と仰ぐ故・田中角栄元首相を彷彿とさせるものだった。角栄は'76年にロッキード事件で失脚するも、その後の内閣は「角影内閣」「直角内閣」などと呼ばれ、政界のキングメーカーとして君臨した。
時の総理も大臣も逆らえない、圧倒的な権力。小沢はほんのひと時、師匠に並びかけたのかもしれない。だが、絶頂は長く続かなかった。
角栄がロッキード事件の裁判の過程で力を失っていったように、小沢もまた「政治とカネ」の裁判を抱え、昨年6月に幹事長を失職する。以来、自ら代表選に出馬するなど、幾度となく復権を図ってきたが、今回の代表選では野田に敗北。9月26日には、元秘書の大久保隆規被告ら3人の政治資金規正法違反事件の判決が控えている。小沢の政治生命は、いよいよ「落日」を迎えようとしているのだ。
代表選で事実上の3連敗を喫した直後、小沢は自身の傘下にある3つのグループ、「一新会」「北辰会」「参院小沢グループ」の統合を発表した。約120名を一つに統合し、来年9月に予定される次回代表選に備えるため、と見られている。
ところが驚くべきことに、「絶対服従」のはずの配下の議員たちが、小沢の号令に従わなかった。それどころかグループ内から統合案への異論が続出し、計画が頓挫したのである。
小沢グループの議員たちからは、こんな反対意見が次々と飛び出した。
「小沢さんが有無を言わさず1人で統合を決めてしまった。代表選の敗因の分析もしないうちに、統合という結論ありきはおかしい」(小沢グループ中堅議員)
「代表選の連敗により、党内で反小沢票のほうが過半数を占めていることがはっきりした。小沢グループの数は減る一方だ。まずは仲間を増やすべきなのに、グループ統合論になるのは解せない。統合なんてすれば、締め付けを嫌がって仲間がさらに減るだけ」(同若手議員)
「いくらタマがないからと言っても、西岡武夫参院議長や輿石東参院議員会長なんていう、突拍子もない名前が飛び出した時点で、政治的に終わっている。小沢さんは、カンがすっかり鈍ってしまったのではないか」(同ベテラン議員)
小沢グループは、かつての「田中軍団」を彷彿とさせる、鉄の結束力を誇ると言われてきた。
しかし、領袖の角栄本人を含め、その後に何人もの総理大臣を輩出し、七奉行と称された幹部など人材の宝庫だった旧田中派に対し、小沢グループはまだ総理の椅子を手にしたこともなければ、お世辞にも人材が豊富とは言えない。
政治評論家の小林吉弥氏はこう評する。
「田中元首相と小沢氏の人間性の違いが、集団の特性にも影響しているのでしょう。田中氏のもとには、彼の人間的な魅力に畏怖や尊敬の念を持った有能な人間が集まり、それが政治を動かす力に繋がっていた。
一方で小沢氏の場合、田中氏が持っていたような懐の深さ、心の広さを感じることが少ない。小沢氏の周囲には、『選挙でバックアップしてもらえるかどうか』など、損か得かの利害関係に基づいた人間関係しかありません。そこが田中氏ともっとも異なる点であり、小沢氏が決して田中角栄にはなれない所以なのです」
その権力の源泉がカネであるのは共通しているが、角栄の人間力で結びついていた面もある田中軍団に対し、滅多に人前に姿を現さず、引きこもりがちで人見知りな小沢の率いる軍団には、そうした「陽」の雰囲気がほとんどない。
それでも、どうして表面上の結束を保っているかと言えば、カネをバラまき、一部の側近が「恐怖政治」を布いて、新人・若手の不満を抑えつけているのが実態だ。
同グループの若手の中には、代表選前に先輩議員から「てめえ」呼ばわりで怒鳴られ、「従え」と恫喝され、渋々、方針に従ったという者が少なからずいる。
そんな空気に辟易していた新人らが、「グループを統合し結束をより強化する」などと言われたら、「これ以上はもうごめんだ」と考えるのは当然だろう。
*総理を目指せば命取り
さらに、小沢が抱える問題はグループ内の求心力低下だけではない。これまで小沢と歩調を合わせてきた鳩山の口からも、最近、こんな発言が飛び出した。
「このまま、小沢さんとの付き合いを続けていっていいものかどうか・・・・・・」
全国紙政治部民主党担当記者が、鳩山の心境をこう解説する。
「小沢・鳩山両グループは、近々、合同で勉強会を開くことになっていますが、鳩山グループは内部崩壊が進んでボロボロ。代表選で鹿野道彦農水相を支持した大畠章宏前国交相、中山義活元首相補佐官は裏切り者扱いで、松野頼久元官房副長官は『出戻りは許さない』と批判しています。所属議員がどんどん減り、このままでは鳩山グループは小沢グループと統合するしか影響力を残す道はなさそうだが、果たしてそれでいいのか、鳩山氏は悩んでいる」
盟友からは距離を置かれ、配下には見限られ、周囲から櫛の歯が欠けるように人が去っていく。小沢は、角栄の晩年の姿にそっくりになってきた。
それでも復権を目指して足掻き続ける小沢について、政治評論家の三宅久之氏は、「もしも来年9月の次回代表選に、自分自身が出馬することを狙っているようなら、それこそ小沢氏の政治生命は終わりでしょう」として、こう語る。
「かつて田中角栄も、政治家としての晩年に復権を目指しました。ですが、結果的にはそれが、小沢氏や竹下登元首相らの離反を招くことになったのです」
角栄はロッキード事件の控訴審判決('87年)を受けるため、東京高裁に向かう直前、秘書だった早坂茂三に「いままで苦労をかけた。だが今日で(無罪判決が出て)終わりだ」と、力強く言い放ったという(実際には高裁が一審の有罪判決を支持、控訴棄却)。
「角栄自身は無罪になることを信じ、最後の最後まで復権への執念を燃やしていました。しかしそれは、彼の腹心らにとっては容認できないものでした。『角さんの復権の下働きをしていたら、いつまでたっても俺たちの夜は明けない』。そう思った彼らは、竹下氏を中心に『創政会』を結成、田中派を離脱していきます。小沢氏も、いまさら自分が総理の椅子に座ることを考えたりすれば、部下たちの離反を招き、当時の田中氏と同じ境遇に陥ってしまうでしょう」(三宅氏)
当時、竹下は自派閥の立ち上げにあたり、初会合に集まった議員らに現金を配った。その金額は佐藤栄作政権の末期に、角栄が自分の派閥を結成する際、料亭に集まった配下の議員に配ったのと同じ200万円だったと言われている。
角栄は怒り狂い、竹下から現金をもらった議員一人ひとりに電話をかけ、「竹下は悪い夢を見ている。俺が必ず、目を覚まさせてやる」と説得を試みたが、すべては、手遅れだった。派閥を乗っ取られた角栄は酒に溺れ、病に倒れて命を縮めてしまった。
それから約25年。当時とまったく同じ、「カネで数を買う」角栄方式を受け継ぎ、それを実践してきたのが小沢だったが、それも、もはや限界に来ている。
*カネはもうバラまけない
そんな窮地にあって、小沢に唯一の光明があるとすれば、野田陣営との?密議?が効を奏したためか、新政権の人事面で、小沢グループがそれなりに処遇されたことだろう。
筆頭は幹事長に就任した輿石東。さらに、小沢グループの長老の一人、山岡賢次が国家公安委員長・拉致問題担当相に就任し、参院小沢グループからは一川保夫参院議員が防衛相に抜擢された。他にも田中真紀子元外相が衆院外務委員長に就くというサプライズなど、小沢グループ・小沢擁護の?うるさ型?の議員には、政府と党の要職があてがわれている。
ただ、政治ジャーナリストの鈴木哲夫氏は、
「今回の人事は、小沢グループを厚遇したわけでも、党内融和を目指したものでもありません」
として、こう語る。
「野田政権の人事は、単に財務省主導で増税を行うためのシフトに過ぎません。それは財務省の勝栄二郎事務次官と親しい、国交省の竹歳誠次官が官房副長官として官邸に入っていることからも明らか。さらには旧大蔵省OBの藤井裕久元財務相を新設の党税制調査会長に据え、政調会長代行には仙谷氏が就きました。藤井・仙谷両氏は、6月に策定された『税と社会保障の一体改革案』の取りまとめをした張本人です。今後は、消費税率の段階的引き上げに向け、党内をまとめていくつもりでしょう」
野田首相は政府・与党の政策を決定し、方向付ける権限を党政調会に集中させた。第2の首相とも言えるポジションの政調会長に就任したのは、野田と近い前原誠司。その後見役が政調会長代行の仙谷だ。
「影響力が弱まるどころか、?仙谷支配?そのもの。表に出なくて済む分、いっそう自由に仙谷氏が動けるようになった。前原氏も、『政調を通さなければ、法案は一本も通らないんだ。つまり(最高実力者は)俺なんだ』と、自信満々です」(民主党中間派代議士)
一方、幹事長ポストに輿石氏が座ったことに、小沢本人は「こちらにずいぶん配慮してくれている」などと語り、満足感を示しているという。党員資格を停止され、?昔の名前?以外に何も持っていない小沢にとって、党のカネと選挙の公認権を握る幹事長ポストは生命線だ。何とかクビの皮一枚繋がり、めでたし、めでたし……かと言えば、そうでもない。
小沢グループ幹部の一人は、こう危惧する。
「小沢さんは密かに、輿石さんの言動に注意を払っています。幹事長ポストを獲ったのは悪くないが、『長いものには巻かれろ』といった性格の輿石さんが、野田首相サイドに取り込まれてしまったら意味がない」
輿石は幹事長に就任するやいなや、幹事長代行に就いた樽床伸二に対し、
「俺もアバウトな男だから、衆院のこと、とりわけ選挙のことはよろしく頼むよ」
と、実務を丸投げしてしまった。樽床は、ほくそ笑んだと思われる。何しろこの輿石の一言で、樽床は事実上、幹事長の権力の大半を握ったも同然だからだ。
「輿石さんは就任挨拶で自民党に行った際も、同行していた前原氏と樽床氏を指差し、『私は衆院のことは、さっぱり分かりません。相談はこの人たちとやってください』と言い放ち、周囲を唖然とさせました。
小沢氏の周辺からは『小泉政権時代に、青木幹雄氏(元自民党参院議員会長)が小泉元首相に一本釣りされ、旧経世会が分裂状態に陥った時と同じことが起きるのではないか』と、不安の声が挙がっています」(民主党ベテラン議員)
身内だと思って頼りにしていた輿石が、実は裏切り者の「ユダ」に変わる。小沢にとっては、まさに最悪のシナリオである。
しかも、仮に輿石が小沢の思惑通りに「都合の良い幹事長」になろうとしても、それすら難しい、という見方がある。幹事長権限のうち、もっとも政治的に旨味があるのは、「選挙対策」などの名目で党のカネを自由に使えることだ。
ところが民主党は、岡田克也前幹事長が「300万円以上の支出に対しては監査を行う」という通称?岡田ルール?を導入したため、かつてのように使途不明のカネを気ままにバラまくことは難しくなった。
「幹事長室には、輿石氏の他に鈴木克昌・一新会会長や、小沢氏の秘書出身の樋高剛氏が副幹事長として入りましたが、彼らの動向をチェックするのが樽床幹事長代行の役割です。しかも、党のカネの出納を管理する党財務委員長には、野田グループの武正公一氏が就いています。以前のように、カネをバラまいて配下の議員たちに恩を売るような手口は、もはや通用しません」(全国紙政治部デスク)
*次の衆院選で終わり
カネの切れ目は縁の切れ目・・・・・・。小沢は、師匠の角栄を反面教師としてきたはずだったが、結局は師匠と同様、カネで維持してきた権力を、カネによって失おうとしている。
さすがに、本人にも「ここは正念場」という自覚があるのだろう。このところ小沢は、今までほとんどやってこなかった、現場の若手議員たちとの直接対話を始めている。
「『直接話したこともないような奴が、俺のことを批判してるんだ。会って話してからならともかく、そうでないのに攻撃されるのはかなわん』と、周囲には愚痴っているそうです。そこで、若手を中心にグループの議員たちと会合の場を持とうとしています。以前のことを考えれば、これは大きな進歩と言えないこともない。自分でも、『このままでは角さんのようになってしまう』という自覚があるのでしょう。
不満が溜まっている若手に対するガス抜きなのかもしれませんが、彼らに何を言われても、『ふん、ふん。そうか』と黙って頷いて聞いているようですよ」(前出・民主党ベテラン代議士)
会って話をして付き合えば、その人間のことがよく分かるのに、知らないまま毛嫌いしている場合が多い。自戒すべきである---とは、角栄が遺した言葉の一つ。政界有数の人見知りと言われる小沢だが、だいぶ遅ればせながら、師匠の言葉を実践するつもりになったのだろうか。
ただし、それでも小沢が政治的に追い詰められつつあるのは間違いない。
「小沢氏が、依然として民主党政権内に隠然たる影響力を持っていることは確かでしょう。しかし、それも次回の衆院選までです。次の総選挙で、おそらく小沢グループの議員の大半は落選することになる。そうなれば必然的に、小沢氏は政治的なパワーを失うことになります」(前出・三宅氏)
〈年如流水去不返 人似草木争春栄〉(年は流水の如く去って返らず、人は草木に似て春栄を争う)
これは角栄が好んだという、明治の元勲・木戸孝允の手になる漢詩だ。憂国の情を表したものとされ、「歳月は流れる水のように二度と返って来ないのに、人々は春の草木が美しさを競うように、己の出世ばかりを願い私利私欲に走っている」と嘆いている。
角栄はこの詩を愛し、人にも大事な人生訓としてその意味を伝えながら、ついに自らは、最後まで「春栄を争う」ことを止めることができなかった。
小沢は当然、この詩の存在も、その意味もよく知っているだろう。分かっていてなお、権力を追いつづけることを止められない己の性を、いま噛み締めているかもしれない。(文中一部敬称略)
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◆ 『悪党 小沢一郎に仕えて』石川知宏 元小沢一郎秘書・衆議院議員著(朝日新聞出版)
--第2部第4章より--
p203〜
2011年の元旦、私は深沢を訪ねた。恒例の「小沢新年会」に出席するためだ。
p204〜
2010年は幹事長辞任、代表選敗退、そして検察審査会による「起訴相当」の議決と、小沢一郎にとっても不遇の1年だった。2011年からは私も小沢一郎も裁判闘争が始まることになっていた。
*チャーチルとの共通点
「よくもまあそんな2人が元旦に向き合うなんて・・・」
私はそう思いながら小沢一郎の様子をうかがった。
何か話題を出さなければいけないと思って、私は切り出した。
「最近、チャーチルの本を読んでいるんですよ」
すると小沢は即座に反応した。
「おまえ、知ってるか。チャーチルも2回厳しい時があったんだ」
それを聞いて、私は驚いた。小沢氏はちゃんと「次」を考えていた。
2010年末の空いた時間、私はイギリスの元首相であるウィンストン・チャーチルについて書かれた新書をいくつか読んだ。チャーチルは私の中では小沢一郎と匹敵するぐらい興味が尽きない人物である。
私が近くにいた時期は、小沢一郎が政治人生の中で1番苦しい時代だったと思う。自民党幹事長、新生党代表幹事、民主党幹事長が3つの絶頂期だとすると、その狭間はすべて不遇の時期。これだけ浮き沈みがある政治家は見たことがない。
「いつ総理大臣になるんだ」
「チャーチルでも65歳でなったから、まだ大丈夫ですよ」
ちょうどいい言い訳をチャーチルから学んだ。
小沢のチャーチル好きはあまりメディアで語られたことはないと思う。小沢は訪英した時にチャーチルを墓参している。
p206〜
チャーチルは1929年には半ば外される形で蔵相を退任してから10年間、官職から干された。保守党のドン、ボールドウィンとの確執が鮮明になったのである。植民地・インドの自治領化や国王の結婚問題などで真っ向から対立して権力から遠ざけられた。
「アラウンド50」のチャーチルも政治家としては1番脂がのっていた。なのに、活躍の場はない。チャーチルは不遇の時期に歴史を学んでじっくり大局を読んだ。自伝『わが半生』も書いた。河合さんの本にはこうあった。
「チャーチルは、自らの孤立が深まれば深まるほど、歴史の中に支えを求めていった。それは、目前の問題をその時々に実際的に解決しようとすた保守党指導者の態度ときわめて対照的であった」
自分の祖先の歴史や自分の半生を本にまとめ、趣味の風景画にも興じた。それを知って、
「小沢はチャーチルそっくり」
と思った。小沢も不遇の時期には、できるだけ表舞台には姿を見せず、さまざまな歴史書に当たりつつ、じっくり大局をうかがっていた。地方行脚に出かけるのもそういう時で、現場の声を聞いて冷静に分析している。八丈島に釣りに行ったり、金丸さんや二階堂さんの墓参に行ったり、神社仏閣を訪ねている。(略)
p207〜
小沢の復権シナリオ
チャーチルと小沢一郎は生い立ちも似ている。互いに父は保守政治家で、チャーチルの父は蔵相、小沢の父は建設相だ。また、2人とも受験に2度失敗している。チャーチルは陸軍士官学校の試験に2度失敗し、小沢も東大法学部を目指して2浪しても不合格で、仕方なく慶應義塾に入学した。2人とも何度も挫折を味わいながら、若くして父を失い、その後、政界で頭角を現した。
チャーチルは保守党で初当選して4年で自由党に入り、20年後に再び保守党に戻った。人からは「変節漢」と揶揄された。自民党から新生党、新進党、自由党、民主党と渡り歩いた小沢も同じヤジをあびせられた。それは時代に即した考え方、変化に即した行動を取ろうとするからで、本人の中では筋が通っている。(略)
とにかく小沢のそばにいて学んだことは「過ちて改むるに憚ること勿れ」ということだ。とにかく信念を貫き、予想通りにうまくいかなかったら譲る。ただし、譲った後でも歴史の流れは見誤らない。
TPP(環太平洋経済連携協定)が問題になった。小沢は自由貿易論者だが、TPPには慎重な立場にいる。地域レベルではなく、WTO(世界貿易機構)のように、あくまで世界的な枠組みでのルール作りにこだわっている。それは世界恐慌後に列強がブロック経済に走り、第2次世界大戦につながった歴史の反省からだ。貿易自由化とは小沢にとって安全保障戦略でもある。かつて掲げた「国連待機軍構想」も、世界平和を希求するためにならず者国家に対しては世界が一致結束して戦う考えからきている。
1939年、対独宥和政策でナチスの台頭を招いてしまったチェンバレン内閣は、ナチスに対する最大の批判者でありながらも、当時は「時代遅れの政治家」と揶揄されていたチャーチルをあえて海軍相として呼び戻した。そのとき、海軍は全艦隊に向けて3語、「ウィンストン・イズ・バック」、つまり、「チャーチルが戻ってきたぞ!」と打電したのだ。チャーチルの復活劇は国民を鼓舞し、やがて彼は首相の座にのし上がった。その後、チャーチルはイギリスを第2次世界大戦勝利に導く。
日本でも、菅政権の支持率が落ち込むほど、小沢を求める声が高まっている。(略)
p210〜
チェンバレン内閣はドイツ軍からノルウェーを救う作戦に失敗し、与党・保守党内からも「チェンバレンおろし」の声がわきあがった。チェンバレンは反乱軍を取り込もうとしたが、彼らは野党と連立しないかぎりは入閣を固辞した。そこでチェンバレンは野党に連立を打診するが、首相が代わらない限りは首を縦に振ろうとしない。それでも留任にこだわったチェンバレンは震災後の菅さんとそっくりだ。
一方のチャーチルは次期首相候補に浮上するが、与野党に敵が多く、軽率な言動で戦局のかじ取りに懸念がたえなかったが、労働党が「新政権」との連携に意欲を示す。その頃チャーチルは若い低所得者層に人気があった。ラジオ出演を頻繁に繰り返していたからだ。チャーチルの時代にとってのラジオは、小沢一郎がよく出演する「ニコニコ動画」と同じような位置づけだろう。自民党が恩讐を超えて、小沢一郎にラブコールを送る日は来るのだろうか。
チャーチルは首相就任演説で「血と労苦と、汗と涙をささげる」と誓っている。小沢も2010年の党代表選で演説の最後をこう締めくくった。
「皆さんにこうして訴えるのも、私にとっては最後の機会になるかもしれません。私は自らの政治生命の総決算として最後のご奉公をする決意であります。そして同志の皆さんとともに、日本を官僚の国から国民の国へ立て直し、次の世代に松明を引き継ぎたいと思います。そのために私は政治生命はおろか、自らの一命をかけて全力で頑張る決意であります」
どこかチャーチルに似ている。チャーチルは1度政権を手放した後、76歳で返り咲いた。小沢もそうだが、70歳近くにもなるともう自分の利益を考えて政治をやる年ではない。裁判闘争を終えた時、小沢ははどんな言葉を国民に語りかけるか。必ず歴史に残る一言になると思う。 *強調(太字・着色)は来栖
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◆民主党大会 小沢氏演説=この理念に沿った政治をこの国が渇望しないはずがない2010-09-15 | 政治/検察/メディア/小沢一郎
民主党代表選に於ける小沢一郎氏演説
〈前段略〉
さて、今回の立候補にあたっては、今日の危機的な政治経済事情の中で、果たして自分にその資質があるだろうか、政治の最高責任者として国民の生活を守るというその責任を果たすことができるだろうか、と本当に悩み、自問自答いたしました。それにもかかわらず立候補を決意をしたのは、今、政治を変えなければもう間に合わないという、私の切実な思いを正々堂々、世に問いかけたかったからであります。
思い起こせば、私は27歳で衆議院議員に初めて立候補した際、選挙公報にこうつづりました。「このままでは日本の行く末は暗澹たるものになる。こうした弊害をなくすため、まず官僚政治を打破し、政策決定を政治家の手に取り戻さなければならない」と。意志なき政治の行き着く先には国の滅亡しかありません。日本は敗戦を経て本質は変わっていないのではないか。若かりしころの、感じたその思いは初当選以来、いまなお変わっておりません。
今日、わが国はデフレによる経済の収縮、少子高齢化の既存の社会制度のギャップによる不安など、経済も社会も危機的な状況に陥っております。
世界で最も層が厚かった中間所得層が解体され、ごく少数の富裕層と数多くの低所得層への分化が急速に進んでおります。日本が誇った社会保障制度も崩れつつある中、2年後には団塊の世代が年金受給者となる日を迎えます。
今、日本は、最も大事にされなければならないお年寄りがいなくなっても誰も気づかず、また、就職できない多くの若者が絶望感にさいなまされ、若い親が育児を放棄しわが子を虐待する。もはや高度成長がいろいろな問題を覆い隠してくれた時期はとうに過ぎ去って、社会の仕組みそのものが壊れています。そしてまた、日本人の精神風土も興廃し始めていると思います。
今、ここで政治を見直し、行政を見直し、国のあり方を見直さなければ、もう日本を立て直すことができないのではないかと思います。多くの国民の皆さんも同じように感じていたのだと思います。昨年、われわれ民主党に一縷の思いを託し、政権交代を実現させていただきました。しかしもう1年が過ぎ、残された任期はあと3年であります。
私たちは今、直ちにこの3年間を国の集中治療期間と位置づけ、徹底した改革を断行し、実行していかなければなりません。しかしその改革は明治維新以来140年続く官僚主導の政治を、根っこから国民主導、政治主導に変えなければとても成し遂げられるものではありません。私の頭の中を占めているのはその思いなのであります。
しかし、私は官僚無用論を言っているわけではありません。日本の官僚機構は世界に冠たる人材の集まっているところであると考えております。問題は政治家がその官僚をスタッフとして使いこなし、政治家が自分の責任で政策の決定と執行の責任を負えるかどうかということであります。
私は40代でたまたま国務大臣、自民党幹事長に就任するという機会があり、国家はどう運営されているのか、その実態を権力の中枢でつぶさに見続けて参りました。そこで見た官僚主導の、例えば予算作りでは、各省のシェアが十年一日のごとくほとんど変わることがありませんでした。官僚組織というのはそういうものであります。
その中で私は、自民党の中にいながらこの改革は無理であることを骨身に染みて分かりました。だからこそ、政権与党である自民党を飛び出して、真にしがらみのない政党を作り、政権を変えるしかないという決意をもってこの17年間、政治活動を続けて参りました。
改めて申しあげます。昨年、政権交代が実現したのは、こんな日本を何とか変えてくれ、という国民の悲痛なまでの叫びからだったはずであります。この声に応えようと、菅総理大臣始め閣僚の皆さんが一生懸命に取り組んでおられることを否定をするものではありません。
しかし、政治と行政の無駄を徹底的に省き、そこから絞り出した財源を国民の生活に返すという、去年の衆院選挙マニフェストの理念はだんだん隅においやられつつあるのではないでしょうか。実際に来年度の予算編成は、概算要求で一律10%カット。これではこれまでの自民党中心の政権と変わりません。財政規律を重視するという、そういうことは大事なことではありますけれども、要は官僚の抵抗で無駄を削減できず、結局マニフェストを転換して国民に負担をお願いするだけではないでしょうか。これでは本当の意味で国民の生活は変わりません。
私には夢があります。役所が企画した、まるで金太郎あめのような町ではなく、(※)地域の特色にあった町作りの中で、お年寄りも小さな子供たちも近所の人も、お互いがきずなで結ばれて助け合う社会。青空や広い海、野山に囲まれた田園と大勢の人たちが集う都市が調和を保ち、どこでも一家だんらんの姿が見られる日本。その一方で個人個人が自らの意見を持ち、諸外国とも堂々と渡り合う自立した国家日本。そのような日本に作り直したいというのが、私の夢であります。
日本人は千年以上前から共生の知恵として、和の文化を築きました。われわれには共生の理念と政策を世界に発信できる能力と資格が十分にあります。誰にもチャンスとぬくもりがある、豊かな日本を作るために、自立した国民から選ばれた自立した政治家が自らの見識と自らの責任で政策を決定し実行に移さなければなりません。
そして、霞ヶ関で集中している権限と財源を地方に解き放ち、国民の手に取り戻さなければなりません。そのため、国のひも付き補助金を順次すべて地方への一括交付金に改めます。これにより、地方では自主的な町作りやインフラ整備が可能になります。国、地方を通じた大きな節約効果と、そして地域経済の活性化が期待できます。また、地域での雇用が生み出され、若者がふるさとに帰り、仕事に就くこともできるようになります。
国民の皆さんにご負担をお願いするのは、ここにいる皆さんがありとあらゆる知恵を絞って、できることすべてに取り組んでからでいいはずであります。そしてそれが、昨年の総選挙で民主党と国民との約束でなかったでしょうか。
衆議院の解散総選挙はこうした改革に与えられた任期を費やして、その結果を出してからのことであります。官僚支配の140年のうち、40年間、私は衆院議員として戦い抜いてきました。そしてようやく官僚機構と対立できる政権の誕生にかかわることができました。われわれは国民の生活が第一の政治の幕開けにやっとこぎつけたのであります。
官僚依存の政治に逆戻りさせるわけにはいきません。それはとりもなおさず、政治の歴史を20世紀に後戻りさせることになるからであります。私は代表になってもできないことはできないと正直に言うつもりであります。しかし、約束したことは必ず守ります。
こう断言できるのは官僚の壁を突破して、国民の生活が第一の政治を実行するのは、最後は政治家の志であり、改革のきずなで結ばれている皆さんとなら、長い時代の壁を突破できると信じるからであります。そして私自身は、民主党の代表すなわち国の最終責任者として、すべての責任を取る覚悟があります。
今回の選挙の結果は私にはわかりません。皆さんにこうして訴えるのも、私にとっては最後の機会になるかもしれません。従って最後にもう一つだけ付け加えさせてください。
明治維新の偉業を達成するまでに多くの志を持った人たちの命が失われました。また、わが民主党においても、昨年の政権交代をみることなく、志半ばで亡くなった同志もおります。このことに思いをはせるとき、私は自らの政治生命の総決算として最後のご奉公をする決意であります。そして同志の皆さんとともに、日本を官僚の国から国民の国へ立て直し、次の世代に松明を引き継ぎたいと思います。
そのために私は政治生命はおろか、自らの一命をかけて全力で頑張る決意であります。皆さんのご指示、ご理解をお願いいたしまして、私のごあいさつといたします。ありがとうございました。
※憲法第13条
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」
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◆小沢氏「僕の支持者は微動だにしない。お天道様がちゃんと見てるよ」2011-01-18
田中龍作ジャーナル 2011年01月18日
小沢一郎元代表。熱燗を啜りながら政治哲学を語った。この日も適量の2合を飲んだ。
小沢一郎元民主党代表が17日、都内の料理屋でフリー記者らと懇談した。記者クラブメディアや菅執行部が「離党」「議員辞職」と喧しいなか、小沢氏は政治や人生を縦横に語った。
筆者は懇談会・開始時刻の夕方6時より数分前に会場の料理屋に着いた。小沢氏はすでに来ていて、先着のフリー記者らと冗談を言い合っていた。マスコミが喧伝する倣岸不遜さはかけらもない。
ジャーナリストの江川紹子氏が「これだけ叩かれても頑張ることができるのはどうしてか?」と尋ねた。
小沢氏は「それは支持者がしっかりしているから。僕の支持者は微動だにしない」と話し、マスコミに右顧左眄する最近の政治的風潮を嘆いた。
「民主主義の基本は選挙」が小沢氏の政治哲学だ。民の声を政治に反映させる最大の機会が選挙なのである。
若かりし頃の小沢氏は国会会期中、選挙区に帰らなかったという。その代わり夏休みは2ヶ月間ベタッと張り付いて有権者の家を一軒一軒訪問したのである。
小沢氏は自民党幹事長時代、鶴田浩二の「傷だらけの人生」がオハコだったそうだ。
♪何から何まで真っ暗闇よ。筋の通らぬ事ばかり。右を向いても 左を見ても 馬鹿と阿呆の絡み合い。どこに男の夢がある。♪
「今の永田町こそ、この鶴田浩二の歌がぴったりじゃないですか?」と筆者は聞いた。
「お天道様がちゃんと見てるよ」。強制起訴だ、離党勧告だと騒がれても平常心を失わない小沢氏の姿勢を象徴する言葉だった。
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◆小沢邸新年会/ポピュリズムとの闘い2011-01-03
民主党:対立くっきりの新年会 菅首相と小沢元代表
民主党は1日、菅直人首相と小沢一郎元代表が、それぞれ新年会を開いた。「脱小沢」路線を維持する首相に対し、小沢氏は自らに近いグループから政府や党の要職に人材を起用し挙党態勢を築くよう求め、年初から根深い党内対立を印象づける結果となった。
小沢氏は東京都世田谷区の私邸で新年会を開催。海江田万里経済財政担当相や原口一博前総務相、山岡賢次副代表ら民主党の衆参両院議員118人が駆けつけたほか、新党大地の浅野貴博、無所属の石川知裕両衆院議員の計120人の国会議員が参加した。
小沢氏は資金管理団体の政治資金規正法違反事件で強制起訴を控えており、参加人数が注目された。現職幹事長だった昨年の165人(新党大地の鈴木宗男代表は含まず)は下回ったが一定の存在感を示した。全体の約3分の1が新人衆院議員で、小沢氏の党内基盤の重点も印象づけた。閣僚で唯一参加した海江田氏は早めに退出し、菅直人首相の新年会にも参加した。
小沢氏はあいさつで「私が(89年に)自民党幹事長に就任した時も参院は過半数を割っていたが、野党と話し合い、議論することができた。ねじれ国会という理屈は通用しない」と国会運営に苦しむ菅政権を批判。「政府・与党が力を合わせなくてはならない」と挙党態勢の構築を求めた。自身の「政治とカネ」の問題については「ご迷惑ばかりかけている」と述べるにとどめた。
一方、菅首相は公邸で年賀会を開催。仙谷由人官房長官、蓮舫行政刷新担当相、鉢呂吉雄国対委員長、枝野幸男幹事長代理ら政府・民主党幹部や、菅グループの江田五月前参院議長ら国会議員約45人が参加。首相は「脱小沢」も念頭に「多少のハレーションは覚悟して、自分なりの言葉でやりたいことをしっかり伝えていきたい」とあいさつした。【葛西大博、倉田陶子】
◇小沢邸新年会出席を取材で確認した国会議員(敬称略)
【民主党衆院議員】※海江田万里▽原口一博▽山岡賢次▽山田正彦▽東祥三(以上当選5回)吉田治▽細野豪志▽松野頼久▽※城島光力▽※松原仁(以上当選4回)樋高剛▽松木謙公▽内山晃▽松宮勲▽高山智司▽津島恭一▽小宮山泰子▽神風英男▽山口壮▽中津川博郷▽中塚一宏▽鈴木克昌(以上当選3回)岡島一正▽太田和美▽辻恵▽横山北斗▽福田昭夫▽中野譲▽渡辺浩一郎▽橋本清仁▽松崎哲久▽古賀敬章▽若井康彦▽梶原康弘▽階猛▽石関貴史(以上当選2回)黒田雄▽中後淳▽水野智彦▽岡本英子▽川島智太郎▽金子健一▽石田三示▽岸本周平▽山口和之▽石原洋三郎▽菊池長右エ門▽畑浩治▽瑞慶覧長敏▽高橋英行▽三宅雪子▽江端貴子▽木村剛司▽相原史乃▽大西孝典▽菅川洋▽仁木博文▽山崎摩耶▽萩原仁▽早川久美子▽大谷啓▽渡辺義彦▽玉城デニー▽笠原多見子▽大山昌宏▽柳田和己▽奥野総一郎▽村上史好▽高松和夫▽小林正枝▽川口浩▽熊谷貞俊▽木内孝胤▽空本誠喜▽阪口直人(以上当選1回)
【同参院議員】平田健二(当選3回)平野達男▽広野允士▽森ゆうこ▽尾立源幸(以上当選2回)藤原良信▽外山斎▽谷亮子▽田城郁▽安井美沙子▽行田邦子▽小見山幸治▽主浜了▽姫井由美子▽一川保夫▽室井邦彦▽米長晴信▽大久保潔重▽平山幸司▽友近聡朗▽佐藤公治▽川上義博(以上当選1回)
【民主党以外の衆院議員】石川知裕(無所属、当選2回)▽浅野貴博(新党大地、当選1回)
※は菅首相の年賀会への出席も確認した議員
毎日新聞 2011年1月2日 20時20分(最終更新 1月2日 21時27分)
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「小沢で明け、小沢で暮れる去年今年」 読み人しらず