五木寛之著『親鸞』84激動編/深夜の逃走(8)
2011-03-27(日曜日)
〈抜粋〉
「外道院さまがご祈祷のさいに生け贄をおつかいになるのはご存知でしょう」
生け贄とは、神仏に願いをかけるとき、生きた動物を犠牲としてささげることだ。古代には人間を生け贄とした例もあったらしい。
親鸞も河原の巨船の1室で、外道院が怨敵調伏の祈りのために、鶏の生首を生け贄としてつかったのを目にしている。
「わたくしの実家には、牛が2頭おりました。黒丸と茶丸という牛で、家族同様に大切にされていたのです。ほんとうにおとなしい牛たちで、なんともいえないやさしい目をしていたことを思いだします。以前、わたくしが病んで寝こんでおりましたころには、妹がいつも茶丸の乳をこっそり飲ませてくれたものでした。その茶丸が、彦山房さまのお目にかなったらしく、雨封じの法会の生け贄としてつれていかれたのです」
恵信は涙声になって、すすりあげた。
「人から聞いた話によりますと、外道院さまは茶丸をその手に抱くようにして首を切られたとか。血が噴水のように空にふきあげたそうです」
恵信は手で顔をおおって嗚咽した。(略)
「生け贄をつかう祈祷には、わたしも納得がいかないのだよ」
「でも、長雨はぴたりとやんだのです。すべての人びとが、手をとりあってよろこんでおりました」
親鸞はこたえる言葉がなかった。
それは偶然だろう、といいたい気持ちがある。人間は法力で大自然のいとなみを左右できるものではない。たとえそれが外道院であったとしても。
しかし、そうはいうものの、親鸞は幼いころから世間の人びとが怨霊のたたりをおそれ、陰陽師の卜占(ぼくせん)を信じ、吉凶を気にして生きている様子をずっと目にしてきた。
朝廷の政治(まつりごと)も、すべて託宣にもとづく。
日々の暮らしや、出産、病、葬礼にいたるまで、あらゆることが目に見えないあやしい力に左右されていると思われていたのだ。 五木寛之著『親鸞』85激動編/深夜の逃走(9)
2011-03-28(月曜日)
〈抜粋〉
法然上人が念仏の教えを説かれる以前から念仏はあった。
そして、古い念仏がいまも世間には広くいきわたっている。その人びとの考える念仏とは、暮らしの上で、すぐに役立つようなご利益である。(略)
「そうだ。みんなわたしが特別な念力をそなえていると、勝手に思いこんでいるらしい。それはちがう、本当の念仏とはこういうものだ、と、いくらはなしても、みんなきょとんとしているだけだ。目に見えるご利益だけをもとめているのだよ」
親鸞は唇を噛んで、ため息をついた。
都では親鸞の言葉に真剣に耳をかたむけてくれる人びとがいた。有名な法然上人の門弟というだけで、信用されていたのかもしれない。
しかし、それだけではなかったはずだ、と、心のどこかで思う。
自分が孤立している、という感覚を親鸞はいま、つよく感じている。目の前の恵信に対してもそうだ。
自分にとって、かけがえのない人であるにもかかわらず、どこかがちがう。そして、それは決して恵信のせいではない。
一からはじめなければならない、と親鸞は思った。この地では、法然上人が切りひらいてくださった広い道を後からついて歩くことはできない。
そのためには、この越後の地に生きる人びとと、具体的につながって生きていくことが必要だ。
外道院は、念仏者の自分より、はるかに深く人びととつながっている部分がある。たとえそれが呪術を武器にした、あやしい世界であったとしても。(略)
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〈来栖の独白〉
神は、律法(内実のない儀礼)遵守や生け贄ではなく、私たちの砕かれた心を期待しておられる。「砕かれた心を捧げよ」と言われる。「砕かれた心」とは、隣人を虐げない、孤児や寡婦(=弱い人)を守り、弁護する心。そのような心で洗われた人は、真っ白で、もはや罪から解放されている。
>しかし、それだけではなかったはずだ、と、心のどこかで思う。自分が孤立している、という感覚を親鸞はいま、つよく感じている。目の前の恵信に対してもそうだ。自分にとって、かけがえのない人であるにもかかわらず、どこかがちがう。
挿画が、とてもよく表現している。こんなに近いのに、親鸞とは別の地平に皆がいる。恵信も、人びとも。人びとは、外道院の方を向いている。〈親鸞は有髪である〉 イザヤ書1、11〜18
あなたがたソドムのつかさたちよ、主の言葉を聞け。あなたがたゴモラの民よ、われわれの神の教に耳を傾けよ。 主は言われる、「あなたがたがささげる多くの犠牲は、わたしになんの益があるか。わたしは雄羊の燔祭と、肥えた獣の脂肪とに飽いている。わたしは雄牛あるいは小羊、あるいは雄やぎの血を喜ばない。 あなたがたは、わたしにまみえようとして来るが、だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか。 あなたがたは、もはや、むなしい供え物を携えてきてはならない。薫香は、わたしの忌みきらうものだ。新月、安息日、また会衆を呼び集めること、わたしは不義と聖会とに耐えられない。 あなたがたの新月と定めの祭とは、わが魂の憎むもの、それはわたしの重荷となり、わたしは、それを負うのに疲れた。 あなたがたが手を伸べるとき、わたしは目をおおって、あなたがたを見ない。たとい多くの祈をささげても、わたしは聞かない。あなたがたの手は血まみれである。 あなたがたは身を洗って、清くなり、わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ、 善を行うことをならい、公平を求め、しえたげる者を戒め、みなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ。 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
詩編51、14〜17
神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。 主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
2011-03-27(日曜日)
〈抜粋〉
「外道院さまがご祈祷のさいに生け贄をおつかいになるのはご存知でしょう」
生け贄とは、神仏に願いをかけるとき、生きた動物を犠牲としてささげることだ。古代には人間を生け贄とした例もあったらしい。
親鸞も河原の巨船の1室で、外道院が怨敵調伏の祈りのために、鶏の生首を生け贄としてつかったのを目にしている。
「わたくしの実家には、牛が2頭おりました。黒丸と茶丸という牛で、家族同様に大切にされていたのです。ほんとうにおとなしい牛たちで、なんともいえないやさしい目をしていたことを思いだします。以前、わたくしが病んで寝こんでおりましたころには、妹がいつも茶丸の乳をこっそり飲ませてくれたものでした。その茶丸が、彦山房さまのお目にかなったらしく、雨封じの法会の生け贄としてつれていかれたのです」
恵信は涙声になって、すすりあげた。
「人から聞いた話によりますと、外道院さまは茶丸をその手に抱くようにして首を切られたとか。血が噴水のように空にふきあげたそうです」
恵信は手で顔をおおって嗚咽した。(略)
「生け贄をつかう祈祷には、わたしも納得がいかないのだよ」
「でも、長雨はぴたりとやんだのです。すべての人びとが、手をとりあってよろこんでおりました」
親鸞はこたえる言葉がなかった。
それは偶然だろう、といいたい気持ちがある。人間は法力で大自然のいとなみを左右できるものではない。たとえそれが外道院であったとしても。
しかし、そうはいうものの、親鸞は幼いころから世間の人びとが怨霊のたたりをおそれ、陰陽師の卜占(ぼくせん)を信じ、吉凶を気にして生きている様子をずっと目にしてきた。
朝廷の政治(まつりごと)も、すべて託宣にもとづく。
日々の暮らしや、出産、病、葬礼にいたるまで、あらゆることが目に見えないあやしい力に左右されていると思われていたのだ。 五木寛之著『親鸞』85激動編/深夜の逃走(9)
2011-03-28(月曜日)
〈抜粋〉
法然上人が念仏の教えを説かれる以前から念仏はあった。
そして、古い念仏がいまも世間には広くいきわたっている。その人びとの考える念仏とは、暮らしの上で、すぐに役立つようなご利益である。(略)
「そうだ。みんなわたしが特別な念力をそなえていると、勝手に思いこんでいるらしい。それはちがう、本当の念仏とはこういうものだ、と、いくらはなしても、みんなきょとんとしているだけだ。目に見えるご利益だけをもとめているのだよ」
親鸞は唇を噛んで、ため息をついた。
都では親鸞の言葉に真剣に耳をかたむけてくれる人びとがいた。有名な法然上人の門弟というだけで、信用されていたのかもしれない。
しかし、それだけではなかったはずだ、と、心のどこかで思う。
自分が孤立している、という感覚を親鸞はいま、つよく感じている。目の前の恵信に対してもそうだ。
自分にとって、かけがえのない人であるにもかかわらず、どこかがちがう。そして、それは決して恵信のせいではない。
一からはじめなければならない、と親鸞は思った。この地では、法然上人が切りひらいてくださった広い道を後からついて歩くことはできない。
そのためには、この越後の地に生きる人びとと、具体的につながって生きていくことが必要だ。
外道院は、念仏者の自分より、はるかに深く人びととつながっている部分がある。たとえそれが呪術を武器にした、あやしい世界であったとしても。(略)
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〈来栖の独白〉
神は、律法(内実のない儀礼)遵守や生け贄ではなく、私たちの砕かれた心を期待しておられる。「砕かれた心を捧げよ」と言われる。「砕かれた心」とは、隣人を虐げない、孤児や寡婦(=弱い人)を守り、弁護する心。そのような心で洗われた人は、真っ白で、もはや罪から解放されている。
>しかし、それだけではなかったはずだ、と、心のどこかで思う。自分が孤立している、という感覚を親鸞はいま、つよく感じている。目の前の恵信に対してもそうだ。自分にとって、かけがえのない人であるにもかかわらず、どこかがちがう。
挿画が、とてもよく表現している。こんなに近いのに、親鸞とは別の地平に皆がいる。恵信も、人びとも。人びとは、外道院の方を向いている。〈親鸞は有髪である〉 イザヤ書1、11〜18
あなたがたソドムのつかさたちよ、主の言葉を聞け。あなたがたゴモラの民よ、われわれの神の教に耳を傾けよ。 主は言われる、「あなたがたがささげる多くの犠牲は、わたしになんの益があるか。わたしは雄羊の燔祭と、肥えた獣の脂肪とに飽いている。わたしは雄牛あるいは小羊、あるいは雄やぎの血を喜ばない。 あなたがたは、わたしにまみえようとして来るが、だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか。 あなたがたは、もはや、むなしい供え物を携えてきてはならない。薫香は、わたしの忌みきらうものだ。新月、安息日、また会衆を呼び集めること、わたしは不義と聖会とに耐えられない。 あなたがたの新月と定めの祭とは、わが魂の憎むもの、それはわたしの重荷となり、わたしは、それを負うのに疲れた。 あなたがたが手を伸べるとき、わたしは目をおおって、あなたがたを見ない。たとい多くの祈をささげても、わたしは聞かない。あなたがたの手は血まみれである。 あなたがたは身を洗って、清くなり、わたしの目の前からあなたがたの悪い行いを除き、悪を行うことをやめ、 善を行うことをならい、公平を求め、しえたげる者を戒め、みなしごを正しく守り、寡婦の訴えを弁護せよ。 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
詩編51、14〜17
神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。 主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。