五木寛之著『親鸞』274回 2011/10/08 Sat.
〈前段略〉
「おすわりなされ」
と、親鸞はあぐらをかいて言った。その声には、弁円がこれまできいたことがないような温かさがあった。
「山伏、弁円と申す」
弁円は親鸞と対座して、かるく頭をさげた。そんな自分が信じられないような気がした。
〈この男、おれとは器がちがう〉
弁円は正直にそう思った。春風のように心をとろかす暖かさでもなかった。いま目の前にいる親鸞がはなっているのは、すべてを受け入れ、すべてを包みこもうとするおおらかさだった。そしてそれは、人の性格からくるものではないだろう。
太刀を前にして、あれほど自然でいられたのは、勇気とか、度胸とか、そういうたぐいのものとは、まったくちがった何かのせいではないのか。
「いろいろわけはおありだろう」
と、親鸞はいった。
「しかし、わたしを殺しても念仏は消えまい」
弁円は親鸞の顔をまっすぐ見て言った。
「われらは山中修験の功徳を世間の人びとに伝えて生きている。病気平癒を祈り、家内安全、五穀豊穣を願う。そのための呪文と、そなたたちの念仏と、どこがちがうのだ。共に神仏への祈願であろう。南無阿弥陀仏、阿弥陀さま、すくってください、と念仏するのであろうが」
「念仏のことを、ふだんから考えておられたようだな」
「そうかもしれぬ」
「では、申し上げよう。われらがとなえている念仏とは、依頼祈願の念仏ではない。阿弥陀さま、おすくいください、と念仏するのではないのだ」
五木寛之著『親鸞』275回 2011/10/09 Sun.
親鸞の言葉に、弁円(べんねん)はとまどいをおぼえた。
「依頼祈願の念仏ではない、だと? しかし、後生に浄土へいけますように、と念仏しているではないか」
「そうではないのだ、弁円どの」
親鸞は膝をのりだして、弁円にいった。
「おすくいくだされ阿弥陀さま、ではない。われらの念仏とは、自分がすでにしてすくわれた身だと気づいたとき、思わずしらず口からこぼれでる念仏なのだ。ああ、このようなわが身がたしかに光につつまれて浄土へ迎えられる。なんとうれしいことだ。疑いなくそう信じられたとき、人はああ、ありがたい、とつぶやく。そして、すべての人びとと共に浄土へいくことを口々によろこびあう。その声こそ、真の念仏なのだ。そなたも、わたしも、身分も、修行も、学問も、戒律も、すべて関係なく、人はみな浄土へ迎えられるのだ。地獄へおちたりはしない。そのことを確信できたとき、念仏が生まれる。ただ念仏せよ、とは、それをはっきりと感じとり、ああ、ありがたい、とよろこぶべし、ということなのだ」
弁円はしばらく黙っていた。よくわからないが、かすかに心にひびいてくる何かがある。
「信が先、念仏は後、ということでござるか」
「念仏するなかで生まれてくる信もある、とわたしは思う」
弁円の体の奥深いところで、少しずつ動きだすものがあった。自分はいま、とほうもない大きな転機にさしかかっている、と彼は感じた。
向きあっている親鸞の姿が、しだいに大きくなり、自分を包み込む気配があった。
「その念仏を学びとうございます」
と、弁円はいい、その自分の言葉におどろいた。床に手をついて頭をさげている自分がふしぎだった。
「親鸞さまの、弟子にしてくださいませ」
「念仏の道に、師匠、弟子ということはあるまい」
と、親鸞はいった。
「共に念仏する仲間だ。われらはそれを、御同朋(おんどうぼう)とよぶ。手をあげなされ。正直にいうが、わたしはそなたのような直情熱血の人が好きなのだ。自分のなかに放蕩の血が流れているのかもしれぬ。きょうからはよき念仏の兄弟として生きていこうではないか」
弁円は、思わず熱いものがこみあげてくるのを感じた。
◆五木寛之氏の『親鸞』、イエスそしてパウロ・・・「私たちが救われたのは、行いによるのではなく」2009-07-07 | 仏教/親鸞/五木寛之・・・
〈来栖の独白2009-07-07 〉
毎日、私は新聞連載の小説、五木寛之氏の『親鸞』を読む。これまで私に深く影響を与え、人生を形成した書物は、幾つかあった。いま『親鸞』は紛れもなく、そういう作品である。魂が揺るがされてならない。そのような日常が昨秋から続いている。沈思黙考させる。その向こうに、イエスやパウロの姿が彷彿する。パウロは言う、「私たちが救われたのは、自らの力によるのではなく、神の賜物による。行ないによるのではない」と。「救われるのは」、とは言っていない。「救われたのは」、と(過去形・完了形で)言っている。
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五木寛之著『親鸞』より
「これまで世間に信じられている善行とは、たとえば、大きな塔を建てることや、立派な仏像を造らせることや、そして金銀錦などで美しく装飾された経典などを寄進することや、豪華な法会を催すことなどが善行とされてきたのだよ。身分の高い人びと、ありあまる財産をもつ人びとや富める者たちは、きそってそんな善行にはげんできた。しかし、そんな余裕のあるのは、選ばれた小数の人たちだ。いまさらわたしがいうまでもない。天災や、凶作や、疫病がくるたびに、どれほど多くの人びとが道や河原にうちすてられ死んでいくことか。かつて養和の大飢饉のときには、赤子を食うた母親さえいたときいている。世にいう善行をつとめられる者など、ほんのひとにぎりしかいない。その日をすごすことで精一杯の人びとがほとんどなのだ。そんな人たちを見捨てて、なんの仏の道だろう。法然上人は、仏の願いはそんな多くの人びとに向けられるのだ、と説かれた。たぶん、世間でいう善行などいらぬ、一向に信じて念仏するだけでよい、とおっしゃっているのだ」
「善行はいらぬ、となれば、悪行のすすめともうけとられましょう。そこが危ういところですな」
「それだけではない。書写を終えたのち、またそのことについては話をすることにしよう」
綽空は礼をいって、犬麻呂の屋敷をでた。懐に選択集をしっかりと抱きしめ、道を急いだ。
選択(せんちゃく)本願念仏集の書写にとりかかる前に、綽空は繰り返し、声に出してその文章を読んだ。
読みすすむうちに、綽空は総毛だつような戦慄をおぼえた。
〈あのおだやかな法然上人が---〉
そこにしるされているのは、春の風のような師の温顔から発せられる柔和な声とは、まったく別な、厳しくも鋭利な言葉である。
権門や貴族たちからも慕われている聖僧法然上人の、おだやかな優しさはどこにも見られないのがおどろきだった。
物事をきっぱりと二つに峻別する。
その二つの、どちらが正しく、どちらが優れているかを言下に断定する。そして、迷うことなく一方を選びとる。
これまでの尊いとされてきた聖行(しょうぎょう)が、片端から切り捨てられていく。
既存の諸宗のすべてが否定され、最後に仏の本願によって選びとられた念仏ただ一つがのこる。
その分別の激しさ、厳しさには、息をのむような仮借のなさがあった。
読みすすむ綽空の膝の上の手が、ぶるぶると震えてくる。目のなかに、強い言葉が突き刺さる。つきるところは、声にだして念仏すること、ただそれだけを説きつづけているのだ。われらは末世の凡夫である。罪悪の軽重をとわず、煩悩の大小によらず、ただ仏の本願による念仏によってのみ救われるのだ、と、一分の迷いもなく語られていた。
往生之業(おうじょうしごう)、念仏為本(ねんぶついほん) 。
念仏門以外の多くの宗派にとって、その大胆な切り捨てられかたには、耐えがたいものがあるにちがいない。だからこそ、この書は秘められなければならなかったのだ。
綽空は世俗と上手につきあっているかのように見える法然上人の、氷のように厳しい信念の裸の姿を見た、と思った。
料紙に一字ずつ正確に書き写すことには慣れている。
しかし、その作業をつづけるうちに、綽空は自分の命が筆先に吸いとられていくような気がした。
師に出会ったよろこびに酔っていた愚かな自分を、筆先を刃(やいば)にかえて突き刺すのだ。
いまこそ、本当の法然上人の真実に触れたのだ。その感激と自責の念で、思わず涙があふれてくるのを、綽空はとめることができない。
幾夜ものあいだ、彼は一睡もせず、食事もとらず、ものに憑かれたように筆をすすめた。
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・エフェソの教会への手紙 2章4〜6節/ 8〜9節
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。/ 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行ないによるのではありません。それは、だれも誇ることのないためなのです。
・マタイ18,12-14/ ルカ15,3-7
ある人が羊を100匹持っていて、その1匹が迷い出たとすれば、99匹を山に残しておいて、迷い出た1匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた99匹より、その1匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも滅ぶことは、あなたがたの天の父の御心ではない。