原発から14キロ、浪江町のエム牧場で生き続ける動物たち
Business Media 誠 2011年10月12日(水)11時24分配信
9月30日。私は福島県双葉郡浪江町の「エム牧場浪江農場」を訪れた。ここに来るのは4回目だ。
福島第一原発の20キロ圏内は4月22日から警戒区域に設定されており、法的に立ち入りが制限されている。エム牧場は原発から14キロ地点にあるため、現在、通行許可証がないと入れない。今回はエム牧場の協力を得て、自動車で入ることができた。吉沢正己農場長の運転で、私は助手席に座った。
浪江町の津島中学校付近の国道114号線では、警戒区域に入る車両をチェックしていた。以前この検問に来た時は大阪府警が車両をチェックしていたが、この日の担当は神奈川県警だった。警察官に許可証を見せると、車両ナンバーをチェックされただけで入ることができた。
エム牧場までの道中、至るところに「I'll be back つしま」「もどるぞ つしまへ」と書かれた牧草ロールがあった。
「本当に帰れるのか」
吉田さんはそうつぶやいた。警戒区域に入ると、徐々に放射線量が高くなってくる。吉田さんが持っていた線量計は毎時15.47マイクロシーベルトを示していた。ただ、原発に近付けば線量が高くなる、というわけではない。より原発に近いエム牧場付近は毎時3〜7マイクロシーベルトを計測していた。エム牧場の中でも、牧草が多い場所だと毎時10マイクロシーベルト前後だった。
●牧場の牛たち
牧場に入ると、子牛がいた。ここ数カ月以内に産まれた子牛で、正確な数は分からない。私が目で確認できたのは3頭。そのうち1頭の子牛を、大人の牛たちが私から守るように取り囲んでいる様子が印象的だった。吉沢さんは「どの子牛がどの牛の子どもなのか分からない」とこぼす。
エム牧場には黒毛和種と日本短角種が300頭以上いるが、なぜか白黒斑の乳牛であるホルスタインが混ざっている。肉牛しかいなかったはずなのに、どうして乳牛がいるのか。
「どこからか迷い込んで来たんですよ」と吉沢さん。「すぐに仲良くなるものですか?」と尋ねると、「仲良くなる牛もいるしね。もう柵もないので、どこかで合流して、仲良くなったんじゃないか」と答える。
●生き残った牛を殺処分するべきか
警戒区域内でも、毎日のように餌をやりにくるのはエム牧場くらいだ。そのため、お腹を空かせた牛たちが牧場に迷い込んでくる。
その逆もあるという。震災前は電気の通っていた柵が牧場の周囲にあったが、震災後は電気が通じていない。そのため、柵を壊して、どこかへ行ってしまった牛たちもいる。この日も、牧場から出ている牛を見ることができた。
また、以前、牧場に訪れた時に死んでいた牛たちはすでに白骨化していた。当時、ここで死んでいた牛たちを撮影しようとすると、ほかの牛たちがやってきて、私を取り囲んだ。しかし、この日は撮影しようとしても、どの牛も見向きもしなかった。
ちなみにエム牧場の水飲み場は、APF通信社(山路徹代表)のカメラで24時間、USTREAM中継されている。
その水飲み場の近くにあるトラックの荷台には「希望の牧場」という文字が書かれていた。
実は6月上旬、「希望の牧場〜ふくしま〜Project」という支援プロジェクトが立ち上がっていた。警戒区域内の牛たちは被ばくしている可能性が高いため、殺処分する方針が決まっていた。
しかし、殺処分に同意した畜主は全体のわずか3分の1。「こうした動物たちを生かす方法はないか」を探っていたところ、「放射能災害の予防への貢献という学術研究目的なら可能ではないか」ということになった。
「これまで国は、生き残った牛は殺処分するべきと一辺倒だった。しかし、殺処分はさせないし、研究調査することが復興にもつながる。本当にダメなのか? 可能性はないのか? やってみないと分からない。殺処分は証拠隠滅のようなもの。それをどうにか踏みとどまらせる必要がある。こんなものは世界には例がない。全頭抹殺はいけない。(訪れた国会議員も)見てくれた人は分かってくれると思う。認めてもらえるまでがんばる。牧場の周囲の人たちだって、いつかは帰りたい。そのためにはどうするのか。自分たちで除染するしかない。国や自治体は、待っていてもやってくれない。俺たちが先頭に立ってやろうということ」
そう話す吉沢さんは震災当初、原発事故で“絶望”を味わったという。しかし、この希望の牧場〜ふくしま〜Projectによって、新たな光が見えてきた。吉沢さんは「ベコ※屋の意地」という言葉を繰り返していた。その意地で取り組んできたことで、実現に向けての動きが出てきたようだ。
※ベコ……東北地方の方言で「牛」を意味する。
最後に吉沢さんは近くの酪農家の牛舎も案内してくれた。牛舎内には、牛の死骸が並んでいた。首輪でつながれていて、飼い主が逃げ、餌も水もなくなり、牛が餓死していく様子が想像できた。別の牛舎では、すでに内部がほかの動物によって荒らされていて、骨が無造作に散らばっていた。
●浪江町の市街地は
浪江町の市街地へ向かうと、いまだに地震の被害がそのままだった。銀行のそばにはやせた猫がいて、ベビースターラーメンを食べていた。誰かが猫の餌として置いていったのだろう。
また、防護服を着た住民が一時帰宅で、家に置いてある物を取りに来ていた。その自動車には、GPSの発信器が取り付けられていた。
浪江駅前の自動販売機では、まだ電気が通じていた。以前、ここに来た時には温かい缶コーヒーを買った。今でも自販機は動いているが、ほとんどが売り切れだった。一時帰宅中の住民が駅前でいったん降りるため、ここで缶ジュースを買うのかもしれない。
一方、駅前の新聞販売店では、震災や原発事故を伝える新聞が配られないまま放置されていた。この販売店の前にある自動販売機では、冷たい缶コーヒーが買えた。駅から少し離れているため、ここまでは住民は買いにこないのかもしれない。
●震災時のままだった請戸漁港
浪江駅の5キロほど東にある請戸漁港では、ガレキは整理されつつあったが、いまだに漁船が散乱していた。請戸漁協の事務所や近くの小松屋旅館の残骸はそのままになっていた。
岩手県や宮城県のほか、福島県の警戒区域外では、津波被害の区域であっても、ガレキの中から何かを探そうとする住民や復興工事をする作業員、ボランティアの姿を見かけた。しかし、請戸付近では誰ひとり会わなかった。原発災害の実態を物語っている。
私が請戸を訪れた9月30日、政府は福島第一原発から20〜30キロ圏の緊急時避難準備区域を解除した。だが、警戒区域がどうなるのかはまだ見通しが立っていない。
[渋井哲也,Business Media 誠]
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