加賀乙彦著『悪魔のささやき』集英社新書2006年8月17日第1刷発行
p145〜
獄中の麻原彰晃に接見して
2006年2月24日の午後1時、私は葛飾区小菅にある東京拘置所の接見室にいました。強化プラスチックの衝立をはさみ、私と向かい合う形で車椅子に座っていたのは、松本智津夫被告人、かつてオウム真理教の教祖として1万人を超える信者を率い、27人の死者と5千5百人以上の重軽傷者を出し、13の事件で罪を問われている男です。
p146〜
04年2月に1審で死刑の判決がくだり、弁護側は即時、控訴。しかし、それから2年間、「被告と意思疎通ができず、趣意書が作成できない」と松本被告人の精神異常を理由に控訴趣意書を提出しなかったため、裁判はストップしたままでした。被告の控訴能力の有無を最大の争点と考える弁護団としては、趣意書を提出すれば訴訟能力があることを前提に手続きが進んでしまうと恐れたのです。それに対し東京高裁は、精神科医の西山詮に精神鑑定を依頼。その鑑定の結果を踏まえ、控訴を棄却して裁判を打ち切るか、審議を続行するかという判断を下す予定でした。2月20日、高裁に提出された精神状態鑑定書の見解は、被告は「偽痴呆性の無言状態」にあり、「訴訟能力は失っていない」というもの。24日に私が拘置所を訪れたのは、松本被告人の弁護団から、被告人に直接会ったうえで西山の鑑定結果について検証してほしいと依頼されたためです。
逮捕されてから11年。目の前にいる男の姿は、麻原彰晃の名で知られていたころとはまるで違っていました。トレードマークだった蓬髪はスポーツ刈りになり、髭もすっかり剃ってあります。その顔は、表情が削ぎ落とされてしまったかのようで、目鼻がついているというだけの虚ろなものでした。灰色の作務衣のような囚衣のズボンがやけに膨らんでいるのは、おむつのせいでした。
「松本智津夫さん、今日はお医者さんを連れてきましたよ」
私の左隣に座った弁護士が話しかけ、接見がはじまりましたが、相変わらず無表情。まったく反応がありません。視覚障害でほとんど見えないという右目は固く閉じられたままで、視力が残っている左目もときどき白目が見えるぐらいにしか開かない。口もとは力なくゆるみ、唇のあいだから下の前歯と歯茎が覗いています。
重力に抵抗する力さえ失ったように見える顔とは対照的に、右手と左手はせわしなく動いていました。太腿、ふくらはぎ、胸、後頭部、腹、首・・・身体のあちこちを行ったり来たり、よく疲れないものだと呆れるぐらい接見のないだ中、ものすごい勢いでさすり続けているのです。
「あなたほどの宗教家が、後世に言葉を残さずにこのまま断罪されてしまうのは惜しいことだと思います」
「あなたは大きな教団の長になって、たくさんの弟子がいるのに、どうしてそういう子供っぽい態度をとっているんですか」
何を話しかけても無反応なので、持ち上げてみたり、けなしてみたり、いろいろ試してみましたが、こちらの言うことが聞こえている様子すらありません。その一方で、ブツブツと何やらずっとつぶやいている。耳を澄ましてもはっきりとは聞こえませんでしたが、意味のある言葉でないのは確かです。表情が変わったのは、2度、ニタ〜という感じで笑ったときだけ。しかし、これも私が投げた言葉とは無関係で、面談の様子を筆記している看守に向かい、意味なく笑ってみせたものでした。
接見を許された時間は、わずか30分。残り10分になったところで、私は相変わらず目をつぶっている松本被告人の顔の真ん前でいきなり、両手を思いっきり打ち鳴らしたのです。バーンという大きな音が8畳ほどのがらんとした接見室いっぱいに響き渡り、メモをとっていた看守と私の隣の弁護士がビクッと身体を震わせました。接見室の奥にあるドアの向こう側、廊下に立って警備をしていた看守までが、何事かと驚いてガラス窓から覗いたほどです。それでも松本被告人だけはビクリともせず、何事もなかったかのように平然としている。数分後にもう1度やってみましたが、やはり彼だけが無反応でした。これは間違いなく拘禁反応によって昏迷状態におちいっている。そう診断し、弁護団が高裁に提出する意見書には、さらに「現段階では訴訟能力なし。治療すべきである」と書き添えたのです。
拘禁反応というのは、刑務所など強制的に自由を阻害された環境下で見られる反応で、ノイローゼの一種。プライバシーなどというものがいっさい認められず、狭い独房に閉じ込められている囚人たち、とくに死刑になるのではという不安を抱えた重罪犯は、そのストレスからしばしば心身に異常をきたします。
たとえば、第1章で紹介したような爆発反応。ネズミを追いつめていくと、最後にキーッと飛びあがって暴れます。同じように、人間もどうにもならない状況に追い込まれると、原始反射といってエクスプロージョン(爆発)し、理性を麻痺させ動物的な状態に自分を変えてしまうことがあるのです。暴れまわって器物を壊したり、裸になって大便を顔や体に塗りつけ奇声をあげたり、ガラスの破片や爪で身体中をひっかいたり・・・。私が知っているなかで1番すさまじかったのは、自分の歯で自分の腕を剥いでいくものでした。血まみれになったその囚人は、その血を壁に塗りつけながら荒れ狂っていたのです。
かと思うと、擬死反射といって死んだようになってしまう人もいます。蛙のなかには、触っているうちにまったく動かなくなるのがいるでしょう。突っつこうが何しようがビクともしないから、死んじゃったのかと思って放っておくと、またのそのそと動き出す。それと同じで、ぜんぜん動かなくなってしまうんです。たいていは短時間から数日で治りますが、まれに1年も2年も続くケースもありました。
あるいはまた、仮性痴呆とも呼ばれるガンゼル症候群におちいって幼児のようになってしまい、こちらの質問にちょっとずれた答えを返し続ける者、ヒステリー性の麻痺発作を起こす者。そして松本被告人のように昏迷状態におちいる者もいます。
昏迷というのは、昏睡の前段階にある状態。昏睡や擬死反射と違って起きて動きはするけれど、注射をしたとしても反応はありません。昏迷状態におちいったある死刑囚は、話すどころか食べることすらしませんでした。そこで鼻から胃にチューブを通して高カロリー剤を入れる鼻腔栄養を行ったところ、しばらくすると口からピューッと全部吐いてしまった。まるで噴水のように、吐いたものが天井に達するほどの勢いで、です。入れるたびに吐くので、しかたなく注射に切り替えましたが、注射だとどうしても栄養不足になる。結局、衰弱がひどくなったため、一時、執行停止処分とし、精神病院に入院させました。
このように、昏迷状態におちいっても周囲に対して不愉快なことをしてしまう例が、しばしば見られます。ただ、それは無意識の行為であり、病気のふりをしている詐病ではありません。松本被告人も詐病ではない、と自信を持って断言します。たった30分の接見でわかるのかと疑う方もいらっしゃるでしょうが、かつて私は東京拘置所の医務部技官でした。拘置所に勤める精神科医の仕事の7割は、刑の執行停止や待遇のいい病舎入りを狙って病気のふりをする囚人の嘘や演技を見抜くことです。なかには、自分の大便を顔や身体に塗りたくって精神病を装う者もいますが、慣れてくれば本物かどうかきっちり見分けられる。詐病か拘禁反応か、それともより深刻な精神病なのかを、鑑別、診断するのが、私の専門だったのです。
松本被告人に関しては、会ってすぐ詐病ではないとわかりました。拘禁反応におちいった囚人を、私はこれまで76人見てきましたが、そのうち4例が松本被告人とそっくりの症状を呈していた。サリン事件の前に彼が書いた文章や発言などから推理するに、松本被告人は、自分が空想したことが事実であると思いこんで区別がつかなくなる空想虚言タイプだと思います。最初は嘘で、口から出まかせを言うんだけれど、何度も同じことを話しているうちに、それを自分でも真実だと完全に信じてしまう。そういう偏りのある性格の人ほど拘禁反応を起こしやすいんです。
まして松本被告人の場合、隔離された独房であるだけでなく、両隣の房にも誰も入っていない。また、私が勤めていたころと違って、改築された東京拘置所では窓から外を見ることができません。運動の時間に外に出られたとしても、空が見えないようになっている。そんな極度に密閉された空間に孤独のまま放置されているわけですから、拘禁反応が表れるのも当然ともいえます。接見中、松本被告人とはいっさいコミュニケーションをとれませんでしたが、それは彼が病気のふりをしていたからではありません。私と話したくなかったからでもない。人とコミュニケーションを取れるような状態にないからなのです。(〜p151)
「死刑にして終わり」にしないことが、次なる悪魔を防ぐ
しかるに、前出の西山医師による鑑定書を読むと、〈拘禁反応の状態にあるが、拘禁精神病の水準にはなく、偽痴呆性の無言状態にある〉と書かれている。偽痴呆性というのは、脳の変化をともなわない知的レベルの低下のこと。言語は理解しており、言葉によるコミュニケーションが可能な状態です。西山医師は松本被告に3回接見していますが、3回とも意味のあるコミュニケーションは取れませんでした。それなのにどうして、偽痴呆性と判断したのでしょうか。また、拘禁反応と拘禁精神病は違うものであるにもかかわらず、〈拘禁反応の状態にあるが、拘禁精神病の水準にはなく〉と、あたかも同じ病気で片や病状が軽く、片や重いと受けとれるような書き方をしてしまっている。
鑑定書には、さらに驚くべき記述がありました。松本被告人は独房内でみずからズボン、おむつカバー、おむつを下げ、頻繁にマスターベーションをするようになっていたというのです。05年4月には接見室でも自慰を行い、弁護人の前で射精にまで至っている。その後も接見室で同様の行為を繰り返し、8月には面会に来た自分の娘たちの前でもマスターベーションにふけったそうです。松本被告人と言葉によるコミュニケーションがまったく取れなかったと書き、このような奇行の数々が列挙してあるというのに、なぜか西山医師は唐突に〈訴訟をする能力は失っていない〉と結論づけており、そういう結論に至った根拠はいっさい示していない。失礼ながら私には、早く松本被告人を断罪したいという結論を急いでいる裁判官や検事に迎合し、その意に沿って書かれた鑑定書としか思えませんでした。
地下鉄サリン事件から11年もの歳月が流れているのですから、結論を急ぎたい気持ちはわかります。被害者や遺族、関係者をはじめ、速やかな裁判の終結と松本被告人の断罪を望んでいる人も多いでしょう。死刑になれば、被害者にとっての報復にはなるかもしれません。しかし、20世紀末の日本を揺るがせた一連の事件の首謀者が、なぜ多くの若者をマインド・コントロールに引き込んだのかは不明のままになるでしょう。
オウム真理教の事件については、私も非常に興味があったため裁判記録にはすべて目を通し、できるだけ傍聴にも行きました。松本被告人は、おそらく1審の途中から拘禁ノイローゼになっていたと思われます。もっと早い時期に治療していれば、これほど症状が悪化することはなかったはずだし、治療したうえで裁判を再開していたなら10年もの月日が無駄に流れることもなかったでしょう。それが残念でなりません。
拘禁反応自体は、そのときの症状は激烈であっても、環境を変えればわりとすぐ治る病気です。先ほど紹介した高カロリー剤を天井まで吐いていた囚人も、精神病院に移ると1カ月で好転しました。ムシャムシャ食べるようになったという報告を受けて間もなく、今度は元気になりすぎて病院から逃げてしまった。すぐに捕まって、拘置所に戻ってきましたが。
松本被告人の場合も、劇的に回復する可能性が高いと思います。彼の場合は逃亡されたらそれこそたいへんですから、病院の治療は難しいでしょうが、拘置所内でほかの拘留者たちと交流させるだけでもいい。そうして外部の空気にあててやれば、半年、いやもっと早く治るかもしれません。実際、大阪拘置所で死刑囚を集団で食事させるなどしたところ、拘禁反応がかなり消えたという前例もあるのです。(〜p153)
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◆「オウム松本智津夫死刑囚は完全に拘禁反応 治療に専念させ、事件解明を」加賀乙彦氏 医師として自信2011-11-27 | 死刑/重刑/生命犯 問題
オウム公判終結:あの時…/6止 教祖自白なく真相闇に
◇精神科医として松本死刑囚に接見、加賀乙彦さん
真相が何も分からないまま、松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚には「死刑」という結果だけが出た。もっと時間をかけて彼から言質を引き出し、なぜ教養や技術のある精鋭たちが彼の手の内に入って、残酷な殺人事件に引き込まれたのか明らかにする必要があった。それが裁判所の使命なのだが、放棄してしまった。私はこの裁判が終結したとは思っていない。法律的には死刑が確定したが、松本死刑囚の裁判は中途半端に終わってしまい、裁判をしなかったのと同じだ。
06年、弁護団の依頼で松本死刑囚に東京拘置所で接見した。許された時間は30分だけ。短時間では何も分からないと思うかもしれないが、私には自信があった。医師として、過去に何人もの死刑囚を拘置所で見ているが、松本死刑囚は完全に拘禁反応に陥っていた。何の反応も示さず、一言も発しない。一目で(意識が混濁した)混迷状態だと分かった。裁判を続けることはできないので、停止して治療に専念させるべきだと主張したが、裁判所は「正常」と判断した。
拘禁反応は環境を変え時間をかけて治療すれば治る病気だ。かつて東京拘置所で彼と同じ症例を4例見たが、投薬などで治すことができた。治療すれば、首謀者である彼の発言を得られた可能性があっただけに残念だ。
結局、松本死刑囚から何一つ事件についてきちんとした証言が得られないまま裁判は終結した。このまま死刑が執行されれば、真相は永久に闇に葬られてしまう。オウム事件の裁判ほど悲惨な裁判はないと思う。世界的にもまれな大事件を明らかにできないままでは、全世界に司法の弱点を示すことになる。
なぜ松本死刑囚に多くの若者が引きつけられ、殺人行為までしてしまったのか。信者の手記など、文献をいくら読んでも私には分からない。教祖の自白がなければ、なぜ残酷なことをしたのか解明もされず、遺族も納得できないはずだ。
「大勢を殺した人間は早く死刑にすべきだ」という国民的な空気にのって、裁判所もひたすら大急ぎで死刑に走ったように感じる。だが、真相が闇の中では「同じような事件を起こさせない」という一番大切な未来への対策が不可能になってしまう。再びオウム真理教のような集団が生まれ、次のサリン事件が起こる可能性も否定できない。形式的には裁判は終わったが、彼らを死に追いやるだけで、肝心な松本死刑囚が発言しないでいる今、あの事件は解決したと思えない。【聞き手・長野宏美】=おわり
◇かが・おとひこ
精神科医として東京拘置所に勤務し、大勢の死刑囚の診察に携わる。上智大教授などを務め、79年から創作活動に専念。医師の経験を基にした作品も多く、死刑囚が刑を執行されるまでを描いた小説「宣告」や、死刑囚との往復書簡集「ある死刑囚との対話」など著書多数。06年に弁護団の依頼で松本智津夫死刑囚に接見し「正常な意識で裁判を遂行できない」と、公判停止と治療を訴えた。82歳。
毎日新聞 2011年11月27日 東京朝刊
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◆地下鉄サリン事件から16年/「麻原は詐病やめよ」土谷正実被告死刑確定2011-02-17 | 死刑/重刑/生命犯 問題
中日春秋
2011年2月17日
とても印象深い裁判がある。地下鉄サリン事件で殺された女性の母親が訴えた。「目を開けてください。娘を殺された母はこんな顔をしています」▼ふてくされたように座っていた青年の目が初めて開いた。涙で顔をぐしゃぐしゃにした母親と目が合ったが、動揺が見えたのは一瞬だけだった。「サリンを造ったその両手を切り落としてください」。父親を殺された娘が叫んでも、表情は変わらなかった▼猛毒のサリンやVXガスを製造した土谷正実被告は、当時三十二歳。最高裁第三小法廷で一昨日、上告が棄却され、死刑判決が確定する。「被告の豊富な化学知識や経験なくしては各犯行はなしえない」。判決がそう指摘した通り、教団の武装化を支えた幹部の一人だ▼麻原彰晃死刑囚の「直弟子」を名乗り、反省のかけらもなかったその態度が、最近になって変わったと知って驚いた。極刑を恐れた教祖が、詐病に逃げ込んだと考えるようになったという▼地下鉄サリン事件から十六年。十人の幹部の死刑が確定、上告中の被告は二人だけになったが、生真面目な青年たちがなぜ、無差別殺人を犯したのかという素朴な問い掛けに十分答えるだけの検証がなされたのか心もとない▼サリン事件以降、「罪と罰の座標軸が変わった」 (森達也著『A3』)。日本社会を根底から変えた事件が急速に風化してゆくことを憂う。
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「麻原は詐病やめよ」=死刑覚悟、婚約者に思いも ―取材に土谷被告
とれまがニュース2011年02月15日
土谷正実被告(46)は15日の上告審判決を前に、東京拘置所で複数回、時事通信の取材に応じた。オウム真理教(現アレフ)と絶縁したことを明らかにした上で、元代表松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚(55)に対し、「詐病をやめ、事件について話してほしい」と訴えた。
元幹部の多くが事件後、松本死刑囚への信仰を捨てる中、土谷被告は一審で自らを「尊師の直弟子」と呼ぶなど、最近まで、帰依を続ける数少ない一人とみられていた。
土谷被告は取材に対し、松本死刑囚が公判で事件についてほとんど語らなかったことなどから、「帰依に迷いが生じ、日を追うごとに疑いが強まっていった」と告白した。
不信感が決定的になったのは2006年末、松本死刑囚が公判で精神疾患の兆しを見せたという雑誌記事のコピーを読んでからという。同死刑囚を「麻原」と呼び捨てにし、「過去の公判から見て精神病のはずがない。弟子に責任を押し付けて詐病に逃げた」と非難。「宗教をかたり、個人的な思いから弟子に武器を作らせた。憤りを感じる」と話した。
事件の犠牲者や遺族には、「『すみませんでした』としか言えないが、それでは軽過ぎる」と謝罪した。「死刑は覚悟している。最高裁判決に期待するものはない」と淡々と語る一方で、勾留中に知り合った婚約者の女性(36)のことを、「今の生きがい。彼女が生きる限り生き続けたい」と話すなど、複雑な心境ものぞかせた。(了)[時事通信社]
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オウム真理教:死刑確定へ 土谷被告の手記の要旨
◇土谷被告の手記の要旨◇
一連のオウム事件の犠牲になられてしまったご遺族、被害者の方々へ心の底からおわび申し上げますと同時に、亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。
95年に私は逮捕されました。その時点での私は、捜査が進むにつれ、もろもろの出来事が麻原死刑囚(以下、Aと表記)の説法通り「国家権力による陰謀」であることが判明していくことを期待していました。ところが逆に、捜査が進むにつれてAの言葉がうそであることが次々と暴露されていきました。
私もとうとうAから気持ちが離れそうになったのでした。ところが、私がある宗教体験をし、それまで以上のはるかに強いAへの帰依心が芽生えてしまったのでした。そのため、私は初公判で職業を「麻原尊師の直弟子」と述べ、一貫して帰依を表明し続けていました。
私に転機が訪れたのが、A法廷への弁護側証人としての出廷経験でした。私の期待に反してAは一言も証言しないまま、1審を終えてしまいました。このことで私に迷いが生じました。教団とのあつれきが生じ始めたのも、04年春ごろからでした。私はAには堂々と証言してほしかった。「Aは弟子をほっぽらかしにして逃げたのではないか」という思いが日を追うごとに強まっていき、Aへの帰依心は弱まり始め、埋めがたい溝がひろがり始めていました。
Aへの帰依心がはっきりと崩れ始めたのは、06年暮れ、A裁判の1審判決日におけるAの挙動について記されている雑誌記事を読んだ時でした。「Aは詐病に逃げた」と思うしかなくなりました。
97年に地下鉄サリン事件のご遺族の証言を聞き、非常にこたえました。帰依心が揺らがないよう懸命だった私ですが、やはりご遺族の証言には耐えられませんでした。ご遺族の証言に対して何と言えばよいのか、言葉が見つかりませんでした。「すいませんでした」では、あまりに軽すぎる。
「自分自身の気持ちに素直でいれば良かったんだな」と私は悔悟の念にとらわれるのです。自分自身の考えでは上層部の指示や決定を「嫌だ」と思ったけども、「無心の帰依」「無智の修行」だと盲従し、一連の凶悪犯罪に加担してしまったのでした。
私がAに望むことがあるとするならば、「詐病をやめて、一連のオウム事件に関連する事柄について述べてほしい」という一点に集約されます。
毎日新聞 2011年2月15日 20時55分
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関連:松本智津夫(麻原彰晃)被告(51)裁判
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獄中の麻原彰晃に接見して/会ってすぐ詐病ではないと判りました/拘禁反応によって昏迷状態に陥っている
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