『約束の日 安倍晋三試論』 小川榮太郎著 幻冬舎文庫 平成25年7月20日 初版発行 /(この作品は2012年8月小社より刊行されたものです。)
p126~
VⅠ 大臣の死
5月28日、松岡利勝農林水産大臣は、議員宿舎の自室で首を吊り、自殺した。享年62。
松岡は十時頃まで、秘書と打ち合わせをしていた。全く平常の様子だったと秘書は証言している。その後、外出の予定があるにもかかわらず、本人が室内から出てこない。正午過ぎに、秘書が警護の警察官と一緒に室内に入ると、松岡は居間のドアの金具に、布製のひもで首を吊っていた。ただちに通報され、1時過ぎ、サイレンを鳴らさぬ救急車と消防車が、宿舎に入った。現場での蘇生措置の後、松岡は病院に搬送される。搬送先の慶應義塾大学病院は、丁度、人気ポップスグループ「ZARD」の歌手坂井泉水(いずみ)の急死で報道陣がごった返している最中だった。松岡を搬送する救急車は、その数十台のカメラの中を通過したのである。
p127~
世上が騒然となったのは当然だろう。テレビは一斉に臨時ニュースに切り替わり、街には号外が出た。現職閣僚の自殺は戦争直後を除けば、戦後初めてだった。(略)
朝日新聞の社説「松岡氏自殺 疑惑も晴らさぬままに」も同様に、安倍に閣僚の自殺責任まで負わせるかのような書きぶりだ。
安倍首相への打撃も大きいだろう。内閣の閣僚が、理由はともあれ自殺にまで追い込まれたのだ。(p128~)首相は任命責任を認めているものの、それは決して形式だけのものではないはずだ。
松岡氏には、以前から政治資金をめぐる疑惑が報じられていた。それをあえて閣僚に起用したのは、自民党総裁選での論功行賞ではとの見方が強かった。
その後、スキャンダルが噴出しても、首相はかばい続けた。昨年末の佐田行革担当相の辞任に続く閣僚更迭となれば、政権への打撃が大きすぎるとの思惑もあったのではないか。
「理由はともあれ」とはよく言ったものだ。更迭だったならば、手柄のように吹聴しただろうが、自殺されてしまえば、まさか「我々の追及で死に追いやってやった」とは書けない。安倍が、「論功行賞」という打算で松岡を採用し、「閣僚更迭となれば、政権への打撃が大きすぎる」という打算で松岡をかばい続けたことが、松岡を死に追いやったと言いたいわけだ。松岡としては、死して尚、安倍叩きに使われ、死んでも死にきれぬ思いだったろう。
p129~
何故自殺したのか
しかし、改めて考えてみると、何故、松岡はじさつしたのか。これは素朴だが重大な疑問である。安倍が会見で明らかにしたように、松岡には、一部報道の憶測に反して、捜査のメスが入ったという事実はなかった。法治国家では、灰色に見えるというだけでは、逮捕に至らないのは、言うまでもない。松岡の自殺直後、朝日新聞ははしなくも本音を漏らし、民主党は(p130~)「『法に則って報告している』と繰り返す松岡を攻めあぐねていた」と書いている(5月29日付)。マスコミは騒ぎを拡大し続けたが、粘って逃げ切れないほど重大な疑惑ではなかったと見るべきだろう。
それにもし、逃げ切れなかったとしてどうだというのか。松岡が親しく兄事していた鈴木宗男も、その鈴木を「疑惑の総合商社」と罵った辻元清美も、逮捕・有罪確定までいきながら、今も世間の白眼視など気にも留めず、活躍しているではないか。松岡のようなタイプの人間が逮捕そのものを恐れて自殺するとは考えにくい。また、安倍が松岡を慰留したことがプレッシャーになって自殺したという説に至っては、本末転倒が過ぎる。閣僚の自殺が内閣に与えるダメージの方がはるかに大きい。慰留を振り切って辞職すればいいだけの話だろう。松岡は、自殺の直前まで秘書と打ち合わせをしており、遺書も8通用意されていた。熟考の末、冷静に選んだ自殺だと言っていい。
では、松岡は何故自殺を選んだか。
愚問であるのは論を俟たない。自殺の真相など当人でなければ分かるまい。(略)私としては、遺書を素直に取る以外、松岡の死を深読みする必要は認めない。
p131~
国民の皆様 後援会の皆様
私自身の不明、不徳の為、お騒がせ致しましたこと、ご迷惑をおかけ致しましたこと、衷心からお詫び申し上げます。
自分の身命を持って責任とお詫びに代えさせていただきます。
なにとぞお許しくださいませ。
残された者達には、皆様方のお情けを賜りますようお願い申し上げます。
安倍総理 日本国 万歳
平成十九年五月二十八日
松岡利勝
彼は疑惑の多い利権型の政治家だった。そうに違いあるまい。元来利権を好み、政治家を目指したのか、それとも理想を抱き、その実現のために奮闘しているうちに、現実の汚れに(p132~)まみれてしまったのか、私は知らない。いずれにしても60歳を過ぎて、ようやく農林水産大臣の顕職に辿り着く。
露骨な猟官運動で論功行賞にありついたと陰口を利かれた。しかし、彼を抜擢したのが理想家の安倍だったことが松岡の運命を決した。
安倍は彼に通り一遍の意味で農水相の地位を与えたのではなく、「戦後レジームからの脱却」の一環、国家の大業として、農政の転換を期待した。松岡も、農政の専門家として、安倍の国創りの基盤を作る気概に燃えたに違いない。安倍のような理念型の政治家を首相に仰がない限り、「攻めの農業」という大きな政策転換の現場に巡り合わせることはあり得ない。松岡は文字通り、日本国のための死に場所に出会ったと実感したに違いない。
もし、この時、彼が打算的な首相によって、論功行賞として農水相のポストを与えられただけだったなら、松岡はさして苦しまなかったろう。過去の不始末の汚点など時が水に流す。スキャンダルが一段落したら、後は元農水相という終身名誉職で世間を闊歩すればいいのである。
彼を激しく恥じ入らせ、苦しめたのは、おそらく、自分とは対極的な政治家、筋金入りの理想家安倍にかばわれ続けながら、内閣の足を引っ張ったことだった。理想家に抜擢された汚れ役は、理想家の純潔に殉じねばならぬ。彼は安倍内閣を死に場所に選ぶ。
p133~
消せない過去を背負いながら顕官でい続けるよりも、純潔な理想家の閣僚として死ぬことで、国家の大業を、死の後も守る道を選んだのだ。
「安倍総理 日本国 万歳」をいささかつたなく翻訳すれば、おそらくそういうことになるに違いない。
運勢の潮目
「安倍の葬式はうちで出す」という朝日新聞幹部のつぶやきは、松岡の葬式を本当に出すに至った。だが、日頃安倍批判に饒舌だった「天声人語」は、松岡自殺事件を取り上げなかった。驚くべきことだ。自責の念からなのか、それとも世論の動向を見る「打算」からなのかは、分からない。
一方、民主党の出方はこうだ。
安倍は29日、松岡の地元、熊本県阿蘇市で営まれた通夜への出席にぎりぎりまでこだわったが、民主党は翌30日に、小沢一郎代表との党首討論開催を主張して譲らなかった。安倍は結局、通夜には参列できず、妻の昭恵が代理で出席する。昭恵は「大臣が道筋をつけた農政改革を引き継いでいきたい」という安倍の弔辞を涙ながらに代読した。
p134~
松岡の自殺は、事実上安倍政権に引導を渡したといってよいほど、運勢の潮目を変えてしまった。
安倍の心は、敵の攻撃には強い。朝日新聞も北朝鮮も、彼をひるませることは決してできない。まして民主党の小沢一郎など、この時までの安倍には敵とさえ見えなかったろう。だが、それは油断だった。この松岡の自殺が、感情量が豊かで、人を傷つけることを極度に嫌う安倍の心に密かに与えた打撃の大きさを、小沢は間違いなく正確に計量できていたようである。
それまで攻撃すべき安倍のアキレス腱を見出しあぐねていた小沢は、ようやく猛攻への決断を下す。
p199~
実はこうなる前に、秘書や近親者は、何度も本人に、退陣してくれ、と頼んでいました。単なる腹痛や下痢の頻発ではすまない状況に近づきつつありました。しかし、本人は自分でなければ果たせないことがある。自分は松陰先生を本当に心の師としてきた。松陰先生同様、死を賭しても国のために戦い抜く、自分が辞めるのは死ぬ時だ、の一点張りでした。
しかし、医師から、このまま総理の職務を続けながら症状が回復することはないと言われました。命懸けで、というけれど、本当にその域にまで行ってしまう直前でした。
p200~
「これ以上見ていられない。今回だけは人が何と言おうと、どんな非難嘲笑されようと、どうしても引いてください」と最後は秘書みんなで頭を下げ、泣きながらお願いしました。(初村秘書直話)
これは幕末維新の大河ドラマの1場面ではない。浪花節でもない。現代の政治家、それも内閣総理大臣が、戦後という時代の病理と、全面戦争を戦うとはどういうことだったのかの証言であり、その戦いに挫折した瞬間の、現実の光景だ。
松陰と自己の職責を重ね合わせるのは、時代錯誤だろうか。誇大妄想だろうか。安倍は、近代政治には通用しないドン・キホーテだったのか。
無論、そうではあるまい。
安倍を叩き続けてきた人達は、このような証言の青臭さを冷笑するだろう。笑い者にしようとするだろう。だが、彼らが、安倍を冷笑するときの口元は、密かに歪んでいるはずだ。「戦後レジームからの脱却」などという大テーマを本気で実現しようとした安倍晋三の愚直さの奥に秘められている純粋さこそが、彼らには、本当は恐ろしかったはずだからだ。
実際、安倍晋三とは何者なのか。その全貌は、安倍が退陣するまで、誰にも分からなかったことを、私達は忘れない方がいい。
p201~
安倍はひたすら政策実現に突っ走った。無我夢中だった。「戦後レジームからの脱却」という大きく複雑な壁を本当にどこまで越えられるか、安倍自身にとっても戦いの全貌など分かりはしなかったに違いない。一方、敵は敵で、安倍がどこまでやり抜く気なのか、どこまで本気で憲法改正まで持ち込む気なのか、またつもりがあったとして、それがどこまで可能なのか、何一つ分かっていなかった。どこまで叩けば、安倍内閣を潰せるかも無論分からない。だからあらゆる材料を見つけ出しては、狂犬のように吠え続けた。吠え続ければ、叩き潰せるという保障などどこにもない。彼らは彼らで、青ざめながら戦ったのだ。
これが歴史というものだ。安倍の挑戦は、誰一人挑んだことのない挑戦だ。敵味方含め、誰にとっても、全てが未知だった。そして、政治的な挑戦とは、いつでもレコンキスタ(失地回復)に他ならない。失われた価値の回復への衝動こそが、政治的な情念の始原である。
しかも安倍政治が王道たる所以は、安倍がその情念を生のエネルギーとして決して大衆煽動に悪用しようとしなかった点にある。情念を生のエネルギーとして政治の内に持ち込むことの危険を、安倍は誰よりもよく知っていたからだ。政治はどこまでも理性によって導かれなければならない---彼の挑戦は常に真っ当な政策実現という道を通って行われた。
冷酷な打算家が、筋金入りの誠実な人間に激しく嫉妬するように、反安倍勢力は、おそらく、安倍のこうした真っ直ぐな誠実さそのものこそが憎くてたまらなかったのだ。その意味で、(p201~)政策上の対立だけに原因があるとは思えぬ彼らの残酷な安倍バッシングは、皮肉にも安倍の理性的な政治が引き出してしまった一種の情念戦争だったのである。
p202~
文字通り「安倍の葬式」を出した朝日
安倍退陣に至ってのバッシングのえげつなさは、類を絶した様相を呈した。マスコミは、最後の最後まで安倍を非難し、愚弄し続けた。安倍が退陣を決めた背中に、泥水をぶっかけ続けるように罵り続けた。安倍その人だけではなく、安倍の「戦後レジームからの脱却」、そして安倍再登板への人々の待望論が、決して再び湧き上がらないように、徹底してなぶりものにしておこうというわけであったろう。「週刊朝日」は、平成19(2007)年9月28日発売号で「総力特集 安倍逃亡」と題して、45ページもの大特集を組んだ。(略)
「美しい国」とはいったいなんだったのか。胸に響かぬ空虚な言説しか弄せない「安倍晋三の時代」とはなんだったのか。悲劇とも喜劇ともいえない無残な結末を迎えた「失われた1年」とは。
p203~
とにもかくにも、「社是」に従って「安倍の葬式」を出せたわけだ。罵詈雑言の筆が滑らかになる気分も分かろうというものだ。この特集の中で、朝日新聞のコラムニスト早野透は「『ぼくちゃん、宿題できないから学校行きたくない』という子どものように」政権を放り出した、「安倍晋三クンは、まだまだ経験不足だったのを小泉改革の継承者として蝶よ花よと育てられた。純ちゃんから晋ちゃんだ、長身、イケメン」と、とことん安倍を愚弄している。「安倍改革」の恐怖から自由になった安堵が文体に溢れている。よほど憎かったのであろう。だが、その下心は哀しくなるほど単純だ。
p205~
そして、また、安倍政治の意義をどの程度理解していたかは別にして、安倍の戦いの深刻さを直感していた人もいる。参議院議員丸山和也もその一人だった。(略)
p206~
安倍は自らが必要だと信じた戦い、「戦後レジームからの脱却」という壮大な「岩」にしがみつきながら、その意義を、最後まで国会で呼号した。だが、国会議事堂に座っていた議員の中で、本気で、この政治理念の勇者の言葉に耳を傾けていた人は何人いただろう。
丸山の直覚した「濁流」は、無論国会の野次などではない。(略)「濁流」は、寧ろ、己を失って漂流し続けた日本の戦後史の全重量そのものではなかったか。「戦後の日本が経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自らの魂の空白状態へ落ち込んでゆく」(三島由紀夫『檄文』)堕落の全重量そのものではなかったか。極度の体調不良に堪えながら所信表明の原稿を読む安倍の耳には、足元を流れていくその「濁流」の、凄まじい轟音が幻聴されていたのではなかったか…。
* * * *
…四年待ったんだ。
最後の三十分間だ。
最後の三十分間に……ため、今待ってんだよ。 (ヤジ、さらに激しくなってくる)
諸君は武士だろう。
諸君は武士だろう。武士ならば、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ。
どうして自分の否定する憲法をだね、自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ。
昭和45年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入した時の三島由紀夫のバルコニーでの演説である。
勿論、割腹自殺した三島由紀夫と首相としての安倍晋三とを並べるのが、無茶な比較であることは言うまでもない。
にもかかわらず、三島を持ち出したのは、安倍が、首相として挑戦した「戦後レジーム」の「濁流」は、かつて、三島由紀夫が自衛隊のバルコニーでの演説中に強烈な無力感をもって対峙していた「ヤジ」の背後の、有無を言わせぬ圧倒的な力と同質のものだと思われるからだ。
p208~
誰よりも整然としたロジックとレトリックを、誰よりも華麗に駆使できた天才が、名声の絶頂で、非合法な手段に訴え、乾いた声と、貧相な言葉で、絶叫した。この激発は一体何だったのか。彼は何を希望していたのか。世間が興味本位に騒ぎ立てただけだったのは仕方がないとして、彼が決起を促した自衛官さえ、三島を野次り、笑いのめしたのである。佐藤栄作首相は、記者団に対して、「天才と気違いは紙一重というが、気が狂ったとしか思えない。常軌を逸している」と答え、時の防衛庁長官中曽根康弘は「暴力は糾弾すべきだし、自衛隊にとって三島事件は迷惑だ」とコメントした。
だが、彼らが本当に三島事件に何も感じていなかったというわけではない。佐藤栄作は、日記には「立派な死に方だが場所と方法は許されぬ」と書いていた。当時政治部の記者だった久保紘之(こうし)によれば、コメントを求めた久保に対して、「中曽根は新聞発表用の、通り一遍の批評を口にしたあと、目を閉じて黙り込んでしまった。そのとき涙が一筋スッと頬に伝った」。(久保紘之『田中角栄とその弟子たち---日本権力構造の悲劇』文藝春秋、平成7年、79頁)
文芸評論家の小林秀雄と後輩の江藤淳も、翌年、対談「歴史について」(『諸君』文藝春秋、昭和46年7月号)で、三島の切腹について、激しいやりとりをしている。(略)
p210~
一方、江藤は、昭和50年代に入り、アメリカによる占領時代の詳細で丹念な研究によって、「戦後の言語空間」の歪みの起源を明らかにすることになる。戦後思想史上の画期的な転換であった。
しかし、では「戦後の言語空間」の歪みに、実際に決着を付けるにはどうしたらいいのか。
江藤はその戦いを託すべき政治家の不在に絶望しつつ、三島の切腹から29年目の夏の激しい夕立時、自ら命を絶つ。「去る6月10日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。乞う、諸君よ、これを諒とせられよ」という遺言は余りにも有名になった。江藤を師と仰ぐ福田和也は、追悼文でこう言っている。
江藤淳は、「弱さ」の文人であった、と思う。その「弱さ」故に、「弱さ」を抱えながら、背筋を伸ばし、胸を張り、誰もが自分の任ではないとする責務を、どのような勇者も尻込みするような責務を引き受けてきたのが、江藤淳という人だった、と。
しかし、「弱さ」を抱えていない理想家などというものがあるだろうか。「弱さ」と無縁なほど、物を感じる力のない人間に、どのような高い戦いができるだろう。それは単なる「弱さ」ではない。
p211~
負けを承知で戦いに挑む真の勇者の「弱さ」、いわば高貴な「弱さ」である。
おそらく、同質の「弱さ」を抱えながら、「どのような勇者もしり込みするような責務を引き受け」る首相として登場したのが、安倍だった。三島由紀夫の切腹は、安倍首相の「戦後レジュームからの脱却」によって、文学者の狂熱から救われ、穏当で希望に満ちた政治言語化された。小林秀雄の『本居宣長』の静かな思索は、安倍首相の「戦後レジュームからの脱却」によって、書斎から解き放たれ、初めて政治言語化された。江藤淳の「戦後の言語空間」批判は、安倍首相の「戦後レジュームからの脱却」によって政治日程に乗り、初めて政治言語化された。
安倍は、このように、日本を高い精神的位相で守ろうとした高貴な血脈に連なっている。平成の日本人には極めて稀な資質だ。政治家であれば尚更、例外中の例外だろう。安倍が、幹事長時代、小泉内閣メールマガジンの編集後記に次のように書いた時、それは、そうした自覚の宣言でもあったはずである。
先週この欄で取り上げた吉田松陰が処刑されたのは旧暦で10月27日、新暦でいえば11月25日です。
この日を選んだかどうかは議論のあるところですが、同じ日に三島由紀夫が市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で自決しました。彼はその年の7月7日付の産経新聞に『私の中の25年』という論文を寄せ、将来の日本の姿を次のように予言しています。
「無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」
31年経った今、この予言があたっていたかどうかではなく、21世紀の日本をどうするか議論して行きたいと思います。(「小泉内閣メールマガジン」平成13〈2001〉年11月29日号)
安倍が引用しているのは、「果たし得ていない約束---私の中の25年」の有名な一節だ。「私の中の25年」とは、言うまでもなく戦後の25年間を指すが、三島はこの論文で、その25年を全面否定している。
25年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透(p213~)してしまった。それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルスである。
(略)
気にかかるのは、私が果して「約束」を果して来たか、ということである。否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与えて約束を果たすわけではないが、政治家の与えうるよりも、もっともっと大きな、もっともっと重要な約束を、私はまだ果たしていないという思いに日夜責められているのである。
そして、11月25日こそが、正にその「約束」の日となる。安倍が言及しているように、三島の「約束」の日(旧暦でいえば10月27日)は、松陰の命日でもあった。
身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
吉田松陰 辞世
散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐
三島由紀夫 辞世
* * *
p215~
安倍は政治家である。しかも、日本国憲法に規定された現行体制の最高責任者だった。戦後民主主義をバチルス(病原菌)と切って捨てることは許されない。そこで獲得された価値や国家としてのあり方を否定することも許されない。暴力革命もクーデターも、体を張って、否定しなければならぬ側である。
p216~
安倍が解決し得る課題があり続ける限り、地べたを這いつくばってでも粘らねばならない。政治家は、絶対的に詩人であってはならない。松陰や三島を気取ることは許されない。無論、安倍には、そんな軽薄さは微塵もない。
しかし、政治家もまた、「実際的利益」を与えるだけが、その責務ではない。少なくとも、安倍はそう信じた。そう信じたからこそ、安倍は、池田勇人の「所得倍増」以来、経済政策しか語らなかった歴代首相の中で唯一、「戦後レジュームからの脱却」という国家の物語を語り、その物語に、政治家としての息を吹きこもうとしたのだ。(略)
p217~
教育再生への力づよい前進、小泉改革を成長路線へと発展させる経済政策の転換、日本の国際的な地位を強化し、自前の安全保障を支えることになるはずだった主張する外交、アジア・ゲートウェイ構想、日本版NSC、公務員制度改革、自主憲法制定による強く美しい日本の再生・・・。
だが、これらを国民的な物語にしようとした安倍の志は、政策として果実を結ぶ前に、いやそもそも国民に届く前に、葬られてしまった。
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■ 書評『約束の日 安倍晋三試論』小川榮太郎著 安倍叩きは「朝日の社是」 2012-12-27 | 本/演劇…など
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■ 【「戦後日本」を診る 思想家の言葉】三島由紀夫…「からっぽ」な時代での孤独 先崎彰容 2014-10-10 | 本/演劇…など
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