明治大学名誉教授・弁護士 菊田幸一
『年報 死刑廃止2010』インパクト出版会
◆死刑をめぐる状況08〜10 確定死刑囚の処遇の実際と問題点--新法制定5年後の見直しに向けて?
◆死刑をめぐる状況08〜10 確定死刑囚の処遇の実際と問題点--新法制定5年後の見直しに向けて? からの続き
6 確定死刑囚--昼夜独居
確定死刑囚は、新法において「死刑の言渡しを受けて拘置される者」(法3条1項4号)とはいえ、「被収容者の処遇」(法第2編)のもとにある。その確定死刑囚の生活は、当然ながら法の下での「人間の尊厳の存在」を基本とするものであることはいうまでもない。死刑確定者の生活の実態については、これまでにも若干の報告がある。
死刑確定者の生活においてとくに問題があるのは、昼夜独居の実態である。
法的には、昼夜独居以外の可能性を規定していることは前述したが、現状はすべての確定死刑囚は昼夜独居を強いられている。東京拘置所を例にとると、独居房の広さは、3畳に1畳の板の間にトイレ、流し台がついている。窓の大きさは縦150センチ×横120センチほどで穴あき鉄板がついていて外は見えない。この舎房内で朝7時の起床から9時の消灯時間まで過ごす。この間の食事も舎房内でするが、1日のうち約30分の戸外運動では房外に出るが、単独の運動(週2日くらいともいわれる)である。その他、入浴(1週間に2回)、面会、宗教教誨のとき以外は居房の外に出ることはない。その間の他の死刑囚との接触はいっさいない。
しかも一部の自殺のおそれあると判断される死刑確定者は自殺防止房と呼ばれる特殊な房に収容されている。最近では、処遇上問題があると思われる死刑囚もこの特殊房に収容されているとの報告がある。この独房には一切の突起物がなく、水道の蛇口は壁に埋め込まれ、水道の栓は押しボタン、窓には穴あき鉄板が貼られ通風や採光がまったくない。この舎房内には24時間看視できるテレビカメラが作動している。自殺防止とはいえ、これを名目に特殊房に収容しているとの報告が絶えない。
1998年に「死刑廃止フォーラム」が実施した死刑囚へのアンケートでは、東京拘置所の6名の特殊房に収容されている確定死刑囚から回答を得ている。そのうちの1人は「死ぬまでに1度は夜間照明のない部屋で眠りたい」と記していた。すべての舎房では夜間も10ワット程度の蛍光灯が24時間ついている。24時間を看守の監視のもとにおかれ、つねに居室の指定された場所にいなくてはならない。横になることは許されない。ちなみに韓国では、確定死刑囚も他の受刑者との雑居が許されている(胸に札をつけて区別しているが)。それどころか外部の複数のボランティアが寿司を持参し、楽器を奏でて1日の慰労を過ごす。その良し悪しはともかう、わが国でも、たとえば帝銀事件の平沢貞道死刑囚は支援者が死刑囚の居房を訪れ、彼が制作したテンペラ絵を販売する手助けをしていた。また免田栄元死刑囚は、死刑囚同士で野球をしたり花壇の手入れをしていた。
新法そのものが果たして「人間の尊厳」を基本理念としているか否かについて残念ながら疑問をもたざるを得ない。ただし、法それ自体を動かすものは人である。新法が「人権を尊重しつつ、これらの者の状況に応じた適切な処遇を行う」(法第1条)ことを目的とするにおいては、法そのものに「人間」を反映させなくてはならない。ところが世界的にも類をみない非人道的扱いが日本における確定死刑囚の実態である。 7 確定死刑囚・今後の課題
死刑に関する国際基準としては「死刑に直面する者の権利の保護の保障に関する国連決議」(1989年12月)をはじめ、「「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(1966)、(以下自由権規約、日本は1979年6月批准)、「被拘禁者処遇最低基準規則」(1957)、「形態を問わず拘留または拘禁されている者の保護に関する原則」(1988)、「被拘禁者処遇原則」(1990)等がある。
このうちの「自由権規約」は、批准した国の国民を拘束する条約であり、それに違反することは国内法と同一の効力を有する。同規約の第4回規約人権委員会は、日本における死刑確定者のおかれている状況について、とくに面会、通信の過度な制限、死刑囚官房における状況について「人道的に改善すること」を勧告している。規約第7条は、「何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い若しくは刑罰を受けない」としている。
あらゆる日本における死刑確定者の扱いは、面会、通信、日常生活のすべてにおいて人道的扱いを受けていない。本稿では述べなかった不服申立においても人としての扱いを受けていない。
とくに新法では、死刑確定者に関する条項が被収容者の条項に包括され、それなりに意味あることではあるが、本稿で指摘したように、一方では、「心情の安定」のもとで現実を制約している。その最先端での役割が各拘置所での「処遇規定」である。
その「処遇規定」自体が個別的な規定をおくことなく、基本的には「施設の秩序維持」で裁量権の支配するものとなっている。たとえば弁護士への発信に関する検閲についてすら規定することなく事務での裁量で検閲している。まさに法によらざる行刑執行が優先している。
かかる「処遇規定」なるものが実務の根拠として可能であるのは、言うまでもなく法そのものの基本原理のありようにある。しかし一歩を譲り、仮に「心情の安定」が当局の認識しているとされる「処遇規定」に立ち入らない原理であるとするならば、その原理を越える実務が現に優先することを可能にしている事実をどうとらえればよいのかが課題となる。
この問題について詳細を論じることは、ここでは差し控えるが、結論から言えば、立法者の意図とは関係なく法は「一人歩きする存在」である。とりわけ日本の行刑はいぜんとして旧来の特別権力関係から脱却できていない。そこで法のあり方は、ここで課題にしている「心情の安定」それ自体が特別権力関係論と親和性ある存在である。
基本的には、法手続き的にも問題があり、国際準則にも違法の疑いがある新法の死刑条項は、全面的に見直しされるべきである。石塚伸一教授が提唱している「死刑確定者処遇法」(仮称)の独立立法に賛同する。後述するようにアメリカでは、各州がこの種の処遇法を制定している。
さりとて、ここでこの独立立法を提唱するだけで結論とすることは実際的でない。実は、本稿の主たる目的はそこにある。すなわち、これまでに指摘してきた個別的な条項について、解釈においていずれにも可能な法用語を極力排除することである。これまでに指摘した例として「許すことができる」ではなく、「許すものとする」の類である。とりわけ確定死刑囚の実務を根拠づける法規は(個人的には不本意ではあるが)、解釈を許さない直接・具体的条項でなくてはならない。
たとえば筆者の手許にあるINMATEHANDBOOK FOR NEW JERSEY STATEPRISPON, CAPITAL SENTENCE UNIT, DEPT. CORRECTIONS.1990(A4、全47頁、これを紹介したものとして、菊田「JCCD」68頁参照)を参照すると、この規定は、むろん州法として成立したものであるが、たとえば部外者との接触には、信書、面会、電話による方法がある。これら家族や友人との関係を保つことを当局は推奨するが、それには、遵守事項を守る義務があり、これに違反した者には希望を満たすことはできない、とし詳細な規定をしている。つまり権利を与えるが、それに見合った義務を守らない場合は、その権利を与えない、との方針で一貫している。立法精神の本質からは当然のところである(なお、ニュージャージーは現在は死刑廃止州)。
新法制定後の5年目のこの機会にせめてこの程度の部分改正を求めねばならない。同時に、かかる国際準則にも違法の疑いがある法および実務の扱いについて裁判を通じて問題提起をし続けなくてはならない。
最後に筆者が強調しておきたいことは、かかる「非人道的扱い」の実態は、単に死刑確定者に限定されたものではなく、日本における刑務所での受刑者一般での課題であるということである。死に直面する日本の確定死刑囚の扱いが国際的にも非難される恥辱的状況にあることは、同時に日本の受刑者すべてが恥辱的状況であることを示している。確定死刑囚の扱いが「法による支配」に向かっていないならば、日本の刑務所にいるすべての受刑者の処遇に法的改善の方向を見つけることは困難である。
聞くところによると法務省は、2011年に予定されている新法5年目の見直しについては、そのいっさいの部分改正も予定外であるといわれている。
筆者は、前述したように、この数年をかけて新法5年目の見直しに向けて、受刑者と今回の確定死刑囚のそれぞれについて、可能な問題点の指摘のための作業をしてきた。当局に新法改正の意図がないとしても、そのこととは関係なく、日本の犯罪者処遇が現状のまま放置されるような環境でないことを早晩気付かざるを得ない状況に至るものと確信する。 関連::「開かれた刑務所」〜新法5年 相次ぐ面会制限
「岡山刑務所」塀の中の運動会/塀の中の暮らし/無期懲役者 『週刊新潮』2010/11/04号
『年報 死刑廃止2010』インパクト出版会
◆死刑をめぐる状況08〜10 確定死刑囚の処遇の実際と問題点--新法制定5年後の見直しに向けて?
◆死刑をめぐる状況08〜10 確定死刑囚の処遇の実際と問題点--新法制定5年後の見直しに向けて? からの続き
6 確定死刑囚--昼夜独居
確定死刑囚は、新法において「死刑の言渡しを受けて拘置される者」(法3条1項4号)とはいえ、「被収容者の処遇」(法第2編)のもとにある。その確定死刑囚の生活は、当然ながら法の下での「人間の尊厳の存在」を基本とするものであることはいうまでもない。死刑確定者の生活の実態については、これまでにも若干の報告がある。
死刑確定者の生活においてとくに問題があるのは、昼夜独居の実態である。
法的には、昼夜独居以外の可能性を規定していることは前述したが、現状はすべての確定死刑囚は昼夜独居を強いられている。東京拘置所を例にとると、独居房の広さは、3畳に1畳の板の間にトイレ、流し台がついている。窓の大きさは縦150センチ×横120センチほどで穴あき鉄板がついていて外は見えない。この舎房内で朝7時の起床から9時の消灯時間まで過ごす。この間の食事も舎房内でするが、1日のうち約30分の戸外運動では房外に出るが、単独の運動(週2日くらいともいわれる)である。その他、入浴(1週間に2回)、面会、宗教教誨のとき以外は居房の外に出ることはない。その間の他の死刑囚との接触はいっさいない。
しかも一部の自殺のおそれあると判断される死刑確定者は自殺防止房と呼ばれる特殊な房に収容されている。最近では、処遇上問題があると思われる死刑囚もこの特殊房に収容されているとの報告がある。この独房には一切の突起物がなく、水道の蛇口は壁に埋め込まれ、水道の栓は押しボタン、窓には穴あき鉄板が貼られ通風や採光がまったくない。この舎房内には24時間看視できるテレビカメラが作動している。自殺防止とはいえ、これを名目に特殊房に収容しているとの報告が絶えない。
1998年に「死刑廃止フォーラム」が実施した死刑囚へのアンケートでは、東京拘置所の6名の特殊房に収容されている確定死刑囚から回答を得ている。そのうちの1人は「死ぬまでに1度は夜間照明のない部屋で眠りたい」と記していた。すべての舎房では夜間も10ワット程度の蛍光灯が24時間ついている。24時間を看守の監視のもとにおかれ、つねに居室の指定された場所にいなくてはならない。横になることは許されない。ちなみに韓国では、確定死刑囚も他の受刑者との雑居が許されている(胸に札をつけて区別しているが)。それどころか外部の複数のボランティアが寿司を持参し、楽器を奏でて1日の慰労を過ごす。その良し悪しはともかう、わが国でも、たとえば帝銀事件の平沢貞道死刑囚は支援者が死刑囚の居房を訪れ、彼が制作したテンペラ絵を販売する手助けをしていた。また免田栄元死刑囚は、死刑囚同士で野球をしたり花壇の手入れをしていた。
新法そのものが果たして「人間の尊厳」を基本理念としているか否かについて残念ながら疑問をもたざるを得ない。ただし、法それ自体を動かすものは人である。新法が「人権を尊重しつつ、これらの者の状況に応じた適切な処遇を行う」(法第1条)ことを目的とするにおいては、法そのものに「人間」を反映させなくてはならない。ところが世界的にも類をみない非人道的扱いが日本における確定死刑囚の実態である。 7 確定死刑囚・今後の課題
死刑に関する国際基準としては「死刑に直面する者の権利の保護の保障に関する国連決議」(1989年12月)をはじめ、「「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(1966)、(以下自由権規約、日本は1979年6月批准)、「被拘禁者処遇最低基準規則」(1957)、「形態を問わず拘留または拘禁されている者の保護に関する原則」(1988)、「被拘禁者処遇原則」(1990)等がある。
このうちの「自由権規約」は、批准した国の国民を拘束する条約であり、それに違反することは国内法と同一の効力を有する。同規約の第4回規約人権委員会は、日本における死刑確定者のおかれている状況について、とくに面会、通信の過度な制限、死刑囚官房における状況について「人道的に改善すること」を勧告している。規約第7条は、「何人も、拷問又は残虐な、非人道的な若しくは品位を傷つける取扱い若しくは刑罰を受けない」としている。
あらゆる日本における死刑確定者の扱いは、面会、通信、日常生活のすべてにおいて人道的扱いを受けていない。本稿では述べなかった不服申立においても人としての扱いを受けていない。
とくに新法では、死刑確定者に関する条項が被収容者の条項に包括され、それなりに意味あることではあるが、本稿で指摘したように、一方では、「心情の安定」のもとで現実を制約している。その最先端での役割が各拘置所での「処遇規定」である。
その「処遇規定」自体が個別的な規定をおくことなく、基本的には「施設の秩序維持」で裁量権の支配するものとなっている。たとえば弁護士への発信に関する検閲についてすら規定することなく事務での裁量で検閲している。まさに法によらざる行刑執行が優先している。
かかる「処遇規定」なるものが実務の根拠として可能であるのは、言うまでもなく法そのものの基本原理のありようにある。しかし一歩を譲り、仮に「心情の安定」が当局の認識しているとされる「処遇規定」に立ち入らない原理であるとするならば、その原理を越える実務が現に優先することを可能にしている事実をどうとらえればよいのかが課題となる。
この問題について詳細を論じることは、ここでは差し控えるが、結論から言えば、立法者の意図とは関係なく法は「一人歩きする存在」である。とりわけ日本の行刑はいぜんとして旧来の特別権力関係から脱却できていない。そこで法のあり方は、ここで課題にしている「心情の安定」それ自体が特別権力関係論と親和性ある存在である。
基本的には、法手続き的にも問題があり、国際準則にも違法の疑いがある新法の死刑条項は、全面的に見直しされるべきである。石塚伸一教授が提唱している「死刑確定者処遇法」(仮称)の独立立法に賛同する。後述するようにアメリカでは、各州がこの種の処遇法を制定している。
さりとて、ここでこの独立立法を提唱するだけで結論とすることは実際的でない。実は、本稿の主たる目的はそこにある。すなわち、これまでに指摘してきた個別的な条項について、解釈においていずれにも可能な法用語を極力排除することである。これまでに指摘した例として「許すことができる」ではなく、「許すものとする」の類である。とりわけ確定死刑囚の実務を根拠づける法規は(個人的には不本意ではあるが)、解釈を許さない直接・具体的条項でなくてはならない。
たとえば筆者の手許にあるINMATEHANDBOOK FOR NEW JERSEY STATEPRISPON, CAPITAL SENTENCE UNIT, DEPT. CORRECTIONS.1990(A4、全47頁、これを紹介したものとして、菊田「JCCD」68頁参照)を参照すると、この規定は、むろん州法として成立したものであるが、たとえば部外者との接触には、信書、面会、電話による方法がある。これら家族や友人との関係を保つことを当局は推奨するが、それには、遵守事項を守る義務があり、これに違反した者には希望を満たすことはできない、とし詳細な規定をしている。つまり権利を与えるが、それに見合った義務を守らない場合は、その権利を与えない、との方針で一貫している。立法精神の本質からは当然のところである(なお、ニュージャージーは現在は死刑廃止州)。
新法制定後の5年目のこの機会にせめてこの程度の部分改正を求めねばならない。同時に、かかる国際準則にも違法の疑いがある法および実務の扱いについて裁判を通じて問題提起をし続けなくてはならない。
最後に筆者が強調しておきたいことは、かかる「非人道的扱い」の実態は、単に死刑確定者に限定されたものではなく、日本における刑務所での受刑者一般での課題であるということである。死に直面する日本の確定死刑囚の扱いが国際的にも非難される恥辱的状況にあることは、同時に日本の受刑者すべてが恥辱的状況であることを示している。確定死刑囚の扱いが「法による支配」に向かっていないならば、日本の刑務所にいるすべての受刑者の処遇に法的改善の方向を見つけることは困難である。
聞くところによると法務省は、2011年に予定されている新法5年目の見直しについては、そのいっさいの部分改正も予定外であるといわれている。
筆者は、前述したように、この数年をかけて新法5年目の見直しに向けて、受刑者と今回の確定死刑囚のそれぞれについて、可能な問題点の指摘のための作業をしてきた。当局に新法改正の意図がないとしても、そのこととは関係なく、日本の犯罪者処遇が現状のまま放置されるような環境でないことを早晩気付かざるを得ない状況に至るものと確信する。 関連::「開かれた刑務所」〜新法5年 相次ぐ面会制限
「岡山刑務所」塀の中の運動会/塀の中の暮らし/無期懲役者 『週刊新潮』2010/11/04号