勝田事件被害死者数について 「22名殺害」という誤った流布
〈来栖の独白 2005,1,24 Mon.〉
昭和58年逮捕から裁判係争中、勝田事件に関するマスコミ報道や出版物に、「22名」殺害などと事実に反する物が多々ございました。既に受刑し、今更という気も致しますが、死刑関連サイトに依然その種の出版物からの引用が見受けられますので、清孝の手記から、明らかにしておきたいと思います。
創出版刊 『冥晦に潜みし日々』より
安堵
意識が朦朧としていました。
もう何もかも終わったんだといった、安堵感と失望感が同時にありました。失望感といっても、長年にわたって世の中の平穏と秩序を乱しつつ生き延びていた私は、心ないことをしたものだと絶えず己の成れの果てを覚悟していたせいか、興奮はしていましたが捕まったことに対して無念さというものは感じず、むしろ他人事のように胸のすく思いがしたのを覚えています。(略)
ところで、逮捕された直後の私は比較的冷静であったように思っていましたが、時間が経つにつれて、歯・両手首・腰・足と全身に激痛が増したことを思うと、かなり興奮していたために痛みが分からなかっただけで、少しも冷静ではなかったのだと回想するのです。痛みが激しくてじっと座ってもいられなかったそんな私を、刑事は詰めかけた多数のマスコミ関係者を退け、また、尾行して来る者を振り切ってまでして歯科・外科医院へと連れて行ってくれたのです。この時、余りにも多いマスコミ関係者の姿に、我ながらいかに重罪であるかを思い知らされると同時に、罪人の私に娑婆では感じなかった人間味をもって温かく接してもらえたことにとても感激し、犯した罪は重罪だが、拳銃強奪に関する一連の事件以外についても、一切懺悔しなければいけないという心境になりかけている自分を感じていたのです。
そればかりか、一夜明けても腰痛で苦しむ私に、底冷えのする留置場では治るものも治らないと言って、暖房の利いた県警本部の留置場へと移送してくれた刑事のその心遣いに、一切の宿悪を懺悔しようとの決意が、この時すでに内心にはあったのです。言わば、猫をかぶり続けた長年の苦悩から早く抜け出したい気持もあって、この親切を受けた日以後、いつ懺悔しようかとその好機を窺う自分でもあったのです。
とは言っても、113号事件の他に7人も殺めているといきなり告白すれば、いくら親切な刑事でも激怒するのではないか。それまでの親切とは打って変わって、虐待されるのではないかという不安があったのです。それに、一切を告白すれば、極刑で裁かれる自分自身の覚悟は別に、私の家族が自殺してしまうのではないかという懸念が脳裏から離れなかったのです。告白しようと決意したものの、頭に浮かぶことと言えば決まって自分の家族のことでした。
でも、被害者の悶死を思うと、家族には死なないでくれと祈れる私はまだしも恵まれているのだ、と自分に言い聞かせていたのです。そして、犯した重罪は消えることなくとも、せめて人間に立ち返ろうとして告白をしたことが、いつか必ずや家族も理解してくれるに違いない、と信じることで、自分に打ち勝ったのでした。
〈よし、明日の朝一番に懺悔しよう。死刑になってもええ、全部話してしまおう・・・〉
朝になって迷わないよう何度も何度も自分を追い詰めていたのです。そしてその夜、壁に掛かる時計ばかり見つめながらとうとう一睡も出来ず、2月4日の朝を迎えました。重罪を胸に秘めて長年生き延びてきた私でしたが、いままさに宿悪を懺悔しようとする心境は、時を移さず土壇場へ引ったてられる恐怖に怯えきっていたのです。
温情
懊悩しながら長い一夜を明かした私は、極刑を覚悟していたとはいうものの、いざ秘中の秘を告白するとなると、やはり臆病風が吹くのでした。
それは、告白する事によって受ける罪の報いを意識して起こる恐怖ではなく、残忍極まる奴だとして刑事の態度が一変することに抱く恐怖心だったのです。親身になって気遣ってもらっていただけに、小心な私は余計に言い出しにくかったのです。
覚悟したにもかかわらず、尚も自分に都合よく迷う私自身多少はがゆくもありました。心の中で「すまん、許してくれ・・・」と妻子の名を呼ぶことで意識的に弾みをつけ、「僕はまだ他にも人を殺しています・・・」
と、一気にまくし立てたのでした。
ところが、自責の念から被害者に対する済まなさがどっと湧き起こり、机に顔を伏して声涙共に下る私に「泣け! もっと泣け! 泣きたいだけ泣け」と刑事は思う存分泣かせてくれたのです。
思惑と違った意外な刑事の言葉にとめどなく涙を誘われ、何もかも一切告白しなくてはという良心に一層駆り立てられたのでした。
思えば、とりとめもなく交錯する脳裏には、十年以上も前の罪業があからさまに甦り、髪を振り乱して泣き崩れた私には、犯した罪の重大さに、自分を冷静に置くことができないほど精神は錯乱していたのです。やや落ち着きを取り戻した私に「じゃあ、紙に書きなさい」と刑事は白半紙を差し出したのでした。
しかし、兵庫労金事件と松坂屋事件を思い起こしながら真相をしたためている最中にも頭の中に妻子の顔が浮かんでは消え、ボールペンを持つ手の動きはどうしてもにぶるのです。それに、告白の文字を連ねるごとに、重くなる罪を意識してしまい、我ながら心の底から怯えていたのです。
どうにか2件だけは記述できました。が、やはり頭の中は自殺するかも知れない家族のことで混乱してしまい、その日は、女性の殺害についてはとうとう告白できなかったのです。
何もかも話すつもりで取調室に入っていながら、ついに女性5人の殺人を言い出せなかった私は、その日の夜も次の日の夜も、複雑怪奇な想念が脳裏を駆けめぐり、怨霊に取り憑かれたような怯えに包まれて、ほとんど眠れませんでした。そればかりか、逮捕されてから一週間になろうとするのに一度も便通がなく、精神的・肉体的な限界を迎えていました。そのような仏罰を意識する私は、告白しない自分自身に、もはや、ごまかしが通らなくなっていたのです。
〈家族は死なない。きっと生きていてくれる・・・〉
と信じることで、今度こそ生まれ変わろうと決心したのでした。
そして、もう二度と迷わないためにも告白は早いほうがいいとの自覚から、夜中の2時半頃だったかに、刑事を呼んでくれるよう留置場の係員に申し出たのです。
電話連絡を受けた刑事は早速駆け付けてくれたのですが、留置管理規定で夜中の取調べは許されないようでした。
調べが開始されたのは翌朝9時半頃からでした。私は躊躇こそしなかったものの、やはり刑事に対して一抹の不安は隠しきれませんでしたが、紙とボールペンの借用を申し出て5名の殺人を一気にしたためたのです。そんな私に、
「よく話してくれたね」
と、刑事から予期しなかった言葉をかけて頂き、問罪されないうちに告白した自分の勇断を素直に自賛できたのです。久方ぶりに心のわだかまりが消えたせいか、早速その晩便通もあり、前後不覚の深い眠りに落ちたのでした。と
勝田清孝は、自己と家族の生存を賭けて(不安に打ち勝って)、8名の殺害を認めました。
被害者への詫びの第一歩として、また自己の人間回復(勝田は「真人間」という言い方をしました)のため、避けて通れないことと認識したのでした。「嘘で糊塗した人生だった」と半生を振り返る清孝は、この告白の瞬間から、「真実しか口にしない」人間になりました。「お世辞も、嘘の一つやから」と世辞すら斥けたのでした。このような勝田に、捜査官は「おまえの言うことは、俺らはぜんぶ信じるんだ」と言ったのでした。
一審判決文に「果てしのない虚栄と物欲の願望に囚われた被告人」と謳われた囚人は、私が出会ったとき、少し寂しいほどに正直な風情を湛えていました。
拙い手記ではありますが、まえがきに「飾らず、嘘抜きで書きました」としたためている真情を、そのまま受け取ってやりたいと思います。
残念に感じますのは、勝田清孝の実像と虚像(読み物等に描かれた人間像)との乖離の甚だしさです。人間勝田と一度の接見も持たれぬままお書きになったわけで、マスコミ報道や憶測に拠るしかなかったのでしようが、物書きの値打ちとは、人間洞察の深さに尽きるのではないでしょうか。たとえエンターテインメントでありましても、人の心を打つ作品というのは、優れた人間洞察に裏打ちされているものではないか、と私は思います。 来栖宥子
http://jiten.biglobe.ne.jp/j/c3/ed/01/36c93f590c2c9da932a1c7d85ac8098a.htm
勝田清孝(かつた きよたか、1948年8月29日 - 2000年11月30日)とは日本の連続殺人犯。
殺人の人数については22件について疑われ、本人も22人を殺害したと自供したものの、14件は確証がなかったため立件されず、確定しているのは8人のみである。なお、勝田の犯行とされているものの多くは初め別件だと思われていた。
「勝田事件被害死者数について」補遺
〈来栖の独白 追記 〉 2008/05/29 up
生前、面会で清孝が面会で「阿呆なことや」と言って、本の話をした。佐木隆三氏の『殺人百科Ⅳ 陰の隣人としての犯罪者たち』(徳間書店)である。「疾走する消防士」と題して勝田事件のことが書かれており、P229に
犠牲者は、いったい何人というのか。新聞報道を整理すれば、次のようになるが、太字の8件が最終的に起訴された。
とあって、22の事件が列挙されている。太字の8件が、勝田事件である。WEBサイト上に散見される「殺人の人数」の根拠は、この『殺人百科Ⅳ』の「22件」からと思われる。その娯楽本であるが、後日宅下げしてき、私の書斎にある。
当局は、22件について勝田との関連を疑いもしなかった。昭和61年3月24日名古屋地裁判決文「自首の成否」で、橋本享典裁判長は次のように言う。
捜査官にとってもまさに寝耳に水であって、若しも被告人の自供がなければ、見落としてしまう可能性が多分にあったことが認められる。
なお、名地裁判決文「自首の成否」であるが、部分的に誤謬があるので指摘しておきたい。
「真人間になるためには今までやった悪い事は全部自分の口から言わなければならない」旨述べ、被告人の人間性に訴えながらすべての余罪を自供するよう説得したこと、被告人は、これに応え……被告人の心情に訴えかける捜査官の説得が呼び水の役割を果たしたことは事実であるにしても
自供は、全面的に勝田清孝の意思、願望の発露であった。「真人間」との発想も、勝田のものである。永年にわたって悪行を働いてきた勝田は、同時に自分を蔑み続けてもいた。真人間に立ち還りたい勝田が居た。自供が捜査官の働きかけによるものではないことを私は勝田から聞いたし(「告白」を聞いたY刑事は驚愕して「お前だったのか」と言った)、手記にも正直に綴られている。
勝田清孝という人の人間性がよく表れていると思う。〈勝田は、自供という言葉ではなく「告白」というニュアンスを好んだ。〉 来栖宥子
原判決文(名地裁昭和61年3月24日宣告)より
四 自首の成否
最後に、弁護人は、昭和五八年一月三一日、判示第二の六の第一勧業銀行強盗致傷事件で逮捕された後、同事件で勾留中の同年二月四日、兵庫労働金庫強盗殺人事件、松坂屋ストア強盗殺人事件を同月八日、中村、藤代、伊藤、増田、識名ら五人の女性に対する強盗殺人事件を自供したが、その当時、これら強盗殺人七件のほか、強窃盗事件等八件の判示第一の各罪については、被告人が犯人であることにつき未だ捜査官に発覚しておらず、被告人が進んで自供したものであるから、刑法四二条一項の自首に該当し、その刑を減刑すべきである旨主張する。
そこで、検討すると、前掲各証拠によれば、警察庁においては、昭和五七年一〇月二七日名古屋市千種区内で発生した警察官拳銃強奪事件及び右奪取にかかる拳銃を使用した京都エポック強盗事件に至る一連の事件が、同一犯人によるとの見方を強め、広域重要事件第一一三号に指定し、愛知、京都等の各府県警察を中心に大規模な捜査を展開し、犯人検挙に総力を挙げていたところ、昭和五八年一月三一日名古屋市昭和区内で発生した第一勧業銀行強盗致傷事件により被告人の現行犯逮捕を見、同日右一連の事件が被告人の犯行である旨自供するに至ったこと、その勾留中、捜査官は、右各犯行の罪質、動機、手口、犯罪地域の広域性等のほか、自供後も容易に消えない被告人の暗い表情から他にも同種の余罪があるものと直感し、「真人間になるためには今までやった悪い事は全部自分の口から言わなければならない」旨述べ、被告人の人間性に訴えながらすべての余罪を自供するよう説得したこと、被告人は、これに応え、二月四日、判示第一の六の兵庫労働金庫強盗殺人事件、判示第一の八の松坂屋ストア強盗殺人事件を自供したが、更に被告人は、煩悶のすえ、同月八日午前三時ころ、深夜にもかかわらず判示第一の一ないし五の五人の女性に対する強盗殺人事件についても告白しようと決断し、留置場担当の係員に申し出たところ、その旨は、直ちに捜査担当官に伝えられ、同日午前八時過ぎ、被告人は、捜査官に対し、右五件の強盗殺人事件を一気に自供したこと、これらの女性強殺事件は、拳銃を使用した警察庁指定広域重要事件第一一三号にかかる判示第二の各事件の手口とも著しく異なり、又犯行時からすでに五年ないし一〇年の歳月を閲しており、捜査官にとってもまさに寝耳に水であって、若しも被告人の自供がなければ、見落としてしまう可能性が多分にあったことが認められる。右の事実によれば五件の女性強殺事件にかかる被告人の自供は、前認定のような被告人の心情に訴えかける捜査官の説得が呼び水の役割を果たしたことは事実であるにしても、当時の捜査の客観的状況上、被告人の申告がない限り、犯人の誰であるかについては、捜査官の認知能力の限界を超えていたことが明らかであるから、その申告は、刑法上の自首に該当するというべきである。しかして、刑法上の自首は、任意的減軽事由であるから、刑を減軽すべきか否かは、一般的に国家機関をして真犯人を可及的に速知させる自首減軽制度の立法目的に照らし、犯罪の情状等を総合勘案して決すべきところ、判示第一の一の中村博子強盗殺人事件については、右の趣旨を考慮して刑法二四〇条後段の所定刑中無期懲役刑を選択したうえ、刑を減軽するのが相当であるが、同種の強盗殺人を反覆累行した後の四人の女性に対する強盗殺人事件については、死刑又は無期懲役の刑種の選択において右の趣旨を考慮する余地はあるにしても、そのうえ更に自首減軽をするのは相当ではなく、したがって、その後犯した判示第一の六の兵庫労働金庫強盗殺人事件及び第一の八の松坂屋ストア強盗殺人事件については、刑法上の自首に該当するかどうかはともかく、最早その適用を考慮すべき余地のないことは明らかである。よって、弁護人の主張は、判示第一の一の中村博子強盗殺人事件につき自首減軽を認める限度で理由があるが、その余の点は、すべて理由がない。
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◇ 宮崎勤被告~家族の悲劇 被害者の陰、地獄の日々 父親自殺 改姓 離散・・・中日新聞 2006,1,18, 2014-12-08 | 勝田清孝
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