あの事件から16年、真相は解明されず不安だけが残った
森達也 リアル共同幻想論
Diamond online 2011年12月26日
■2011年11月21日、オウム真理教を巡る全公判が終了した
この連載の担当編集である笠井一暁から昨日届いたメールの一部を、まずは以下に引用する。本人の承諾はとっていない。一応は作家の肩書を持つものに編集者として送ったメールなのだから、いつどのように利用されようが文句を言えるはずがないと、勝手に解釈している。
オウム真理教による事件の全公判が終了しました。メディアもこれを大きく扱い、自分もできるかぎり新聞の社説や記事を読みましたが、そのほとんどに共通しているのが「事件の真相はまだ解明されていない」という指摘でした。同時に多くの記事やニュースが「事件を風化させてはいけない」「事件について考え続けなければいけない」などと結んでいるのですが、ならば具体的にどうすべきなのか、あるいはもっと踏み込んで「司法の場でもう一度真相を解明すべき」との主張は、どうしても見つけることができませんでした。
「事件について忘れてはいけない」、「考え続けなければいけない」という指摘に、私はもちろん賛成です。しかし、「真相は解明しきれてない」と指摘しながら、裁判が終結することに異議をまったく唱えないことに、強い違和感を覚えました。司法の場で真相を解明する道が閉ざされようとしているのに、私たちは真相のわからない事件について、何をどう考え続けなければいけないというのでしょうか?
また、「麻原が他者と意思疎通できない状態が続いている」と報じる記事やニュースはかなり目にしましたが、そのほとんどに、麻原が「口を閉ざしている」という表現が使われており、森さんの著書である『A3』を読んだ私としては、麻原が自らの意志で口を閉ざしているのか、それとも弁護側が主張するように精神障害によって意思疎通ができなくなっているのか、その点にわざと言及するのを避けているのではないかと思ってしまいます。なぜ、麻原に事件の真相を語らせるべきという指摘がされないのでしょうか?
「事件を風化させるな」「事件について考え続けろ」と言いつつも多くの報道の焦点は、すでに「真相の解明」ではなく「死刑執行できるかどうか」にあり、裁判の終結と死刑執行が前提となっているようです。幕引きが前提で形だけ申し訳程度に「事件を風化させるな」と言っているのではないかと考えてしまいます。森さんはどのように感じられましたか?
■僕だって正解を知っているかどうかわからない
笠井のこの文章を今回の原稿の冒頭に引用しようと決めた理由は、決して字数稼ぎなどではなく、この文章だけで問題の本質を、充分に言いつくしているからだ。
笠井のこの問いかけは僕に対してだけではなく、今この文章を読んでいるあなた(つまりこの社会)への問いかけでもあるはずだ。ならば僕の解答など、本来なら不要だ。忙しい人はここからもう一度冒頭に戻って、笠井の文章を再読してほしい。そして(押しつけがましいけれど)考えてほしい。僕だって正解を知っているかどうかわからない。ここからはある意味で蛇足です。
引用ついでにもうひとつ。僕自身のブログから、11月23日に更新したコラムの文章を以下に貼る。くどいけれど、忙しい人は読まなくてもいいから。
突然のこの大ニュースのような扱いが不思議だ。中川智正さんにしても遠藤誠一さんにしても、最高裁の上告棄却はほぼ予想できたし、日程だってずいぶん前に決まっていた。つまり予期せぬことなど何ひとつ起きていない。
ならばどこにニュース性があるのだろう。
もちろん僕はオウムについて、社会はもっと考えるべきという立場だ。依頼を受ければコメントするし、多くの人が振り返って考えるならば、この騒ぎを無意味とは思わない。でもここ数日のメディアの狂奔状態は、やっぱりとても不自然だ。しかもそのほとんどは、「麻原は口を閉ざし続けている」のレベルだ。 もしあなたが『A3』を読んでくれているのなら、このフレーズがいかに浅薄で無責任で悪質であるかについて、きっと実感してくれると思う。
日本のメディアが「終結」とか「節目」とかの言葉が大好きなことは知っているけれど、だったら毎年3月20日の冷淡ぶりはどうだろう。
メディアと社会はほぼ重複している。結局はお祭り。日程が過ぎればあっというまに冷める。次の祭りは誰かの執行のとき。中川智正さんの前に死刑判決が確定した信者の名前を、いったいどのくらいの人が知っているのだろう。
■事件から11年のその日、新聞の一面は「日本、敵国破り決勝へ」
2006年3月20日、地下鉄サリン事件からちょうど11年が過ぎたこの日、読売新聞の朝刊一面は19日に行われたWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)準決勝の日本―韓国戦の結果を「日本、敵国破り決勝へ」の大見出しとともに伝え、試合終了の瞬間にハイタッチで喜ぶ日本人選手たちの写真も、カラーで大きく紹介されている。社会面にも「宿敵・韓国に雪辱」の見出しの下にサンディエゴのスタンドで頬に日の丸を描いて歓喜するファンたちが紹介されていて、「オウム」の文字は紙面のどこにもない。
読売を例に挙げたけれど、他紙もほぼ同様だ。もちろんテレビは論外。時期的にはちょうどこの頃、麻原への精神鑑定を行うか否かが法廷では大きな争点になっていたけれど、そんな記事はまったくない。
補足するが、周年的な記事やニュースの常態化は、むしろ風化を表している。その意味では、3月20日なのだから記事にせよとまでは思わない。だって16年が過ぎたのだ。風化しないほうがおかしい。普通は忘れる。事件当時に幼かった子どもたちも、オウムや麻原という言葉は知っている。そのほうが異常なのだ。
忘れてはいけない理由は、オウムがこの社会に与えた後遺症はとても大きく、しかも過去形ではなく現在進行形で加速しているからだ。
なぜなら地下鉄サリン事件は、不特定多数を標的にしている。1995年3月20日に東京の営団地下鉄に乗っていたら、誰もが被害者になる可能性があった。しかも規格外の報道量で、いかにオウムが危険な存在であるかが何度も刷り込まれた。だからこそこの社会は、恐怖や不安を激しく刺激され、強い被害者感情を一気に共有した。
事件を解明するためには、なぜ事件が起きたのかを知らなければならない。つまり動機。ところが彼らがサリンを撒いた理由すら、この社会はいまだに解明しきれていない。つまり動機がわからない。ならば不安が持続することは当然だ。
こうして不安と恐怖を抱え込んだ社会は、ひとりが怖くなり、集団化や結束を求め始める。つまり集団下校。これは群れて生きることを選択した人類の本能だ。でも9.11後のアメリカが示すように、集団はその内圧を高めれば高めるほど、外部の敵を探したくなる。内部の異物を見つけたくなる。攻撃して排除したくなる。さらに集団内部の同調圧力が強くなることで、全体と違う動きがしづらくなる。誰かが走れば自分も走りたくなる。
こうして集団は、足並みをそろえて暴走する。人類の歴史は、そんな過ちの繰り返しだ。
■真相を解明できなかったその理由は何か
真相は解明しきれていないと指摘するのなら、まずは彼らがサリンを撒いた理由を、この社会は獲得しなくてはならない。動機を解明しなくてはならない。でも解明できなかったその理由は、弟子たちにすべての犯罪を指示して行わせたとされている麻原の裁判が、何も解明されないままに一審だけで終わったからだ。
なぜ一審だけで終わったかといえば、麻原の精神状態が普通ではなくなったからだ。ならば普通に戻してから裁判を続けましょう。二審弁護団のその主張は、結局のところまったく認められなかった。「口を閉ざした」のではない。最終的には「口を閉ざされた」のだ。直接的には裁判所の判断だけど、その背後には、麻原を早く吊るせとする圧倒的な民意がある。つまり司法とメディアが、解明よりも処刑を優先する民意に従属した。その帰結としてこの社会は、自ら集団化を促進し、今も激しく変わりつつある。でも群れとして加速し続けているから、多くの人は気づかない。
刑事訴訟法479条は、「死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によって執行を停止する」とある。まさしく麻原はその状態にあると僕は推測する。ただし断言はできない。人の意識の中まではわからない。99.999999%まで自分のこの推測は正しいとは思うけれど、絶対に正しいとは思わない。
だから裁判所にお願いする。再審を認めてほしい。鑑定と治療にも取り組んでほしい。症状が悪化してからさらに五年も放置されたから、どれほどに病状が進行しているかわからないが、できることはやってほしい。東京拘置所にもお願い。麻原への差し入れを勝手に処分するような違法行為はしないでほしい。家族や弁護人にも連絡せずに眼球摘出手術をするようなことは、今後は絶対にやめてほしい。されるがままとはいえ、彼だってまだ生きている。人権はある。
法と正義の番人であるならば、法に従ってほしいし、民意の圧力に屈して不正義を看過しないでほしい。
■僕たちは、事件の真相を思うことを放棄してはならない
最後に(蛇足の蛇足だけど)笠井の質問に答える。
Q. 私たちは真相のわからない事件について、何をどう考え続けなければいけないというのでしょうか?
A. 真相を思うことを放棄してはならない。そしてもし裁判所やメディアがこれを放棄しているのなら、放棄すべきではないと訴えなくてはならない。
Q. なぜ、麻原に事件の真相を語らせるべきという指摘がされないのでしょうか?
A. 本文で書いたように、早く死刑にせよとの声が圧倒的だから。つまりポピュリズム。これに尽きます。警察や政治家が事件の真相を語ってほしくないと思っているから麻原を薬漬けにしたとの推測を時おり見かけるけれど、ほとんど謀略史観と考えてよいと思う。ただし、これは『A3』に書いたことだけど、彼らが地下鉄にサリンを撒いたきっかけを、結果的に警察が作ってしまっていた可能性はある。
書きながら気持ちが萎える。言葉にすれば無力感。これほどに正しいのに(僕がこんな言い方をすることは珍しいと思う)、これほどに意味があるのに、訴えは届かない。ほとんどの人は聞いてくれない。その程度の存在であることが悔しい。『A3』を刊行してからもうすぐ一年が過ぎるけれど、それから現在まで僕は、一冊も本を上梓できていない。ある意味で呆けてしまった。それほどに全力を込めた。なぜ麻原がサリンを撒けと命じたのかを解明する仮説を提示しているのに、ほとんどの人が知らないことばかりなのに、読んでもらえない。手にとってもらえない。書店に置いてもらえない。
もちろんこれまで、売れない本はたくさん書いてきた。初版で終わってしまった本はいくらでもある。そのたびにいちいち落ち込んでなどいられない。分相応だと思っていた。
でも『A3』は(僕にとって)別格だ。この社会にとっても別格のはずだ。冒頭数ページだけでも読んでほしい。きっと終わりまで一気に読みきってもらえると思うのだけど。
……最後は間違いなく蛇足の蛇足。ここまで書いたら引かれるかもしれない。でも本音です。さらに蛇足の蛇足の蛇足を承知で書けば、ほとんどの人が知らないのではなく、ほとんどの人は目をそむけているのだと思う。ならば『A3』が売れないことは当たり前。
だから負け惜しみのように、最後に自分に言い聞かせます。愚痴を言うべきじゃない。もしもこれがベストセラーになるような世の中なら、逆にこの本は必要ないのだから。
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◆「死刑執行、教祖から」と江川紹子氏は云うが・・・/【63年法務省矯正局長通達】に見る行刑の苦難2011-12-04 | 死刑/重刑/生命犯 問題
死刑執行「教祖から」ジャーナリスト・江川紹子さん
産経ニュース2011.11.27 19:26(より、抜粋)
「死刑執行の順番を間違えちゃいけない」
江川紹子さん(53)。今後、手続きが取られていくことになるであろう死刑執行に、思いを至らせる。
例外はあるが日本の死刑執行は、判決確定日が早い死刑囚から順に執行されるのが原則だ。
裁判で死刑判決となった元幹部らは13人。罪を認めた元幹部ほど裁判の終結は早い。罪を認めようとしなかった者や、裁判に背を向けた者ほど、審理に時間がかかった。
「反省して罪を認めた人から刑が執行されるようなことになれば、正義に反する。ましてや犯行を首謀した麻原彰晃(本名・松本智津夫)死刑囚(56)より先に、弟子が執行されるようであってはならない」
審理については、麻原死刑囚が何も語らなかったことなどから「真相に十分は迫れなかった」という不満を訴える関係者らの声が少なからずある。
だが江川さんは、「私は一連の裁判を、もっと肯定的にとらえたい」と話す。
「確かに時間も費用もかかった。でも、それは法治国家として必要なもので、裁判から得るべきものも多かったのではないか」
裁判から得るべき教訓をこう考える。「膨大な時間をかけた被告人質問や証人尋問からは、教団やカルト、マインドコントロールといった恐ろしさは、とてもよく出ていたし、十分に伝わってきたと思う。
..... .... ..
〈来栖の独白2011/12/04 Sun.〉
【死刑執行「教祖から」】との野太いタイトルに驚いた。麻原彰晃(松本智津夫)氏の刑確定に至った経緯に、江川氏は無関心のようだ。裁判全般についても、「膨大な時間をかけた・・・恐ろしさは、とてもよく出ていた」と評価する。
なぜ麻原氏は語らなくなったのか、確定したのか、これらは拘置所行政や裁判(刑事弁護)の闇の闇を露呈している。
獄中の麻原彰晃に接見して/会ってすぐ詐病ではないと判りました/拘禁反応によって昏迷状態に陥っている2011-11-30 | 死刑/重刑/生命犯 問題
加賀乙彦著『悪魔のささやき』集英社新書2006年8月17日第1刷発行
p145〜
獄中の麻原彰晃に接見して
2006年2月24日の午後1時、私は葛飾区小菅にある東京拘置所の接見室にいました。強化プラスチックの衝立をはさみ、私と向かい合う形で車椅子に座っていたのは、松本智津夫被告人、かつてオウム真理教の教祖として1万人を超える信者を率い、27人の死者と5千5百人以上の重軽傷者を出し、13の事件で罪を問われている男です。
p146〜
04年2月に1審で死刑の判決がくだり、弁護側は即時、控訴。しかし、それから2年間、「被告と意思疎通ができず、趣意書が作成できない」と松本被告人の精神異常を理由に控訴趣意書を提出しなかったため、裁判はストップしたままでした。被告の控訴能力の有無を最大の争点と考える弁護団としては、趣意書を提出すれば訴訟能力があることを前提に手続きが進んでしまうと恐れたのです。それに対し東京高裁は、精神科医の西山詮に精神鑑定を依頼。その鑑定の結果を踏まえ、控訴を棄却して裁判を打ち切るか、審議を続行するかという判断を下す予定でした。2月20日、高裁に提出された精神状態鑑定書の見解は、被告は「偽痴呆性の無言状態」にあり、「訴訟能力は失っていない」というもの。24日に私が拘置所を訪れたのは、松本被告人の弁護団から、被告人に直接会ったうえで西山の鑑定結果について検証してほしいと依頼されたためです。
逮捕されてから11年。目の前にいる男の姿は、麻原彰晃の名で知られていたころとはまるで違っていました。トレードマークだった蓬髪はスポーツ刈りになり、髭もすっかり剃ってあります。その顔は、表情が削ぎ落とされてしまったかのようで、目鼻がついているというだけの虚ろなものでした。灰色の作務衣のような囚衣のズボンがやけに膨らんでいるのは、おむつのせいでした。
「松本智津夫さん、今日はお医者さんを連れてきましたよ」
私の左隣に座った弁護士が話しかけ、接見がはじまりましたが、相変わらず無表情。まったく反応がありません。視覚障害でほとんど見えないという右目は固く閉じられたままで、視力が残っている左目もときどき白目が見えるぐらいにしか開かない。口もとは力なくゆるみ、唇のあいだから下の前歯と歯茎が覗いています。
重力に抵抗する力さえ失ったように見える顔とは対照的に、右手と左手はせわしなく動いていました。太腿、ふくらはぎ、胸、後頭部、腹、首・・・身体のあちこちを行ったり来たり、よく疲れないものだと呆れるぐらい接見のないだ中、ものすごい勢いでさすり続けているのです。
「あなたほどの宗教家が、後世に言葉を残さずにこのまま断罪されてしまうのは惜しいことだと思います」
「あなたは大きな教団の長になって、たくさんの弟子がいるのに、どうしてそういう子供っぽい態度をとっているんですか」
何を話しかけても無反応なので、持ち上げてみたり、けなしてみたり、いろいろ試してみましたが、こちらの言うことが聞こえている様子すらありません。その一方で、ブツブツと何やらずっとつぶやいている。耳を澄ましてもはっきりとは聞こえませんでしたが、意味のある言葉でないのは確かです。表情が変わったのは、2度、ニタ〜という感じで笑ったときだけ。しかし、これも私が投げた言葉とは無関係で、面談の様子を筆記している看守に向かい、意味なく笑ってみせたものでした。
接見を許された時間は、わずか30分。残り10分になったところで、私は相変わらず目をつぶっている松本被告人の顔の真ん前でいきなり、両手を思いっきり打ち鳴らしたのです。バーンという大きな音が8畳ほどのがらんとした接見室いっぱいに響き渡り、メモをとっていた看守と私の隣の弁護士がビクッと身体を震わせました。接見室の奥にあるドアの向こう側、廊下に立って警備をしていた看守までが、何事かと驚いてガラス窓から覗いたほどです。それでも松本被告人だけはビクリともせず、何事もなかったかのように平然としている。数分後にもう1度やってみましたが、やはり彼だけが無反応でした。これは間違いなく拘禁反応によって昏迷状態におちいっている。そう診断し、弁護団が高裁に提出する意見書には、さらに「現段階では訴訟能力なし。治療すべきである」と書き添えたのです。
拘禁反応というのは、刑務所など強制的に自由を阻害された環境下で見られる反応で、ノイローゼの一種。プライバシーなどというものがいっさい認められず、狭い独房に閉じ込められている囚人たち、とくに死刑になるのではという不安を抱えた重罪犯は、そのストレスからしばしば心身に異常をきたします。
たとえば、第1章で紹介したような爆発反応。ネズミを追いつめていくと、最後にキーッと飛びあがって暴れます。同じように、人間もどうにもならない状況に追い込まれると、原始反射といってエクスプロージョン(爆発)し、理性を麻痺させ動物的な状態に自分を変えてしまうことがあるのです。暴れまわって器物を壊したり、裸になって大便を顔や体に塗りつけ奇声をあげたり、ガラスの破片や爪で身体中をひっかいたり・・・。私が知っているなかで1番すさまじかったのは、自分の歯で自分の腕を剥いでいくものでした。血まみれになったその囚人は、その血を壁に塗りつけながら荒れ狂っていたのです。
かと思うと、擬死反射といって死んだようになってしまう人もいます。蛙のなかには、触っているうちにまったく動かなくなるのがいるでしょう。突っつこうが何しようがビクともしないから、死んじゃったのかと思って放っておくと、またのそのそと動き出す。それと同じで、ぜんぜん動かなくなってしまうんです。たいていは短時間から数日で治りますが、まれに1年も2年も続くケースもありました。
あるいはまた、仮性痴呆とも呼ばれるガンゼル症候群におちいって幼児のようになってしまい、こちらの質問にちょっとずれた答えを返し続ける者、ヒステリー性の麻痺発作を起こす者。そして松本被告人のように昏迷状態におちいる者もいます。
昏迷というのは、昏睡の前段階にある状態。昏睡や擬死反射と違って起きて動きはするけれど、注射をしたとしても反応はありません。昏迷状態におちいったある死刑囚は、話すどころか食べることすらしませんでした。そこで鼻から胃にチューブを通して高カロリー剤を入れる鼻腔栄養を行ったところ、しばらくすると口からピューッと全部吐いてしまった。まるで噴水のように、吐いたものが天井に達するほどの勢いで、です。入れるたびに吐くので、しかたなく注射に切り替えましたが、注射だとどうしても栄養不足になる。結局、衰弱がひどくなったため、一時、執行停止処分とし、精神病院に入院させました。
このように、昏迷状態におちいっても周囲に対して不愉快なことをしてしまう例が、しばしば見られます。ただ、それは無意識の行為であり、病気のふりをしている詐病ではありません。松本被告人も詐病ではない、と自信を持って断言します。たった30分の接見でわかるのかと疑う方もいらっしゃるでしょうが、かつて私は東京拘置所の医務部技官でした。拘置所に勤める精神科医の仕事の7割は、刑の執行停止や待遇のいい病舎入りを狙って病気のふりをする囚人の嘘や演技を見抜くことです。なかには、自分の大便を顔や身体に塗りたくって精神病を装う者もいますが、慣れてくれば本物かどうかきっちり見分けられる。詐病か拘禁反応か、それともより深刻な精神病なのかを、鑑別、診断するのが、私の専門だったのです。
松本被告人に関しては、会ってすぐ詐病ではないとわかりました。拘禁反応におちいった囚人を、私はこれまで76人見てきましたが、そのうち4例が松本被告人とそっくりの症状を呈していた。サリン事件の前に彼が書いた文章や発言などから推理するに、松本被告人は、自分が空想したことが事実であると思いこんで区別がつかなくなる空想虚言タイプだと思います。最初は嘘で、口から出まかせを言うんだけれど、何度も同じことを話しているうちに、それを自分でも真実だと完全に信じてしまう。そういう偏りのある性格の人ほど拘禁反応を起こしやすいんです。
まして松本被告人の場合、隔離された独房であるだけでなく、両隣の房にも誰も入っていない。また、私が勤めていたころと違って、改築された東京拘置所では窓から外を見ることができません。運動の時間に外に出られたとしても、空が見えないようになっている。そんな極度に密閉された空間に孤独のまま放置されているわけですから、拘禁反応が表れるのも当然ともいえます。接見中、松本被告人とはいっさいコミュニケーションをとれませんでしたが、それは彼が病気のふりをしていたからではありません。私と話したくなかったからでもない。人とコミュニケーションを取れるような状態にないからなのです。(〜p151)
「死刑にして終わり」にしないことが、次なる悪魔を防ぐ
しかるに、前出の西山医師による鑑定書を読むと、〈拘禁反応の状態にあるが、拘禁精神病の水準にはなく、偽痴呆性の無言状態にある〉と書かれている。偽痴呆性というのは、脳の変化をともなわない知的レベルの低下のこと。言語は理解しており、言葉によるコミュニケーションが可能な状態です。西山医師は松本被告に3回接見していますが、3回とも意味のあるコミュニケーションは取れませんでした。それなのにどうして、偽痴呆性と判断したのでしょうか。また、拘禁反応と拘禁精神病は違うものであるにもかかわらず、〈拘禁反応の状態にあるが、拘禁精神病の水準にはなく〉と、あたかも同じ病気で片や病状が軽く、片や重いと受けとれるような書き方をしてしまっている。
鑑定書には、さらに驚くべき記述がありました。松本被告人は独房内でみずからズボン、おむつカバー、おむつを下げ、頻繁にマスターベーションをするようになっていたというのです。05年4月には接見室でも自慰を行い、弁護人の前で射精にまで至っている。その後も接見室で同様の行為を繰り返し、8月には面会に来た自分の娘たちの前でもマスターベーションにふけったそうです。松本被告人と言葉によるコミュニケーションがまったく取れなかったと書き、このような奇行の数々が列挙してあるというのに、なぜか西山医師は唐突に〈訴訟をする能力は失っていない〉と結論づけており、そういう結論に至った根拠はいっさい示していない。失礼ながら私には、早く松本被告人を断罪したいという結論を急いでいる裁判官や検事に迎合し、その意に沿って書かれた鑑定書としか思えませんでした。
地下鉄サリン事件から11年もの歳月が流れているのですから、結論を急ぎたい気持ちはわかります。被害者や遺族、関係者をはじめ、速やかな裁判の終結と松本被告人の断罪を望んでいる人も多いでしょう。死刑になれば、被害者にとっての報復にはなるかもしれません。しかし、20世紀末の日本を揺るがせた一連の事件の首謀者が、なぜ多くの若者をマインド・コントロールに引き込んだのかは不明のままになるでしょう。
オウム真理教の事件については、私も非常に興味があったため裁判記録にはすべて目を通し、できるだけ傍聴にも行きました。松本被告人は、おそらく1審の途中から拘禁ノイローゼになっていたと思われます。もっと早い時期に治療していれば、これほど症状が悪化することはなかったはずだし、治療したうえで裁判を再開していたなら10年もの月日が無駄に流れることもなかったでしょう。それが残念でなりません。
拘禁反応自体は、そのときの症状は激烈であっても、環境を変えればわりとすぐ治る病気です。先ほど紹介した高カロリー剤を天井まで吐いていた囚人も、精神病院に移ると1カ月で好転しました。ムシャムシャ食べるようになったという報告を受けて間もなく、今度は元気になりすぎて病院から逃げてしまった。すぐに捕まって、拘置所に戻ってきましたが。
松本被告人の場合も、劇的に回復する可能性が高いと思います。彼の場合は逃亡されたらそれこそたいへんですから、病院の治療は難しいでしょうが、拘置所内でほかの拘留者たちと交流させるだけでもいい。そうして外部の空気にあててやれば、半年、いやもっと早く治るかもしれません。実際、大阪拘置所で死刑囚を集団で食事させるなどしたところ、拘禁反応がかなり消えたという前例もあるのです。(〜p153)
上掲タイトルのように、江川氏は、死刑執行「教祖から」と云われる。
死刑執行の現場から考えてみたい。同一事件でも、死刑確定の時期によって刑執行の期日にズレはある。オウム真理教事件のように死刑囚が多勢になれば、全員同日執行は余程の困難が予想される。
期日をずらせばずらしたことにより、拘置所の管理運営は困難を極める。(たとえば、外部交通を遮断したとしても)自分と同事件の死刑囚が執行されたことを耳に入れずに済ませることは、苦肉の策に違いない。耳に入れば、死刑囚は動揺する。心情の安静は保ちにくい。いずれしても、拘置所職員の労苦は、並大抵ではないだろう。
【63年法務省矯正局長通達】
法務省矯正甲第96号
昭和38年3月15日
死刑確定者の接見及び信書の発受について
接見及び信書に関する監獄法第9章の規定は、在監者一般につき接見及び信書の発受の許されることを認めているが、これは在監者の接見及び信書の発受を無制限に許すことを認めた趣旨ではなく、条理上各種の在監者につきそれぞれその拘禁の目的に応じてその制限の行われるべきことを基本的な趣旨としているものと解すべきである。
ところで、死刑確定者には監獄法上被告人に関する特別の規定が存する場合、その準用があるものとされているものの接見又は信書の発受については、同法上被告人に関する特別の規定は存在せず、かつ、この点に関する限り、刑事訴訟法上、当事者たる地位を有する被告人とは全くその性格を異にするものというべきであるから、その制限は専らこれを監獄に拘置する目的に照らして行われるべきものと考えられる。
いうまでもなく、死刑確定者は死刑判決の確定力の効果として、その執行を確保するために拘置され、一般社会とは厳に隔離されるべきものであり、拘置所等における身柄の確保及び社会不安の防止等の見地からする交通の制約は、その当然に受忍すべき義務であるとしなければならない。更に拘置中、死刑確定者が罪を自覚し、精神の安静裡に死刑の執行を受けることとなるよう配慮さるべきことは刑政上当然の要請であるから、その処遇に当たり、心情の安定を害するおそれのある交通も、また、制約されなければならないところである。
よって、死刑確定者の接見及び信書の発受につきその許否を判断するに当たって、左記に該当する場合は、概ね許可を与えないことが相当と思料されるので、右趣旨に則り自今その取扱いに遺憾なきを期せられたい。
記
一、本人の身柄の確保を阻害し又は社会一般に不安の念を抱かせるおそれのある場合
二、本人の心情の安定を害するおそれのある場合
三、その他施設の管理運営上支障を生ずる場合
死刑囚の心情の安静に苦渋するのも刑務官なら、実際に手をかけねばならない(死刑執行する)のも、彼らである。職務とはいえ、人を、白昼、殺さねばならない。
江川氏も含めて、数分でもよい。我々国民一人一人が、現場の人の心情を忖度してみてはどうだろう。
そこのところを、下記論説は言っている。
論壇時評【「神的暴力」とは何か 死刑存置国で問うぎりぎり孤独な闘い】(抜粋)
日本は、「先進国」の中で死刑制度を存置しているごく少数の国家の一つである。井上達夫は、「『死刑』を直視し、国民的欺瞞を克服せよ」(『論座』)で、鳩山邦夫法相の昨年の「ベルトコンベヤー」発言へのバッシングを取り上げ、そこで、死刑という過酷な暴力への責任は、執行命令に署名する大臣にではなく、この制度を選んだ立法府に、それゆえ最終的には主権者たる国民にこそある、という当然の事実が忘却されている、と批判する。井上は、国民に責任を再自覚させるために、「自ら手を汚す」機会を与える制度も、つまり国民の中からランダムに選ばれた者が執行命令に署名するという制度も構想可能と示唆する。この延長上には、くじ引きで選ばれた者が刑そのものを執行する、という制度すら構想可能だ。死刑に賛成であるとすれば、汚れ役を誰かに(法相や刑務官に)押し付けるのではなく、自らも引き受ける、このような制度を拒否してはなるまい。(大澤真幸 京都大学大学院教授)
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◆死刑とは何か〜刑場の周縁から
◆麻原彰晃死刑囚(=意識混濁・拘禁症状)の「Xデー」/ オウム中川智正・遠藤誠一被告側が訂正申し立て2011-11-28 | 死刑/重刑/生命犯 問題