大阪市長選挙に思う。数値化できる成果が出なければ存在価値はないのか
Diamond online2011年12月12日 香山リカ[精神科医、立教大学現代心理学部教授]
*大胆な政策を打ち出した橋下さんを支持した大阪市民
11月27日に投開票された大阪市長選挙では、大差をつけて橋下徹氏が平松邦夫氏に圧勝しました。特に、若い世代ほど橋下さんを支持する傾向が顕著に表れた選挙だったといえます。
橋下さんは「大阪都構想」や「教育基本条例」などの新しい提案を掲げて選挙戦に臨みました。実現性があるかどうかはさておき、橋下さんは極端とも思える政策を前面に打ち出して大阪市民の関心を引きました。
あまりに極端なことを言う姿は、年配層やインテリ層からは非現実的なことを思いつきで言っているように見られました。しかし、一般の有権者はそこまで自信をもって言い切る橋下さんを、大阪の将来を真剣に考える人と捉えたのかもしれません。
一方の平松さんは、橋本さんの提案を批判することに終始しました。
遅まきながら「なにわルネッサンス2011」構想などを提示しますが、橋下さんの大胆で極端な政策を知った大阪市民には凡庸に映り、インパクトを与えることはできませんでした。
市民にとってみれば、平松さんの「今まであった良いものは守り、さらに良くする」という主張は、ぬるま湯的で必死さが感じられないと映ったのでしょうか。
閉塞感が支配する日本には今、あらゆる局面で「何かを変えなければならない」と考える風潮が広がっています。そして閉塞感を打ち破るための、抜本的かつ即効性のある変化を求める人が多くを占めるようになってきたように感じます。
今までの延長線上で「様子を見ながら少しずつやっていきましょう」という考えは受け入れられにくくなっているようです。
*お金を生まない施設は意味がない?
私は平松さんを応援する立場に立っていました。
橋下さんを支持しなかった理由のひとつは、政策の実現性の問題以前に、橋下さんの議論の仕掛け方に違和感を持ったからです。
「僕の敵に回りますか? それとも味方になりますか?」
まずA対Bのバトル構造を作り、そのうえで「さあ、どちらを取りますか?」と迫ってくる橋下さんのやり方に、抵抗を感じざるを得ませんでした。あたかも変化か現状維持かという問題設定にすり替えてしまう。変化は必要だが、それほどドラスティックな変化は望ましくないと考える人も、否応なく白か黒かの選択を迫るようなやり方です。
もうひとつの理由は、橋下さんが大阪府知事に就任したときに遡ります。
橋下さんは、就任後すぐに府の事業の見直しを打ち出しました。当時、府立上方演芸資料館(ワッハ上方)、府立男女共同参画・青少年センター(ドーンセンター)、府立体育会館などがやり玉にあがったことを覚えておられる方も多いのではないでしょうか。
私が気になったのは府立国際児童文学館廃止までの経緯です。
この国際児童文学館は、およそ絵が描かれているものはすべて集めるという方針の特殊な施設です。資料的価値の高い漫画が揃っていて、研究者にとっては非常に有意義な施設として重宝がられていました。
もちろん、橋下さんも漫画を捨てろと言ったわけではありません。
しかしながら、文学館が廃止されれば、資料は分散して保管されることになってしまいます。この施設は一か所に価値の高い資料が集められていたところに意義があったと言えるので、資料さえ保管されていればいいという発想には賛成できませんでした。
ところが、橋下さんは廃止を決定してしまいます。その理由は「金を生み出す能力がないから」という一点に絞られていました。
*どちらも極端な橋下さんと大阪府職員
大阪府の財政はたいへん厳しい状況に置かれていました。一方的にお金が出て行くだけの施設をムダだと思われていたようです。
一方で、廃止に反対する立場の意見はこうです。
「文化財なのだから、お金を生まなくてもいいではないか」
児童文学館側は、貴重な文化財を守っているのになぜ廃止されるのかまったくわからないという声が大きかったようです。しかし、彼らの側もコストに対する意識が低かったかもしれません。文化財なら守られて当然という意識が強かったのでしょう。廃止一辺倒の橋下さんに対し、民間のコスト意識とはまったく無縁なところに立つ公務員が反論するだけの、説得力のある意見が出なかったのも、私は複雑な思いで見ていました。
そうだとしても、私には「金を稼ぐものだけがいいもの」という市場の論理が極端に強すぎるのではないかと思えてなりません。
確かに、企業であれば仕方がないでしょう。企業は収益を上げてこそ存続できるものだからです。
しかし、企業ではできないことを担うのが公共的な事業なのではないでしょうか。また文化財の存在は、それ自体に収益が生まれるというものではなく、広くそして世代を超えた価値を享受できものではないでしょうか。
そこをすべて競争原理にさらしてしまうのであれば、すべての事業を民間に委託してしまったほうがいいという話になってしまいます。
前回の東京都知事選挙に立候補したある経営者も、自治体の運営は企業と同じだという意見でした。私は、素朴な疑問として考えざるを得ません。本当に、国や自治体は企業と同じなのでしょうか。
*「ほどほど」の立ち位置は難しいが健全である
ある大手新聞社の論説委員が参加する「なぜ若者は新聞を読まないのか」というテーマを議論するイベントに参加したことがあります。
その打ち合わせのときに、私はこんな発言をしました。
「若者だって今は収入が少ないのだから、新聞代になかなかお金はかけられませんよね。そもそも、いま新聞の購読料は毎月いくらですか?」
私の発した問いに、居並ぶ論説委員は誰一人として答えられませんでした。
自分たちが売っているものの値段を知らない。そのくせ「こんなに良いものを作っているのに、読まない若者は問題だ」と言ってのける無神経さ。私にはちょっと考えられない姿勢です。
この大手新聞社の論説委員や公務員側の対応を見ると、お金を払っているのに運営側に経営感覚がまったくなければ憤りを覚えるのは当然でしょう。したがって、大阪市民が橋下さんの論調に賛意を示すのもある程度は納得できます。
とはいえ、収益だけを意識して児童文学館を運営すれば、幅広い資料を揃えることはできません。読者を拡大する一般受けする記事だけを書けば、新聞としての使命を果たすことはできなくなります。
数値化できる成果が出るものだけを追う風潮には、私はとても賛成できないのです。数値化されるものを積み上げていっても、世の中うまく回るものではありません。社会で必要とされているものの中で、数字で比較できるものは限られていると思います。そのようなものだけ評価しようとする発想にバランスの偏りを感じます。
すべてのことは、極端に偏るのではなく「ほどほど」にする。しかし「ほどほど」ほど難しいものはありません。
極端に偏ることは、考え方を持つうえでも議論をするうえでも、むしろ簡単なことだからです。橋下さんの主張する「極端」な政策が破たんしたら、大阪市民は別の「極端」になだれをうって偏っていくことになるでしょう。こうした風潮は決して健全とは言えず、市民は多くのストレスを抱えることになるのではないでしょうか。
多様性のある現代社会では、白とも黒ともつかないなかで考え、迷いながら生きていかざるを得ない。確かにそこで生じるストレスはあるかもしれませんが、極端から極端に振れることから生じるストレスよりはるかに健全だと思います。
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◆政党政治が崩れる〜問責国会が生む失望感===透けるポピュリズム
論壇時評 金子勝(かねこ・まさる=慶応大教授、財政学)2011/02/23Wed.中日新聞
歴史の知識を持つ人にとって、今日の日本政治には政党政治が崩壊する臭いが漂っている。約80年前の大恐慌と同じく、今も百年に一度の世界金融危機が襲っており、時代的背景もそっくりだ。
保坂正康「問責国会に蘇る昭和軍閥政治の悪夢」(『文藝春秋』3月号)は、昭和10年代の政治状況との類似性を指摘する。
保坂によれば、「検察によるまったくのでっち上げ」であった「昨年の村木事件」は、財界人、政治家、官僚ら「16人が逮捕、起訴された」ものの「全員無罪」に終る昭和9年の「帝人事件」とそっくりである。それは「検察の正義が政治を主導していく」という「幻想」にとらわれ、「いよいよ頼れるのは軍部しかいないという状況」を生み出してしまった。
ところが、「民主党現執行部」は「小沢潰しに検察を入れてしまうことの危険性」を自覚しておらず、もし小沢氏が無罪になった時に「政治に混乱だけが残る」ことに、保坂は不安を抱く。さらに「問責決議問題」は「国家の大事を政争の具にした」だけで、「事務所費問題」も、国会を「政策上の評価ではなく、不祥事ばかりが議論される場所」にしてしまった。
保坂によれば、「最近の政党が劣化した原因」は「小泉政権による郵政選挙」であり、その原形は「東条内閣は非推薦候補を落とすため、その候補の選挙区に学者、言論人、官僚、軍人OBなどの著名人を『刺客』としてぶつけた」翼賛選挙(昭和17年4月)に求めることができるという。そしてヒトラーを「ワイマール共和国という当時最先端の民主的国家から生まれたモンスター」であるとしたうえで、「大阪の橋下徹知事」が「その気ならモンスターになれる能力と環境があることは否定できない」という。
保坂とは政治的立場が異なると思われる山口二郎も、「国政を担う2大政党があまりにも無力で、国民の期待を裏切っているために、地方政治では既成の政治の破壊だけを売り物にする怪しげなリーダーが出没している。パンとサーカスで大衆を煽動するポピュリズムに、政党政治が自ら道を開く瀬戸際まで来ている。通常国会では、予算や予算関連法案をめぐって与野党の対決が深刻化し、統治がマヒ状態に陥る可能性もある」(「民主党の“失敗” 政党政治の危機をどう乗り越えるか」=『世界』3月号)という。
山口も同じく、「小沢に対する検察の捜査は、政党政治に対する官僚権力の介入という別の問題をはらんでいる。検察の暴走が明らかになった今、起訴されただけで離党や議員辞職を要求するというのは、政党政治の自立性を自ら放棄することにつながる」とする一方で、「小沢が国会で釈明することを拒み続けるのは、民主党ももう一つの自民党に過ぎないという広めるだけである」という。
そのうえで山口は「民主党内で結束を取り戻すということは、政策面で政権交代の大義を思い出すことにつながっている。小沢支持グループはマニフェスト遵守を主張して、菅首相のマニフェスト見直しと対決している」と述べ、民主党議員全員が「『生活第一』の理念に照らして、マニフェストの中のどの政策から先に実現するかという優先順位をつけ、そのための財源をどのように確保するかを考えるという作業にまじめに取り組まなければならない」と主張する。そして「菅首相が、財務省や経済界に対して筋を通すことができるかどうか」が「最後の一線」だとする。
しかし残念ながら、菅政権は「最後の一線」を越えてしまったようだ。菅政権の政策はますます自民党寄りになっている。社会保障と税の一体改革では与謝野馨氏を入閣させ、また米国の「年次改革要望書」を「グローバルスタンダード」として受け入れていくTPP(環太平洋連携協定)を積極的に推進しようとしている。小泉「構造改革」を批判して政権についたはずの民主党政権が、小泉「構造改革」路線に非常に近づいている。
まるで戦前の二大政党制の行き詰まりを再現しているようだ。戦前は、政友会と民政党の間で政策的相違が不明確になって、検察を巻き込みつつ、ひたすらスキャンダル暴露合戦に明け暮れて国民の失望をかい、軍部の独裁を招いた。現在の状況で総選挙が行われて自民党が勝っても、政権の構成次第では様相を変えた衆参ねじれ状態になり、また野党が再び問責決議を繰り返す状況になりかねない。
このまま政党政治が期待を裏切っていくと、人々は既存の政党政治を忌避し、わかりやすい言葉でバッシングするようなポピュリズムの政治が広がりかねない。何も問題を解決しないが、少なくとも自分で何かを決定していると実感できるからである。それは、ますます政治を破壊していくだろう。
いま必要なのは歴史の過ちに学ぶことである。それは、たとえ財界や官僚の強い抵抗にあっても、民主党政権はマニフェストの政策理念に立ち返って国民との約束を守り、それを誠実に実行する姿勢を示すことにほかならない。
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◆「破産会社」は本当に「優良会社」になったのか。首長としての実績を問う---橋下「大阪府改革」を検証する2011-11-18 | 政治
◆小沢一郎氏との20日の会談を持ちかけたのは橋下徹市長/エラソーな橋下が、小沢氏には、やけに低姿勢2011-12-12 | 政治/検察/裁判/小沢一郎/メディア
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「大阪市長選挙に思う。数値化できる成果が出なければ存在価値はないのか」香山リカ
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